『――――――』
遠く、空の果てから声が聞こえた気がした。
痛みを訴える頭が、身体を動かすのも億劫だと唸っている。すっかり
『――――――きて』
どうやら水底に沈んでいるようだ。
けれども、嫌な感じはしない。息が詰まるなんてこともないし、丁度いい暖かさでずっとこのままでいたいとさえ思う。
そんな抗いがたい魔力が、ここには満ち満ちている。
『――ください。――――様』
それなのに、この声をもっと聞いていたいという想いがふつふつと込み上げてきた。
再度の休息を要求する頭を無理矢理に動かして、耳を傾ける。
『起きてください、ご主人様』
――束さんの、ご主人様?
◇
はっと目覚めると、天井が束さんになっていた。
心地よさの正体はいつものベッドといつもの枕、そしていつもの布団のおかげである。だが、これらは快適であっても喋りはしない。
となると、俺を起こしたのは天井の束さんとなるのは間違いないだろう。
「ご主人様はお寝坊さんですね。おはようございます」
パチパチとまばたきをしてから、ようやく頭が冴えてきた。
第一に、天井が束さんというのは大きな間違いで、単に束さんの顔が近いのだ。その距離は唇が触れてもおかしくないほどで、顔に束さんの吐息が当たってこそばゆくもある。
もう一度まばたきをしても、束さんとの距離は変わらない。目の前に、束さんの顔がある。
――っおおぅお!?
自分ではしっかり起きたつもりだったが、実際はまったく違った。束さんの顔が眼前にあるってことを遅れて理解した俺は、間抜けな雄叫びと共に飛び起きることとなった。
なんで束さんがいるの、と疑問に思う刹那もない。身体はバネ仕掛けの玩具のように動いていた。けれども、今朝はいつもの起床と違って目の前に束さんの顔がある。目覚めは鮮やかなヘッドバットへと様変わりしていたのだった。
しかし、束さんはひょいっと擬音が付きそうな軽やかさで、しかも優雅にかわしてみせると姿勢を整え――
「改めまして。おはようございます、ご主人様」
――と、ロングスカートの端を摘まんで深々と頭を下げていた。
◇
束さんが作ってくれた朝食を前に、俺は未だに混乱している。
ふと気が付いたら束さんが部屋に居るなんてこと、両手両足の指の数では足りないくらいにあった。少し前の文化祭の時なんて、束さんが小学生になるという滅茶苦茶なことだって起きた。
今更、驚くようなことなんて、ほとんどないだろうと思っていたのに。
――なんで束さんがメイドさんになっているんだ?
真っ先に浮かんだ正直な気持ちが、これだった。
そんな俺の動揺をよそに、メイド服を着た束さんは反対側の席でバスケットからクロワッサンを手に取った。ついでにだが、俺の前には副菜として彩り鮮やかなサラダと目玉焼き、そしてカリカリに焼いたベーコンが乗ったプレートがある。
「どうぞ、召し上がってください」
イチゴジャムを塗られたクロワッサンが、プレートに行儀よく乗ったまま俺の前に置かれた。もちろん、どちらのプレートも俺には見覚えがない。というか、こうして使っているテーブルとチェアのセットも初めて見る代物である。
そもそも寮にキッチンなんてないのだが、そんなことよりもずっと大切な“何か”を、見落としているような――
「――あの、何かお気に召さなかったでしょうか?」
少し怯えを含んだ声で、こちら
どこか妙だ、と思いつつも小さく縮こまる束さんを前にしては、俺は無力だ。
「もしかして、和食の方が良かったでしょうか……?」
チクリと心が痛み、気にし過ぎだと自分に言い聞かせる。
それでも、拭えきれないものは纏わりつく。だが束さんにあんな哀しそうな顔をさせてはと思い直して、目の前のクロワッサンに手を伸ばした。
――うん?
クロワッサンは焼き立てらしく、まだほんのりと温もりが残っていた。口に運んでみれば、幾層にも重なった生地が小気味よい音を奏でる。そこへ濃厚なバターの風味が来たかと思うと、イチゴの甘酸っぱさが舌をさっぱりとさせてしつこい感じがまったくない。
ああもう、感動するほど美味しいです、としか言えない自分が腹立たしい。もっとこう、何か上手く表現のしようがあるだろう、俺。
「私の杞憂みたいで、よかったです。それに、いくつもの言葉を重ねるよりも、美味そうに食べてくれるそのお顔だけで私は報われます。ふふっ、パンもジャムも、手作りした甲斐がありました」
心の底から嬉しそうに束さんが微笑んだ。
朝日の差し込む中で、笑みを浮かべる束さんの姿は
「? もしかして、私の顔に何かついていますか?」
小首を傾げる束さんに、すぐに我に返った俺はしどろもどろな返事しかできない。
とにかく、気にしないで欲しいくらいは、言えたと思う。
「ご主人様がそう言うのなら気にしませんけど」
束さんは、わかっていますよと言っているような表情を浮かべた。
俺は気恥ずかしさをごまかす為に、少し意地の悪い質問を口から出しそうになった。具体的にはパンとジャムはどこから手作りなのか、といったものだ。しかし、束さんはいつも俺の為に全力なのは身に染みてわかっている。だから思いとどまった。
束さんが手作りと言ったからには、最初から最後まで手作りなのは当然である。
「流石は私のご主人様ですね。私の事を本当によくご存じです」
束さんは心を読めるのだろうか、単に俺がわかりやすいだけなのかもしれないが。
「さぁ、どちらでしょう? 今、紅茶をご用意しますね」
イタズラっぽく笑ってから、どこからかティーセットを取り出した束さん。いったいそれらはどこから、という疑問はそそがれる紅茶を前に即座に吹き飛んだ。
茶葉から煮出された格調高い香りを、ほのかな牛乳の香りが柔らかく受け止めた、優しいミルクティーの匂い。あまりの
俺の前にソーサーが置かれ、その上にティーカップも置かれる。揺らめく紅茶の水面でさえ、陽光を反射して芸術品の様に美しかった。
「ロイヤルミルクティーになります。ご賞味くださいね」
ティーカップを手に取って、口にする。
人肌よりはやや高めの温かさと、濃厚ながらもしつこくない上品な甘み。そして口内を満たす紅茶の香り。口と喉を潤した後の、意外にもすっきりとした後味に驚く。飲み干したティーカップの底には、砂糖も蜂蜜も見当たらない。
魔法のようだと目を白黒させていると、魔法使いの束さんがにっこりと笑った。
「おかわりはいかがでしょうか?」
俺はただ、頷いておかわりをお願いするばかりだった。
◇
椅子に深く腰掛けて、ゆっくりと紅茶を嗜む。
食後は何をするにしても、微妙に気の乗らない時間になりがちだ。それをこうして、英国貴族よろしくエレガントに過ごせることになるとは思ってもみなかった。背筋をのばして脚を組み、ちょっとカッコつけてみる。
――でも、なんか違うんだよなぁ。
すぐに身体をリラックスさせると、俺は部屋を掃除中の束さんに視線を向けた。
「ふんふんふんふ~ん」
鼻歌を口ずさみながら、楽しげに床をチリトリと箒で掃いている束さん。
時折、踊るようにスキップをするものだから可愛らしくてたまらない。黒のワンピースは床に届く程のロングスカート。スキップをしても、白いレースのソックスがくるぶし辺りまでしか見えない鉄壁っぷりが、逆に素晴らしい。
「ふふふーん、ふふふーん、ふんふんふんふんふふふーん」
鼻歌はいつのまにか『ワルキューレの騎行』を奏で始め、束さんは窓掃除へと移った。雑巾で窓を拭く度に、腰からお尻にかけたラインが厚いベールの向こうで揺れている。
厚いベールというのは、もちろん今束さんが着ているメイド服のことだ。
全体的にややゆったりとした作りが、必要以上に身体のラインを強調することがない。加えて、肩から膝丈の近くまであるホワイトエプロンを掛けているから、胸が殊更目立ってしまうこともない。
本当に、束さんは完璧なメイドさんになってしまっている――
――これで窓ガラスが消えてなければ。
「も……申し訳ございません、ご主人様」
雑巾で拭くだけで窓ガラスが消えるなんてあり得るのだろうか。危うく持っていたティーカップを落すところだったのを、机上のソーサーに置いて近づいてみる。
ぺこぺこと謝る束さんに気にしてないことを告げてから、恐る恐るガラスに手を伸ばし――なんと触れてしまった。
つまり、ここにガラスが存在している。なんでだ。
「ガラスが見えるのは光の乱反射があるからですので、その……屈折がなくなればもっとお部屋を明るくできるかな、と……」
言われてみれば、空が前より綺麗に見える。
さて、束さんはメイドさんになっても完璧であるし、束さんである。ならば窓だけが例外なんてことはあり得ない。そして如何に束さんにだけ意識を向けていたのかを痛感する。
掃除が済んでいる床は、俺が初めてこの部屋に踏み入れた時より綺麗だ。たった今、窓まで歩いた俺の足跡がわかるんだから当然だ。一方、束さんの足跡は当然だがない。
壁も天井も張り替えたのかと思うくらい新品に見える。部屋の中で唯一手を付けられていないベッドがなければ、異世界に迷い込んだと言われても信じていただろう。
それくらい、ベッドの上の生々しい生活感だけが浮いているのだ。
「……どうしましょう」
なんとかなるでしょう、と俺は返した。
生活感というのは時間が経って出てくるもの、無理に荒らす必要なんてありはしない。というか、荒らしたところでベッドと同じように浮くのは目に見えている。
シャワールームとトイレもこんな感じで
「本当に――」
申し訳ありません、と束さんには言わせなかった。
驚いて目をぱちくりさせる束さんの顔がすぐ近くに見える、ムードも何もない、強引なキス。甘い紅茶の名残が、あとを引いた。
「――ふぇ?」
束さんをじっと見つめて、待つ。
「あ、え、や、う、わ、わた……わたし、き……きょうは、め、めい、めいどさんで……」
ようやく理解が追いついた束さんは、みるみる内に顔を真っ赤に染めていく。ついでに呂律が回っていないし、この様子だと目も回しているかもしれない。
「ご、ごめんね。今日は私、君だけのメイドさんだから、メイドさんであろうとしているから……こんな、私が、メイドさんでいられなくなるようなことはしないで……お願い……私、嬉しくて……ダメになっちゃう……」
束さんはいつだって全力である。
今日、束さんがメイドさんになったのも、本心から俺に休んで欲しかった以外にない。そこに嘘偽りは決してなく、純粋な目的であったからこそ、束さんは最も重大な懸念である不確定要素を無意識の内に排除してしまった――それが束さん自身だったとしても。
ずっと感じていた引っ掛かりを見つけることができたなら、今度は俺の番だ。
――そんな束さんも、俺は好きですから。
わかるほどに束さんが身体を震わせた。
束さんは口を開いては閉じて開いては閉じ、浅い呼吸を繰り返している。逡巡する束さんは、ちらちらとこちらを窺いながら、小さな口から願いをのせた。
「……じゃあ、ぎゅって……ぎゅーって、して」
俺は我慢とか恥ずかしさとか一切合財を放り捨てて、束さんを抱きしめた。その拍子に甘い香りが束さんの全身からふわりと漂って、頭がクラクラする。
でも、俺は抱きしめることはやめない。束さんも俺に負けじと抱きしめてくれている。
「もっと、もっと……あたま、あたま……なでなでしてほしい」
抱きしめたまま、手を動かして束さんの頭を撫でる。
さらさらとしたロングヘアーが、なんとも心地良い。束さんも気持ち良いのか、撫でる度に艶やかな吐息が漏れて耳がこそばゆい。でも、手を止めることだけはしない。
数分位ずっとそうしていただろうか、終わりを切り出したのはやはり束さんだった。
「……それと」
ずっと強く抱きしめ合っていた体勢から、二人向き合って肩を抱く様にして見つめ合う。
「……ちゅー、しよ?」
目を潤ませた束さんのお願いに、俺は応えた。
◇
お互いに顔を真っ赤にして、部屋のベッドに並んで座る。今こそ抱き合ってはいないが、堅く握り合った手が二人の間にはあった。
「えっと、ごめんね」
はにかみながら、束さんが言った。
「私……昔からなんでも一人でやってきたから、こんな時の甘え方ってよくわかんないんだよね……駄目だなぁ、束さんの方がお姉さんなのに」
色んな束さんを知ることができるのは嬉しいが、自虐に走る姿は束さんには似合わない。
だから俺は、俺と束さんとで握り合った手に力を込めた。
「……ありがとう」
手を繋いだまま、肩を触れ合わせて座っているとお互いに言葉数が少なくなる。でもその無言の時間でさえ愛おしかった。
束さんは何も言わずにこてん、と俺の肩に頭をのせた。
「もう少しだけ、もう少しだけ……こうしていたいな……」
――束さんが望むなら、いつまでも。
束さんにメイドさんになってもらいたかったんです。
ついでに束さんって甘え方がめっちゃヘタクソだと思ったんです。
((´・ω・`)様、誤字脱字報告ありがとうございます。