霊夢はウキウキしていた。
異変の解決は見事に勝って終了した。我ながら上手く行ったと自画自賛するほどに。
怪我もなし。異変の黒幕である吸血鬼は相応以上に手強く、そこで弾幕を受けてしまって服は破損したが、それは霖之助に押し付けた。
何やら魔理沙も異変解決に出てきたようだが、紅魔館で会っていないので詳しくは知らなかった。
子供の頃にあんな危険な目に遭ったのだから人里にいれば良いのに、と思わなくもないが、彼女の人生は彼女のもの。自分が口を出すのもあれだろう。
ともあれ、あれだけ上手く異変解決ができたのだから、きっと爺さんは褒めてくれる。そう信じていたのだ。
「だから爺さん! 今日ぐらい稽古の手を緩めて!」
いつも通りやってきた信綱がいつも通り組手を始め、それが三回続いた辺りで霊夢は自分の期待が砕ける音を確かに聞いた。
その上今回は霊夢が異変解決をした後――つまり本格的な実戦を経験した後のことだったので、信綱の側にも気合が入っていた。手加減とかして欲しいと霊夢は切実に願っている。
「却下」
しかし信綱は無情にも霊夢の懇願を却下する。
稽古で手を抜いて困るのは霊夢なのだ。十分な実力を持たず実戦に臨み、死んでしまったら元も子もない。
「鬼! 血も涙もない! うら若き乙女をいじめて楽しいわけ!?」
「割りと」
「楽しいの!?」
霊夢の成長速度は見ていて飽きない。一を教えれば十にして返ってくるというのはなかなかに心地良かった。
とはいえ一を聞いて十を知る
霊夢にそれを言ってしまうと持ち前の怠け癖が顔を出してしまうので、適当に言葉を濁してごまかす。
霊夢は爺さんの知りたくない一面を知ってしまった――具体的に言うなら阿礼狂いについて知った時並の絶望を顔に浮かべていたが、些細なことだろう。
「続けるぞ。スペルカードルールが用いられる異変では使う機会がないかもしれないが、体捌きは重要だろう」
「うー……わかったわよ。あ、そういえば」
「どうした」
「爺さんと母さん、どっちが身体を動かすのは得意なの? それに二人とも夫婦なんだし、一緒に稽古とかしたの?」
「白兵なら俺の方が得手だった。あれは体術に結界を織り交ぜたものを使っていたからな」
妖怪相手の殺傷力という点では霊力の扱いに熟達した先代の圧勝だが、単純な技量では信綱が上回っていた。
先代から霊力を盗み見るまで、鋼の刃と己の肉体一つで戦っていたのだから当然といえば当然の話である。
「一緒に稽古は?」
「俺が霊力の扱いを教えてくれと言ったり、逆に向こうが身体の動かし方を教えてくれと言ったり、何度かあった程度だ」
信綱は御阿礼の子のために日々精進することを当然のように受け入れているが、先代は違った。
巫女の役目を終えた後は信綱の家でのんべんだらりと暮らし、ごくたまに信綱の修行を見ているくらいだった。
彼女の幸福は穏やかな一日にこそあった。当たり前の日常を当たり前のように過ごす中にこそ。
「…………休憩はこのくらいで良いだろう。今日は時間があるからとことん付き合ってやろう」
「異変を解決したかわいい娘に対するご褒美は!?」
「? だから稽古を一日付けてやると言っているではないか」
「それご褒美なの!?」
違っただろうか、と首を傾げる信綱を見てこれは本気だと悟ってしまう霊夢。
冗談ではない。一日神社にいて料理を作ってくれたりするならまだしも、稽古を一日ずっとなど正気の沙汰ではない。信綱は平気でも霊夢は御免こうむる。
なので霊夢がそれを白状すると、信綱は考え込むように顎に手を当てる。
「ふむ、一応俺なりにお前が喜びそうなものを考えたつもりだったのだが……」
「ゴメン、何がどうなって一日稽古になったのか全くわからないんだけど」
「お前は俺と一緒の時間を過ごしたがっているように見えたからな」
よくわかっているのに、なぜ結論が一日中稽古というものになるのか理解に苦しむ霊夢だった。
頭痛を堪えるように額に手を当て、ため息をついて霊夢は信綱の前に立つ。
「爺さんの好意を無下にするのも悪いし、午前中は付き合ってあげる。その代わり午後は私に付き合ってもらうからね!」
「まあ良かろう。では始めるか。しばらく反撃はしないから好きに打ち込んでこい」
「遠慮なく――ハッ!!」
霊力によって強化された拳と蹴りが信綱に迫り、信綱はそれらを一つ一つ受け流していく。その構図がすぐに完成する。
大柄な大人である信綱と、まだ肉体も完成していない少女の霊夢。体格差は明らかだが、その体格差故に霊夢は人が意識しづらい下段からの攻撃を行える。
腿、股間、下腹部。どれも手を下に向ける、ないし足を使う必要がある対処に苦慮する箇所だ。
しかし信綱は苦もなくそれらを受け流す。力の方向を丁寧に誘導され、一撃必殺の攻撃をいとも容易く相手の隙に転換してしまう。
「このっ!」
「当たれば勝てる、なんてバクチに頼ろうとするな。相手に良いようにされるだけだ」
霊力のこもった一撃。直撃さえすれば信綱とて昏倒は免れないものであると双方ともに認識している。
だからこそ霊夢には何が何でも当てようという気負いが生じ、信綱はそれを見抜いて攻撃への対処が簡単になっていく。
顎を刈り取ろうと放たれた昇天脚を首を傾けるだけで回避しながら、信綱は口を動かして霊夢の動きを指摘していく。
「技術で相手の方が上だと理解したらなるべく動きを小さくしろ。決定打を受けなければ機会は必ず来る」
「まだまだ!」
口では諦めていない風に言うものの、霊夢の動きは脇を締めて隙を極力排したものになっていく。
そうなると信綱がいくら受け流したところで決定的な隙にはつながらない。受ける威力も減るが、一撃受ければ死ぬ人間の戦い方はこれが最良だった。
「良いぞ、人間は妖怪の一撃を受けたら死ぬ。殺られる前に殺るのではすぐ頭打ちになる。自分の攻撃は全て当てて、相手の攻撃は全て避けるか受け流す。それを徹底しろ」
「簡単に、言わないでよっ!」
徐々に息の切れてきた霊夢が苦し紛れに蹴りを放つ。
信綱はいつも通りそれを受け流そうとして――霊夢の足が止まる。
「む」
「取ったっ!」
霊夢が足を上げることによって信綱に生まれた死角。それを使って霊夢はスカートに仕込んでいた退魔針を信綱の顔目がけて投げる。
どうせ当たるとは思っていない。しかし避けるなら首が。掴むなら手がそれぞれ使われる。その瞬間を狙って流れを自分のものにする。
一度の実戦を経験したからか、霊夢は信綱が好む戦法の実用性を理解できていた。
すなわち――主導権は何が何でも自分が持ち続けろ、ということである。
(避けるか、受けるか。どっちでもいい! それで生まれる隙に私が攻撃を入れる!)
「――悪くない判断だが、少々見せ札が露骨過ぎたな」
「へ? きゃっ!?」
信綱がどのように動くのか。それに集中しすぎてしまい、霊夢は信綱の足が自分の足を刈り取ったことに気づけなかった。
同時に信綱の手は退魔針を全て掴み取り、霊夢は尻もちをついてしまう。
「いたたたた……」
「針を投げて隙を作らせるまでは良い。だが常に相手の全身を視野に入れるようにしろ。特に能力を持つ相手ならなおさらだ」
針を地面に落とし、尻もちをついた霊夢を起こしながら信綱は彼女に戦い方を教えていく。
信綱は能力を持たないがために、攻撃自体は非常に素直だ。どこぞの鬼のように足で地面を叩いたら、地面が隆起してくるとか炎を操るとかの摩訶不思議な技はない。
足を振れば蹴りが、拳を振るえば打撃がそれぞれ物理法則に従って来るだけだ。
「予想できない攻撃などいくらでもある。異変を解決してきたのならわかるだろう」
「うん。なんか時間を止めるとかいう変なメイドとかもいたし」
「それらに対処するためにも、常に思考を止めず相手の全身を見続けるんだ。全く何の予兆もなしに能力を行使する輩は多くない」
目の動き、微妙な身体の変化。本人がいくら消そうとしたところで消えない癖はある。それらに気づく、ないし誘発するのが能力を持つ妖怪相手の土俵に立つ方法である。
「ん、わかった」
「よし、では再開するぞ」
「はぁい……」
がっくりと肩を落としながらも霊夢は改めて構え直し、信綱との稽古に没頭していくのであった。
その後、霊夢は稽古でかいた汗を流そうと風呂に向かい、信綱は彼女の入る風呂の用意を外で行っていた。
霊夢は湯船でバシャバシャと気持ち良さそうに足を動かしながら、外で温度調節をしている信綱に声をかける。
「それでさあ、爺さん」
「どうした、ぬるいか?」
「そっちじゃない。……私は異変を解決したのよ」
「そうだな」
「爺さんと一緒に戦った雑魚とは違う、本当に強い妖怪とも戦ったのよ」
レミリアと相対した時の感覚は今でも覚えている。
気を抜いたら一瞬で喰われる。信綱と稽古していた時にも感じなかった、生物としての格の違い。
膂力、速度、再生力。どれを取っても桁違い。その気になれば一瞬で自分はひき肉になる。そんな存在。
「うむ、それがどうした」
「……あんまり怖くなかった」
しかし、霊夢はそれらに恐怖を覚えることはなかった。
脅威であることは認識した。本当に殺し合ったら勝ち目が薄いことも理解した。だが、本当にどうにもならないという絶望は生まれなかった。
「それはお前の感覚が麻痺していたからか?」
「ううん、違うと思う。……爺さんと比べたから、だと思う」
幼少の頃から稽古をつけてもらい、今なお本気を出すことすらできていない父親代わりの存在。
昔はとにかく強い程度の認識しか持っておらず、彼の力量が幻想郷でどの程度なのかなど、考えたこともなかった。
だが今は違う。紅魔館の主という、幻想郷のパワーバランスの一角を担う存在と相対して、確信を持ったことがある。
「前にも疑問だったけど、今はもっと疑問。――爺さんはどのくらい強いの?」
「……あそこの吸血鬼と俺を比べて、どちらが勝つと思う?」
「爺さん。レミリアが弱いとは思わなかったけど、爺さんの方が強いと思った」
実際に戦ってみたらわからないだろう。信綱がいくら強いと言えど、肉体は人間。一手でも間違えれば簡単にすり潰される存在に過ぎない。
けれど霊夢には信綱の負ける姿が想像できなかった。例え生と死が紙一重の戦いであったとしても、勝つのは信綱だと確信が持てた。
「……まあ、否定はしない。昔の人里では妖怪が隣人ではなく外敵だった。それらから身を守るために戦ったこともある」
「レミリアとも?」
「もう半世紀近く昔にな」
「……そっか。やっぱり爺さんって人里でどうこうってより、幻想郷を見渡しても強い方なんだ」
「そうだな。幻想郷で強いとされる妖怪とは一通り戦った」
そして生きているということは、つまりそういうことなのだろう、と霊夢は湯船に肩まで浸かりながらぼんやりと思う。
よくもまあ昔の自分はこの人にちょっと修行すればすぐ勝てるなどと思えたものだ。おそらく彼は人間の枠組みに留まらず、幻想郷という枠組みで見ても上位に位置する実力を持っている。
「どうしてそんなに強くなったの?」
「妖怪が外敵だと言っただろう。御阿礼の子の使命を思い出してみろ」
霊夢はブクブクと口元をお湯に沈めて泡を吐き出しながら、寺子屋で学んだ人里の歴史について思い出していく。
「妖怪の対策本である幻想郷縁起の編纂……なるほど」
今や妖怪は隣人となっているが、昔はそうではなかった。ではその中に飛び込む御阿礼の子の危険はどれほどのものなのか。
当然のように側仕えには強さが求められる。信綱はその中で突出した強さを見せたということだ。
「そういうことだ。そして俺は次の世代に自分の跡継ぎを作るのは無理だと判断した」
「それはわかる」
即答されたことに物申したくはあったが、飲み込んで先を話し始める。
「……うむ。で、それなら俺がすべきことは次の世代では武力の必要ないようにすれば良い。それが最も御阿礼の子のためになると考えた」
本当の理由はそれだけではなく、むしろ今言った理由の方が後付についたものに近いが、そちらは黙っておく。この理由も全て嘘というわけではないのだ。
「それで今の幻想郷を作ったの?」
「俺だけではない。多くの妖怪と人間が同じように考えた。それで今が作られている」
「ふぅん、みんなうんざりしてたならもっと早く仲良くなれば良いのに」
「お前は自分から友人を作りに行けたか?」
「う……」
言葉に詰まる。霊夢という少女は普通の少女であり、誰かに甘えたくなる時もある。
だがそんな時でも顔を赤らめてもじもじと恥ずかしそうに言ってくるのだ。
そんな彼女に素直になれ、なんて言われたい人はいないだろう。
「そういうことだ。キッカケは誰だって欲しいものなんだ」
「そっか。爺さんがそのキッカケになったのね」
「不本意ながらな。……それはそうといい加減上がれ。のぼせるぞ」
だんだん霊夢のためにお湯の温度を調節するのが面倒になってきた信綱は、うんざりした様子で霊夢に声をかける。
「えー、温くならないお湯って気持ちいいんだもん」
「ではこれが異変を解決したお前への褒美でいいか」
「今すぐ上がるからちょっと待って!!」
ザバァ、とお湯をかき分ける音が聞こえ、次にドタバタと戸を開く音が聞こえてくる。どうやら急いで風呂から上がり、着替えているようだ。
この様子では人里でも彼女に振り回されるのだろう。老体なのだから多少は労って欲しいところだ。
「やれやれ、甘えたい盛りか……」
小さくため息をついてそれを受け入れることにする。霊夢に付き合っていられる時間はあと僅かであり、それが過ぎてしまったら今度こそ彼女は一人で博麗の巫女として生きていくことになる。
それがどれほどの辛さか、先代を見てきた信綱には理解ができた。そして厳しい役目であっても、誰かがやらなければならないものであることもわかっていた。
霊夢の母親は遠くに旅立ち、信綱もまた旅立ちの時は近づいている。勘の良い霊夢にはそれが薄々わかっているのかもしれない。
そう考えれば彼女の甘えっぷりにも納得が行く。もうすぐいなくなるのだから、目一杯甘えなければ損というものだ。
「爺さん、おまたせ! じゃあ人里行こ!」
可愛らしいアレンジの施された巫女装束を纏い、霊夢が肩を弾ませて来る。
その顔にはこれから信綱と買い物に行くことへの期待がキラキラと表れており、信綱は肩をすくめるしかない。
「俺は忙しいんだ。あまり時間は取らせるなよ」
「わかってるって! ほら、ただでさえ少ない時間は有意義に使わないと!」
「全く……」
存外、この巫女は一人にならないかもしれない。一度懐いた相手には人懐っこく、素直な少女なのだ。
人間は相手を選ぶかもしれないが、博麗の巫女が関わることになる相手など大半が妖怪。無駄に気が長く、人間を見抜くことにかけては右に出るものもいない彼女らなら、霊夢の本質を見抜いてからかうに違いない。
自分がいなくなった後も、霊夢の周りにはいつも誰かがいるようになるのだろう。
そんな未来が幻視できた信綱は、微かに口元を歪めて笑みの形を作り、霊夢と二人で人里への道を歩いていくのであった。
信綱は心労を覚えたことはあまりない。
御阿礼の子が関わることであればそれは多大な喜びを抱いてやるべきことであり、そうでないことであっても煩わしいと思ったことはあれど、どうにもならないと絶望したことはほとんどない。
阿弥の側仕えをしていた頃、いきなり八雲紫ら八雲の面々が家に押しかけてきた時は胃痛を覚えたが、あれは例外としておく。今ならあの三人が来たところで余裕を持って対処できる。
しかし、対処ができるからといってそんな事態が起きてほしいかと言われれば否であり――
「……本当に来たのか」
「なによ、来たら相手をするって言ったのは嘘だったわけ?」
目の前に座っている少女――風見幽香の来訪に信綱は頭痛を覚えてしまうのであった。
幽香はとっても不機嫌です、という感情を隠しもせずしかめっ面で信綱を睨んでおり、彼女がそんな顔をする理由に心当たりのある信綱は微妙に顔を合わせづらかった。
「……俺は家の場所を正確に教えた覚えはなかったはずだが」
「花屋で聞いたわ。火継の名前を出したら目を輝かせて教えてくれたわよ。それとあそこの花屋、結構良い品揃えね」
だったらそこで満足して帰れよ、と思うものの口には出さないでおく。
曲がりなりにも家に来れば相手をすると言ったのは自分だ。素直に来た幽香の心象を無闇に損ねるのは良くない結末しか待っていないだろう。
「……場所を変えるぞ。一応庭がある」
「花は?」
「景観を壊さない程度だが、ここよりは多いだろうさ」
「なら良いわ。そこの不自然なバラとか、見ていて壊したくなるから」
「やめろ」
「手入れはしっかりしているようだからやめておくわ。花もあなたに恨みはないみたいだし、誰かからの貰い物?」
これは紅霧異変の首謀者を教えたらレミリアが死ぬんじゃないだろうか、などと考えてしまい、幽香の質問は無視して庭に向かうことにした。
幽香は無視されたことに対し、さらに顔をしかめるものの文句は言わずに着いてくる。
そうして案内された庭を見て、幽香は微かに感心した様子で庭を眺めた。
「……これはあんたが?」
「人目も入るし、阿求様が来ることもある。見目を整えるのは当主の仕事だ」
そう言って信綱が縁側に座ると、幽香も同じように信綱の隣に腰を下ろす。
傍目から見れば人間の男が絶世の美女と呼んでも過言ではない少女を侍らせているように見えるが――とんでもない。信綱にとって彼女は毒花以外の何ものでもなかった。
腹の底から込み上がってくるため息を押し殺しながら、信綱はわかりきっている相手の用件を尋ねる。
「で、何の用だ」
「わかってるんでしょう? この前の霧よ」
「予想はしていた。防げなかったわけでもないだろう」
「当然。私の周囲は完璧に防いだわ。でも知らない場所で好き勝手されて良い気はしないの」
「お前は俗世と関わりたくないのではなかったか……」
「私から手出しはしない。但し向こうから手を出した場合は別。それに不本意ながら、ほんっとうに不本意ながら人里に来る用事もあったし」
二度も言う必要があったのか、と思っていると信綱の眼前に指が突きつけられる。
細くて白い指だが、微かに土と花の匂いが混ざったその指は、幽香が魔力さえ込めれば信綱の頭など簡単に破裂させられるものだ。
「花にももっと色々なものを見た方が良いと言われたのよ。一番身近で思いつくのはあんたしかいなかったわ。だからこうして足を運んだわけ」
「…………」
花に説教されるような幽香の生活を憐れむべきか、思いつく人物が自分しかいない幽香の人間関係を嘆くべきか、それともただ単に迷惑なので怒るべきか、信綱にはわからなかった。
それらの言いたいことを飲み込み、信綱は呆れたように肩を落として口を開く。
「……じゃあ、しりとりでもするか?」
「子供か私は!」
「りんご。言えなかった方の負けで」
「ごま!」
「
律儀に付き合ってくれる辺り、本当に素直な人格である。これで力さえなければ信綱も強気な子供を相手にする気分でいられたのだが。
適当に口を動かして幽香としりとりの体裁を取りつつ、どうすればこの少女が満足して帰ってくれるかを考える信綱。
わざと負けたらそれを見抜いて怒るだろう。かといって勝ちに行くとそれはそれで拗ねる。変に洞察力はあるくせに根っこが素直というのは面倒でたまらない。
しりとりに持ち込んだこと自体が間違いだったかもしれない、と信綱は考えなしに口から出した言葉を僅かに後悔する。
過ぎてしまったことをどうこう言っても仕方がない。信綱は立ち上がって部屋に戻る。
「り、り、り……ちょっと、どこ行くのかしら」
「本格的に頭の運動にしようと思ってな。少し待っていろ」
そうして持ってきたのは将棋の盤だった。駒もすでに並べられており、すぐにでも始められる状態になっていた。
「口で負けたお前が口で勝ちたい。それはつまり、頭の回転で俺に勝ちたいということだ」
「……しりとりをしつつ、将棋でもあんたに勝てば良いわけね」
「いや別にしりとりはもうどうでも良い――」
信綱が否定する前に幽香が駒を動かし始めてしまっていた。瞳は爛々と挑戦的な輝きを宿しており、絶対に勝つという意気込みがありありと伺えた。
……しりとりしながらの将棋になんでそこまで熱意を燃やせるのだろうか、と思ってしまったことは内緒にしておく。彼女に言ったらまた顔を赤くして暴れるだろう。
自分だけが見ている分なら気にすることもないのだ。わざわざ指摘して彼女にとって忘れたい思い出を増やしてやる必要はあるまい。
先送りにした方が後々もっと最悪な形で彼女の思い出になるんじゃないか、と思考がささやくがそちらは無視することにした。その時はもう死んでいるはず。死んだ後の責任まで取りたくない。
「……ちなみに俺はこれを結構やっているから、いくらか駒を落としてやった方が平等になると思うが」
「嫌よ。そんなので勝っても嬉しくないわ。さあ、しりとりも再開するわよ」
しりとりと将棋を同時に行うというチグハグな勝負で勝って嬉しいのかこいつは、と一周回って感心してしまう。この少女の素直さと言うか、目の前のことに対してののめり込み方は半端じゃない。
彼女を下手に他の妖怪と触れ合わせたら逆に不味いんじゃないかと思ってしまう信綱。
この見た目と行動、言葉遣いに反して根っこが非常に素直なことがバレてしまったら、良いからかいの標的である。この幻想郷において、突いて面白い箇所を突かない輩はいないのだ。
もう自分の時間も残りわずかだろう。そして大部分は御阿礼の子に捧げることが決まっている。
……が、それ以外の時間の少しぐらいなら、この妖怪に割いても良いのだろう。主に自分が死んだ後に騒動を起こしてほしくないという理由で。
彼女には見た目だけでなく、中身も淑女になってもらおう。今のままでは不安で仕方がない。何の拍子に爆発するかわからない特大の爆弾を相手している気分である。
「王手」
「ああっ……!?」
ということで容赦なく勝ちに行くことにした信綱。自分と継続的に関係を持ち、その上で彼女の根っこを育ててやる必要がある。
なぜこの歳になって妖怪の面倒を見なければならないんだ、と思いながらも投げ出すことはしない。彼女の成長は御阿礼の子にとっても有益になるだろうし、逆に放置は彼女にとっての害となる可能性がある。
例えなんとか勝ち筋はないかとすでに詰みの盤面を必死に眺めている子供のような少女であっても、大妖怪であることに変わりはないのだ。彼女が本気で暴れた際の被害は想像もつかない。
「ま……負けた……」
「負けは素直に認めるのか」
「負けたのに負けを認めないのは気高いのではなく、ただ無様なだけよ。負けるのはもちろん悔しいけれど、これを糧にしてやるわ」
「勝利に貪欲なのは結構なことだ」
そしてその性格もできれば失ってほしくはないものである。今は微妙に方向性が違っているが、彼女のこの大妖怪としての矜持を大切にする在り方は好ましく思っているのだ。
「もう一回! もう一回やるわよ!」
「せめて明日にしろ。今のままだと千回やっても俺が勝つぞ」
「……やってみなきゃわからないでしょう」
「それは勝敗が明確に決まらない場合だ。王を取られたら負けな将棋でそれは通じん」
知識を蓄え、相手の裏をかき、自らの策に陥れる。幽香が信綱に望んでいるであろう、知略を駆使した勝負がここにあった。
「俺に口で勝ちたいのか、それとも知恵で勝ちたいのか。どう勝ちたいのかは知らないし興味もない。ただ勝ちたいのならこの場で俺の首を取れば良い。その気になればできるだろう」
この場で信綱に勝ち目は薄い。刀も一振りしか持っていない現状、戦闘になったら五分五分が関の山。それで勝っても相討ちになる可能性の方が高い。
それを聞いた幽香は負けを認めた時以上に不愉快な顔になり、そっぽを向く。
「すでに出た結果を力づくで覆して何が楽しいわけ? 侮るのもいい加減にしなさい。この大妖怪、風見幽香にあるのは正面突破のみよ。相手の得意分野で打ち勝ってこそ、相手の本気で悔しい顔が見られるってものでしょう」
「…………」
結果として悔しい顔をしているのはお前だけだぞ、と指摘したらまた機嫌を損ねるだけだろう。
「……わかったよ。お前の勝負に付き合うと言ったのは俺だ。多少は付き合ってやる」
「言われずともそのつもりよ。例えダメと言っても押しかけるわ」
本当に実行するだろうから、御阿礼の子との時間にかち合わないことを切に願う信綱だった。さすがにこんなしょうもない理由で命懸けの勝負はしたくない。
幽香は持ってきた日傘を差し、中庭に立つとそのまま浮かび上がっていく。
「ではごきげんよう。――次は絶対勝つ」
最後にドスの利いた声で宣戦布告をされてしまい、信綱はもう遠くに行ってしまった幽香の背中を見てため息をつく。
異変解決に参加しなくて良くなったというのに、どうして自分のところには未だ厄介事がやってくるのか。
いつになっても煩わしいことは消えないものである。自分はただ御阿礼の子に仕えていたいだけなのに。
信綱はままならない――というか思い通りに進んだことの方が少ない自分の人生を振り返って、もう一度大きなため息をつくのであった。
「全く、人間のくせに生意気ったらないわ。頭も腕も私より強いとか……」
ブツブツと小声でつぶやきながら少女――風見幽香は帰路にあった。独り言であっても相手が自分より強いことを認めるところで声が低くなっていたが、そこはご愛嬌である。
思い返すのは先ほどまで知恵を競っていたあの男のことだけだった。ここ最近は花の世話の他にあの男を負かす方法を考えるようになっていた。
……その方法がしりとりと将棋を同時に行うことになったのは、少しばかりどうかと思ってもいた。
そもそも、風見幽香は聡明な妖怪だ。でなければいくら突出した力があっても、一人で生きていけるはずがない。
物心ついた頃から一人で生き、戯れに人間の暮らしを眺めて、やってきた妖怪や人間を蹴散らして、気づいたら大妖怪になっていた。
物事の大半を思い通りに進められる力があるのだから、それを振るわないのは嘘だろう。幽香は道を阻むものは容赦なく排除して今の世界を築き上げた。
そこに至るまで――幽香は自分は悪意に鋭いと自己分析していた。
彼女の生命を脅かす悪意。彼女自身の力を利用しようという悪意。見目麗しい少女を自分のものにしようとする悪意。
長く生きていれば悪意にさらされることも多くなる。特に自分のように人間に馴染める気質でなく、かといって人間から逃げるように暮らすのも負けた気がして嫌だと思ってしまう人種は特に。
故に幽香はそこに悪意があるのなら見抜ける自信があった。どれだけ口当たりの良いことを言っていようと、そこに自分を利用する気配があれば見逃さない。
しかし、あの男は違う。
確かに自分を利用する気配はあった。だがそれは決して自分のためではなく、自分の主のためだった。
それ以外についても悪意もなければ利用する気も感じられない。本心から幽香が近づいてくるのを鬱陶しがっている様子しか見えなかった。
どうでも良いと思われるのもそれはそれで癪である。そのくせ、幽香が来ることを拒まなかったり来たら来たで面倒そうにしながらも相手をするなど、相手の意図が読めない。
「全く、不愉快極まりないわ……。負け続けることもそうだけど、わからないことが一番腹が立つ」
どうせあの男はもうすぐ死ぬ。死んだら幽香の抱えている謎も永遠にわからずじまいになってしまう。そうなる前にせめて糸口だけは掴んでおきたい。
差し当たって考えるべきは――次も将棋の勝負になるだろうから、その時までに戦略を考えておくことだ。
空を飛んで帰路につく幽香の顔は間違いなく不機嫌なそれであり、本人もそう感じているだろうが――どこか、楽しげな空気でもあった。
ちなみに彼女は霧の出した相手のことをすっかり忘れており、思い出したのは帰ってからになるが――花は守ったしまあ良いかと流してしまうのであった。
……目先のことに集中してしまう悪癖については――信綱が指摘しない限り、自覚はされないのだろう。
ポンコツ度合い高めなゆうかりんですが、相手に自分から突っかかっている状態であり、なおかつノッブがそうなるよう誘導しているのでそうなっている感じです。
一人の時は割りと冷静だったり。けど目先のことに頭が行っちゃうので、その辺りを突かれると弱かったり。
とはいえ彼女は目先のこと以外考えなくても良い存在です。極論、花と自分のプライドさえ守られるなら良いので、大局を見る必要が薄い。
力は間違いなく大妖怪だし、精神もそれに類するだけのものを持っています。悪意に敏感なので、利用されないだけの術もちゃんと心得ている。
だからこそ悪意も利用する気もなく、ただ風見幽香個人を見て、彼女の性格を見てその上で面倒だとしながらも相手をするノッブがわからず、しかも自分より強いからつきまとっているわけです。ノッブからすればいい迷惑です(真顔)