一種のパラレルワールドであり選定事象であり、ちょっとだけ本編に絡む設定があるかもしれない。
本編ってなんだ……そんなものはない。
右腕が動かなくなるということは、想像していたよりも遥かに辛いものだった。何より日常生活を送ることすら難しい。ユニバーサルデザインが世間で議論されるようになるのも、身に染みて納得した。
箸が持てないといったことはもちろん、授業についていくのも一苦労。教科書を開くのもすぐにとはいかないし、ノートを取る事にも四苦八苦する。風呂でだって頭を洗うのも時間が掛かる。
それより辛いのは周囲からの憐れみの視線だろうか。ただでさえたった二人の男子生徒の内の一人であるが故に、女子校同然のIS学園で目立っているのもある。加えて表向きは不幸な事故という、誰が見ても何かあったことを窺わせる一件で余計に注目を集めてしまっているのも原因か。
もっとも後者の不幸な事故、という学園側の発表を提案したのは俺の方であるので泣き言は言いたくないし、愚痴として一夏にも漏らしたことはない。
第一、ボーデヴィッヒを助けたのは俺の意志である。俺が助けたいから助けたのだから、助けた結果についてきた負傷を嘆くことはボーデヴィッヒに対する侮辱だと俺は想っている。
まぁ、そんな中でも唯一良かったと思えることは、IS展開をすれば右腕は普段通り動いてくれるという点か。世界を揺るがす天
「あ、おかえりー!」
その世界を揺るがす束さんが、寮の自室にいつも居ると国連のお偉いさん方が知ったら何人くらいの頭の血管が切れるんだろうか。
そんな意味もない想像をしながら後ろ手にドアを閉める。
今日も部屋に居るんですね、束さん。
「当たり前だよ! 私は君専属の看護師さんだからね!」
ぶい、と腰に手を当てピースサインをしてくる束さんの姿は、初めて会った時の様な不思議の国のアリスめいたワンピースではない。俺専属の看護師と自称する様に、一般的に医療現場で使われているナース服である。
頭のメカメカしいウサ耳も今はお休みで、代わりにナースキャップが輝いている。
看護師なのにロングヘアのままではあるが、それはご愛嬌というやつだろう。何も束さんは本物の看護師ではないのだから。もっとも、看護師をやるとなれば完璧にこなすことは間違いない。
「あれー? なんだか最初の頃に比べて反応が薄いなー」
慣れとは恐ろしいものである。最初こそ、ナース姿で俺の自室に突然現れてはあれこれと世話を焼いてくれる束さんの姿にある種の恐怖を覚えたものだ。
今でも思い出される
とんでもない人生の転換点を思い出しながら、いつものお願いします、と椅子に座って吊っていた右腕を備え付けのテーブルの上に置く。無論、肩から先には一切力が入らないので一連の動作は全て左手が担っている。
「もちろんだよ! この束さんに任せなさい!」
束さんは嬉しそうに、どこからかキャスター付きの丸椅子を召喚して俺の対面に座る。
あの丸椅子も例によって例のごとく、医療関係の場所で良く見るタイプのやつである。取出し先は多分、ISの
「むー! 今目の前に居るのは束さんなのに、君は他の女のこと考えてる!」
頬を膨らませて怒る束さんに謝りつつ、マッサージされている右腕を見遣る。俺の右腕は確かに、束さんの両手に丹念に揉み解されている筈なのだがまったくそう感じない。失ってみてはじめてわかるという使い古されたフレーズがあるが、これはそうだなと思わざるを得ない。なにせ、触られているという情報が視覚しかないのだ。
どこか映像を見ている様な現実感のない光景。今束さんは一生懸命俺の右腕を解してくれている。そう、ちょっと力を入れ過ぎて胸を腕に押し付けてしまうくらいには、一生懸命である。
今この時ほど、この右腕の神経がことごとく焼き切れてしまっていることを恨めしく思ったことはない。ボーデヴィッヒに対して恨みはないとか、かっこいいことを言った手前情けないとは思うが、このくらい許して欲しい。俺も健全な男子であるには間違いないのだ。
◇
「よし! これで大丈夫!」
たっぷり30分くらいのマッサージを終えて、束さんが一仕事を終えた職人みたいな顔をしている。しかし、一体何が大丈夫だと言うのだろうか。ここ一週間言われるがままに束さんにマッサージされているが『これで大丈夫』という言葉を聞いたのは初めてである。
一体何が大丈夫と言うのでしょうか、束さん。
「えっ? それはもちろん、束さんだからね! 大丈夫なんだよ!」
答えになっていないようで答えになっている気がする。
だって、束さんだし。
「また疑いの目で束さんを見てるー!」
はいはい、じゃあ俺はシャワー浴びてきますので今日の所はお引き取り願えますか、束さん。
「うーん、塩対応だね! じゃあじゃあ……今日はお風呂一緒に入ろっか、弟くん?」
この人は本当に心臓に悪い。
そういえばこの人は篠ノ之箒の姉であった。ナチュラルに属性を持っていてもおかしくない。そんなことを言われてしまっては、俺の理性も揺らいでしまう。
でも駄目です。普通この歳になったら一人でお風呂に入るものです。
「お姉ちゃんの頼みでも……ダメ?」
そんな目をうるませて小首を傾げても、倫理的に、ね。
倫理的にダメですよ束さん。
「弟くんがそう言うと思って、水着も用意してきたんだよ?」
そう言うと束さんが取り出したのは、そうそうたる水着の面子である。旧型スクール水着や競泳水着といった学生的なものに始まり、パレオの付きの優雅な装飾のビキニから元気さ溢れるスポーツタイプの水着もあれば、ワンピースタイプのものもあり。
なるほど、束さんは何が何でも俺のニーズに応えるつもりの様である。
これは話を長引かせる方が不利になる、そう悟った俺は束さんの言葉に答えることなくシャワー室へと入り内鍵を掛けた。
「えー、どうしてー?」
と、外から聞こえてくるが、俺にはまだその一線を越えてしまう覚悟はないのだ。束さんを受け入れることは即ち、束さんと世界とを天秤に計らなければならない。もちろん、今すぐにどちらか選べと言われたなら、俺は束さんを選ぶのは確信できる。確信しているが、だからこそこのぬるま湯の様な今を手放すのも結構辛いのだ。
『両想いなのに相手を受け入れられないとか……どんだけヘタレなの!』と二組の凰には大層怒られたが、肝心のお相手が束さんであることを伝えたところ前言撤回していただいたのは良い思い出である。
さて、どうでもいいことを思い出していないでシャワーを浴びようと服に手を掛けた時、気付いた。
――右腕が、動いている?
妙な光景だ。右腕の触覚は完全に無い為に現実感がない。右腕が動いているという視覚情報は脳で処理できるが、それだけだとなんと頼りない事か。手を振ってみても、右腕には空気が流れる冷たい感覚すらないのである。
試しに、シャワーを当ててみる。左腕で温度を確かめ、適温であることを確認し右腕に水をかける。熱くもなければ冷たくもない。本当に動いているだけでそれ以上の機能はない。
悲しくなってきたが、医者に絶対治ることはないと断言された右腕が動いているのはなぜだろうか。医者がとんでもない藪医者で、まったく見当外れのことしか言っていなかったという可能性を信じるよりは、束さんが何かをしたと考える方が余程順当だ。
第一、束さんは一週間も俺の腕をこねくりまわしていたのである。俺がただマッサージだと認識していた行為も、実は束さん流の治療技術であってもおかしくはない。
これは、束さんに聞いて見なければならない。腕を拭いて内鍵を開けた。意識してみると普段できていた何気ない行為が右腕で出来ると言うことがこれほど嬉しいこととは思わなかった。
「おっ、ようやく効果が出て来たみたいだね!」
束さんが満足そうな笑みを浮かべる。
しかし、触覚がないのはどういうことなんでしょうか。
お互い元の椅子に座り直して向かい合う。
「触覚が……? そんな筈はない、束さんはいつだって完璧だからね。でも君がそういうのなら事実なんだろう。それはこの世の真理だ。触覚がないとはつまり、脳神経系の電気信号の動きが迷走して? いやタンパク質や水分といった元来の複合的な要素も視野に入れて考えてみればこうなるが、いやしかし、グルコースや体内の必須金属と骨髄の反応が問題を起こしているのか? いやいや、遺伝的なDNA構築のアミノ酸の配列がこのパターンの場合想定されるイレギュラーは527通り、ほぼ除外できる要素のイレギュラーも含めるとその数は2905倍だ。そうなると――」
ああ、すっかり科学者モードな束さんになってしまった。ナース服で考え込んでいるのだから、科学者というより医学者に近い感じだが、言っていることは俺にはちんぷんかんぷんである。
そもそも束さんの思考レベルに達している人間はこの世に居ないと思うのだが、せめて俺にもわかるように言ってくれないでしょうか、束さん。
「え? ご、ごめんね! そうだね、わかりやすく例えると……車が良いかな。そう、オートマチック車がアクセルを踏まなくても勝手に進むアレ……なんだったかな? そう! クリープ現象が今の君の右腕だ。私の右腕を君と同じように例えるなら、アクセルをしっかり踏まれている車ということになる」
束さんが美しい白い手をひらひらと振ってみせる。
なるほど、ちゃんと右腕自体は治っているのか。しかし、困った。束さんなら自分の身体のアクセルを踏むくらい出来るだろうが、俺が真似するにはちょっとハードルが高そうだ。
まぁ、なんにせよ。
ありがとうございます、と束さんに礼を言う。治っているのなら、いつかそのうち触覚も取り戻せるだろう。が、束さんは納得しないようである。
「それは束さんの名に賭けて見過ごせないな! 君と一緒に治していくのならそれでもいいけど、私が君と一緒に居られる時間は一日中24時間というわけではない残酷な事実がある! その間に誰かに君の腕を治したという事実を譲ることはできないよ!」
なるほど、しかしどうするんです。
「それはだね……手、出して?」
はい。
「じゃあ、パー」
はい。
「ちょっと待ってね、深呼吸するから」
何かこう、ハンドパワー的な物を俺の右手に受信させるのだろうか。
「よし! じゃあいくよ!」
いつでもばっちこいです。
「えいっ」
――脳が、視覚の情報処理を一瞬拒否した。
束さんが顔を真っ赤にしている。
束さんが俺の右手首辺りを両手で掴んでいる。
束さんが俺の手を引っ張って豊満な左の胸に、いや、おっぱいに押し付けている。
これは視覚の暴力だ、なんて拷問だ。俺の右手は確かに束さんのおっぱいに触れているのに束さんの温かさもおっぱいの柔らかさも感じられないなんて。
なんてことだ、残酷なことだ。思わず、手を動かして束さんのおっぱいをもみしだく。
何よりも柔らかく、天国の様に温かく、赤子の様に純粋で、愛の様に甘い。
およそ俺がこの感動を言い表す為の語句を持ち合わせてはいない。なんでおっぱいはこんなにも俺を魅了して、ずっと触っていたい揉んでいたいと思わせる魔性を持っているのだろう。これは確かに、止まらない。欲望が加速する。
「あ……あんっ! ……ね、ねぇ……んっ! 喜んでくれるのはいいんだけ、ど……んんっ!」
束さんが悩ましげな嬌声を上げる。
「右腕、治ったね!」
ええ、確かに治りました。今この手にはすべての機能が甦っているのを感じます。だってこんなに柔らかいのです。
もうアクセルべた踏みのエンジン全開です、V型12気筒DOHC48バルブがフル加速です。
「わ、わかったから! 後で好きなだけ揉ませてあげるから今はストップ!」
束さんに言われてようやく右手をおっぱい、いや、胸から離していた。
俺は一体なんということをしていたんだ。
けれども俺の右手はあの柔らかさを覚え、飢えている。
「喜んでくれるのは嬉しいんだけど……先に真面目な話をしちゃうね? お楽しみはその後で、ね? お姉ちゃんとの約束だよ?」
首をぶんぶんと縦に振る。
そんなご褒美が待っているのならいくらでも真面目な話を聞く所存である。
「よろしい。じゃあまず結論から言っちゃうけど、君の右腕は既に生体同期型ISだ」
そうですか。
「お、思ったより反応が薄い……なんで? 君の腕はもう元の腕じゃないんだよ?」
いや、だって束さんが治してくれたことが単純に嬉しいですし、生体同期型ISと言ったって元の腕と機能が変わりませんし、感謝こそすれ恨む様なことじゃないと思います。
「本当……? 無理してない?」
束さんが上目遣い気味にこちらを見てくる。心底、俺に嫌われないか不安なのだろう。だったら俺も、その不安を払拭せねばなるまい。
本当です。嬉しくてたまりません。
「良かったぁ……ごめんね、本当そのまま治してあげたかったんだけど、君のそれは不可逆のものでどうしようもなかった。だから生体同期型ISで代用しているんだよ。そうだね、電子信号と原子運動の関連性は私から言わせれば些細な問題の一つであって――」
なるほど、よくわかりません。
それよりこの右腕がISというのなら、何か凄い機能がついていたりするのでしょうか。
「ISの性能? そりゃあ君の為のISだもん、世界最強に決まってるよ! まず無制限エネルギーは当然でしょ、Царь-бомбаの最大火力の至近爆発にも耐える耐熱耐核耐衝撃シールドでしょ、スナイパーなどに遭遇した際の非IS展開状態でのシールドのコンマゼロ秒以下の緊急展開機能にそれからそれから」
防御力が非常に頼りになることはよくわかりました。
というかとてもネイティブだったんですけどツァーリ・ボンバって言いませんでしたか、今。深く聞くのはやめておこう。
では攻撃面をお願いします。
「もちろん攻撃力にも手抜きなし! 時速12144㎞の最高速度に約1秒で到達する加速力! 火器管制AIは束さん謹製! 迎撃用対消滅光子小型ミサイルランチャー28門に、遠隔操作可能なビームビット! あらゆるすべてのステルスを無効にする索敵能力に加え自前のステルス能力も完備! シールドを展開可能な特殊装甲に加え砲撃戦にも格闘戦にも対応するパーフェクトな機体だよ!」
もしかして、反物質を封じ込めたりしてる武器があったりしますか。
「よくわかったね。このISは奥の手として反物質を――」
はい、それ以上はやめておきましょう束さん。なんだか復権・再征服しそうなことを言うのはそれくらいにしましょう。どれくらい凄いのかわかりましたから。
「えー、ビジュアル面にもこだわりにこだわり抜いたんだけどなぁ……」
いろんなメカのかっこいいところを選りすぐったのはわかります。
「でもその分、束さんのウェポンはなくなったと思ってくれると嬉しいかな、って」
そうか、これは束さんを守る為の力。そういうことですか。
「そういうこと! 頼りにしてるよ、男の子!」
任せてください、絶対に束さんをお守りします。
それはそれとして、おっぱいをいただきますが構いませんね。
「そういう約束だったね……。うん、いいよ。君の……好きにして?」
束さんがその豊満な胸を突きだす。今俺は、このおっぱいを征服するのだ。
なんという多幸感。世界の誰もが触ったことのない束さんのおっぱいを今から俺が、思いのままにするのだ。さぁ、いざ行かん、万里至福の彼方へと。
「ほーう……私の監視下で不純異性交遊に及ぶとは、いい度胸だ」
「……あ、ちーちゃん……」
一つ聞きたいのですが、どこから。
「好きにして、からだ。この馬鹿者ォッ!」
◇
シンプルにめっちゃ頭痛いです。
「無論、痛くしたからに決まっている。まったく、束め。また速攻で逃げ出して……それより、お前。その右腕はどうした? 医者の見立てではまず回復はないという話だったが?」
ああ、これですか。束さんが治してくれたんです。
「束がか……そうか。アイツならそれくらい簡単だろうな」
織斑先生が遠い眼をしている。余計な事を言って藪蛇になるのは嫌だし、黙っておく。
特に、この右腕が世界に発表されていない生体同期型ISなことは。
――束さんの胸を揉むことに集中していたあまりに忘れていた。
冷静になって考えてみると、俺の右腕が世界を軽く滅ぼせる兵器って怖い。これは滅多なことでは使わないようにして、普段は打鉄とかラファール・リヴァイヴに乗っておこう。下手に展開して目を付けられても嫌だ。
こんなとんでもないもの持っていることがバレたら、俺も世界から逃げ回ることになる。俺は今、アサルトライフルどころか全世界の核兵器の発射ボタンを渡されたのも同然なのだ。
でも、もの凄く自慢したい気持ちもある。テレビの悪役が巨大なパワーを得てヒーローに自慢するシーン、いつもそのパワーでヒーローを倒せばやられないだろって思っていた。今なら、その悪役がパワーについて長々と話したくなる気持ちがよくわかる。
「……何をにやけているんだ?」
いえ、なんでもないですと、俺は右腕をさすっていた。
これでは束さんが愉快なコスプレお姉さんになってきていると頭を抱える。
今回はナース服にするかメイド服にするか大変悩みました。
短編だから時系列が無茶苦茶で設定が二転三転してもいいんだ。いいんだ。
長編だったらそんなことはできない。
今回は『書けタスク』より綾鷹様のリクエスト『リハビリ』でした。
今更かもしれませんが感想欄へのリクエストは規約違反の対象になるので、活動報告『書けタスク』の方か、書けタスク内に張ってあるURLからリクエストボックスにお寄せください。後者は非ログイン匿名でお使いいただけます。
悪魔の様に黒く、地獄の様に熱く、天使の様に純粋で、愛の様に甘い。
Byタレーラン=ペリゴール
そんなコーヒー飲んでみたいですね。
次回は多分、束さんとクロエとラウラを交えた家族会議。(の前に……)
もしも一夏がトレーズ閣下だったらで絞り出した小ネタと別作にちょっと注力するので少し間が空くかもしれません。
Alcyone様、勘違いのご指摘ありがとうございます。
ブレーキとアクセル間違えるとか恥ずかしい…。
hisashi様、誤字脱字報告ありがとうございます。