Ace Combat side story of ZERO - Skies of seamless - 作:びわ之樹
雪と岩の色に染まった山肌が、晴れ渡る蒼穹を背景にして連なっている。
晴れているとはいえ、肌に触れる空気は刺すように冷たい。サピン王国の中では高標高地に位置することもあり、平地と比べて春の訪れは二歩も三歩も遅いようだ。この冬はただでさえ雪が多く、しばらくはこの基地も雪色に閉ざされたままになるだろう。立ち上る息の白さが、春の遠さを静かに物語っていた。
ざく、ざく。
凍った雪を踏みしだきながら、脚は自然と日の当たる方へと進んでゆく。今朝にかけてまた雪が降ったのか、除雪車が出て滑走路の雪をかいているものの、影になる施設の端まではまだ手が届いていないらしい。
戦闘機のエンジン音と比べれば、遥かに控えめな除雪車の駆動音。戦争が終わり、静寂と雪に閉ざされたこの地では、その音すらもよく耳に響いた。
格納庫前の陽だまりの中で、カルロスは束の間空を見上げた。山脈に切り取られた雲一つない青空は、清々しくもどこかもの悲しい。天頂に至った太陽の熱すらも、雪に閉ざされた地を暖めるには至っていないように感じられる。
時に1996年、3月初頭。サピン王国北部山間に位置する、ヴェスパーテ空軍基地。クーデター軍『国境なき世界』との戦闘が終結してから、既に2か月余りが経過していた。
「寂しくなったな、この基地も…」
呟いたその言葉も、紡がれたそばから雪に吸い込まれていく。そんな錯覚を覚える程に、今のヴェスパーテ基地は閑散としていた。
これまでベルカに対する前線基地として機能していたサピン最北端のオステアと比べ、ここヴェスパーテはやや内陸に近く、元来基地としての規模も小さい。最前線たる意味合いも失った今となってはここに戦力を置く必要性もなく、おまけに戦争で戦力を失ったサピンには十分に補充を行う余裕もなかったため、今この基地にいるのは戦闘機隊が2つのみ、という有様だった。
そして、そのうちの一つでありカルロスが属する『ニムロッド隊』も、この3月末でサピンとの契約は切れる。今のところ契約更新の話は無く、このままいけば基地の閉鎖にもなりかねない状況だった。僅か1飛行隊ではできる任務も限られる上、その隊ですら人員が足りていないのだ。
そんな思いに気を取られたのか、それとも寒さで凍えた耳が鈍くなっていたのか。背後から近づく気配に、カルロスは気づくのが遅れた。
「どうした、センチメンタルな気分にでもなったか?」
「…なんだ、ニコ、ラ…」
不意に叩かれた肩。声音で相手を判別し、そちらへ振り返った刹那、頬に指の先が食い込んだ。子供がよくやる、人差し指を出したまま相手の肩を叩く他愛のない悪戯である。案の定、その手の先にはしてやったりと笑みを浮かべるニコラスの顔があった。
「バカ、何やってるんだよ。子供か」
「なーに言ってるんだ、キャノピー越しに相手の殺気を読み取れっていうアレだ。アレ。――まあ冗談はさておき、確かに寂しいっていうか心細いよなこの基地。せめて1小隊分くらいしっかり欲しいぜ」
ニコラスの手を指で弾き、カルロスはそちらへ向き直る。冷たい空気でかじかんだ手は、それだけでも少々痛い。
ニコラスの言う通り、現在のヴェスパーテの戦力は定数から大きく不足していた。ニコラスが属するエスクード隊は、『国境なき世界』との戦闘で3、4番機が欠落して以来補充はなく、隊長機のエスクード1も現在療養中であった。唯一ニコラスについては、フトゥーロ運河上空の戦闘で撃墜され一時行方不明となっていたのだが、オーシア側の岸に自力で泳ぎ着いていた所を発見された。ほぼ無傷であの激戦から生還できた辺り、彼の実力と強運が伺い知れるところだろう。
一方、カルロス属するニムロッド隊に関しても実情は同じであった。アンドリュー隊長は右脚を膝の先から失い、ヴィクトール曹長は戦闘の最中に右手の親指を切断して、二人とも基地で療養を余儀なくされている。クーデター軍に奔ったフィオンに関しては、戦線離脱後に消息を絶ち、今も行方不明のままである。――そして、カークス軍曹は、この手で撃って…殺して、しまった。その苦みは、今も心から消えてはいない。
ともかくも上記の経緯で、この基地で空に上がれる人員は、現在の所2名ぽっきりという惨状なのであった。機体に関してもヴィクトール曹長のMiG-23MLD『フロッガーK』は戦闘で中破し、自分の『フロッガーK』に至っては基地への攻撃に巻き込まれ大破している。結果、現在使える機体は、元アンドリュー隊長機のMiG-27M『フロッガーJ』のみという有様だった。ニコラスのF/A-18C『ホーネット』を加味しても、もし再びクーデター軍の蜂起が起これば対処は到底できないに違いない。
「まぁな…。幸い、ここに戻ってから戦闘がないからいいものの。万が一何かあったらひとたまりもないぞ、この基地。…大丈夫かね?」
「大丈夫だいじょーぶ。どうせクーデター軍は消滅したんだし、当面他の国だって戦争する余力はないだろうさ。それにアレだ、いざとなったら幸運のエースたる俺がいる!ってな、伍長殿」
「あーはいはい、期待してるよ少尉殿」
口にした心配も冗談に変えて、カルロスとニコラスの間に笑い声が上がる。1年近く戦場で共に過ごした経歴もあるが、一つにはニコラスが言う通り、情勢に幾分余裕があることも背景にあった。
1995年12月、国籍を超えて集ったクーデター軍『国境なき世界』は近隣諸国各地で蜂起し、その有する戦力と大量破壊兵器を以ってオーシア東方諸国を混乱に陥れた。しかし、12月31日に実施された鎮圧作戦によってその主力はアヴァロンに潰え、大量破壊兵器『V2』も攻撃部隊によって阻止されたという。アヴァロン陥落に伴って幹部の多くは捕縛もしくは逃亡し、その戦力も殆どを喪失したことから、先日のような組織だった作戦はもはや困難と判断された。
同時に、大国たるオーシアはともかくとして、国土が戦場となったサピンやウスティオ、その他周辺諸国が受けたダメージは極めて大きい。当然国土や軍の復旧は易々と進むものではなく、少なくともこの先10年ほどは軍事行動をする余力などないといっていいだろう。戦時体制として、オステア空軍基地など国境付近に集中していた軍編成を従来のものに戻したこと、それに伴いカルロス達も本来の所属であるヴァスパーテに戻されたこともその一環である。先のニコラスの言葉の背景には、以上のような経緯があったのだ。
もっとも、懸念事項とてない訳ではない。
専ら損得勘定からの判断になるが、この戦争で結果的に最も得をしたのは西側の大国オーシアだった。ベルカによる侵略を受けた地域はその国土から見ればほんの一部であり、相対的な被害の比率は参戦国の中でも最も少なかったのである。おまけに戦争の結果南ベルカを領土に加えたことで、その領土には地下資源が眠る『円卓』周辺や五大湖一帯も加わることになった。新たに手にした唸るほどの資源は、国力の向上と回復に一役買うことになるだろう。連合国の一端だったウスティオに関しても、国土の被害こそ大きかったものの、それと引き換えに『円卓』資源採掘権を手にした上、その軍の精強さを見せつけることに成功した。今後の交渉を行うに当たっても、武力の裏付けはその結果に直結するに違いない。
後に聞いた話によると、アヴァロンのクーデター軍中枢を破壊し『V2』阻止を成し遂げたのも、あのウスティオのエース、『円卓の鬼神』らしいとのことだった。それだけでなく、作戦の数日前にはアルベルト大尉――『エスパーダ1』を撃墜し、アヴァロンへの進軍途上ではクーデター軍に所属した元オーシアのエース『ウィザード隊』をも返り討ちしたのだという。かつてこの目で見た手並み――8機のMiG-31で構成されたベルカのエース部隊を、わずか2機で殲滅した技量を省みれば、その結果も納得するというものだった。
戦争によって資源や発言力を得たオーシアとウスティオ。それに対し、サピンや参戦の遅れた周辺諸国の利は明らかに少なかった。サピンに関してはウスティオに次いで被害が大きかったものの、得た領土も無く、軍の損耗はこの基地を省みるまでもなく極めて大きかった。ベルカのレーザー兵器のデータを得たらしいという噂こそあったものの、それもどの程度利益があるものか疑わしい。ファト、ゲベートなどの周辺諸国に至っては、賠償金すらどうなるか怪しい所と言う有り様である。
火種は、無い訳では無い。それが燃え上がるのか、それとも燻り消えてゆくのか。全ては会議室の『円卓』におけるこれからの舵取り次第だろう。
この地に対する、『これから』へ向けた思い。それは、小走りに走り寄ってくる足音と声に打ち消された。
「ニコラス少尉、カルロス伍長!こちらでしたか…!」
「おぅ、お疲れ。どした、コーヒーでも入ったのか?」
走って来たのは、司令部詰めの若い兵だった。よほど急いで来たのだろう、上着も着ず、肩で息をしている。冗談めかして応じたニコラスに、その真面目な目が向かった。
「違います!と、とにかくお二人とも、スクランブル要請です!詳細は追って指示するとのことで…」
「スクランブルぅ?誰に?」
「…行こう。モノによってはとんだ火種になるかもしれない」
これからの世界を左右する『火種』。思考がそちらへ向いたタイミングでのスクランブルの要請に、カルロスはふと胸騒ぎを覚えた。他国が侵入する余力は無い、クーデター軍も潰えた。ならば、一体何なのか。
司令部に戻ったらまた指示を頼む。それだけ言い残して、カルロスはニコラスとともに、宛がわれている格納庫へと向かっていった。
雪の上に刻まれた足跡。その先を、一歩ずつ歩きながら。
******
「ニムロッド3離陸完了、計器類異常なし」
《こちらもオールグリーンだ。エスクード2より司令部、指示を頼む。どっちへ行けばいい?》
《ヴェスパーテ司令部より各機へ、方位040へ進路を取られたし。オーシア-ウスティオ国境へ向かえ》
「了解した、これより変針する」
雪に覆われた山肌が大きく傾き、視界を右から左へと流れてゆく。冷え切った機体は暖気に少々時間を要したが、その唸りは上々の調子を示していた。旋回の調子を見る限り機体も軽い印象だが、今回は空対空を主眼に置いた装備なのがその要因だろう。胴体下の左右ハードポイントに
《では、詳細を伝える。本日1600時、国境線付近のノースオーシア州内陸に、複数の所属不明機が捉えられた。奇しくも当該地域周辺では『国境なき世界』幹部の捜索が実施されており、所属不明機も何らかの関係がある可能性が考えられる。現在、目標は国境線沿いに南南西へ向け飛行を続けており、既にウスティオ空軍が追撃機を差し向けている所である。諸君は目標の予測進路上に展開し、その行く手を封鎖せよ》
《了解した。で、敵の数と種類は?》
《ウスティオ軍機が未だ接敵に至っておらず詳細は不明であるが、レーダー反応から4機前後と推定されるとのことだ。場合によっては、ウスティオ軍機もサピン国境を越境し追撃を続行する。その際は識別反応に十分に注意せよ》
「残党狩りに耐えかねての逃亡、って所か…。ニムロッド3了解した。状況が動き次第、随時連絡を頼む」
判明している情報を頭に叩き込み、カルロスは状況を整理する。
クーデター軍『国境なき世界』は討伐作戦で潰えたものの、その幹部の多くは追及を逃れ潜伏したという。しかし、討伐作戦終結から2カ月程しか経っていないこの時点では警戒の目も厳しく、目立った移動はできなかったのではないか。それならば、ほとぼりが冷めるまでベルカ国内や近隣諸国に身を隠していたとしてもあり得ない話ではない。そして追及の目が近くに迫ってきたため、目に触れるのを覚悟で航空機で逃亡を行うというのも、可能性としては最もありそうなことだった。
眼下を流れる山脈は北東へ飛ぶほどに峻厳さを増してゆく。大地を摘んで引っ張り上げたような稜線の連なりは、あるいは上がりあるいは分かれて、やがてウスティオ国境へ、そして円卓へと至るのだろう。『円卓』で、そしてこの空で死んでいった人々の死をも飲み込んで、大地は変わらぬ悠久の姿を静かに横たえていた。
その上空に目指す小さな影が現われたのは、出撃して30分近く経った頃のことだった。
《こちらエスクード2、目標捕捉。反応3…存外に近いな、相当低空を飛んできたらしい》
「ウスティオ国境まで2kmか…。ウスティオ軍機はどうなってる?」
《ちょっと待てよ…。今レーダーレンジに入った。10機ちょっとだが入り乱れてるな、敵の
敵機を捕捉したらしいニコラスの声に、状況を伺うべくカルロスが質問を返す。元より対空レーダーを装備していないMiG-27Mでは、遠距離の敵機を捕捉するのはニコラスの『ホーネット』頼みにならざるを得ないのがもどかしい所だった。
その言を借りるに、最新鋭と言っていい『ホーネット』を以ってしても、接近するまで捕捉できなかったらしい。元々が山岳地帯という起伏に富んだ地形であるため、地形と地球の丸さを利用すれば――すなわち谷間を沿って超低空で飛び続ければ、よほど接近するまで探知は困難となる。おそらく、この敵機もそうして飛行して来たのだろう。
それを裏付けるように、やがてカルロスの目にも映った機影は、地表から600フィートにも満たない低い位置に姿を現した。その数、確かに3。やや開いた楔型隊形を取った小柄な機体である。殿とやらに手間取っているのか、まだ追撃のウスティオ軍機は姿を現していない。
「あれだな。ウスティオの連中はまだらしいが…仕掛けるか」
《だな。……あー、あー、領空侵犯の国籍不明機に告ぐ、こちらサピン王国空軍第19戦闘飛行隊。速やかに武装を解除し投降せよ。こちらが誘導するので追従されたし。繰り返す…》
遥か先の低空を飛ぶ3機目がけ、ニコラスが定型の投降勧告を行う。案の定と言うべきか、その進路や速度は変わる様子は無い。
3つの機影は依然直進を続け、眼下へと近づきつつある。高度差、概ね2000。丸みを帯びた流線型の機首に現行の戦闘機と比べ小さな機影、そして水平尾翼が垂直尾翼よりやや後方に位置する尾部形状は、各国で採用されているジェット練習機『ホーク』、しかもその単座軽戦闘機型である『ホーク200』と伺えた。扱い易く小回りの利く小型機だが、最高速度は戦闘機のそれには及ぶべくもない。
機体を傾け、斜め下にグレーの塗装色を見定める。増槽投棄、安全装置解除。勧告に従わないのなら、撃墜する他無い。
《よし、警告無視と見なし撃墜する。編成順にかかろう、フォロー頼む》
「ニムロッド3了解。しくじるなよ」
左に傾いたニコラスの『ホーネット』が、急速に下降しながら敵の進行方向を塞ぐように機位を遷移させる。一方のカルロスはそのまま機体を直進させ、敵編隊の上空を通過したのち降下反転へと入っていった。最初に正面からニコラスがかかって編隊を乱し、散開した所をカルロスが後ろから仕留めるという策である。
高度計がみるみる数値を下げてゆく。山肌が迫り、雪色の斜面が視界を流れてゆく。右旋回の最中にちらりと頭を上げると、ニコラスの『ホーネット』はいち早く敵の正面に占位し、真正面から銃撃を仕掛ける所だった。
補助翼操作、操縦桿引き上げ。機体を水平に保ち、照準の先に敵機を見据える。ニコラスの銃撃は全て回避したらしいが、左右の2機は先ほどより間隔を広げている。
目標、中央の『ホーク200』。可変翼、最小角。速度を増し、回避の余裕を最小限に抑えて一撃離脱を仕掛ける構え。
距離は瞬く間に1200を切り、1000となり、800を割る。速度差はやはり相当にある。
目算の距離が700台に達したその瞬間、カルロスはAAMの発射ボタンを押し、次いで加速しながら機銃の引き金を引いた。
AAMが敵を捉えて飛来し、次いで回避方向を塞ぐように23mm弾が火線を刻む。運動性こそ優れるものの速度に劣る練習機、それも少ない回避方向を機銃で封じたこの状況なら、回避は極めて困難である。
その、筈だった。
「…バカな…!?」
《避けられただと!?…くっそ、甘く見たか!》
「嘘みたいだな…!あの敵機、いい腕だ」
信じられない機動――その一言だった。
眼前の『ホーク200』は、左旋回で回避行動へ入ると同時に機首を上げ、すぐさま機体をロールさせて下降。迫られている中で敢えて速度を落としているのだろう、極めて小さい旋回半径で動いた敵機は機銃の火線だけを避けるように動き、ミサイルの誘導から見事に逃げおおせて見せた。速度差のため、こちらがあっという間に追い抜いてしまったことは言うまでも無い。もし敵が武装していたら、おそらくAAMで攻撃されていた所だろう。
技量は、おそらく自分より上。数の上でも劣るこちらで、撃墜できるのだろうか。せめて、ウスティオやサピンの増援が到着すれば。
その微かな希望も、続く通信でかき消された。
《こ、こちらウスティオ空軍第81戦闘飛行隊!所属不明機より甚大な被害を受け、追撃続行は不可能!第82戦闘飛行隊も全滅、両隊はこれより帰投する!》
《くそっ、ウスティオ正規軍の意地を見せてやる…!第80戦闘飛行隊は越境し追撃を続行する!…くそっ!何なんだ、あいつは!!たかが1機、それも旧式のくせに…!》
《全滅…?おい、どういうことだ!?こちらサピン王国空軍『エスクード2』!敵は逃げる3機と殿1機だけだろ!?》
《敵の1機が凄腕だ!そこのサピン軍機、応援を…!》
逃走する3機、そして足止めの1機に襲いかかるウスティオ空軍機。少なくとも、先ほどニコラスが探った結果はそれだった筈だ。
カルロスは機体を立て直し、主翼を通常位置へ戻しながら北の空を見やった。
そして、驚愕した。
ウスティオ軍機は3飛行隊――すなわち12機が本来の数の筈である。それが、空を見た限りは6機しか姿が見当たらない。しかも、そのうち2機はすでに姿が小さくなりつつあり、組織的な戦闘能力を失った機体が撤退しつつあるのは明らかだった。部隊編成は、遠目に判断した限りおそらくF-16C『ファイティング・ファルコン』。オーシア東方諸国の中では、平均以上の部隊である。
そして――。
散開しつつこちらを指して飛ぶウスティオ空軍機。その後方に、その機体は現われた。
F-16が逃げる。旋回で速度が鈍った隙を突いて敵機が加速する。
追撃と逃走。本来の目的と立場が入れ替わった戦空の下、F-16が必死に身をよじる。
その小さな主翼は、一瞬後には機銃弾に引き千切られて、無残に炎に包まれた。
《…くそっ!トパーズ4撃墜!…来る!今度はこっちだ!た…助けてくれ!!》
《逃げろ、とにかく攻撃を捨てて逃げろ!…クソったれ、いい加減往生しろ、『赤い奴』め…!》
迫る敵機、交錯する焦燥の声。それすらも、カルロスはしばし忘れていた。
見てしまったのだ。こちらへ近づく、その機体を。爆炎に照らされた、見覚えのある『紅』を。
典型的な無尾翼デルタの機体に、機首横の丸いエアインテーク。『ミラージュ2000』に似た構成だが、コクピット後方から尾翼にかけての
だが。その身を彩るカラーが、その『ミラージュⅢ』を一般のそれとは明らかに画していた。機体の割に大きく見える三角翼は、まるで血を思わせる紅一色。機首までも染めた赤色地を、黄色のラインが稲妻のように切り裂いている。
まるで力を誇示するように、蒼空に映える紅と黄。かつて円卓を始めとした各地の空に舞い、後にクーデター軍に奔ったサピンのエースパイロットと同じ色。
まさか。そんな、あの色は。そしてあの飛び方は。
《その色と機体は…ああ、ニムロッド隊の隊長さんかい。ボウズは元気かい?》
「…!?アルベルト、大尉…!?」
《『エスパーダ1』だと!?そんな馬鹿な、『円卓の鬼神』にやられて行方不明の筈だろ!?何で…!》
散開したF-16の間を裂き、西に傾いた太陽の下に映える紅の翼。その塗装も、旧式機を以て最新鋭機にすら打ち勝つその技量も、そしてその声も。もはや疑いを挟む余地は無かった。
『エスパーダ1』――アルベルト大尉。かつて共に戦い、そしてアンドリュー隊長や自分を撃墜してクーデター軍へと奔り、後に超大型ガンシップ『フレスヴェルク』追撃戦において『円卓の鬼神』に撃墜されたという、サピンを代表するエースパイロット。撃墜された後には戦死したとも重傷を負ったとも言われていたが、まさかこんな形で再会することになるとは、カルロスの予想の外にあったと言って良い。
《おや、隊長さんかと思ったらボウズかい。どうした、MiG-27に乗り換えか?》
「いろいろありまして…。…って、それより!どうして大尉がここに!?」
《どうしてもこうしてもあるか。『鬼神』に叩き落とされて『ドラケン』はお釈迦だし、今更サピンにも戻れん。そんな訳で安い中古の『ミラージュⅢ』買って、元通り傭兵兼のなんでも屋稼業って訳さ。仕事は仕事だ、悪いけども手は抜かないぜ?》
《…くっそ、冗談だろ…!生き残りのウスティオ軍機、聞こえるか!連携で『エスパーダ1』を落とす!…カルロス、フォロー頼むぜ。本腰入れてかからないとこっちがやられる》
投降して下さい。
そんな言葉はもはや口から出てはこなかった。言える訳も無かった。
もとより大尉は、妨げも何もない自由な空を目指してクーデター軍に奔ったのだ。翻せば、空を飛べなくなることは、大尉には到底肯じられないことになるのだろう。今更そんなことを大尉へ言って、時を無為に過ごしたくは無かった。
『ミラージュⅢ』の遥か後方で、編隊を立て直したF-16が深紅の翼を追い始める。方や、『ミラージュⅢ』はそのまま直進。正面からかかってこちらの編隊を崩し、先の『ホーク200』への追撃を遅らせる積りなのは明白だった。おそらく、その距離は既に相当離れてしまっている。
大尉に対応して正面からかかっても、大尉機に対してやや斜めに構えた今の位置では命中弾は望めない。定石通りならまずは回避を優先し、2機が別方向へ散開、そののち二方向から挟み討つという所だろうか。だが、今回に限っては散開し孤立するのは危険が大きい。なにせ、相手はあのエスパーダ1である。たとえ多少の被弾のリスクを負っても、できる限り編隊行動を維持する方が危険は少ないだろう。
エスクード2、左旋回。同時に機首を上げて上昇を開始。
操縦桿をやや左へ戻し、次いで手元の方へと引きつける。同時に踏み込んだフットペダルが、エンジンの唸りを高めてゆく。
ちらりと見上げた。『ミラージュⅢ』、右斜め上。このままの進路で急上昇すれば、その眼前を斜めに抜け上がることになる。それぞれのベクトル方向が異なるため、ミサイルも機銃も命中し難い筈だ。案の定こちらを射線に捉えそこねたのか、その赤い機首からは機銃弾一つ放たれず、斜め下にこちらと入れ違ってゆく。あとは高度を取れば、こちらが優位に進められるだろう。
だが。機体の構成上、MiG-23/27シリーズは主翼がちょうどコクピットの斜め後方に張り出すため、後方視界があまり良くない。その為だったのだろう、『ミラージュⅢ』の機影が後方に抜けて視界から消えて行く最後の一瞬に抱いた違和感を、カルロスは確かめられなかった。
ただの降下によるだけではない、加速を併用しているのか、速度が速すぎる。それに、主翼後部の補助翼が大きく上に跳ねてはいなかったか。つまり、急上昇の予備動作である。
不意に、何かを感じた。咳き込むような音。高まるエンジンの唸り。開きっぱなしの無線を介する誰かの息遣い。そして背後に感じた気配。否、殺気。
それは曳光弾となって、カルロスの『斜め後上方から』降り注いだ。
「うああっ!!…くそ、あっという間に後ろを…!」
《やっぱり何乗っても並じゃねえ!…くそ、ウスティオ軍機へ!そっちに誘導する、ヘッドオンで仕留めてくれ!》
2発、3発。驚くほど正確な射撃が、カルロスの機体に弾痕を刻んでゆく。
おそらく、先の大尉の機動はローGヨーヨーとインメルマンターンの組み合わせだったのだろう。すなわち機首を下げて加速し、こちらとすれ違った瞬間に機首を上げて急上昇した後、死角となるこちらの斜め上で反転。あとは機体を水平へと戻し、ミラージュの強みである加速力の高さでもって一気に距離を詰めたという訳である。細かく減速や補助翼操作を組み合わせたのだろうか、普通ならば『ミラージュⅢ』で咄嗟にできる機動ではない。
警報が鳴る。機体がひっきりなしに振動する。先の戦闘でミサイルを撃ち尽くしたのか、一切ミサイルが飛んで来る様子がないことは救いだったが、いずれにせよこのままでは頑丈な『フロッガーJ』でも持たない。
逃れられるか。反撃できるか。今は乗機の装甲だけを頼りに、カルロスは唇を噛む。
来た。正面、F-16が3機。ウスティオの生き残り。先のニコラスの要請に従った、ヘッドオンからのミサイル一斉斉射の意図と見て取れた。
いち早く射線を開けなければいけない以上、最早編隊行動維持とも言っていられない。二コラスの『ホーネット』が左へ急旋回するのとほぼ同時に、カルロスも操縦桿を右斜めへと倒し、傷ついた『フロッガー』を右へと急旋回させた。
視界の端で相対する紅い『ミラージュⅢ』と、灰色の3機のF-16。数多の尾を曳く鏃が放たれ、銃声が短く空に響く。
自機の主翼に視界を一瞬遮られた後、再び目の前に現れた空。それは、カルロスの予想を裏切ったものだった。
夕日を背に映える焔、そして黒煙。健在な翼を翻す『ミラージュ』に対し、F-16は1機しか残ってない。
正面からもろに『ミラージュⅢ』の銃撃を浴びたのだろう、F-16のうち1機は、コクピットをズタズタに引き裂かれて墜ちていく所だった。そしてもう1機は堕ちた友軍機を心配した隙を突かれたのか、別の1機に正面から機銃を叩き込まれて同様の末路を辿っていた。後のF-16を仕留めた方は、唯一引き返してきたらしい『ホーク200』のうちの1機。機体側面の番号から察するに、最初にカルロスの攻撃を全て回避した、編隊中央にいた機体らしかった。
《な…。おいおい、何で戻って来たんだジョシュア。お前さんが無事に逃げ切らなきゃ全部パーなんだがな》
《袂を分けようと、友人たる君を失いたくない。それだけの理由だ。重症未だ癒えない君を、敵の只中に置いて行くことはできない》
《ジョシュア、って…おい、まさか!?》
「『ウィザード1』…!…くそっ!」
通信に混じった相手の声に、指が、胸が震えた。
ジョシュア大尉。かつてオーシアが誇るエース部隊『ウィザード隊』を率いる隊長として名を馳せ、後にクーデター軍『国境なき世界』の首魁として世界と対峙した男。『円卓』で例の『鬼神』に撃墜されたとのことだったが、その行方は知れずじまいになっていた筈である。つまり当初の司令部の予測通り、これは隠密裏に実施された『国境なき世界』幹部の亡命作戦だったのだ。
くそっ。予想以上にとんだ火種だったとは。
口内に呟きを噛み潰し、カルロスは機体を水平へ立て直した。既に生き残ったF-16は逃げ惑い、その背をウィザード1の『ホーク200』が執拗に追い詰めている。機体の性能差は歴然とある筈だが、友軍機を全て失い恐怖を抱いた心では、その性能を活かすこともままならない。あのままでは、遠からず落とされる。
逡巡は最早無かった。主翼最小角、高速体型。距離、目算で概ね1500。ニコラスの判断を待つ間もなく、カルロスは操縦桿を倒して、その2機へと機首を向けた。
《あ…お、おいカルロス!?》
「あのままじゃあいつが落とされる、フォロー頼む」
《おま、今の優先順位は……。…ああもう!》
ニコラスの声すら後ろに置いて、疑似デルタ翼を取った『フロッガー』が風を切る。死なない、死なせない。任務の範疇と相反しない限りそれを全うする。ジョシュア大尉やアルベルト大尉と比べれば、信念とすら言えないかもしれない小さな目標だが、それでも今は、カルロスが拠って立つ柱とも言うべきもの。それを胸に、カルロスはひたすら『ホーク200』への距離を詰めた。自分の腕では、ジョシュア大尉を落とすことは不可能に近い。だが、性能差にさえ頼れば、攻撃を妨げるくらいならばできるかもしれない。
機銃弾を撃ち込まれたF-16が、煙を上げ始める。距離1200、1000、800――。
《上だ!『ミラージュ』が来てるぞ!》
「っ!!」
ニコラスの声。アルベルト大尉の、直上からの奇襲。
普通ならば左への急旋回で回避する所を、カルロスは構わず直進した。音速を越える速度では、同航戦でもない限り機銃の射界に入るのは一瞬である。まして翼を畳んだ今の『フロッガー』なら、投影面積は常より小さく被弾の率も低いのだ。
機体を穿つ衝撃音、すぐ後方を下へ抜ける紅い機影。全てを捉える暇もなく、カルロスは照準器を覗き込み、6銃身30㎜ガトリング砲の引き金を引いた。狙いはF-16のすぐ後方、『ホーク200』の予想進路に当たる位置への偏差射撃。
《ちいっ!》
広大な有効範囲を誇る30㎜弾の破片から逃れるように、『ホーク200』が大きく左へと旋回する。流石に直撃弾は1発も無かったものの、破片が機体へ当たったらしいことは、無線に入り混じった舌打ちの音が物語っていた。
「あんたは逃げろ!後はサピンの方でなんとかする!」
《た、助かった…!すまん、後は頼む!》
《味をやるようになった。小面憎い程な》
煙を噴いたF-16が、北東へと進路を取って遠ざかってゆく。被弾が多く基地へはたどり着けないかもしれないが、ウスティオ領内へはなんとかたどり着けるだろう。残ったのは、互いに2機。当初の数が嘘のような、小さな小さな戦場だった。
《ジョシュア、もう先に行ってくれ。アンタが逃げおおせないことには任務が達成できん》
《そうはいかん。君の負傷では、これ以上の高機動戦闘には耐えられない。見捨てる訳には…》
《ジョシュア。…それは気にするな。俺の空だ、生き方は俺に決めさせてくれ》
《…………………。………私は、忘れないだろう。サピンの空に、君のような友がいたことを。…また会おう》
《ああ》
それは、二人の友が交わす今生の別れだったのだろうか。それとも、再起を期した誓いだったのか。最後に2機は束の間並走したのち、ジョシュア大尉の『ホーク200』だけが翼を翻して、国境線沿いに西へと進路を取っていった。よほどの急旋回をかけたのだろう、翼端に生じた細い飛行機雲が、夕日に映えて紅に染まっている。
《お、おい、逃げちまうぞ…!》
「ニコラス、ジョシュア大尉を追ってくれないか。ここは俺が持たせる」
《んな、無茶言うなよ。さっきだって旧式1機にお前…》
「頼む」
《…あーもー何だってんだよ今日は!いいか、危なくなったらとっとと脱出しろよ!》
いつもの憎まれ口一つ、ニコラスの駆る『ホーネット』は旋回し、ジョシュア大尉が飛び去った西の空へと鼻先を向けていった。徐々に東の空が薄暮に包まれつつある頃合いである、暗みを帯び始めた山間に、『ホーク200』の機影は辛うじて見定められるほどにまで小さくなっていた。アルベルト大尉は、ニコラスの背を追う素振りも無く、ただこちらと対峙している。
夕日の朱に染まった、山間地帯の空。2つの機影は大きな弧を描いて旋回し、紅い太陽に黒い機影を映えさせる。
しばし、静寂が空を満たした。
《強くなったみたいだな、ボウズ…いや、カルロス。お前なりの戦い方が、信念が見て取れるようになった》
「…たぶん、俺一人じゃ今も半人前のままだった気がします。隊長、アルベルト大尉…この戦争で出会った、全てのエース、全てのパイロットのお蔭で、ここまで生き残って来た結果かもしれません」
《そうか…。……カルロス。『あの時』の答えは出たか?》
アルベルト大尉の声、そして微かにそこに入り混じる、苦痛を耐えるような息遣い。その中にも確かにある意志と信念に、カルロスは『あの時』のことを思い返していた。
『あの時』――そう、エスパーダ隊がオステア空軍基地を脱走し、その追撃にカルロス達が当たった時の事。当時僚機だったカークス軍曹やフィオンが次々とアルベルト大尉への同行を明らかにした中で、大尉はカルロスへも問いかけたのだ。国境のない自由な空を得る戦いのため、ついて来ないか、と。
あの時、カルロスは確かに迷いを抱いた。同行するかどうかの迷いというよりは、戦うことの意味、その背景にある理想や信念というような、自ら拠って立つものを定めていないがゆえの迷いとでも評すべきものだったが、いずれにせよ自らの進路を自分自身で決められなかったのだ。
しかし、その理想を掲げていた『国境なき世界』は既に無く、首魁たるジョシュア大尉すらも身を隠す有様である。今更その理想の是非を説いた所で、最早ナンセンスでしかない。理想を掲げても、それを実現するものは既に潰えたのだ。
おそらく、アルベルト大尉もそれは十分承知の上で言っているのだろう。そこには言葉以上の、何かを確かめようとする響きすら感じられた。
「俺には、大きな理想とか、信念とか…そういうものは、どうも大きすぎてピンとこないみたいです。それに、信念や理想を信じる余り、自ら死に向かっていく様もずいぶん見て来ました。…俺が戦う意味は、そんな大それたものじゃなくていい。たとえ無様な戦い方でも、自分も死なないし、仲間も死なせない。そんな小さな、ありふれたもので十分だと思うようになりました。」
《……》
「自由な空っていう、大尉の想いも分かる気がします。でも、どうしても俺には大きすぎて、やっぱり呑み込みきれないんです。――だから。俺は、『国境なき世界』の信念の下で、戦うことはできそうにありません」
言い切った。思いを、小さな信念を、カルロスは自ら確かめるように口にしていた。
結果としては、大尉の誘いを蹴るという、いわば断絶。しかし、カルロスの心にはそのような思いは浮かばず、むしろどこか繋がりをすら感じていた。言うなれば、信念を持つ者同士の、無意識の心の紐帯とでも言うべきものだろうか。
ふっ。通信に混じった苦笑のような吐息、そして激しく咳き込むような音。今度は、液体が零れるような音が確かに混ざっていた。
《ははっ、今更言っても仕方が無いことだったか。…いや、いい。聞いてみたかっただけだ。…一航過だ。いいな?》
「…はい」
最終幕の合図は、たったそれだけの短い言葉だった。もはや、言葉を交わさなくとも、その意図は痛いほどに分かった。
操縦桿を引く。互いの旋回半径が一気に狭まり、横合いの旋回を重ねたまま距離を詰めてゆく。旋回の直径は、相対距離で見て概ね1500。互いの鼻先を向け合い、一挙手の加速さえかければ、それだけで機銃の有効射程に入る距離である。
それはまるで、一騎討ちの騎士が、互いに馬を馳せて闘技場を廻るような、生と死の円環。今までヘッドオンでの戦闘は数多経験してきたとはいえ、このような戦いは初めてだった。
幾度かの旋回を経て、真東に位置取った『ミラージュ』が機首を上げる。それに呼応し、カルロスも操縦桿を引いて機体を紅の翼の方へと向けた。
夕日を背にしたカルロスと、紅の太陽へ向かうアルベルト大尉。距離は瞬く間に1000を、800を、有効射程限界を切ってゆく。
引き金にかかった指が引かれる。
機体が唸り、射線が奔る。
選択は、正確な連装23㎜2基4門。
4筋の射線に、正面からの1筋が交差する。
機体が風を孕む。
夕日を浴びた紅の機体が視界一杯に広がる。
空を切り馳せ違う、その一瞬。息が、風が、時が止まったように、カルロスは感じた。
肩に痛みが走る。左翼が、煙の尾を曳いている。それでも心臓は、自分と機体は今だ鼓動を続けている。
操縦桿を引き、反転して見上げた先。そこには、機体色よりも赤い炎を纏った、紅の機体があった。
《はは…グラティサント上空とは、違う結果になったな。腕を上げたもんだ》
「…大尉…!!」
どうして、とは言わなかった。
わざわざ夕日へと向かう位置で勝負を挑んだ意味。そして機銃門数で圧倒的に勝るMiG-27Mに、正面からのヘッドオンを仕掛けた意味。それを口にする必要すら、最早無い程に分かっていたのだから。
《…はは、笑っちまう話だがな。自由な空ってのは、俺の心からの信念だった。だが、同じ理想を掲げた組織に入ったら入ったで、なんか違うと思っちまったのさ。大きな信念乗っけた分、翼が重くなっちまったのかな。お蔭で『鬼神』に痛い目に遭ったよ。言ってしまえば、これもそのツケかもな》
「…!そんなこと…!」
《いいさ、もう終わったことだ。……つまりは、だ。理想だ信念だと言った所で、結局は自分一人の物だ。それを曲げられないでいられるか。空から、見ててやるよ》
「――……」
《…あばよ》
別れの言の葉。それが、カルロスには残酷な程に感じられた。
一瞬交わった眼。それを残して、アルベルト大尉の『ミラージュⅢ』は機首を上げ、空を目指して急上昇していった。空を愛し、空に生きる。死ぬときも、けして地には墜ちない。それを体現するかのように、紅の三角翼はぐんぐんと昇ってゆく。沈みゆく深紅の夕日を照り返し、その身を命の色に染めた翼が天を指して昇る様は、この世の物とは思えない程に悲しく美しい。
それは、信念の色だったのか。そして、男の生き様の色だったのか。
紅の軌跡は、空を指して、崇く昇って――やがて、炎の中に消えていった。
「…今まで、ありがとうございました、大尉。本当に。…本当に――」
照り返しで紅に染まったコクピットの中で、カルロスは空を見上げ、敬礼を贈った。
涙も、後悔も最早ない。ただただ自然と浮かんだのは、感謝という思いだけだった。
黒く染めた翼端が、夕日の中に翻る。
沈みゆく紅の夕日の反対側、東の空には既に、夜の黒色が滲み始めていた。