事の起こりは、サイジェントの港で。
最初はそりゃあもう天地がひっくり返ったかのような騒ぎだったけれど、それも船が聖王都に着く頃には、ほぼ全員が納得――というか、あきらめというか――して落ち着いていた。
ただ一人を除いては。
後日の再会を約して、仲間たちが三々五々と散った後、大きく伸びをしていたトリスが息をついた。
「さて、まずは派閥へ行かなくちゃ」
「そうだな。ラウル師範にも次第を報告しておかないと」
背後からの、軽い口調の賛同。
彼女の分まで荷物を持った兄弟子を、トリスは冷や汗混じりに振り返った。……いや、今は『兄弟子』ではない。
「……ネス」
「なにかな? ご主人様」
にっこり、という形容でしかあらわしようがないこの表情は、明らかにここ数日でネスティが身につけた技である。対トリス用の。
あからさまに反論を封じている態度に、トリスは軽いめまいを感じた。
「……せめてその『ご主人様』だけはやめてくれない?」
「何を言っている。誓約を済ませた召喚獣にとって、誓約相手の召喚師は『主人』以外の何者でもないんだぞ。君と誓約したことによって、僕は君の護衛獣になったんだ。その君を『ご主人様』と呼んでどこが悪い?」
もともと弁の立つネスティである。理路整然と説くふりでトリスを煙に巻くことなど、彼にとっては造作もない。まして今は煙に巻くつもりで喋っているのだから、彼女に勝ち目があるわけもなく。
トリスがへろへろと混乱する頭を振った。
「ええと、そうじゃなくて……だから、あたしが言いたいのはね……」
頭の中で、自分の言いたいこととネスティの勝手な言い分が混ざって、わけがわからなくなってしまったらしい。ようやく立ち直ったあたりで、ぴしりと指を突き立てた。
「ネスが、あたしの護衛獣になるのは認めるわ。あたしも納得して誓約したんだしね。でも、派閥の中で『ご主人様』の連呼をするのや、護衛獣になったことを吹聴するのはやめてよね」
元・妹弟子の珍しく整然とした物言いに感心しつつ、ネスティが首を傾げた。
「どうしてだ?」
わざと聞いているのか、トリスをからかうために聞き返しているのか、とりあえず表情からは推察できない。聞かれたほうは、相手の真意をさとりかねて言葉に詰まった。
「どうしてって……」
「ご主人様、と呼ぶ理由は、さっき言った通りだ。まあ、最初は耳慣れないかもしれないが、今まで名前を呼んでいた代わりだと思えばいい。だが……」
「だったら! 今までどおり名前を呼んでちょうだい」
無理やり相手の話に割り込むのはトリスらしくないが、彼女としても必死である。
一方のネスティは、『主人』の申し出に不服そうな顔で眉を寄せた。
「僕としては『ご主人様』のほうがいいんだが……」
「なんで?!」
「やはり『主人』と『護衛獣』だからな。君にかしずくのも面白そうだし?」
眉目秀麗なネスティが意図して極上の微笑を浮かべると、そこいらの王子様なんぞめじゃないほど優艶な表情になる。免疫のないトリスが太刀打ちできるはずもない。
「ふっ、ふざけないでよね!」
「ふざけているつもりはないぞ?」
「つもりがあろうとなかろうと駄目!!」
真っ赤になった顔で睨みつけても、ただ可愛いだけである。彼的には全然こたえていないのだが、あまりからかってすねられるのもなんなので、ここらが潮時と降参したネスティだった。
「わかった。連呼はしないようにする。だが吹聴するなとは?」
他意のない聞き返しに、トリスの表情が曇った。
「……秀才のネスが落第生のあたしの護衛獣なんて、いい物笑いの種じゃない」
「トリス……」
「嫌なのよ。あたしがどうこう言われるのなんて、どうだっていいけど、ネスまで嘲笑われるのは嫌」
唇を噛んで俯いた少女は、両脇に垂らしていた手を硬く握った。
「そんなの、絶対、嫌」
指の先が白く見えるほどきつく握り締めた手を、ネスティがそっと取った。
「トリス」
「落ちこぼれのあたしの、そのまた護衛獣だなんていったら、あいつら絶対ネスのことを馬鹿にするわ。あんな、家名だとか血統だとか、そんなことしか頭にないような連中に、ネスが軽く扱われるのなんて耐えられない」
凛とした紫藍の瞳に、涙が浮かんでいる。
「だから、約束して、ネス」
生真面目なほどに一途な少女。
彼女だから、護りたいと思った。
護衛獣だなんて茶化してみせて。
名目は、なんだってよかった。
彼女が傷つかないよう守れるのなら、立場なんてどうだっていい。
でも、そんなことはこの少女は許さないのだろう。
その想いが、嬉しいと思った。
「約束しよう」
小さな手を押し戴くように、跪く。
「奴らにつけ込まれるような真似はしない。僕が君をおとしめるために悪し様に言われるならば、こんな腹立たしいことはないからな」
「ネス……」
淡く笑む少女の手に、自分の額をあてる。
「君が望むかぎり、君と共に歩もう。君を守り、君と共にあることが、僕の至福だ」
それは、護衛獣としてではなくて。
もうずっと昔から、自分の望んでいたことだから。
どんなことがあっても、変わらない願い。
「一緒に、歩いていこう」
「うん。一緒にね」
新しい物語は、ここからはじまるのだから。
END
過去サイトで、相互リンク記念贈呈品でした。