二番煎じもいいところかもしれないネタですが、一回はやってみたかったネタです。主人公はなんと艦娘ではなく専業主婦。それどころか艦娘もほぼ出てこないから、ちょっと癖のある内容かも?

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専業主婦とチビヲ級

 

 

「あなたー、お弁当持ってきたわよー」

 

 と言いながら一人の女性が目の前の扉を開けて部屋の中に入る。部屋の中のデスクの前に一人の男性がクリップボードに張り付けられた紙に走らせていた万年筆を止め、来客に笑顔を向ける。来客は彼の妻であり、その手に握る紙袋の中には今朝持っていくのを忘れてしまった手作りのお弁当が入っていた。

 

「おう、千夏。ありがとう。ちゃんと鞄に入れたつもりだったんだけど、まったくいかんな」

「だから目視確認をしなさいっていつも言ってるでしょ? そんなんじゃだめよ」

 

 はいどうぞと千夏と呼ばれた女性は夫に弁当を手渡す。これは彼より一時間早く起きて作る特性愛妻弁当である。いつもなら健康第一のおかずとご飯の上に海苔を一枚載せる程度に収めているのだが、忘れたと知るとすぐさま調理用ハサミを取出し、海苔を刻んでハートマークに仕上げ、白飯の上に置いておいた。彼が同僚の前でこの弁当を開くのが楽しみである。

 

 彼女の名前は新妻千夏(にいいづま ちか)。二十五歳専業主婦である。

 

「じゃあ私はまだ家事を残してるから帰るわね」

「ああ、手間かけたな。今度美味しいものでも食べに行こうか」

「ふふふ。ならちょっと高いものでも頼もうかしら?」

「お手柔らかに頼むよ」

 

 と、夫は苦笑する。そんな彼に笑みを浮かべ、千夏は手を振って部屋を後にした。

 

 廊下に出れば賑やかな声を響かせながら女子学生たちが廊下を行き来している。その中には船の煙突を背負った者、手にミニサイズになった軍艦の主砲を持つ者もいる。そう、ここは艦娘の士官学校である。

 

 現在艦娘士官学校は全国に複数点在しており、そのほとんどが深海棲艦の活動が少ない日本海側に置かれている。ここは比較的最近に開設された士官学校で、まだまだ芽の新しい少女たちが日々勉学と訓練に励んでいた。

 

 千夏が結婚した際、夫はこの新しい士官学校の教官へと就任し、二人で一緒に学校近くへと引っ越してかれこれ数年。開校初期からこうして夫に物を届けに行くと何かと縁はできていき、最初は門の憲兵、次は事務室の中年女性、そして艦娘候補生たちと顔見知りになり、今や顔パスで入れるくらいになってしまった。だから一民間人である彼女がこの施設に入ったとしても特に何も言われず、むしろ歓迎をされるくらいだった。現に、千夏に気が付いた女学生が彼女に手を振りながら走り寄ってきた。

 

「千夏さんこんにちは!」

「こんにちは。今日もみんな元気ね」

「はい! 毎日すこぶるいい調子です! 千夏さんはもしかして教官とお惚気ですか?」

「違うわよ、忘れ物届けに来ただけ。大人をからかうんじゃありません」

 

 こつん、と千夏は女学生の額に凸ピンを決める。直撃を食らった学生はほんの少しのけ反るが、すぐに体勢を立て直して笑顔を向ける。

 

「はーい! じゃあまたね!」

 

 彼女は友達を率いて元気に走り去る。そんな学生たちの背中を見ながら、千夏は手を振って今度こそ家に帰ろうと歩き出す。ここから自宅まで海辺を走るバス一本でいけるが、少し時間をかければ歩いてでも行けるので、のんびり歩いてもいいかなと考える。

 

 士官学校の門番である憲兵に会釈し、敷地から出ると目の前にあるバス停の時刻表を確認する。次が来るまで約二十分。お昼時には本数が少なくなるから歩いても大差ないだろう。ふむと鼻を鳴らしながら、千夏は足を自宅に向けた。

 

 時刻は昼を少し過ぎた程度。昼食はまだである。若干の空腹感は家に帰るころにはより大きくなっているだろう。空腹は最高のスパイス、ご飯が一段と美味しくなるに違いない。

 

 砂浜に寄せられる心地の良い波の音が鼓膜を叩く。海から香る潮の香りはすっかり鼻に染み込んでしまい、一度吸い込めば住み慣れた自宅の生活臭に似た安心感を覚える。この土地で生活を始めてもう五年以上になると思うと、長いような短いような複雑な気分になる。

 

 たまには砂浜に降りてみるのもいいかもしれない。千夏は近くにあった石造りの階段から砂浜に降り立つと、スニーカーを脱いで裸足になる。長い時をかけて細かく砕かれた砂が彼女の足をそっと受け止めた。本日晴天、波低し。心地よい風を受けながら千夏は海岸沿いに歩き始める。

 

「……ん?」

 

 歩き始めて直ぐだった。前方に何かが打ち上げられているのを発見する。見たところ一メートル程度の大きさで、何か黒い布に覆われたような外見だった。そしてその布から、足らしきものが見え、千夏は悲鳴に近い声を上げる。

 

「うそっ!?」

 

 足が見える、ということは人である可能性が高い。それも背の高さからして子供だ。一体なぜこんなところに? いや、それよりも助けなくてはならないと足を速める。距離が近づくにつれて同時に不安もよぎる。もし、あれが息のない遺体だったとしたら……。

 

 すぐさま駆け寄り、一瞬ためらうが黒い布をめくり上げる。見えたのは背中だった。しかも幸いなことに肩がわずかに上下し、呼吸していることが確認できて思わずほっとしてしまう。だが問題は次だ。黒い布だと思っていたものはよく見ると首元につながっており、衣服の一部だと理解できる。おそらくマントなのだろう。が、その衣服がどうも今現代の子供が着るとは思えないぴっちりとした白いボディスーツのような素材であるため違和感を覚える。

 加えて、千夏はその衣服に見覚えがあった。足とは反対方向、恐らく頭部と思われる場所に目を向ける。黒い帽子のようなものを被っており、そこからアクセサリーか装飾かはわからないが白い触手なようなものが出ていた。

 

「まさか……」

 

 今度は違う意味で不安になる。だがこのまま放っておくのもよくないだろう。だから千夏は意を決して体をひっくり返した。

 

「ヲ……」

 

 と、わずかに声を漏らしながら「それ」が目を開ける。その姿を見て千夏は確信する。帽子の左右にギロリと光る青い目。その下には大きな口を彷彿させる歯。そこから覗く白い顔。

 

 深海棲艦正規空母ヲ級である。ただし、ミニサイズ。

 

「な、なんでヲ級が……!?」

 

 この短時間でとんでもない密度の情報が脳に入ったおかげで千夏はそこから先どう動いたらいいのか分からなくなる。深海棲艦、要は人類の敵だ。その正規空母ヲ級がこうして人間の集落近くに現れた(打ち上げられていた)となると、すぐさま対応が必要になる。

 だが、先も述べた通りこのヲ級はミニサイズ。人間でいえば三歳児程度の大きさであった。容姿も幼く、意識はあるものの何が起きたのか理解できた様子はなく、やや衰弱気味に見受けられたため、すぐに通報という考えも浮かんでこない。

 

「ヲッ……ヲ……?」

 

 ヲ級の視線が千夏の瞳をまっすぐ捉える。しかしヲ級は首をかしげるだけで何もすることはない。よく見かける大人の体をしたヲ級なら容赦なく艦載機を飛ばしてくるだろう。

 

 だが、このヲ級は何もしない。ただ疲れたかのように瞼を下ろし、一呼吸すると。

 

―ぐぅううぅうう……―

 

 と、盛大にお腹の音を鳴らした。

 

「……えっとお腹空いてる?」

「ヲ……」

「あなた、言葉は喋れる?」

「ヲォ?」

「……まいったなぁ」

 

 人間の言葉が話せる様子はない。こちらの言っていることが理解できているのかも分からない。今のところ害はなし。けど放置しておくのもよくない。一瞬仲間が近くにいるのではと思ったが、やや衰弱している、空腹、だという点を踏まえると結構な時間ここにいたことになる。仲間がいるならさっさと回収されているだろう。

 

 そして千夏を戸惑わせる最大の理由。それは、このヲ級が人間の子供と全く変わらないということが最大の原因であった。彼女が次に起こす行動はそう長くない時間で決まった。

 

 

 

 

「……連れてきちゃった」

 

 千夏はヲ級の向かい側の椅子に座って頭を抱える。世話好きでどうしても放っておけない性格でちょくちょく捨て猫や迷い犬を家に連れ帰ったりしていたが、まさか深海棲艦をも連れてくるとまでは本人も思っていなかった。

 

 そんな彼女の悩みを知らないヲ級は差し出されたご飯をありったけ口に入れ、もぐもぐと噛み締めて飲み込む。続けて千夏が急きょ焼いた秋刀魚に手をかけると、やや不思議そうな顔になりながらもそれをなんと丸ごと口に入れる。骨とか痛くないのだろうかと思うが、難なく飲み込んでご飯を一粒残さず食べてからお茶を飲む。その表情は満足そのもの。お腹をぽんぽんとさすり、背もたれに体重をかけて幸せそうな表情だった。こうしてみるとお腹の空いていた子供と全く変わらない。本当にこの子が人類史上初確認の正規空母ヲ級なのだろうかと疑いたくなる。

 

 ひとまず食器を片付けて、再びヲ級と向かい合う形で座るともう一度対話を試みることにした。

 

「ねぇ、あなた名前はなんていうの?」

「ヲ?」

「名前。私の名前は新妻千夏よ。あなたは?」

「ヲ~キュッ!」

「どう聞いてもヲ級ね……」

 

 どうしたものかと千夏は項垂れる。ヲ級はそんな彼女を不思議そうな顔で覗き込む。その仕草は小さな子供が「どうしたの?」と聞いてくるようで、感情などは一緒なのだろうかと憶測してしまう。

 

「ヲ~?」

 

 つんつんとヲ級がミニサイズの杖で腕を突く。幸いなことに攻撃的な様子は一切見受けられないため、今の段階で危険は感じなかった。それに正直な話、こうやって何かに対して興味津々と覗き込むその仕草が可愛く見えてきた。

 

「そうねぇ……とりあえず次は……」

 

 ヲ級に顔を近づけてすんすんと匂いを嗅ぐ。相当きつい、というわけではないがヲ級からは潮の香りと生臭さを感じる。このまま家に置いておくと家が魚屋さんのような臭いになるのは時間の問題だろう。

 

「シャワー浴びよっか?」

「ヲッ?」

 

 ヲ級は「なにするの?」と言いたそうな顔をしていたが、千夏が手招きすると素直についてきた。ご飯を食べさせてもらったから懐いているのかはどうか分からないが、素直なのはありがたかった。

 

 脱衣所に到着して蛇口を捻る。その間にヲ級の服を脱がそうとしてそこで手が止まる。

 

「……これ、服なのかしら?」

 

 思えば深海棲艦の一部は服を着ているか分からない個体がいる。一応ヲ級はボディスーツを着ているのではないかと言われているが、これを一体どう脱がせばいいのか分からなかった。

 

 しばしの思考の後、千夏はまず帽子を外せるか試すべく、手を伸ばしてみる。思っていたよりもあっさり取れた。生体部品というわけではなさそうだから一安心する。

 

「ヲ級ちゃん、服脱いで」

「ヲ?」

「こうするのよ、こう」

 

 ヲ級が見つめる前で自分の着ているシャツに手をかけて上半身を曝け出す。どう? と目線で問いかけると何をするのか理解したヲ級は、自分の着ていた服を脱いだ。なお構造については読者の想像にお任せする。

 

「脱げるのね、それ」

「ヲ!」

 

 自身も服を脱ぎ、改めて千夏はヲ級の全身を確認する。外見上は肌が白いこと以外は人間の構造と何ら変わりはなかった。噂で深海棲艦は轟沈した艦娘の体を使って建造されていると噂されているが、それだとこのヲ級はどう説明すればいいのだろうと彼女は思う。まさか海難事故で無くなった子供の体を使っているとでもいうのだろうか。

 

「ヲヲ~!」

 

 考えに耽っていると、ヲ級がバスルームを満たす湯気とシャワーから出るお湯見て目を輝かせていた。深海棲艦はお湯を見たことがないのだろうか。こうも新鮮な反応をされると次々に興味が沸き上がる。

 だが、今は保護者として振舞うべきだと思いなおし、ヲ級をバスルームに入れると、脱いだ服をすべて洗濯機の中に入れてスイッチON。と、そのときだった。

 

「ヲ゛ゥッ!!? ヲ、ヲヲーーーーッッ!!」

 

 ヲ級が突如悲鳴を上げて脱衣所に飛び出してきた。いったい何事かと千夏は身構え、走り回るヲ級を視界から離さないようにとどうにか追いかける。

 だがパニック状態のヲ級は脱衣所のドアを乱暴に開けるとそのままリビングに飛び出す。なんという速さ、駆逐艦島風が見たら腰を抜かすだろう。

 

「ってそうじゃない! 待って、どうしたの!!」

 

 千夏も大慌てで外に飛び出しヲ級を追いかける。開け放たれた寝室を覗き込み、ようやくとまったヲ級がベッドの上で涙目になっていた。

 

「もうどうしちゃったの? なにか怖いものがいた?」

「ヲキュ……」

 

 ヲ級がそういって手を差し出す。何かを触ったというのだろうか? しかしこれだけではどうも分からないため、そっと抱き上げて浴室へと向かう。近づくにつれて、肩にしがみつくヲ級の力が強くなっていった。

 

「お湯が怖いの?」

「ヲ……」

 

 じっと視線を一点に向けるチビヲ級。その先にはシャワーから湧き出るお湯があった。そこで千夏はピンと来る。ためしに流れ出るお湯に触れてみると、手を引っ込めたくなるような温度だった。

 

「なるほど、お湯が熱かったの。ごめんね、すぐに調整するから」

 

 一旦ヲ級を脱衣所に下ろし、蛇口付近にある温度を調整する摘みを回して待つこと十数秒。お湯は温めになり、子供が触れても問題ない程度の温度になる。

 

「さ、もう大丈夫よ。触ってごらん」

 

 千夏がお湯に手を触れて害は無いと説明する。ヲ級はまだしばらく警戒していたが、手が差し出されるとそっと握り、浴室へと入る。そして恐る恐るシャワーから出るお湯に触れた。

 

「……ヲ?」

 

 あれ、さっきと違う。そんな感じの反応を示し、ヲ級は両手でお湯に触れてみる。なんで暖かいんだろう。そう言いたげな彼女は思わず千夏の顔を見上げた。

 

「大丈夫でしょ? さ、頭洗ってあげるから、そこに座ってね」

「ヲッ!」

 

 どうやら安心しきってくれたようで、ヲ級は素直に椅子へと座る。ひとまず難関はクリアしたかと安心し、シャワーヘッドを握るとお湯でヲ級の髪をじっくり濡らしていく。

 あらかた濡らしたところでシャンプーを手に取り、泡立てると髪の毛に染み込ませていく。ただ、海水に浸ってギチギチになっているかと思われたヲ級の髪の毛だったが、触ってみると意外とさらさらしており、青みのかかった銀髪は奇麗な印象だった。

 

(んー、深海にいるわけだし、水圧や低温度に耐えるバリアみたいなものでもあるのかしら? だとしたらさっきお湯にびっくりしたのも、お湯そのものに触れたことが無かったから、って可能性もあるわね。でもそれなら臭いも防ぐくらいの機能もあればいいのに)

 

 その時である。突然ヲ級がじたばたと暴れ出し、思わず飛び退きそうになってしまう。今度はなんだ? 一瞬身構えるがすぐ原因に気づく。

 

「ヲッ! ヲヲッ!」

 

 ヲ級は瞼を下ろしてごしごしと目をこする。そのしぐさを見て目にシャンプーが入ったのだと察し、慌てて顔をのぞき込む。

 

「ああっ、擦っちゃダメよ!」

 

 大急ぎで風呂桶の中にお湯を溜めてヲ級の顔をその中へ入れる。意図が伝わるかどうか不安はあったが、しばし桶の中に顔を入れてやがてほっとしたように顔を上げた。

 

「よし、大丈夫。ごめんね、シャンプーしたことなかったのね」

「ヲ~……」

 

 ヲ級はじっとシャンプーのボトルを見つめる。初めての痛みで相当驚いたに違いない。現に怪訝そうな顔でシャンプーボトルをにらんでいた。もしかしたらシャンプーに苦手意識を持ったのかもしれない。子供の時にこれを経験すると、結構長く引きずったりするから厄介である。

 

「ヲ級ちゃん、とりあえず頭流すわよ。今度は目を閉じててね」

「ヲゥ」

 

 機嫌が悪くなる前に早く済ませるべく、ヲ級の頭を徹底的に洗い流す。これが終われば次はボディソープだ。このまま無事に終わってくれればいいのだがと千夏は思う。

 

 結果として、ヲ級はその後素直に従ってくれて無事にシャワーを終えることができた。ごしごしと水滴をふき取り、心なしかきれいになったような気がして千夏は満足する。ヲ級自身も自分の体から香るボディソープの匂いに興味津々で、心地よさそうな顔だった。なんとか普通の生活はできそうだと安心する。

 

「あ。この子の着替え、どうしよう……」

 

 ただ、この先様々な問題にぶち当たる可能性はとても大きかった。

 

 

 

 

 衣服についてはどうにか自分の学生時代の体操服をクローゼットの奥から見つけたが、やはり見た目三歳児程度のヲ級にはぶかぶかで、シャツ一枚で上から下までを覆い、ずるずると引きずる形になってしまった。

 

 日はぐるりと回って夜になり、時刻は午後八時を過ぎていた。そろそろ夫が帰ってくる時間帯である。そう、この先一番の問題は夫に今この状況をどう説明するかである。艦娘士官学校の教官である夫がこのことを知ったらどんな反応をするのだろうか。ひとまず驚くのは万国共通だろう。そこから冷静になるかなれないかで展開が大きく変わるのは間違いなしだ。

 

「ヲー……」

 

 そんな心配をする千夏をよそに、ヲ級はテレビ番組を興味津々で見ている。まるで昭和時代に初めてテレビが登場し、それを食い入るように見つめる子供の様であった。こんな姿を見ていると時々ヲ級が人類の敵であるということを忘れそうになる。

 

「ただいまー」

 

 そんなタイミングで、夫がついに帰ってきた。体が跳ね上がりそうになったがぐっとこらえて、ヲ級に「いい子だからここで待っててね」と言い残すと玄関へと飛んで行った。

 

「おおおおおおかえりなさい! お疲れさま!」

「ありがとさん。まったく今日も疲れた疲れた。今年の子たちはおてんばで目が回る」

「子供が元気なのはいいことよ! えっとね、それでね……」

「ん? お帰りのチューか?」

「そうじゃないの! なんというか、相談があってね」

「あ、わかったぞ。お前また猫拾ってきたな!」

「いや、違うの! 猫じゃないわ!」

「じゃあ犬か!」

「犬でもない、というか動物ではないわ!」

「だったらなんだ?」

 

 と聞かれれば返答に困る。いざ言おうとなると頭が真っ白になって声が出なくなってしまう。つい世話焼きで家に連れてきてしまったが、ある意味人類史上初のヲ級と対話という偉業を成し遂げたのだ。ただ、裏を返せば大問題でもある。民家に深海棲艦を匿っていた、なんて報道されればたまったものではない。

 

 どこからどうやって説明しようか迷う千夏だったが、そんな彼女の焦りがトランザムの如く加速することになるのはこの三秒後のことである。

 

「ヲっ!」

 

 なんとさっきまでテレビを見ていたヲ級が現れたのだ。玄関で並ぶ二人を交互に見つめ、千夏の夫の方に目を向けると「誰?」とでも言いたそうな顔で首を傾げた。汗が滝のように落ちる。夫とヲ級は完全に目が合っている。

 

「……千夏、お前」

(ああ。現実って非情ね)

 

 千夏は次に降りかかる言葉を覚悟する。もしかして最悪離婚まで言い渡されるのだろうか。そんなのは御免である。そろそろ子どもを作ろうかという話だってしていたのにこんなところで終わりたくない。まずは対話だ、クアンタムバーストだ。そのためにはより冷静に偏見を生まない説明をしなくてはならないのだ。

 

「ご、ごめんなさいあなた!」

「お前……いつの間に……」

 

 ぷるぷると夫の方が震えていた。ああ、怒っている。さらば私の夫婦生活。慰謝料はいくらになるのだろうかと思った彼女に降りかかった言葉は。

 

「いつの間に俺との子供を産んだんだ!?」

「ごめんなさい、実はついさっき海で…………え?」

「なんだと!? ついさっき海で産んだのか! いやだがお前に似て元気に育ってるじゃないか! おいでおいで、パパでちゅよ~」

 

 夫はしゃがみこんで両手を広げ、唇をむっちり突き出してヲ級を呼び込む。しかし見知らぬ人間からいきなりそんなことをされれば警戒するもので、現にヲ級は千夏の足にすがりついて警戒心をむき出しにしていた。

 

「いやぁ参ったな。いつも帰るの遅いからすっかりママに懐いちまったんだな。こりゃ土日の家族サービスも徹底しないと」

「え……っとぉ?」

「うし、とりあえずメシだ。千夏、残り物でいいから温めてくれ。俺はわが娘と親睦を深めようじゃないか」

 

 そういいながら夫はヲ級を抱っこすると高い高いをして遊ぶ。突然のことにヲ級はやや混乱気味だったが、すぐに敵意はないと知って笑顔になって本当の親子のようにじゃれ合う。

 

 しかしこうなると思考が追い付かないのは妻である千夏だ。今まで自分の考えてきたことが馬鹿みたいに思えて思わずその場に座り込んでしまう。リビングからは楽しそうな声。きっと娘が一人いればこんな家庭になったのだろう。

 

「おーい、千夏ー? ご飯作ってくれないのかー?」

「あっ、今行くわ!」

 

 ひとまず夫の言う通り、夕食を作ろう。そう思いなおして千夏は立ち上がると台所へと足を向けた。

 

 

 

 

「ま、冗談はさておいてだ」

 

 夕食と風呂を済ませ、ヲ級が眠ったところで夫はリビングの机に千夏と向かい合う形で座りこむ。この旦那、約九割の親ばか精神と残りの一割の演技力で見事にヲ級のハートを掴んで手懐けていた。

 

「状況は大体理解した。打ち上げられていたヲ級は子供と同じで敵意もなし。よって保護をしてきたということだな」

「ええ……ごめんなさい」

「まぁ褒められた事じゃ無いが、完全に間違った判断とも思わない。深海棲艦と言えど、攻撃もしないただの子供だと来れば状況は変わる。もしお前以外の人間に見つかれば酷い目に遭っていた可能性も高いからな」

 

 夫はヲ級が寝ている寝室のドアに目を向け、つられて千夏も首を曲げる。

 

「仮に鎮守府大本営関係に見つかればよくて実験材料、悪くて拷問かのどちらかだ。上はなりふり構っていられないだろう。だが子供は子供。深海棲艦側に慈悲がないとしても、俺たちがその慈悲というものを見せつけて対話するという戦略が取れる。見たところあの子は害もなさそうだし、今のままでいいだろう」

「うん……」

「しっかし、お前のお節介は知ってるけど、ここまで来るともはや芸術だよなぁ」

 

 やや呆れた顔ではあったが、それでも微笑んでくれる夫の目は優しかった。その目を見て千夏はやっと救われた気がしてほっと溜息をつく。

 

「ありがとう、あなた」

「なーに。もう十年以上の付き合いなんだ。お前のことはよくわかってる。だからもっと俺に頼れ。昔お前が俺にそう言ったようにな」

 

 そういって夫は千夏の手を握る。ごつごつしたその大きな手は、昔と変わらずとても頼りがいのある物だった。それをそっと握り返し、千夏はやはりこの人と結婚してよかったと心から思う。

 

「さて。そうと決まればこれからどうするのかを考えないとな。まず、しばらくヲ級はこちらで保護する一方で観察。もしこちらの言葉を理解、話せるようになる見込みが出たら俺のコネクションで信用できる上側に相談を持ちかける。それまではここで匿おう。それでだ。匿うに当たっておそらくもう一人くらいの協力者が必要になると踏んでいる」

「そうね。私たち二人だけじゃ厳しくなるのは目に見えているし……」

「頼むにしても、信用に足る人物でなければならない。俺たちの知り合いの中でより長い付き合いで信用できる人物といえば……」

 

 腕を組んで思考に入る夫。千夏もまた自分の身近で最も信用できる人物は誰かと考え、一秒もたたないうちに一人浮かぶ。夫も千夏とほぼ同時に何か思い立った顔になり、二人の目があった。

 

「麻衣ちゃんかなぁ」

「麻衣しかいないでしょうね」

 

 うんうんと二人の意見は一致する。そうと決まれば話は早いと千夏は電話を取り出して「麻衣」と書かれた電話帳を開き、ボタンを押しこむ。数回のコール音の後、通話状態になって「はい」と返事が来た。

 

「あ、麻衣! 元気してた? ごめんねこんな夜遅くに。ちょっと相談したいことがあるの」

 

 

 

 

 こうして千夏の呼んだ応援が来るまでの数日はヲ級との生活が続いた。同じ屋根の下で暮らすにあたり一番の不安は言葉の壁であったが、幸いにもヲ級は数日で千夏の言うことを理解し、ある程度の意思疎通は可能になった。まだ名詞については分からない物が多いが、呑み込みが早いためこれも時間が経てば解決していくだろう。

 

 ただ、千夏の言うことがわかっても肝心なヲ級からの言葉が未だに出てこなかった。何を言っても返事は「ヲ」がほとんどである。幾度となく発音の練習を試みたがいずれも座礁する結果となった。

 だが苦労するのだろうかと思えば意外とそうでもなく、ジェスチャー付きで何を言っているか分かることも多い。某ポケモントレーナーはきっとこんな気持ちで電気ネズミと会話しているのだろうと納得がいった。

 

 そんな日々を送って今日も出勤する夫を見送り、自分たちの分の朝ごはんを済ませた千夏は、ため込んでいた洗濯物を庭に干し終えると腰を思い切り伸ばした。途中からヲ級が洗濯物を手渡しして手伝ってくれたおかげで早く片付く。好奇心旺盛なため、千夏が何かしようものならたいていのことには食いつくのだ。

 おかげで家事をするときには大抵小さなお手伝いさんが付くようになった。しっかりと手伝いをこなし、それをほめてやるとヲ級は嬉しそうに跳ね回るのが可愛く、ついつい甘やかしてしまう。

 

 時刻はお昼前。今日の昼食は何にしようかと思っている時に、玄関のチャイムが鳴った。

 

「はーい、今行きます!」

 

 小走りに玄関に到着した千夏は、サンダルを履いて玄関を開ける。その先にはフリルの付いた白いノースリーブシャツに花柄のタイトスカートを着こなし、背中まで届く艶やかな栗色の髪の毛をなびかせる一人の女性がにこやかに立っていた。

 

「麻衣! いらっしゃい!」

「お久しぶりです。突然呼び出すからびっくりしましたよ」

「ごめんね! もうすぐ結婚式で忙しいはずなのに呼びつけちゃって」

「気にしないでください。幼馴染ですからこれくらいは当然です」

 

 そういってはにかむ彼女の名前は奈須野 麻衣(なすの まい)。千夏が幼稚園に通っていた時からの幼馴染で、青春時代の良き相棒、そして千夏が結婚するにあたり、最も貢献した人物である。

 

「とりあえず話は電話で伺いましたけど、ちょっとまだ信じられないです。もしかして隠しカメラとかあったりしませんか?」

「そんなドッキリする暇あったらもっと有意義に使ってるわ。とりあえず上がって。立ち話もなんだし」

「ではお邪魔します」

 

 麻衣はドアを抜けてヒールを脱ぎ、来客用のスリッパに履き替える。元気が取り柄の千夏とは対照的に、麻衣はおしとやかな振る舞いであった。加えて親しい人間にも変わらず使う敬語メインの喋り方は、世の男性諸君を虜にする強烈な武器であろう。それでいてスタイルも良いと来た。特にそのシャツの上からでもわかる胸の膨らみは、学生時代からは全く想像できないような成長ぶりである。毎日牛乳を飲んで大きくなると言っていたが、本当にここまで育つとは世の中何が起きるか分からない。千夏は自分のバストが平均的なのは成長期に牛乳を飲まなかったせいだろうかと思うが、今やそれを確かめる術はない。

 

「ヲッヲ!」

「あら?」

 

 すると廊下のドアの隙間からヲ級がこちらの様子を伺っていた。もしかしたら夫が帰ってきたのかと思ったかもしれないが、残念ながら彼は本日残業である。

 

「この子が例のヲ級なのですか?」

「そうよ。見ての通り肌が真っ白なだけで子供と大差なし」

「私たちが知っているのとは全く違いますね」

「ヲ級ちゃん、この人は私の親友の麻衣よ。ご挨拶できる?」

「ヲ~……」

 

 少しおどおどした様子であったが、麻衣が「こんにちは」と笑顔を向けるとヲ級は敵ではないと安心し、ちょこちょこと麻衣の目の前に歩み寄って一礼をする。昨日その動きが昨日見たテレビのそれと似ていたから、真似をしたのだろうと千夏は察した。

 

「ふふ、礼儀正しい子ですね。初めまして、奈須野麻衣です」

「ヲっ!」

 

 びしっ。とヲ級は手を上げて返事をする。麻衣はよくできましたと小さく拍手をし、千夏も頭を撫でてしっかりと褒めてやる。わしゃわしゃと頭を触られるヲ級はどこか心地よさそうだった。

 

「さて、あいさつも終わったからお茶を出すわ。麻衣、ヲ級ちゃんとちょっとだけ遊んでてね」

「はい。さ、行きましょうか」

「ヲゥ!」

 

 千夏がお茶を用意する間、ヲ級は麻衣に抱っこされた状態でおとなしくしていた。その間に麻衣はヲ級の外見を自らの目で観察。何か異常はないかどうか確認する。服は学生時代千夏が着ていた体操服。それ以外は特になし。帽子もボディスーツも来ていないが、手が寂しいのか小さな杖を持っている。彼女が電話で教えた通りの姿である。

 

「はい、お待たせ。茶菓子もあるからゆっくりしてね」

「お構いなく。それにしても本当に子どもと変わらないですね」

 

 そういいながら麻衣は指先をヲ級の顎に当ててこちょこちょとくすぐる。顎をくすぐられる名状しがたい感覚に、たまらずヲ級は「ォヲヲヲ……」とヘブン状態になる。

 

「うん。だから害は今のところないと思うけど、人によっては子供でも容赦しない人もいるわけで」

「連れてきた、というんですね。千夏ちゃんらしいです。さっきの二人のやり取りを見ていると、本当に親子みたいですね。さながら母親カッコカリといったところでしょうか」

「面目ないわ」

「まぁ、私も旦那さんの判断には肯定します。大本営の一部士官はせん滅を押しています。この子も容赦ないでしょうね」

「ということは例の調査も済んでいたり?」

「まだ途中報告ってところですけどね。大本営は近々大規模な殲滅戦を計画して、ただ今その準備期間中です」

 

 麻衣は鞄の中からA4サイズのファイルを取出し、中に入っている書類の束を千夏に手渡す。先日麻衣に電話した時に頼んだ鎮守府大本営の通信記録、及び深海棲艦調査班の報告書のコピーである。もちろんこれは一般人である彼女たちが触れてはならない機密書類だ。ではなぜ麻衣がこんなものを用意できたのか。一度千夏が聞いたとき、天使のような悪魔の笑みで彼女はこういった「知ったら、どうしますか?」それ以降、千夏も含めて彼女にこの手の情報の出所を聞くことはやめた。

 

「…………通信記録に、ごく一般的な空母ヲ級を撃破したって報告はあるけど、この子に関する情報はないみたいね」

「はい。調査班もあまり新しいことは分かってないみたいです。残骸の回収、鹵獲に成功しても分解しようとした瞬間に自爆。この十年同じことの繰り返しです。だからヲ級を調べようとしたら小さくなって逃げ出した、なんてことありません。だからここ最近のトップシークレットでも、大本営の官僚が駆逐艦を売春したという程度です」

「ということは、現段階でこのヲ級のことを知っているのは私と夫、そして麻衣ね……」

 

 どうしたものかと千夏は唸る。そんな悩みの種であるヲ級は麻衣の腕の中が心地よいのかうとうとし始めている。言葉がわかるかどうかは分からないが、おとなしくしてくれた方が話しやすい。

 

「はい。そしてこの子は完全なイレギュラー。今までの敵に見られなかった完全なる新種とも言えます。ですから、このヲ級が成長すると今の人類と深海棲艦のパワーバランスが大きく傾く可能性もあり得る。完全体となり、量産が進められればこちらが不利になって制空権を奪われ、やがて海域も再び奪われる。最悪のシナリオになりますね」

 

 さらりと言ってのける麻衣だったが、これは十数年前に実際起こった。深海棲艦の海上封鎖により、シーラインは壊滅。海上空港や海辺にある空港の航空機アプローチコースは制空権を奪われ、内陸の小さな空港しか使えなくなった。その結果艦娘の運用が本格的になるまでの数年間、日本は文字通り餓死寸前にまで陥った。

 

 麻衣が一体何を言いたいのかというと、もしこのヲ級が本当に深海棲艦側の新兵器だとしたら、場合によってはお前の手で始末する必要があるのだと言っているのだ。

 

「情が湧くのもわかります。千夏ちゃんはとても優しい人です。けど、優しいだけがすべてじゃない。昔、旦那さんに言っていましたよね。強いだけじゃダメだと。それと同じで優しいだけじゃダメなのです。もしあの子が敵になるようなことがあれば……撃てますか?」

 

 そう言い放つ麻衣は殺気を含んでいた。千夏は思わず言いを飲む。返答次第ではこの場で自分がこのヲ級を始末すると、彼女はそう言っているのだ。

 

「…………正直言って、分からないわ。今ここで麻衣の質問に明確な答えを出すことはできない。けど」

 

 千夏は首を曲げてリビングに置かれた小さな仏壇に目を向ける。仏壇といってもこの中に人間の遺灰が入っているわけではない。滅多に開けることもないその仏壇には、何もない物寂しさを少しでも和らげるため、千夏と夫が初めて一緒に撮った写真が置かれていた。

 

「いざとなったらあれを出す準備はあるわ」

 

 そう答える千夏の目を、じっと見つめる麻衣。しばしの間時計の針の音だけが部屋を包み込み、やがて麻衣が息をつく。

 

「あなたらしいですね。まぁ、安易に覚悟があるというよりもその方が信用できます。今の事態は即断できるほど安易な問題ではありませんからね」

「助かるわ。麻衣には敵わないわね」

「何年の付き合いだと思ってるんですか。あなたの旦那さんよりも長いんですからね」

「ふふっ、まるで麻衣が私のお母さんみたい」

「私が見ていないと千夏ちゃんは暴走しますから。いつだったかお祭りに行ったときのこと、私が知らないとでも思ってますか?」

「ちょちょちょっと言わないでよ! あの時は若気の至りって奴だから!」

 

 今だって十分若いだろうに。他にも知っている千夏の昔話を言いたい麻衣だったが、どうせなら旦那が帰ってきて一緒にいじった方が楽しいから、ちょっとだけ我慢することにした。

 

「まぁ雑談はさておいて、この子についてはこちらでも随時調べます。それまでのお世話、そして監視も怠らないようにしてくださいね」

「ええ。もちろんよ」

 

 千夏はそっとヲ級の髪の毛に触れる。それで気が付いたのかヲ級は目を薄らと開けると、目をこすって大きな欠伸をして伸びをして周囲を見回した。

 

「あら? おねむはおしまいかしら?」

「ヲ~」

 

 ぽんぽんとヲ級はお腹を摩る。もしかしてと時計を見るとちょうどお昼過ぎを示しており、最近ヲ級のこの仕草はお腹が空いた時のサインだと気が付いた。

 

「はいはい、お腹空いたのね。まだ買い出ししてないから焼きそばでいいかな。麻衣も食べて行って。久々に世間話しましょう」

「元からそのつもりです。できれば今晩泊めてくれるとうれしいですね。宿なしで来たので」

「あらそうなの? 全然構わないわ、ゆっくりしていって!」

 

 言えば早いと千夏は立ち上がり拳を作って気合いを入れる。きっと人が増えたからおもてなしをしようと燃えているのだろう。ヲ級も彼女の気合を感じて麻衣の腕から降りると、同じポーズをとってふんすふんすと鼻を鳴らす。

 

「ヲ級ちゃん手伝ってくれるの? だったらお皿用意したりしてもらおうかしらね」

「ヲゥ!」

 

 二人は台所へと向かい、千夏がエプロンを着るとヲ級も子供用のエプロンを不器用ながらに着こなす。恐らく彼女が買ってあげたのだろう。こうして料理に興味を持つところを見るとやはり深海棲艦は人間と大きな関りがあるのだろうと推測が行った。

 

 麻衣は台所に並ぶ二人の後姿を見つめる。お互い敵であるはずの存在が、こうして肩を並べて料理している。にわかに信じられない光景だ。だが、その信じられない光景こそ、彼女たちが理想とする未来なのかもしれない。

 

(……これが、後の時代では当たり前の光景になる日は来るのでしょうか)

 

 時計の針が時を刻む。その音をかき消すかのように、専業主婦とチビヲ級は楽しそうに食材を調理していた。

 

 

 

 

 夜が明ける前の海岸は、風の音と砂浜に打ちあがる波の音で包まれた静けさで満たされている。まだうっすらと夜の顔を残し、星たちが最後の抵抗と言わんばかりに輝き続けているが、東の空が明るくなるにつれて一つ、また一つと星は消えていく。

 それに合わせてすべてを飲み込まんとしていた海もゆっくりとその紺碧を晒し、見る者を迎え入れる。もうすぐ夜が明けるのだ。この瞬間に幾度となく立ち合い、見守ってきた千夏であったが、この瞬間に感じる切なさの一方で沸き上がる高揚感が入り混じった言語化できない感情がたまらなく好きだった。

 

 まだ寝静まっている人が多いこの時間帯、空と海が暗闇から目覚める瞬間を一人で見守る。今起きているこの瞬間を見ているのは自分だけ。そう思うとほんのひと時自分が特別な存在になれる気がしたから彼女は時折こうして早起きして海へとやってくるのだ。

 

「ヲッ!」

「おっと、今日は一人じゃなかったわね」

 

 腕に抱くヲ級に意識を向ける。いつもなら外に出さないようにして入るのだが、家に保護してからの一週間、庭以外の外に出してやれなかったため、さすがにこれはよくないだろうと考え、朝のこの時間なら薄暗いし人も少ないだろうと思ってつれてきたのだ。

 ヲ級もこれから何かが起きるのかを理解しているのか、じっと東の空を見つめ続ける。黄金に輝き、空に漂っていた雲が光りはじめ、空が目覚める。水平線から太陽が顔を出し、世界を照らし出す。二人も例外ではなく、その眩い輝きに思わず目を細める。

 

 太陽を映し出す海は、その光を一本の筋として表現し、まるでそこに輝く道があるように魅せる。思わずため息が漏れた。

 

「ヲっ」

 

 するとヲ級が千夏の手から離れ、砂浜に降り立つとそのまま波打ち際まで歩み寄る。一瞬千夏はこのまま海に入るつもりかと警戒するが、ヲ級は杖を砂浜に突き立てるとそこに両手を置いて深呼吸をする。するとそれに合わせるかのように風が吹き、二人の髪の毛を揺らす。

 ヲ級が一体何をしているのかはわからない。だが、なんとなくこの海に何かを感じているのではないだろうかと千夏は推測する。それがただ雰囲気を味わいたいだけか、何か能力を上げるための儀式かどうかは判断できない。だが今は邪魔しないほうがいいだろうと少しばかりの好奇心を抑える。

 

 数分が経過して、ヲ級は満足したのか杖を引き抜くと千夏に向き直り、「ヲッ!」と手を広げて駆け寄る。これは抱っこして欲しいの合図だ。千夏はしゃがみこみ、同じく手を広げてやるとそのままヲ級は抱き着いた。ヲ級はすっかり懐き、千夏もヲ級を自分の娘のように育てていた。まだひと月と経ってはいないが、それでもその時間は千夏のヲ級へ対する扱いが動物的保護からわが娘への教育に変わるには十分すぎる時間だった。

 

「さってと! 朝になったことだし、ご飯にしましょうか! ヲ級ちゃんは何が食べたい?」

「ヲ!」

 

 と、ヲ級は両手を合わせてくねくねと左右に動かし、何か生き物を表す動きを見せる。

 

「ああ、お魚がいいのね。だったらちょうどお魚もあるから、焼き魚にしよっか」

 

 ちなみに、手首から先を左右に揺らすのは魚を意味するが、腕も含めて左右に揺らすのは蛇である。身振り手振りというものは意外と使えるが、まだ明確に理解できるのが千夏だけなのでそれだけが残念だろう。

 

「ヲゥ!」

 

 右手をびしっとあげて了解の合図。千夏は笑みを浮かべてヲ級を抱えなおすと、家に向けて歩き出した。

 

 

 

 

 家に帰り、千夏は朝食の用意をしている間にヲ級は夫が寝ている寝室へと忍び込む。ゆっくりとドアを開けるとベッドの上でぐっすり寝ている中年男の姿。ヲ級はしめしめと悪戯っぽく笑い、音を立てずに近づくとジャンプ。そのまま腹の上に伸し掛かった。

 

「んほぉおおおお!!!?」

「ヲッ、ヲッ!」

 

 奇襲に成功したヲ級は己の戦果を喜び、ベッドの上ではねる。しかし腹部、主に脇腹への被弾を受けた方はたまったものじゃない。特に中年の一歩手前に来ると体のがたつきが始まるため、子供の無茶に対応できなくなるのが難点だ。そろそろ子づくりをしようと思っていたが、その前にヲ級の体当たりで体が限界を迎えてしまうのではないかと思う。

 

「あたたた……このいたずらっ子め! パパは許さんぞぉ!!」

 

 だが、この程度で根を上げていては妻が子供を産んだときいい父親になれないだろう。基本的な体力を回復させるため、しばらくはヲ級と遊ぶのがトレーニング代わりだ。

 

「ヲヲ~!!」

 

 飛び起きた野獣を見てヲ級はすたこらさっさと逃げだす。しかしそれを逃しはしないと掛布団をさながら漁業用の網のように投げると、見事ヲ級の上に覆いかぶさって動きを止める。してやられた! そういうかのようにヲ級は布団の中でもぞもぞと動くが、情けないことに大の大人が本気になって布団にもぐりこみ、ヲ級を捕まえるとそのまま布団の中でくすぐり始めた。

 

「ほ~れほれほれ! いたずらっ子はこいつか!」

「ヲヲヲ、ヲゥッ! ヲヲーーーー!!」

 

 どうにか布団から這いずり出ようとするヲ級ではあったが、がっしりと体を掴まれてしまってはそう簡単に脱出はできない。どうにか逃げ出そうとするヲ級とそれを押さえつけてお仕置きを続けようとする父親(仮)の動きは徐々に派手になり、その足はとうとう部屋にあったハンガーラックを思い切り蹴り飛ばし、その衝撃本は棚にも伝わって数冊の本とハンガーラック本体が二人の上に激突した。

 

「いでぇえ!!」

「ヲフッ!!」

 

 しかもハンガーラックと本がぶつかった場所が、ヲ級は額、父親(仮)は尾てい骨と地味に痛い場所を突かれ悶絶。二人してうめき声をあげていると、千夏が何事かと駆け寄ってきた。

 

「ちょ、ちょっとどうしたの!?」

 

 そこにあった光景はぐしゃぐしゃになった布団とひっくり返ったハンガーラック、散乱した数冊の本。そしてお互い乱れた洋服を着る旦那とヲ級。その二人は頭を押さえて悶絶している。千夏は何が起きたのか理解し、眉間にしわを作って叫んだ。

 

「あなたたち……朝っぱらから何やってるのよぉおおおお!!」

 

 その日の朝。新妻家にとってめでたいであろう母親第一号の雷が直撃した瞬間であった。

 

「もう! ヲ級ちゃん、お父さん起こすときは普通に揺さぶるって教えたでしょ! 圧し掛かりなんてしなくていいし、第一どっちも怪我するかもしれないのよ!」

 

 と、千夏は二人の取り調べを行うためにその場に正座をさせ、まず状況を把握。その上でまずヲ級にお叱りの言葉を向ける。

 

「ヲ……」

 

 しょぼんと正座で落ち込むヲ級。お玉を片手に腕を組んで見下ろす千夏は、反省の意思があると理解して隣に目を向ける。

 

「で。あなたは何か言い訳あるかしら?」

「娘が可愛かったんでついつい調子乗りました」

「確かにわかるけど、だからってほどほどって言葉があるでしょ! 熱入れすぎなの!」

「はい……すんませんでした」

「……二人とも、反省した?」

「ヲっ……」

「はい……」

 

 しょんぼりとうなだれる二人。そんな二人を千夏は交互に見つめ一つため息をつくと笑顔になる。

 

「じゃ、お叱りはおしまいね。ごはんできてるわよ、みんなで食べましょう」

「おっしゃ」

「ヲッ!!」

 

 待ってましたといわんばかりに二人は立ち上がると食卓に向けて走り出そうとする。が、久々に正座をしたせいで足がびりびりとしびれ、もう一歩が出ない。だが勢いだけはついていて体はあっという間に前のめりになり、ひっくり返る。

 ヲ級も正座なんてほとんどしたことがなかったから、立ち上がろうと片足一歩を出した瞬間に身の毛もよだつ様な痺れに襲われそのままごろりと一回転してしまう。

 

 足のしびれた父と娘はその場で二度目の悶絶。千夏はやれやれと首を振りながらお椀にご飯をつぎにいくのだった。

 

 

 

 

「で、今日は帰ってこられないんだっけ?」

 

 ようやく痺れから回復し、朝食を始めた三人。そんな時千夏は今日夫が士官学校の夜間宿直だということを思い出す。

 

「ああ。帰ってくるのは明日の朝だな。だから今日は二人で適当に晩御飯済ませてくれ」

「わかったわ。向こうに行ったらちゃんと昼間に寝ておくのよ?」

「もちろんだ。けど、昔は昼に寝なくても徹夜なんて簡単だったのになぁ。今はしっかり寝ないとまったく持たない」

「そうね、そろそろあなたもいい年だし……そうなると子作りもそろそろした方がいいわよね」

「仕事も安定したし、頃合だろうな。その前に娘が一人できたがな」

 

 と言って、二人はむしゃむしゃと魚を食べるヲ級に目を向ける。しばらく食事に夢中で気がつかないヲ級だったが、二人がこちらをじっと見ているのに気がつくと不思議そうな顔になって「ヲ?」と問いかけてきた。

 

「ヲ級ちゃん、弟か妹ほしくない?」

「ヲー?」

 

 なにそれ? とヲ級は首をかしげる。まだ自覚するには年齢が足りないだろうか、はたまた兄弟と言う概念が深海棲艦に無いのだろうか。どちらにしてもまだこの子には理解しにくい内容なのかもしれない。しかし、「ヲ!」と言う言葉に「分かったよお姉ちゃん!」と返事する弟、または妹の姿を想像すると興味深かったりする。兄弟でしか理解できない意思疎通が、のちに深海棲艦との言語理解をより加速するきっかけになったら面白いような気がしてきた。

 

「けど、ジェスチャーの理解力はすごいよな」

 

 そういうのは未だにヲ級の魚と蛇のジェスチャーが混同している夫である。千夏曰く「手首の動きが激しい方が魚で、腕を含めた体をも使うのが蛇よ」と言うがほとんど同じにしか見えないのが現状である。

 

「コツを掴めばすぐにわかるわ。けど、パパの帰りがいつも遅いから、コミュニケーションが足りないんでしょうね~」

「ヲ~」

 

 二人一緒に首を傾ける。やれやれ、今後は残業が出ないようにしなければならなくなった。どうにか七時までに帰ることを今月の目標にしようとひそかに思う。

 

「善処するさ。おっと、そろそろ出ないと間に合わんな。ご馳走様だ、今晩よろしく頼むぞ」

「ええ、行ってらっしゃい。ヲ級ちゃんお父さん見送りに行こうか」

「ヲキュッ!」

 

 残っていたご飯を一気に口に入れ、丁寧に手を合わせてご馳走様をする。ひょいと椅子から降りると、ヲ級は鞄を探しに寝室へと向かう。その間に上着の袖に手を通し、玄関にたどり着くと靴を履く。

 

「そういえば麻衣はあれからどう?」

「こっちのゲストルームで情報洗ってくれてる。少し気になるものがあるんだとさ」

「分かったわ。けどあの子は熱中したらずっと部屋に引きこもってるから、時々外に出して気分転換させてあげてね」

「あいよ」

 

 そのタイミングでヲ級が鞄をもってきて父親に渡す。ああ、本当にこのままこの子が養子に来ればいいのにと思いながら、父親(仮)は笑顔でそれを受け取った。

 

「いい子だな。帰ったらお土産を買ってやろう。お菓子がいいのかな?」

「ヲッ!」

「この子チー鱈が好きみたいだからそれ買ってきてあげて」

「なんでこのナリでチー鱈なんだよ……」

「この前夜に食べてる時にあげたらすごく気に入ったの」

「分かった分かった、チー鱈だな。いい子にして待ってるんだぞ」

「ヲゥ!」

「いい返事だ。じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 

 二人で手を振って旦那を見送り、ドアが閉まる。ヲ級は食器を片づけるべく食卓に戻り、千夏は今日どう過ごそうかと思考を巡らせる。本当なら一緒に買い物に行くくらいはしたいが、先も物べたようにヲ級の肌の色は目立つ。人の多いところに行けば注目の的は間違いない。本当はもっと遊びにつれて行ってやりたいのだが。

 

 そう思いながら食卓に戻る。食べ終わった食器類は既に流し台の中に戻されていた。床に置いてあるヲ級専用の踏み台が彼女の活躍を物語る。さて、そんな仕事をこなした本人はどこにいるのだろうかと首を振ると。

 

「ヲ、ヲ!」

 

 ヲ級が何か本らしきものをもって現れる。よく見るとそれは自分のアルバムであった。さっきのくすぐりあいでハンガーラックがひっくり返った時にでもまぎれたのだろうか。ヲ級はアルバムを開き、あるページを開いて指をさして見せる。

 

「ヲッ! ヲッ!」

 

 ヲ級が指差すのは一人のセーラー服を着た少女だった。歳はざっと十代に入って間もない中学生くらいだろうか。隣には白い制服を着た男性。二人とも笑顔だ。ヲ級はおそらく「ここに写ってるのはあなたなの?」と聞きたいのだろう。

 

「ああ、この写真ね。そうよ、私とパパが初めて会ったころに撮った写真よ。懐かしいわね」

 

 そう言って千夏はアルバムを持ち上げてじっくり眺める。実に十年以上前の写真だ。こうしてみるとやはり自分は幼い。いや、実際幼いのだが、当時の自分はもう大人と同じように振る舞っていると思っていた。ただ思春期の少年少女ならだれでも「自分はもう大人だ」とませているだろう。が、彼女は違う。千夏の場合本当にこの頃から既に一皮むけ、大人びた性格だったのだ。それはもう大人がむしろ彼女を見習うべきだと言われるくらいにしっかりしていて、当時の夫はそんな彼女の振る舞いを見て目を丸くしていた。

 

 これはその当時の写真だろう。学校に入学するよりも仕事を選び、その先で彼と出会って半年も経ってない時だ。彼女が旦那の仕事を助けるために体を張り、見事成果を上げた際の記念に撮ったものだ。

 

「ふふ、実はこの写真を撮る前ね、パパに怒られたのよ」

「ヲ?」

 

 なんで? と問いかけるヲ級。今にして思えばなかなか恥ずかしい思い出なのだが、まぁこの子になら話しても大丈夫だろうと思い、リビングに移動してソファーに座る。ヲ級も千夏の膝の上に座り、アルバムを持つと彼女を見上げた。

 

「確かこの時パパがお仕事で困っててね。私が力にならなきゃって思って、無茶しちゃったの。なんとか仕事は成功したけど、私は大怪我しちゃってね。でもあの人のためなら自分の事なんかどうなってもいいって思ってたの。そしたらあの人は褒める以前にビンタしてきたのよ」

 

 その時の様子はよく覚えている。疲れ果ててフラフラになり、担架の上に乗せられて虚ろな目で彼を見つけると「やったわ……」といった。しかしその言葉の次に来たのは平手打ち。こんなに頑張ったのになぜ?

 

「そしたらあの人はこういったの。「お前は家族がいる人間なんだ。命を犠牲にしてまで結果はいらない」ってね。当然の言葉なんだけど、その時私はすごくショックで、なんで怒られたんだろうって思ったんだ。けどその後パパと一緒に話して、やっとわかったの。私は、私が自分の事を大事にしていないって」

 

 思えば本当に自分のために何かをしたという事がなかった当時だ。彼と出会わなければ、きっと病んでいたに違いない。そこで甘えさせてくれる人の存在、支えてくれる人の存在と言うのは非常にありがたいものだと知れた。

 

「まぁ、それがきっかけかな。この時くらいからパパの事好きになったのよ」

「ヲヲ~」

 

 と、ヲ級はにんまりとした意味ありげの笑みを向ける。まるで「ヒューヒュー! お熱いねー!」と冷やかしているような顔だった。

 

「ちょっと~? その顔は何かしら?」

 

 知らなーいとでもいうように、ヲ級は視線をアルバムに戻して別の写真を指差す。その中の千夏は制服ではなく、ダッフルコートを着ていて、後ろには湧き上がる湯気と腕を高らかに上げる小さな鬼の像が写っていた。

 

「ん、こっち? こっちはね、パパと二人きりで旅行に行った時の写真よ。恥ずかしい話この時また無茶しててね。いい加減休めって言われて無理やりお休みにされたの。でもパパも一緒に休みを取っていて、ここで旅行に行こうって言われたのよ。すっごく楽しかったわ」

「ヲッヲ?」

「どこに行ったかって? 二人で水族館行ったり温泉に入ったり、食べ歩きとかかな。あ、小さいけど動物園にも行ったわ。でも一番はワニさんが見たかったかなー」

 

 思えばあの時、ワニが見たいとごねていた自分はかなり恥ずかしかったと思う。何というか、本当に「ピーーー!」という漫画チックな効果音はあの時に使うのだろうとつくづく思った。

 

「ヲーキュ?」

 

 続いてヲ級はその隣にあるもう一枚の写真を指差した。見ると先ほどの写真とほとんど変わらないような構図だが、よく見るとこの時の千夏は少しばかり成長しているように見え、服だって隣のものとは違っていた。

 

「あ、これね。次の年にリベンジでもう一回行ったの。あるいはシンコン旅行って言うかもしれないわね。この時はちゃんとワニさん見れたわよ」

 

 数枚ほどページをめくると、大量のワニが投げ入れられた鶏肉に群がる瞬間の写真が写っていた。そのあまりの数にヲ級はすぐさまページを適当にめくった。するとそこには浴衣を着た千夏が大きな団扇をもって嬉しそうに腕を振る写真があった。

 

「あら、懐かしい。お祭りに行った時だわ。まだこの浴衣あるのよね。ヲ級ちゃんがもうちょっと大きくなったら着れるようにできるわ」

「ヲー?」

 

 例によっては何をしたの? と聞いてくるヲ級。確かこの祭りは千夏も運営、企画に携わりかなり大変だった。それこそ一か月近くと顔を合わせられないくらいには。

 

「まぁ、一緒には居たんだけど、大抵私が先に寝ちゃってたからあんまり会話もできなかったのよね。それでもお祭りはとても楽しかったし、あらかたの屋台見た後は……」

 

 と、言いかけたところで千夏は言葉に詰まる。脳裏に浮かぶのは麻衣が以前言ったあの一言だった。

 

『いつだったかお祭りに行ったときのこと、私見てましたからね?』

 

「…………うん、そんな感じだったわ」

「ヲ?」

 

 ナニをしていたかなんて言えるわけがない。ああ、昔の私よ。どうかまっとうなプレイに、せめて室内プレイにもっと目を向けてくれ。過去に飛べるならそういうだろう。

 

「ヲー? ヲッヲッ!!」

 

 そのあと何をしたのと聞きたそうにするヲ級だったが、素早くページを変えて千夏は次の話題を振る。ちょうどいい、彼女の家族が写った写真だ。

 

「はーいヲ級ちゃん、お祭りは終わり。ほらほら、これ見て~」

 

 ラッキーなことに、ヲ級は千夏以外にも写っている複数の人間に興味を持った。見ると千夏を入れて男女合わせて合計五人。うち二人は同じ背丈である。

 

「これ、私の兄弟よ。下にあと四人いるの。私の次が妹、次が弟。それで最後に男女の双子合わせて五人ね。大変だったわ、お父さんたちが事故でいなくなってから一人で切り盛りしてたんですもの」

 

 今の夫と出会うきかっけもこれだった。幼い兄弟を養うべく、思春期に入った時点で事実上の就職をしたのだ。その仕事で無茶をしてビンタを受ければ休暇をもらい、お祭りの運営もした。思えば辛くもあったが、充実した人生だ。

 

「ヲォ~」

 

 感慨にふけっていると、いつの間にかヲ級がページをめくって一点を凝視していた。何を見ているのかと思い一緒に覗き込み、ああなるほどと納得がいった。

 

「私とパパが結婚した時の写真よ」

 

 写真の中の千夏は、純白のウェディングドレスを着て夫に抱えあげられていた。その顔は幸せそのもので、口から見える八重歯が輝いて彼女の美しさを際立たせていた。

 

「これ撮ってくれたのは麻衣よ。周りにいる人たちは私のお友達ね。この時は仕事場の友達全員が来てくれたからびっくりしちゃったわ。おかげでブーケトスするときなんか争奪戦よ。あ、キャッチしたのは麻衣ね」

 

 ブーケトスのおかげで式場内は一時カオスな状態になってしまったのをはっきり覚えている。キャッチできずに泣きわめく者、失意のあまり遠くを眺める者、もみくちゃにされて悶絶する者、一歩後ろからそんな人たちを大笑いしながら見守る酔っ払い。結構最近の事かと思っていたが、気づけばもう五年も経っていた。

 

「ヲキュ、ヲキュ!」

 

 ヲ級がぽんぽんとアルバムに手を置く。一瞬何かと思うが、千夏はすぐに意図を理解する。きっと自分も写っている写真がほしいのだ。家族一緒に、千夏のように笑顔で写真に写りたいのだ。

 

「そうね、ヲ級ちゃんもすっかりここの子になっちゃったしね。じゃあ、明日パパが帰ってきたら一緒に撮ろうか」

「ヲキュ!」

 

 嬉しそうに体を動かすヲ級。嬉しいのは千夏も同じでこの先のアルバムにまた写真が、それも三人で撮る事実上の家族写真が増えるのだと思うと、楽しみで仕方がなかった。

 

 

 

 

―艦娘士官学校 ゲストルーム―

 

 

 時計が零時を回り、窓越しに聞こえるのは波の音だけだった。薄暗い部屋の中をキーボードが叩く音が支配する。光源はデスク用電気スタンドとノートパソコンの画面だけで、いささか寂しいものだった。

 しかし彼女、那須野麻衣はこの方が集中しやすいからとパソコン仕事に没頭するときはたいていこのスタイルでこなしてきた。その効果はもちろん数字となって表れ、短期間ではあるが国内の政府官僚が行う不正行為、鎮守府運営の極秘実態調査など、あらゆる面へ探りを入れる諜報員として活躍していた。しかしその代償は視力の低下という生涯回復が見込めないものであるため、最近対策用のPC用メガネを導入した。それからは画面と向き合うときはかなり楽になり、非常にありがたく使っている。現役を引退したとしても、PCの前に座りたくなるのは職業病の後遺症とでもいうだろうか。どうでもいいが彼女の眼鏡姿を見れる貴重な時間でもある。

 

「遅くまでご苦労なこったな」

 

 そういったのは家主である千夏の夫だった。集中して全く後ろに意識が向いてなかった麻衣は驚いて振り向き、ドアの前に立っている彼を見るとため息をついた

 

「はぁ……ノックなしで女性の部屋に入るのはタブーですよ」

「三回ほどノックして返事がなかった場合でもかな?」

「どうせなら声をかけてもいいでしょうに」

「他の艦娘だっているんだ、穏便に行きたいだろう?」

 

 そういいながら旦那はホットココアが入ったマグカップを差し出す。そういえば喉が渇いたなと思いだして麻衣はそれを受け取って一口。

 

「すっかり父親と教官が板についてますね」

「家では妻が子育てに奮闘、こっちでは艦娘になるため思春期を殺した女の子たちが時に血反吐をはいて頑張る、そんなのを見せられるといやでもこうなるさ」

「まぁ分からなくもないですね。けど、ヲ級のことについてはいつまで家族ごっこをするつもりなんですか?」

 

 カップを置き、麻衣は眼鏡をはずして問いかける。極めて穏便な表情で、口元を見れば吊り上っている。だがその目は明らかにプレッシャーをかけるもので、夫はばつの悪そうな顔になって頭を掻く。

 

「一生、って訳にはいかんだろうな。いずれは知られることだ。現実的なのはあのヲ級を大本営に引き渡すか、鎮守府で監禁か、沈めるかのどれかだ。だが、俺も千夏もそのつもりはない。できることならこの子を一種の外交カードにできないかと思っている。一番の理想はヲ級が魔法の力で人間になって俺たちの養子になることだな」

「それ本気で言ってますか?」

「言うだけならタダだろう」

 

 そうだけど、と言いたい麻衣であったが、この男は昔からこんなのだったから言うだけ無駄だと思いなおしてその先の言葉を飲み込む。

 

「で、そちらは観察調査の報告書まとめってところかな」

「そうですね。それと気になる情報もたった今掴みました」

 

 ちょいちょいと手招きし、パソコンのモニターを向ける。画面を覗き込むと鎮守府大本営の緊急報告書類のデータが表示されていた。

 

「……大規模艦隊が集結中。E海域発生の可能性あり」

「つい先ほど出た情報です。恐らく明日には正式な知らせも士官学校の方に行くでしょう。まだ規模は不明ですが、深海棲艦は多数の艦隊を編成しつつあるそうです。それと同時に全国の鎮守府近海に偵察のイ級が多く目撃されるようになったともあります」

「……つまり、君はこの事態を、ヲ級と絡んでると言いたいんだな」

「はい。もちろん偶然も可能性も十分あります。ですが、こうも要素が絡むと偶然とは言いにくくなるのも道理です」

 

 つまり麻衣はもう時間は少ないと言いたいのだ。彼の脳裏に、ヲ級に接する妻の顔が浮かぶ。あの顔はもはや母親そのものだろう。街に出かけるとき、子連れの親子を羨ましそうに見る千夏を幾度となく見た。子作りする時期はお互いしっかり決めていたが、それでも彼女はもっと早くに子供が欲しかったに違いない。

 それは彼だって同じことだ。家に帰ると子供が飛び出し、妻が温かく迎えてくれる。そんな日常に憧れていた。だから例え深海棲艦でもヲ級のことを愛することができたのだ。

 

 しかし。愛情は時として残酷な選択を強いることになるのだ。

 

「…………麻衣ちゃん。君いつまでこっちにいられたっけ?」

「まぁ、今は半分くらい主婦やってますからほとんど暇です」

「ならもう少しここにいてくれると助かる。俺たちのやることはおそらくどちらにとっても残酷だろう」

 

 結果がどうなるかは分からない。この決断は最悪夫婦の間に大きなひびを入れる物だろう。だが妻とは十年以上も寄り添ってきたのだ。故にこの二人の信頼関係と絆は並大抵の夫婦では比較にならないほど固い。だからこの程度のことですれ違うことなどないと断言できる。

 それに、自分は一人の夫であると同時に、この艦娘士官学校の教官でもあるのだ。いずれは深海棲艦を倒すために戦場に出る彼女たちだが、今はまだ学生なのだ。艦娘になるともう普通の学生には戻れなくなる。ここが彼女たちの最後の青春の地ともいえるのだ。それを脅かす存在は排除せねばならない。

 

「打てるだけの手は打っておく。だが戦闘なんてものは予定通りに行くことなんて絶対ない。不測の事態なんて当たり前なのはよく理解している。だから万が一のことが起きた時、君に助けを借りることになる。行けるか?」

 

 この言葉は那須野麻衣一個人に対して残酷な言葉であった。その重さは彼女も理解している。教官がいま彼女に言っているのは「頼み」ではない。一方的で、どこまでも理不尽な「命令」なのだ。言うなれば彼は、自分の妻を戦場に出さないために、麻衣を身代わりにしようとしているのだ。

 

 麻衣だってそれは重々承知している。もう少しで人妻になる彼女にとって、この「命令」は理不尽なものである。自分だっていずれ結婚するのだ。だがやろうと思えば「自分はもう一般人だ。関係なんてない」と拒否することだってできる。

 しかし麻衣は拒否しようとは思わなかった。自分の夫になる男性はきっと反対するだろう。だが、理解はしてくれる。いつかこうなることを見越して、彼女はその身に力を宿し続けた。それを踏まえた上で交際しているのだ。

 

 だから彼女は「戻る」。再びその鉄塊を身に纏う。もう一人の自分の魂を乗せ、再び海に出る。

 

「もちろんです。引退した身でも、今の若い子には全く負けないのです。“司令官さん”」

 

 そういって彼女は自慢の髪の毛を持ち上げると、ヘアバンドで後ろを束ねてまとめる。彼は不意に懐かしいと思ってしまう。そして自分はまたこの呼び名を背負うのだと思うと、複雑な気分になる。だがそうしなければならない。

 

彼もまた戻る。幼い少女たちを死地へと追いやる絶対権力者に。一人の夫、一人の教官よりも重く、残酷な存在。提督に。

 

 

 

 

 数日後。艦娘士官学校を含むすべての鎮守府及び艦娘運営関連施設に正式なE海域出現通達が届けられた。規模は極めて凶悪。尋常な数ではない鬼級が本土に向けて侵攻中とのことだった。

 

 これを受けて大本営はかねてより計画していた深海棲艦殲滅討伐艦隊を急きょE海域迎撃艦隊へと変更。深海棲艦を食い止めるべく各鎮守府の装備の増強が施された。

 

 全国各地に存在する艦娘士官学校もまた、その準備に追われていた。訓練生といえども、既に艦娘としての適性を持ち、艤装を使いこなすことのできる生徒は多くいる。彼女たちを指導する艦娘も含めれば十分な戦力になれた。

 

 しかし経験値で言えば彼女たちはまだまだ素人だった。よって彼女たちの任務はあくまで近海の護衛がメインである。そのおかげで緊張しつつはあるが、本部側に比べるとまだ余裕のある空気で過ごすことができた。頭の固い上層部がこのナリを見たら激怒するだろうが、訓練生が多くいるこの場所はこのくらいがちょうどいいのだ。

 

 そして、作戦が決行された。各鎮守府から艦隊が出撃。まずは強行偵察を目的とした敵水雷戦隊を撃破。続けて制空権を奪う複数ある鬼級を含む空母艦隊の同時撃破。最深部に待ち構えている戦艦水鬼率いる旗艦隊の撃破で作戦は完遂となる。

 

 そのため作戦を担う水雷戦隊、十二隻の艦娘で編成する水上打撃舞台と空母機動艦隊には練度の高い艦娘が配置され、戦艦水鬼の迎撃艦隊には強力な戦艦級である大和型、ビスマルク級、ヴィットリオ・ヴェネト級、空母に関しては最大の搭載量を誇る一航戦及び二航戦。改二になりジェット戦闘機の運用が可能になった五航戦および装甲空母大鳳、雷撃戦の鬼でもある重雷装巡洋艦など、数々の戦果を挙げた艦艇は出し惜しみなしで導入した。

 

 まさに完璧な布陣。圧倒的とはまさにこのためにある言葉だろう。楽に勝てる戦いではないとは思う。しかし、勝つことはできる戦いにだと誰もが確信していた。

 

 戦闘は予想通り激化した。序盤から激しい雷撃戦が始まり、航空機同士のドッグファイトが繰り広げられる。戦艦は真正面からぶつかりあい、殴り合いともいえるような砲撃戦を行った。

 

 海は魚雷で埋め尽くされ、空は戦闘機で埋め尽くされ、中空は砲弾が飛び交い、歴代一二を争うほどの激しい戦いと化していた。帰還すれば損傷感をドッグに入れて装備の補給、負傷者の搬送、少数ではあるが敵機が空爆に来た鎮守府だって存在する。日本全国で人類と深海棲艦の激しい戦いが続いていた。

 

 故に、敵の本当の狙いが艦娘士官学校であったとしても、湾内に入られたという事の重大さがなかなか伝わらなかったのも、ある意味当然と言えたかもしれない

 

 

 

 

 最初の爆発は遠くの海岸付近で、最初は花火か何かの音だろうかと千夏は思った。しかし時計と空を見ると花火を打ち上げるにはまだ早く、その次の瞬間に家の数百メートル先に爆弾の束がまき散らされた。

 

「空爆!?」

 

 続けて聞こえる爆弾投下の風切音。まだ千夏はとっさにテレビを見ていたヲ級を抱き寄せると、可能な限り窓から離れて床に押し付ける。その直後、至近距離に爆弾が着地し、轟音と強烈な爆風が窓ガラスをたたき破り、家の中へと飛び込んだ。

 

「っ!」

 

 ヲ級は一体何が起きたのか理解できない様子だった。突然抱き寄せられたと思ったら床に押さえつけられて、その直後に耳が破れるかのような音と衝撃が襲ってきたのだ。今のヲ級が理解できるのは、千夏が危険な物から自分を守ってくれたという事だけである。

 

 続いていた爆撃はいったん鳴りを潜め、恐る恐る千夏は顔を上げる。幸い我が家に爆弾が直撃した様子はないが、爆風と衝撃波の影響であちこちにガラスや家具が散乱し、足の踏み場がなくなっていた。

 

「片づけ、大変になるわ……」

「ヲ~……」

 

 ヲ級も部屋の惨状を見て同意見の様だった。しかし今はそれどころではないと頭を振って体を起こし、避難するための準備をするためにリビングの緊急避難用リュックを手に取ろうとして、止まる。

 

「……ヲ級ちゃん、ここで待ってて!」

「ヲ!?」

 

 千夏は迷わず庭に飛び出し、空を見上げる。海沿いの町はあちらこちらから火の手が上がり、夕焼け空をいっそう赤く染め上げていた。その中を悠然と飛ぶ深海棲艦の艦載機。恐れていたことが起こったのだ。

 

 遠くから砲撃の音が聞こえる。夫の生徒たちが頑張っているのか、すぐ近くに深海棲艦が来ているかはわからない。だが制空権が奪われているのは間違いない。だとしたら第二波、第三波が訪れる可能性は十分に高い。

 

 千夏は避難所に行ったところで同じだと察し、部屋に戻る。もしこの襲撃がヲ級と関係しているのなら、自分たちはここに居てはいけないのかもしれない。出来るだけ町から離れた場所へ向かうべきなのだ。

 

 部屋に戻ると、ヲ級が不安そうに近づいてくる。千夏はまだ待つように諭して、寝室に入り、タンスの下から二番目を開ける。そこからヲ級の本来の服であるボディスーツと帽子を取り出し、着替えるように促した。

 

「早く着替えて! この服ならきっと怪我しないから!」

「ヲ、ヲッキュ!」

 

 服を受け取り、ヲ級はすぐさま着替えに入る。その間に千夏は仏壇へと駆け寄り、扉を開ける。その中には布で丁寧に包まれた何かが置かれていた。それを取ろうとして一瞬ためらう。これを取るということは心を鬼にすることを意味する。自分にそれができるか?

 

「……でも、今はっ!」

 

 千夏はそれを掴む。できるかどうかはわからない。だが、やれる準備はしなくてはいけないのだ。できるだけ最善の結果が出せるように、己が後悔しないように。

 

「ヲッ!」

 

 着替えを終えたヲ級が千夏に駆け寄る。見てくれはすっかり深海棲艦だが、どうしても幼いその姿ではハロウィンのコスプレにしか見えなかったりする。だがこれでヲ級は完全な深海棲艦に戻ったことになる。今は本人にその自覚がないだけなのだ。

 

「行くわよ、ヲ級ちゃん」

 

 ヲ級の手を引いて千夏は外へと飛び出す。目の前に見える海は、心なしかいつもよりも赤く見えた。

 

 

 

 

 本来はE海域攻略部隊に代わって近海を警備するのが仕事である士官学校は突然の空爆に蜂の巣を突いたような大騒ぎだった。深海棲艦は主に太平洋側から侵攻してくるため、日本海側に位置するこの場所までは入り込みづらく、本来なら比較的安全であるはずなのだ。それなのにすぐ近くにまで空母機動艦隊が現れ、沿岸の町を空爆している。この奇襲に訓練生たちはパニックに陥り、今はそれを抑えるだけで手いっぱいの状況だった。

 

「落ち着け! 敵本隊がこっちに来るまでまだもう少し時間がある! 訓練通り対空射撃を続行するんだ!」

 

 そうは言うものの、安全であるはずの士官学校を爆撃されたというショックはとてつもなく大きい。空爆部隊の数自体は相当な脅威というわけではないのだ。彼は過去に冗談抜きで空を覆い尽くす深海棲艦の空爆部隊に遭遇し、しかし退けることに成功した。それに比べればこの程度の数、どうということはなかった。

 だが、それは経験豊富な艦娘がいて、なおかつ対空装備が整っていればの話である。加えてただの肉声では少女たちの気を引くには声量が足りなさすぎた。

 まだ戦場の空気に慣れ切っていない候補生たちは慌てふためいて冷静さを失い、泣きわめきながら行く当てもなく走り続ける者、爆風でふっ飛ばされて意識を失った生徒と、それにすがり付く艦娘で阿鼻叫喚の渦を作っていた。どうにか嚮導の重巡、軽巡が対空砲火を上げるが、数が足りないし何より三式弾も積んでいないのだ。せめてあと三隻ほど対空に特化した艦艇が欲しかった。

 

「“司令官”!」

 

 そこへ施設内にいた生徒たちに避難指示を出し終えた麻衣が息を切らしながら走ってくる。被害への施設は出たが、幸いにも生き埋めになった生徒はいないとのことだった。どうにか一安心するが、問題はまだこれからだ。万が一弾薬庫や燃料タンクに誘爆すれば攻撃手段を失って制圧される可能性だってある。その前に手を打たなければ。

 

「麻衣ちゃん、ならすぐに第六格納庫に向かってくれ! 「あれ」は中の四番コンテナだ!」

「はい!」

 

 麻衣は格納庫へ受けて走り出し、“提督”も緊急用の地下臨時指令室へと向けて走る。有事の際は彼の権限によって開けることのできる指令室だ。ここには通信機材、偵察用無人偵察機制御装置などが配備され、万が一の深海棲艦襲撃対策本部となる場所である。しかも地下に作られていることもあって設計上は核爆発にも耐えられる構造だ。

 

 だが本人はその中にこもるつもりはさらさらなかった。階段を駆け下り、無線機をひったくると無人偵察機の制御装置にスイッチを入れ、自動飛行モードを設定。射出のボタンを押し込み、雑木林にカモフラージュされた発艦カタパルトが現れ、射出。深海棲艦の動向を探るため、指定されたポイントへと向かう。携帯端末に映像が送られたのを確認し、再び階段を駆け上がり、無線握ると周波数を全艦娘の無線、及び全士官学校内のスピーカーと繋いだ。

 

『全艦娘、及び艦娘候補生に告ぐ! 私だ、聞こえるか!』

 

 提督の声は無線及びスピーカーから響き渡り、パニックに陥っていた生徒は動きを止め、意識を失った仲間を抱いて泣き叫んでいた艦娘は顔を上げ、対空砲火を続けていた艦娘は撃ち続けながら耳を傾ける。

 

『現在当士官学校は深海棲艦からの攻撃を受け、施設に被害、けが人も多数いるとの報告は上がっている。普通ならここはどうにかして迎撃せよというところだが、私はそうは思わない!』 

 

 提督の声を聴きながら、第六格納庫に到着した麻衣は四番コンテナを開ける。その中にはまるで眠るようにして鎮座する艦娘用の艤装一式とスカートスーツを模した体を守る装甲服。白と黒を基調としたスーツには

錨のマークが描かれ、ギリシャ文字のⅢを型どられたバッジがきらりと光った。

 

『君たちはまだ艦娘ではなく、ただの女学生だ。もちろん訓練を終え、艦娘として活動できる生徒もいる。だが実戦経験なんて積んでないから恐ろしく感じるのは当たり前だ』

 

 装甲服に着替え、艤装装着。艦の記憶が麻衣の脳内を駆け巡り、魂が「久しぶり」と呼びかけた。

 

『だからここから逃げてもらっても一向に構わない。しかしこれだけは守ってくれ。何が何でも仲間を見捨てるな。動けない生徒がいるならそいつを背負ってでも逃げろ』

 

 装着された艤装の動作確認が始まる。61cm五連装酸素魚雷稼働、装填よし。第一砲頭の動作確認。続いて増設した第二砲頭を確認、異常なし。搭載するのは対空特化の10cm高角砲二門と高射装置。加えて13号対空電探改。すべて動作よし。久々に背負うことになるが、ずっと丁寧に整備されていたのだろう。缶の音は良好、妖精さんたちのご機嫌も絶好調だ。

 

『だがもし戦えるという艦娘が居るなら、落ち着いて『彼女』の指示に従い、対空迎撃を行え』

 

 第六格納庫のハッチがサイレンと共に解放される。注水を待たずに解放されたハッチから海水が流れ込み、中央に位置する艦娘出撃用のドッグが一瞬にして満たされる。麻衣はそこにそっと降り立ち、海の上に立つ。

 

『同時に、私は現時点をもって教官ではなく提督となって着任する。今ここであえて言おう。この戦闘に我々は完全勝利する!』

 

 前を見る。開け放たれた格納庫の向こうは深海棲艦の艦載機で埋まっていた。解放されたハッチの奥に見える麻衣に気づいたのか一個小隊クラスの編隊が接近してくる。間違いなく、あれは爆撃コースに乗っている。

 

 迎撃する艦娘が居ない今、爆撃機にとって今の麻衣は格好の的であった。攻撃する側は一方的な殺戮ほど楽しいものはないだろう。

 

『ただ今より臨時に第一艦隊を編成する。動ける訓練生は第一艦隊の補佐として活動してもらいたい』

 

 爆弾が投下される。格納庫ごと麻衣を押しつぶすつもりだった。落下する爆弾が空気を切り裂く音が近づく。まるで殺意を具現化したような様で、普通の人間なら恐怖を覚えること間違いない。

 爆弾は刻一刻と格納庫めがけて突っ込んでくる。しかし、麻衣はパニックを起こすわけでもなく恐怖で震えるでもなく、深呼吸する。

 

『編成は軽巡洋艦球磨、並びに多摩。重巡洋艦古鷹、加古。そして……』

 

 刹那。深海棲艦の爆弾が格納庫の天井をぶち抜き、火球が上がった。編隊はまるで勝利を喜ぶかのように悠然と炎と煙に埋もれた格納庫を見下ろし、屍の確認しようと高度を落とす。あの直撃を食らえば艦娘でもバラバラ、あるいは生き埋めになってのたれ死ぬに違いない。その様を見てやろうとした、その瞬間。爆撃機一個小隊の先頭に一発の砲弾が突き刺さり、燃料に引火して四散する。そして戦闘が炎に包まれるのを確認するまでもなく、後続の全機が同じように爆発四散した。

 

『旗艦、駆逐艦『電』!!』

 

 煙の中から一人の艦娘が飛び出す。背負う艤装は受け継がれし暁型の煙突。胸元に光るは誇り高き特Ⅲ型駆逐艦のバッジ。左右に搭載された10cm高角砲が空を睨み、五月蠅いハエを叩き落とすために火を噴く。その一射一射は完璧に敵戦闘機の翼をもぎ取り、戦力を奪っていく。その精度は全盛期から全く衰えておらず、吸い込まれるように敵機が消えていった。

 

「駆逐艦電、戦列に加わります!」

 

 電となった麻衣は、左右に舵を切りながら球磨たちが待つ迎撃ポイントまで航行する。その間に複数の雷撃機が電の行く手を阻もうと魚雷を撃ち込むが、彼女は水たまりを避ける子供のようなステップで軽やかに回避して見せる。

 

「那須野麻衣の電!? それって、第三期第六駆逐隊で、歴代特Ⅲ型駆逐艦の中で最も対空射撃を得意とした艦娘!」

 

 重巡である加古が思わず手を止めてしまった。それだけ麻衣は電として多大な戦果を挙げ、後継の艦娘たちにその名を刻み込んだのだ。正確な高高度射撃はあらゆる航空機を叩き落とし、その撃墜数は秋月型と肩を並べるか、時にはそれすらも上回る程であった。

 

「クマー! 心強い大先輩だクマ!」

 

 球磨がこれは負けていられないと現役の意地を見せるべく対空機銃を空に向けて発射し、隊列が乱れた編隊の一機を撃ち落とす。そのタイミングで電は合流し、輪形陣を指示して隊列を作った。

 

「皆さん、ここは一つ頑張る後輩たちへアドバイスの一つや二つもしたいところですが、今は私の指示に従って敵の迎撃を行ってください。ただし、少しでも異変や違和感、直感でもなんでも感じたら遠慮なく進言してください。いいですね?」

『はい!』

「いい返事です。これより第一艦隊は対空射撃を敢行し、航空部隊の排除が完了した後に敵空母艦隊の撃破に向かいます。全艦第二戦速!」

 

 主機が唸りを上げて電の体を前へ前へと押し出す。それに続く四人の艦娘たちは、先ほど感じていた圧倒的不利な感覚を感じなくなっていた。電の登場は、それだけ大きなものだった。

 

「こちら重巡古鷹。後方より味方鑑定接近中! 数は五隻、訓練生たちが護衛に回ると言っています!」

「私たちに合流するように打電を。彼女たちにもできることはあります。安心してください、あの子たちに敵機の攻撃は一発も当てません。彼女たちが隊列に加わるのを援護します。合流後、陣形を第三警戒航行序列に変更。うるさい上の敵は、一機残らず叩き落としてみせます」

 

 絶対的自信。電の目に闘志が宿る。久しぶりの戦闘による気持ちの高ぶりだろうか。必ず守る。この艦娘も、生徒たちも。そして、この先残酷な決断をするであろう幼馴染も。彼女にはきっと別の戦いが待っている。それを邪魔させないという闘志が湧き上がる。

 

 体勢を立て直した敵航空部隊が接近する。その向こうに駆逐艦を護衛に携えて接近する敵空母艦隊。自分たちに近づけないようにするため、雷撃機が接近する。

 

 10cm高角砲照準合わせ。電探作動、電の脳内に敵機の位置が表示され、飛行進路を予測する。

 

「……そこっ!」

 

 一斉射。海面を這うようにして飛んでいた雷撃機が三機消し飛んだ。こうしてみると簡単に落としているように見えるが、向こうだって機体を左右に振って進路を読ませないようにしているのだ。

 

 にもかかわらず、電はそこに来ると最初から知っていたかのように敵機を撃ち落とした。何か新兵器でも積んでるのか? まるでそう思ったかのように生き残った雷撃機が上昇、離脱しようとする。だがその離脱が何の変哲もない垂直上昇だった。直線運動ほど、射線を予測しやすいものはない。

 

「今です、軽巡組機銃掃射!」

「ここまで来て逃げるとは、いい度胸クマ!」

「動きが単調。多摩にかかればこれくらい簡単だにゃ」

 

 球磨と多摩の25mm機銃が唸りを上げる。上に向けて照準を合わせるだけなのだから、網にかかった魚のように離脱する敵機が喰われていく。

 

「上手です! 続けて重巡のお二方、敵艦隊に向けて砲雷撃戦を仕掛けます。混乱を誘って敵の指揮系統をかき乱します!」

「了解です!」

「よっしゃあ! 任せてください先輩!」

 

 古鷹と加古が主砲を構え、進路を変えようとする敵艦隊に向けて砲弾を叩き込む。進路をふさがれた敵艦は舵を切る。そうだ、それでいい。電は唇が吊り上る。その舵を切った方向には、ついさっきこっそり投射した魚雷の直撃コースだったからだ。

 

 巨大な水柱が上がる。前から二番目を航行していた軽母ヌ級が魚雷を受けて真っ二つになった。味方の古鷹たちですらいつ投射したのかわからず、そして正確な雷撃は敵にとってそれは、音もなく首元に鎌を突き付けられたのに等しかった。

 

『電、聞こえるか?』

 

 無線から提督の声が響く。手でヘッドホンを抑え、より鮮明に彼の声を聞くために電は身構える」

 

「感度良好です、司令官さん」

『そいつは結構だ。一応言っておくがこれは俺たちにしか聞こえない秘匿無線だから何を話しても構わない。状況は?』

「たった今軽母ヌ級を沈めました。敵艦隊混乱しつつあります」

『よくやった。だがまだ油断するな。今偵察機からの画像が送られてきた。奴ら少数の艦隊を町に送り出している。軽母ヌ級一隻とイ級が二隻だ。目的はおそらく……』

 

 スピーカーの向こうで、歯を食いしばる音が小さく聞こえた。電は目を閉じ、彼の気持ちを重んじる。だがかける言葉を選んでいる暇なんてない。

 

「司令官、敵の目的が分かった以上やることは一つです」

『ああ……だが、すべての決断はあいつに任せてやってくれ。身勝手かもしれないが、千夏に賭けてみたいとも思う』

「……押しつぶされるかもしれませんよ?」

『わかってる……その時は俺が何とかする。だから今はできるだけのフォロー、頼むぞ』

 

 無線終了。そのタイミングで訓練生たちが合流。第三警戒航行序列への移行を支持し、すべての準備が整う。

 

「さぁ、今から反撃に入ります! 私たちの本気を見せるのです!」

 

 おー! と響く少女たちの声。きっとこの子たちなら自分の後を任せられるだろう。時代を切り開く芽を千切らせはしない。電は主機の回転数を上げる。

 

(千夏ちゃん……あなたの決断はどうであれ、私はあなたを支持します。だから、どうか悔いのない道を選んでください)

 

 

 

 

 千夏とヲ級は町から離れ、老朽化により使われなくなった漁港跡地の桟橋に居た。鼓膜をぶち破るかに思えた爆撃は今のところ鳴りを潜めていたが、まだまだ油断はできそうになかった。先ほど深海棲艦の偵察機が頭上を横切り、その際近場にあった古びた倉庫に入り込んでどうにか見つからずに済んだようだが、時間は残ってないだろうと直感が叫んでいた。

 

 目の前に広がるのは広大な海。太陽はもう半分以上その身を沈め、後ろからは夜の幕が迫ろうとしている。光を失った海はまるで吸い込まれそうな黒色に染まり、自分を呼び込もうとしているのではないかと考えてしまう。

 

 千夏は決断を迫られていた。深海棲艦が攻め込んだ以上、ヲ級はここにいることはできない。本来ならばすぐにでもヲ級を沈めなければならないだろう。だが、それでは今まで自分がしてきたことがすべて意味のない物になってしまう。

 何のために言葉を教え、何のために教育をして、何のために不器用ながらも母親としての愛情を注いだのかが全く分からなくなってしまう。千夏は母親ごっこをするためにヲ級を保護したわけではないのだ。

 

 千夏は握っていたヲ級の手をそっと離し、後ろに回り込んでしゃがむとヲ級を振り向かせ、向かい合った。

 

「……ヲ級ちゃん、よく聞いて」

「ヲ?」

 

 ヲ級は不思議そうな顔をしながら千夏のことを見つめる。幼い青い瞳が、じっと千夏の答えを待っていた。その瞳はこれから自分が言う残酷な言葉を全く予想していない純粋な光。それを見ると言葉が詰まりそうになる。

 

 だが言わなければならない。もう、自分はこの子の母親でいられなくなってしまったのだ。

 

「いきなりだけど、今日でお別れしなきゃいけないの」

「……ヲ?」

 

 ヲ級はこの言葉を理解しているようだった。いったい何を言ってるの? 変な冗談でからかっているの? そう言いたそうな顔だった。ぎゅう、と胸が締め付けられる。だが落ち着け、しっかり言わなければならない。

 

「もう私とあなたは一緒にいられないの。見て、町があちこち燃えてる。とても危ないから、あなたは早く逃げるのよ」

「ヲ……ヲッ!」

 

 ヲ級が千夏の手を握り、ぐいぐいと引っ張る。何言ってるの、一緒に逃げようよ。そんな声が聞こえてくる気がした。だが動くわけにはいかない。

 麻衣から言われた、「撃てますか?」という言葉。きっと自分は今そうするべきだったのだろう。だが実のことを言うと、千夏は最初からヲ級を沈めるつもりは毛頭なかった。この子が自分の教えを理解し、見て聞いて感じたことを糧にして生まれ変わってくるのを信じる。それが千夏の描いた、都合妄想甚だしい決断だった。

 

「いい、ヲ級ちゃん。よく聞いて。あなたは自分が人とは違うの知ってる?」

「ヲ……」

 

 千夏の言葉に、ヲ級は思わず一歩下がる。その動きから察するに、ヲ級も自分が人間ではないということを感じていたのだろう。言いたくない。言うな、言うな。この子と一緒に暮らせるならそれでいいじゃないか。自分で連れてきたのに捨てるのか。そんなことをするな、この子の面倒を最後まで見ろ。そんな幻聴が聞こえて頭が割れそうだった。

 

 だが、千夏は自らを鬼にした。

 

「あなたはここにいてはいけない。ここにいたら私たちはまた危険な目に遭う。あなたはここから海の中に帰るのよ。そうなれば少なくともあなたの安全は保障される」

「ヲ……ヲ、ヲッ!」

 

 違う、違う。自分の帰る場所はここだ。ここなのだ。何でそんなひどいことを言うの? 私のことを嫌いになったの? ヲ級の言葉がはっきりと理解できてしまう。それが辛くて辛くてたまらない。過ごしたのはほんの一か月程度。だがその時間の密度があまりにも濃く、こうして言いたいことが理解できるまでになってしまった。最初に会った時なら、もっと冷酷に突き放せたに違いない。

 

 次の瞬間、港の湾内に巨大な水柱が上がり、水しぶきが二人に降り注ぐ。上を見ると黒色の禍々しい翼。深海棲艦の爆撃機だ。

 

「見つかった……!」

 

 さらに数機の爆撃機が接近し、二人のすぐ近くに爆弾を複数落とす。先ほどと同じように海に突き刺さるものもあれば、古い倉庫に落下して更地にする。直接爆撃しないのはヲ級を傷つけないためだろうか。

 

「ほら、早く! あなたは追われているのよ、できるだけ海の遠くに逃げなさい!」

 

 肩を掴んで強く言い聞かせる。しかしヲ級はことの重さを理解してか、その目を徐々に濡らし、千夏にしがみついて意地でも離れまいとする。

 

「ヲ! ヲ、ヲヲ!!」

 

 千夏の胸に飛び込み、涙を流す。その行動は彼女の理性を破壊する強力なものだ。このまま抱きしめてあげたいと数秒で脳内を何十回も駆け巡る。だがダメなのだ、許されないのだ。

 

「離れて!!」

 

 どんっ。千夏はヲ級を突き放した。勢い余ってヲ級は尻もちを着き、自分が拒絶されたことが一瞬理解できずに千夏の顔を見上げる。頬には涙の跡がくっきりと浮かび、また一つ粒がこぼれる。

 

「もう一緒に居れないの、あなたは海に帰らなければならない! 海に帰った後はあなたの好きにしていい。深海棲艦として活動しても、一人で生きても、何でもいい! あなたはそうするのが一番なの!」

 

 嘘だ。深海棲艦になってほしくない。自分の知る正規空母ヲ級は、慈悲もなく艦載機を飛ばして空を奪い、自分たちに牙を向ける人形のような存在だった。このヲ級がそんな人形になって艦娘に沈められる。そんな心をえぐられるような想像だって何回もした。

 

「ヲヲッ、ヲキュ!」

「それしかないのよ! 行きなさい!」

 

 今度は至近距離に爆弾が落下し、破片が飛び散る。爆風と衝撃波で千夏は吹き飛ばされそうになるが、どうにか持ちこたえて首を上げる。ヲ級もほんの少しだけ頬が煤けた以外は変わらずそこにいた。涙を流しながら千夏の顔を見つめる。そして、言った。

 

「……ヤ、ダ」

「!?」

「マ、マ……」

 

 聞いた。千夏は、確かに聞いた。今まで人間の言葉をしゃべることができなかったヲ級が、「ママ」と言ったのだ。たどたどしくも、はっきりと聞き取れる日本語で母を呼ぶ。よろよろとしながら、ヲ級が歩み寄ろうと立ち上がる。

 

「ママ……ヤダ……」

 

 千夏はできることなら今すぐにでもヲ級を抱きしめたかった。自分のことを母親と認めてくれた。あんなに辛いことを言っても、自分のことを信じて一緒に居たいと言ってくれている。深海棲艦だろうが人間だろうが関係ない。今まさにヲ級は千夏の娘として接しているのだ。

 

 自分にはもったいない、最高の娘だ。まだ子供を産んだことがなく、育児に苦労していた自分をこうも頼りにしてくれていると思うと涙が溢れてくる。千夏の精神は一気に削れて目じりが熱くなり、鼻の中が湿っていく。

 

「ヲ……」

 

 小さな深海棲艦が千夏に呼びかける。ほぼ無意識のうちに手が持ち上がり、ヲ級の濡れた頬にそっと触れる。温かく、そして人間と変わらない柔らかい肌がそこにあった。

 

「…………」

「ママ……」

 

 ヲ級が手を伸ばす。一緒に居よう。いい子になるから。そんな声が聞こえてくる。千夏は膝をついて座り込み、抱えていた荷物が音を立てて地面に転がる。敵機の音も、爆撃の音もまるで他人事のように遠く消えていく。

 

 ヲ級の小さい手が千夏に触れようとした、その瞬間。

 

「来るなっ!!」

 

 千夏は堤の中に右手を入れその中から黒光りする鉄塊を取り出し、ヲ級の目の前に突き付けた。二つの管が伸びるその鉄の塊。サイズこそデフォルメされているが、それは間違いなく殺傷能力を持つ正真正銘の武器。

 

 12.7cm連装砲。千夏が艦娘に就任した際、最初に手にしていた武装。練度を上げるにつれ、新しい武装を手に入れても時折手入れをし、現役を引退しても自分の大切な思い出として手元に置いておいた思い出の品。できることなら、こんな使い方をしたくはなかった。

 

 新妻千夏。又の名を、元第三期第六駆逐隊旗艦「雷」である。

 

「それ以上近づかないで……もう現役じゃないけど、これを撃つことくらいならできる!」

 

 突きつけられた鉄の塊がどういう存在なのか、ヲ級は察して思わず目を剥いた。その顔が絶望に染まっていくのが手に取るように分かる。だが、たとえヲ級が泣き叫ぼうがダメなのだ。自分が、そして向こうが同じ幸せを求めていたとしても、世界が、時代が、時間がそれを許そうとしなかった。

 

「駆逐艦の主砲でも、子供のあなたなら葬り去ることができるわ。でもこんなことしたくなかったから、私はあなたに最後のチャンスをあげたのに……!」

 

 こうするしかなかったとは言いたくない。もっと、もっと時間があれば違う未来が待っていただろう。それこそヲ級がもっと人間の言葉を話せるようになれば、夫の言う仲介役にだってなれたかもしれない。

 けど、もう遅い。一緒にいられない。この先一緒にいると生きるのが嫌になるような辛いことがお互いを襲うに違いない。

 

 それを避けるための、千夏ができる最善の選択だった。ヲ級に砲身を向ける、これこそが究極の愛情表現だった。愛しているからこそ、ヲ級に砲を向けた。別れるのは辛いかもしれない。けど一時的な辛さは時間が経過すれば癒してくれる。その可能性の方が、お互い幸せになれるに違いない。

 

 これで怯え、軽蔑し、自分を罵って海に帰ってくれればいい。それが正しいのだ。どのみち自分は自分の愛した娘に砲を向けるという重罪を犯したのだ。親を名乗る資格など、ない。

 

 事実ヲ級は絶望の淵に立たされていた。希望ともいえる存在から絶望をたたきこまれ、今にも膝から崩れ落ちそうだった。だがそれでもなお、それが絶望だと信じたくなくてヲ級は千夏に呼びかけた。

 

「……マ、マ」

「違う! 私はっ、あなたのママなんかじゃない!!」

 

 ヲ級の悲痛な声をかき消す絶叫がこだまする。酷くひしゃげた叫びは海の向こうへと響き、そしてその叫びの直後に築き上げた大事なものが音を立てて崩れ去るような気がした。それはヲ級か、はたまた自分か、おそらく両者か。それは誰にもわからなかった。

 

「最後のチャンスよ。海に帰るか、今ここで私に撃たれるか、選びなさい!」

 

 静寂が辺りを包み込む。聞こえるのは波の音と、瓦礫と化した建物が燃え盛る音。自分の呼吸が大きく聞こえる。普通に息をしているはずなのに、荒い呼吸をしているかのように大きく聞こえ、体が震える気がした。

 時間が、過ぎていく。それが一分か五分か、三十分なのか一時間なのか分からない。ヲ級の答えを待つ。ぐっとうなだれ、帽子でその表情は見えない。だが、答えは出た。

 

 ヲ級はその場に座り込み、首を振る。表情を見せないためかその顔は下を向いたまま。千夏はそれを冷たく見下ろす。間違いない、これがヲ級の意志だ。

 

「そう……あなたがそうしたいのなら決まりね。最後通告はしたわ」

 

 仰角調整。二門の方針がヲ級を真ん中に捉える。距離にして1メートル。ほぼ無いに等しいその距離なら外すことなんて絶対にない。そのまま衝撃で吹き飛ばして海に沈める。それで、すべてが終わる。

 

 命乞いも、弁明も何もない小さな深海棲艦は、黙って待つ。もう口を開くことをしようとはしなかった。潔く運命を受け入れる。無言の言葉が千夏の耳に入った。

 

 ドンっ。12.7cm連装砲の乾いた発射音が響く。その砲弾は間違いなく、正面にいた目標に命中し、煙を吹きながら海に落ちると小さく水柱が上がり、やがて消えた。

 

「…………ヲ?」

 

 だが、ヲ級はそこにいた。確かに砲は撃った、目標にも命中した。にも拘らずヲ級は変わらずそこにいた。一体何が起きたのか理解できずにヲ級が顔を上げる。その直後、第二射が発砲される。これもヲ級を狙っていない。砲身は、ヲ級の“上”を向いていた。

 

 振り向くと、深海棲艦の艦載機が煙を上げながら不規則に回転し、海面に没した瞬間だった。二機目の撃墜。最初の一発は、同じくこちらに向かっていた敵機に向けて発砲したものだった。

 それを理解したヲ級は千夏へと向き直る。自分を育ててくれた母親は、大量の涙を流して自分の事を見つめていた。

 

「……ない…………」

 

 ガシャン、と主砲が取り落とされる。予備の砲弾が入ってない主砲は鈍器と化し、桟橋に転がった。

 

「できない……できるわけ、ないじゃない!!」

 

 限界だった。自分は世界のパワーバランスを変えるかもしれないヲ級を「娘」と言って育て、今日まで一緒に暮らしてきた。実の娘のように可愛がり、時には叱り付け、本当の親子のようになるのに時間はいらなかった。それなのに突然別れを押し付けて無理やり引き離そうとし、涙を浮かべる彼女にきつい言葉を叩きつけ、遠ざけようとした。

 

 だが、それでもヲ級は信じてくれた。たどたどしくも自分の事を母と呼んだ。それなのに自分は何をした? 健気なあの子に砲身を向け、そして娘じゃないと叫んだ。あんなに愛情を込めて、自分でも娘と呼んでいたヲ級に向かって。これでは母親ごっこに飽きた子供が赤ちゃん人形をゴミ箱に入れるのとまったく同じじゃないか。

 

 千夏は許せなかった。自分も、深海棲艦も、世界も、時と言う概念も何もかもが許せなかった。なぜこんな道しかないのだ。理不尽だ、残酷だ、何が究極の愛情だ。娘に砲を向けることが愛情であってたまるか。敵だろうとなんだろうと関係ない。こんなにも通じ合ってお互い必要としているのに。なぜこんなことを言わなければならないのか。

 

「できないよ……だって……あなたは私の娘なのよ……こんな出来損ないの私を、『ママ』って呼んでくれたのに……こんなの、できない……」

 

 優しいだけが、すべてじゃない。強いだけが、すべてじゃない。頭では分かっている。わかっていても心と心が結びついてしまっては、思考なんてゴミ同然なのだ。

 

 敵機が旋回して地面に機銃を向ける。とっさに千夏はヲ級を抱き寄せてその胸に押し込む。すぐそばを銃弾が駆け抜けていき、長い弾痕が残った。

 

「ほら……あなたはこんなに温かい。息だってしてる、言葉だってわかる。私の事を大好きでいてくれている。私の作った料理を残さず食べてくれる。お魚が大好きで、お父さんの手伝いもする……人間よ、あなたは……私たちと同じ人間なのよ……」

 

 千夏は空を睨む。禍々しい翼の爆撃機が悠然と二人を見下ろしていた。憎悪を愚見化したような黒い翼が光ると、真上から急降下を仕掛けてくる。その姿がどこか嘲笑うかのように見えて、千夏は憤りを隠せずに叫ぶ。

 

「それなのに!! それなのに、どうして戦わなくちゃいけないのよ!! 私たちは、普通に暮らしていればそれでよかったのに!!」

 

 三機の爆撃機が二人めがけて突っ込んでくる。その翼には殺戮の意志を示す爆弾が抱えられていた。このコースは無事には済まない。千夏は、喉がつぶれるくらい叫ぶ。それが彼女にできる、精一杯の対空射撃だった。

 

「なんなのあなたたちは! どうして!! 同じ海で生まれたのに、どうして戦わなきゃいけないのよ!!!」

「ヲキュ!!」

 

 突然、ヲ級が千夏の腕を離れて駈け出した。そして空を睨むと、肌身離さず持っていた杖を空に向けてかざし、力強く振り下ろす。

 

 その瞬間、爆撃コースに乗っていた爆撃機が突如急上昇をはじめ、デルタ隊形を維持して円を描くように旋回する。ヲ級は意識を集中させ、爆撃機と自分の意識を一体化させ、完全に制御を奪うと敵艦隊補足する。

 

「ヲッ!」

 

 再び杖を振り、ヲ級は指示を出す。次の瞬間爆撃機は急降下を開始し、先頭が軽母ヌ級に向けて爆弾を投下。突如として起こった艦載機の反逆に理解できないまま、ヌ級は爆弾の直撃を受けて大破。艤装部分と思われる個所から燃料が溢れ、そこめがけて爆撃機が特攻を仕掛けた。

 

 爆発。蓄えていた弾薬庫に引火して巨大な炎が上がる。状況が全く把握できないイ級にも例外なく爆弾が突き刺さり、ダメ押しの爆撃機が真正面から突っ込み、ヌ級と同じように海中へと葬り去った。

 

「……ヲッ」

 

 ヲ級は炎とともに沈んでいくヌ級とイ級を見つめると、振り向いて千夏のもとへと歩み寄る。千夏はヲ級が何をしたのか理解に手間取ったが、ようやくヲ級が艦載機の制御を奪い、ヌ級とイ級に攻撃命令を下したという事を察することはできた。

 

「ヲ!」

 

 ヲ級はその制御に使っていた杖を千夏の目の前に置くと、もう一度抱きついた。まるでお手伝いをしっかりとこなし、褒めてほしいとねだる子供のように見える。

 

 だがそうじゃない。ヲ級は今一度名残惜しそうに千夏の胸元に顔をうずめると、何かを決心した顔つきになって千夏の目を見つめ、言った。

 

「……イッテ……キマス」

 

 短時間で圧倒的な情報を押し込まれた千夏の脳がその言葉の意味を察するのに一秒ほど必要だった。そして理解してハッとした瞬間、既にヲ級は千夏から離れて海に向けて走り出していた。

 

「待って! 待って、ヲ級ちゃん!」

 

 あれだけ聞き分けの良かったヲ級は、足を止めることなくまっすぐ海に向けて走る。迷いなど微塵も感じさせない、まっすぐな走りは千夏の不安を確信に変えた。

 

「やだ! お願い、お願いお願い!! お願いだから行かないで、行かないでぇ!!!」

 

 涙で前が見えなくなる。追いかけようと手を伸ばすが、それ以上できなかった。出来るのはひしゃげた声でヲ級を呼ぶことだけ。しかしそれは何の力を持たず、ヲ級は桟橋の先端までたどり着く。

 

 そして、振り返った。その顔には一筋の涙が流れていた。だが、その顔に浮かぶのは満面の笑み。その美しい顔は千夏の不安を一瞬だけ取り除き、美しいとまで思わせる物だった。

 

 ざぶん。小さな音が聞こえた。さっきまでヲ級が立っていた桟橋には、もう誰もいない。

 

 千夏はヲ級が飛び込んでしばらくしても、微動だにしない。正確には動けなかったの方が正しいだろう。目の前で起きたことは現実ではなく、きっと夢だったとすら思ってしまう。きっとすぐにひょっこり現れて悪戯大成功と喜ぶに決まっている。そうに決まっている。

 

 だが、いくら待ってもヲ級は帰ってこない。日は完全に沈み、燃え盛っていた炎は燃料を失って鎮火する。聞こえるのは風の音と波の音だけ。もう、誰もここにはいない。

 

 あるのは、喪失感だけだった。

 

 

 

 敵空母艦隊を撃破し、事後処理を同僚と球磨に任せた提督は千夏を探すべく旧漁港跡地へと向かって走っていた。日は完全に沈み、町はずれに位置する漁港跡地は暗闇に染まり、足元に散らばった破片の姿も飲み込んでしまう。何度も躓きそうになりながらも提督はどうにか漁港にたどり着いた。

 

 息を切らしながら周囲を見回し、妻の姿を探す。暗闇にうっすら映る桟橋に目を凝らすと、座り込んだまま動かない人影を見つける。それを確認するまでもなく提督は再び走り出し、心なしか小さくなった背中。それだけで提督は全てを察する。

 

「…………千夏」

 

 白い制服をそっと千夏に掛けて後ろから抱きしめると、彼女の体は恐ろしく冷たかった。きっと、この場では彼女をここまで追い詰める何かが繰り広げられていただろう。姿を消したヲ級がすべてを物語っている。

 

 千夏は虚ろな目で海を見続けていた。石のように固まった体は夫に抱きしめられたことでようやく我を取り戻し、右手が力なく桟橋に落ちる。すると、何かが手に触れて千夏は無意識のうちにその方に顔を向ける。

 

 落ちていたのは、ヲ級が肌身離さず持っていた杖だった。それを手に取ってみると、意外なほど軽かった。なぜ、ヲ級はこれを置いて行ったのだろうか。この杖は、艦載機を操るために必要な物だろうに。

 

 じっと杖を見つめる千夏だったが、次第に目じりが熱くなって視界が揺らいでいく。枯れ果てたと思っていた涙は再び頬を伝い、落ちていく。それと同時にヲ級と過ごした日々が脳内を駆け巡った。

 

「……あの子ね、言ったのよ」

 

 蚊の鳴くような小さな声だった。ずっと外で風にさらされていた千夏の体力は限界寸前で、少し強い風が吹いても聞き取れないほど弱々しかった。

 

「私の事をね……しっかり、ママって言ってくれたの……」

「…………」

「酷い事いっぱい言ったのに……主砲だって向けたのに……それでも、あの子は私のために戦ってくれた……」

「……ああ」

 

 嗚咽が混じり、千夏は荒れる呼吸をかみ殺そうと歯を食いしばるが、むしろ逆効果で声が大きく震えてしまう。それでもどうにか言葉にしようと口を開く。そうしないと、自分が持たない気がした。

 

「それでっ……私にっ、私にこれを渡して……っ、いってきます、って、言ったの……!」

「ああ……ああ……!」

 

 力強く千夏の肩を抱きしめる。俺はここに居る、ここに居るから大丈夫だ。彼はそう語りかけるようにこれでもかと千夏を抱きしめ、頷いて見せる。

 

「一人ぼっちで……海に戻るのにっ! 笑って、た……笑ってたのよ……!」

「ああ……立派な子だ。昔のお前とそっくりだ」

「ほんとうにっ……っんぐ、いい子に育ってくれた! 私の、私たちの自慢の娘っ、立派な娘よ!」

 

 再び涙が決壊し、千夏は情けない姿を見られたくなくて夫の胸板に顔と声にならないほどひしゃげた嗚咽を押し当てた。彼女は自分の思春期を殺して兄弟を養った。そのプレッシャーは当時十代だった千夏にはあまりにも重かったに違いない。だが彼女は乗り切って、ようやく解放されたはずだった。

 

 だがその先に待っていたのがこれだ。なぜ彼女が愛情をこめて育て上げた娘と別れ、涙を流さなければならないのだろうか。なぜ彼女ばかりが辛い目に遭うのか。もっと、もっと彼女は幸せになっていいはずなのに。

 

 提督は思い出す。自分たちに笑顔を向けていたヲ級の姿を。彼女はまぎれもなく自分たちが育てた娘なのだ。その娘の早すぎる独り立ちを、たった一人で受け止めたのだ。

 

 力になれなかったのが悔しくて仕方なかった。一緒に受け入れるべきだった。仕方がなかったなんて言い訳はしたくない。もっと早くに動くことはできたはずなのだ。

 

 だが、それも結果論にすぎない。今できるのは、千夏の抱える重荷を少しでも軽くしてやることだった。

 

「そうだ。お前の教えを生かしてくれる立派な子だ。そしてあの子が笑顔で『いってきます』って言ったのなら、きっと帰ってくる。それまでに恥ずかしくない立派な親になろう」

 

 そっと頭を撫でてやる。今は彼女の心が鎮まるまでこうしていよう。どうか彼女の心に安らぎが訪れることを願う一方で、提督は決心した。

 

 そんな二人を敵艦隊を全滅させ、海側から回り込んで千夏を追いかけてきた麻衣が見守っていた。あの様子だと彼女は相当無理をしたのだろうと察しが行く。だがそれが世界にどう影響を与えるか分からない。これが終わりへの一歩になることだって十分あり得た。本来なら、今すぐにでも海へと消えたヲ級を探し出し、捕まえるべきだ。だが。

 

「……こちら電、状況終了。行方不明者の捜索完了。各員撤収してください」

 

 無線を切って麻衣はため息をつく。今は二人きりにさせておこう。抱えなくていいはずの重圧を抱えて今までを過ごしていたのだ。麻衣だって近くで見ていたのだからよくわかる。それがどれだけ大きなことだったのか痛いほどわかる。もし彼女の愛情を侮辱するものが居れば、容赦するつもりはなかった。願わくば、幼馴染がこの経験を糧にして、より強くなっていくことを彼女は祈った。

 

 

 

 

―四年後―

 

 

 

「こら! 何よこのお皿、キノコばっかり残して! ちゃんとご飯食べなさいっていつも言ってるでしょ!」

 

 よく晴れた昼下がり。新妻家に千夏の声が響き渡る。その原因は食卓の下に潜り込み、千夏の検閲を潜り抜けようとした小さな少女の姿があった。この子供の名前は新妻香織(にいづま かおり)。三年ほど前に千夏と提督の間に生まれた待望の長女だ。なお、先月三歳になったばかりである。

 

「やだー、しいたけきらい!」

「キノコは栄養たっぷりなんだから好き嫌いしないの! ほら、出て来なさい!」

「やだやだやだー!!」

 

 と、反対方向から娘が逃げ出し、千夏はそれを追いかけようと机に頭を突っ込んでおでこをぶつけて悶絶。その間に香織は玄関に向けて飛び出し、丁寧に靴だけ履くとドアを開けて抜け出した。

 

 すると門の前で香織は誰かとぶつかり、尻もちを着いてしまう。そのタイミングで千夏がおでこを押さえながら追いつき、門の前にいる女性と目が合った。目につくのは赤い弓道服をイメージした服。腰の部分には「ア」と書かれた前掛けが括り付けられ、腕には飛行甲板を携えていた。間違いなく、艦娘である。しかも正規空母。

 

「あ、ごめんなさい! 娘が失礼なことを……」

「いえいえ、気にしないでください。こちらも少し呆けていたので、不注意でした」

 

 と、女性はぽかんとしている香織と同じ目線になるようにしゃがむと、にっこりと笑顔を向けて手を差し伸べた。

 

「ごめんなさいね。けがはない?」

 

 香織は笑顔を向けるその艦娘にしばし見とれ、生返事で「うん」と答えると手を握り、二人でゆっくりと立ち上がる。どこも怪我をしていないことを確認すると、改めて目の前の正規空母は千夏へと向き直り、敬礼をした。

 

「失礼しました。私は本日付で士官学校の空母教官として着任しました、正規空母赤城です。教官のご家族へ挨拶するために本日はお伺いにまいりました」

「ああ、あなたが。話には聞いています。どうぞ今後ともよろしくお願いします」

「はい。それと、もう一つなんですが」

 

 赤城はそっと飛行甲板に触れると、一度目を閉じて深呼吸をすると再び見開く。その目つきが少しだけ変わり、どことなく幼くなった気がする。その目を見て、千夏は何か懐かしい気がした。

 

「私自身はあなたとお会いするのは初めてですが、『この子』がどうしてもあなたに会いたいと言っているので代わりにお伝えします」

「え?」

 

 

千夏が不思議そうな顔になる一方で、赤城は軽く深呼吸をすると、満面の笑みを浮かべてこう言った。

 

「ママ……ただいま」

「……あぁ……ああっ!」

 

 視界が揺らぐ。ああ、そうだ。間違いない。あなたはそうなんだ。ちゃんと、ちゃんと帰ってきた。こんなにも立派になって、姿を変えてまで私のところに来てくれた。なんて素晴らしいことなのだろう。

 

 なんて、立派な娘なのだろう。

 

「ママ、このひとだぁれ?」

 

 唯一状況が理解できない娘が千夏の顔を見上げる。千夏はどうにかして涙ぐむ自分の顔を見られないようにと顔を逸らし、涙をぬぐう。そして、鼻水で湿った声になりながらも答えた。

 

「あなたの……お姉ちゃんよ……」

 

 感情が高ぶり、体中が震えてしまう。千夏はそれをどうにか抑えながら赤城に手を伸ばし、しかしその手が届く前に赤城がその手を握ってきた。あの時よりもよりたくましくなり、そして変わらない温かさを持つ彼女の手は震える千夏の手を包み込む。あの時と同じ、人のことを気に掛ける優しい手だった。

 

 千夏はその手を愛おしそうに自分の頬にあてる。いろいろな感情が混じり合って、どう声をかけたらいいのかわからない。だがその前にこれだけは言わないと。彼女は自分の声が嗚咽で支配される前に言った。

 

「お帰りなさい…………ヲ級ちゃん……」

 

 

 

 

 

おわり


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