時計台を見上げる、時刻は9時ちょっと前。初夏とはいえ、今年は空梅雨のせいか地面から立ち上るじっとりとした暑さがキツい。胸元を煽いで空気を送り込む。俺と同じように周囲の人々も、手で煽いだり
行き交う人々をぼんやりと眺める。望んでいた相手が来たのか、一組のカップルが挨拶を交わし仲睦まじそうに腕を組んで歩いて行った。ここは駅前公園の時計台前。つまりは人気の待ち合わせスポットである。携帯電話が覇権の時代になろうとも、やはりこういった場所で会うことに心ときめく。
――と、そんなことがデュノアから借りた雑誌に書いてあった。
記事の内容を思い出しながら自分の格好を見直す。一緒に歩いて恥ずかしくなる様な格好はしていない、筈だ。わざわざこの為に一夏とデュノアに協力を頼んだのだ。俺の拙いセンスで判断しても良い仕事だと胸を張って言える。
凰やオルコットからは少々睨まれはしたが、このコーディネートの代金と思えば安いものだ。
「お待たせ~」
俺を呼ぶ声と同時に、9時を告げる鐘の音が鳴った。
「ん? なんだか今日は気合が入ってて更にかっこいいね! 束さんは嬉しいよ!」
俺の待ち人である、束さんだ。今日はいつものワンピースも、ウサミミを模したヘッドパーツもお休みである。そして顔には眼鏡を、眼鏡だ、なんと眼鏡をかけているのだ。三度同じことを繰り返すほどに、束さんの眼鏡姿は新鮮だ。
知的さを感じさせる黒縁眼鏡だが、フレームはやや細めに作られてありオシャレを考慮したデザイン。黒というあえて単色のチョイスが、根っからの研究生活のせいか白い肌と抜群のコンビネーションを生みだしている。
「むー、私に夢中になってくれるのは嬉しいけどさ、他にも言うことはないのかなー?」
拗ねて頬を膨らませながら、束さんが毛先をくるくると指で弄ぶ。これは髪型を見て欲しい合図なのでは。必死になって予習したことを思い出し、束さんを改めて観察する。
陽光に煌めくロングへアは、いつも以上に気合を入れていることを感じさせる艶やかさだ。更には髪の一部を頭の横で一つ束ねたワンサイドアップにしていることで、ワンポイントを作る事も忘れてはいない。
ふんわりとしたフレアスカートから、足元の涼しげなサンダルに伸びていく素足が眩しい。キャミソールの上に胸元がやや透けた薄手のカーディガンを着ることで、清楚さと涼しさを感じさせながら大人の色気を見せてくれる。
全体的に服の配色は初夏に向けた薄めの明るい色で統一されていて、これは本当に。
――魅力的過ぎて束さんから目が離せません。
これに尽きる。
言ってみて、ハッとした。自分でも阿呆かと思うくらいの早口で感想を捲くし立て、結局出てきたのがこんな締めの言葉とは。もうちょっと気の利いた言葉の一つや二つがあったんじゃないか。その為に歯の浮く様なセリフまで練習してきたというのに、束さんの前ではすっかり吹っ飛んでしまった。
束さんも呆れているのか、すっかり目を見開いている。まさか俺からそんな言葉が出るとは思わなかったという顔だ。鳩が豆鉄砲を食らったようなとはいうが、束さんはどんな鉄砲なら驚くのだろう。と、そんな訳のわからないことを考えてしまう始末だ。
「……ちょ、ちょっと待ってね」
ひくひくと口を痙攣させる束さんからの、短い言葉。いきなり失敗してしまったかと、後悔が襲ってくる。
「ふふ、ふっ……ふふぇっ」
みるみるうちに束さんの頬が紅く染まっていき、耳まで真っ赤になった。口元はだらしなくにやけ目尻はどんどん緩んでいく。こんな風に束さんが恥ずかしがる顔は、俺でも初めて見た。
「――~~~!」
もうどうにもならないと言った風に、声にならない声をあげながら束さんが俺の胸に飛び込んで来た。束さんの軽い身体をしっかりと受け止めて、ついでに抱きしめてみる。
どうせここは人気の待ち合わせスポットだ。周りもカップルばかりなのだから、こういうことをしても違和感はない。違和感はないが、抱きしめるという行為は結構恥ずかしい。
どうやら俺は今日、初夏の熱に浮かされてしまっているようだ。
「……ずるいよ」
束さんが、俺の胸の中で絞り出す様に声をあげた。それくらいしか言うことが思いつかなかったのか、手を握って抗議するように俺の胸板をポカポカと叩く。力はまるで入っていないから、痛くない。むしろこういう束さんも愛おしい。
「君にそんなこと言われたら、嬉しいに決まってるじゃん」
束さんが俺の背中に手を回して、ぎゅっと抱きついてきた。
「少しだけ、こうさせてくれる……?」
消えてしまいそうな程か細い声だった。実際、今にも消える様な気がして何故だか切なくなる。束さんと同じように、抱きしめる力を強めた。
額を俺の胸板に押し付けたままで束さんは言葉を続ける。
「こんな風に抱きしめ合うなんて、種を残す生物的本能が出した神経伝達物質に騙される馬鹿共のくだらない行為だってずっと思ってたんだ。私はそんなものに騙されない、親にだってされたいと思わなかったしさせなかった。でも、でもね……今は私、とっても嬉しい。君の体温が、心臓の音が、こんなに近くに感じられて本当に……嬉しい。やっぱり君は、私の運命の人なんだね」
滔々と話すが、内容は簡単に聞き流せるようなものじゃない。運命の人がどう、というのも科学至上主義者の束さんが言うのはよっぽどのことだ。それに抱きしめ合う行為を生物学的な云々と言い切ってしまうのも、束さんが元々マッドな人だったことを再確認させてくれる。
だからだ。
「――に――よ」
――何か言いました?
「ううん、何も言ってないよ?」
周りの喧騒も相まって聞き取れなかった束さんの言葉が、どうにも俺の心をかき乱す。
聞こえなかったからこそ、聞きたくなる。何しろ、束さんは俺の元から離れてとびっきりの笑顔を見せたのだ。文字通り、俺にしか見せない表情だ。ならば声だって俺のものでもいいんじゃないだろうか。
束さんの表情から何から全てに至るまで、他の誰にも見せずに独り占めにしたい。そんな黒い感情が胸の奥から溢れだした。
――束さんを、手離したくはないです。
束さんの手を、思わず握っていた。自分でも驚いてしまう。俺はこんなにも積極的だったろうか。どうにもらしくないと、自嘲したくもなる。
しばし、束さんは俺の手と顔を見比べてから、優しげな微笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。私は貴方だけの束さんなんだから」
片手は俺の手を握ったまま、もう一方の手を俺の肩に置いて束さんは俺の頬にキスを一つした。
感情を昂らせる情熱的なキスではなく、親愛を確かめるためのついばむ様なキスでもない。だが、俺の心を安心させる不思議なキスだった。心中に広がっていたドス黒い感情が、潮が引くように消えていくのを感じる。
――束さんは、魔法使いなんですか?
率直な感想だった。
束さんはいつもの様な無邪気な笑顔を浮かべる。
「魔法かぁ……とても私とは相容れないものだけど、ふふっ。君が望むなら、魔法使いになってみるのもいいかもね!」
確かに、魔法使いという存在は束さんの有り方からすれば真逆のものだろう。束さんのことをよく知っているつもりなのに、どうしてそう例えたのかと自分でも苦笑する。それにしても、束さんが本当に魔法使いになったらどうだろうか。
瞬間、雷に打たれた。電撃的な発想が空気を読まずに全身を駆け巡る。
――つまり、魔女っ娘束さん。
我ながら教会に狩られそうな程の悪魔的閃きだ。ロングスカートかミニスカートか、クラシックスタイルかモダンスタイルか。想像は無限大である。
「……ふーん、そういうのも好きなんだー?」
にやにやと、束さんがイタズラを思い付いた子供の様に笑う。どうやら束さんには俺の
「それはハロウィンのお楽しみにしてて? ね?」
蠱惑的な囁きは、俺の脳髄に染み込んでからようやく意味となって広がっていく。一方で束さんは何事も無かったかのように無垢な笑顔を浮かべると、俺の手を引っ張った。
「さぁ、今日はデートなんだから目一杯楽しもうよ!」
慌てて、束さんと歩調を合わせる。改めてデートと明言されると少し照れる。最もこんなところに呼び出した挙句、いつの間にか互いに指を絡ませて手を繋いでいるのだから今更といえば今更だ。こうなれば恥ずかしがっている方が束さんに失礼だろう。
ぐっと気合を入れ直し、照れでへっぴり腰になっていた身体に気合を入れ直す。束さんはそんな俺を見ても、優しげな笑みを絶やすことはない。
「ふふ、今日はお姉さんがエスコートするからね!」
束さんが、初夏の爽やかな風に似た笑顔を浮かべた。俺も、自然と頬が緩んでいく。
――本当に、束さんは可愛い。
◇
――ここ、どこですか?
俺が甘かった。むしろこの考えに至れなかった俺が悪いんだろう。束さんと一緒に歩いていると、だんだんと日差しが強くなっていった。そうなると冷たい物が欲しくなるのは当然だ。そこでどうせなら本場のアイスを食べたいよね、と提案する束さんに手放しで賛成したのが良くなかった。
たまたま見つけたアイスクリーム屋の扉を開いただけなのに。
――もう一度聞きますよ? ここ、どこですか?
何故か日本人ではなくアメリカンなアイスクリーム屋の店員と、流暢な英語で会話を交わす束さんで嫌な予感はしていた。
アイスを受け取り外に出て見れば、太陽が海へと沈もうと傾いている絶景が目の前だ。これだけで夕刻なのがわかる。
問題は、この美しいビーチが束さんと歩いていた近くにはなかったことだ。更に言えば日本の都市らしいコンクリートジャングルはすっかり消え失せ、代わりにスペイン風の建物が立ち並ぶ美麗都市。季節外れで味気のない葉桜の街路樹だった筈が、今では背の高いヤシの木が立ち並んでいる。
「んー? ここはねー、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタバーバラだよ」
ストロベリーのアイスをつつきながら、束さんは当然の様に答える。まさか、瞬きもしない内に日本からカリフォルニアに移動しているとは想像が付く筈がない。
心を落ち着かせるために、束さんから渡されたカップに目を落とす。カップの中にはクッキーに挟まれたバニラアイスが、チョコスプレーとチョコソースにグラデーションされて俺を見上げていた。
スプーンですくって一口食べる。当然、甘い。旨味は日本人特有のものだというが、甘味は世界共通の筈だ。ならば、甘味で心が落ち着くのは俺だけではないと思いたい。
――あれ? 俺、パスポートなんて持ってませんよ?
落ち着いた頭が出した疑問は、あまりにも素朴過ぎた。
俺の勝手な統計だが、日本人の9割以上はパスポートを常に携帯していない。よしんば携帯していたとしても、カリフォルニアにくるまでに船や飛行機を乗った覚えもなければ税関を通った覚えもない。
となると、束さんが出す答えも予測できていた筈だ。
「正規の手段じゃないんだから、もちろん不法入国だよ。もっとも、束さんにしてみれば変な話だよ。宇宙から地球を眺め見てもさ、地上に国境線はないんだよ? 変だよね?」
そうですね、と曖昧な返事をしながらアイスをかき込む。
最早笑うことしかできない。束さんと一緒に過ごしているのだから、こういう規格外にもいつかは遭遇すると思っていた。ただ、流石に想像を超えたスケールがいきなりくると何はともあれ困るというのが正直な気持ちだ。
「そんなことはどうでもいっか。ここにはね、束さんが所有する物件が一つあってさ。さっきビーチを見たよね? 束さんにはよくわからないけど、人気の景色らしいから君にも楽しんで欲しくて――」
束さんが、急に喋るのを止めた。兎が危険を察知して辺りを見渡すように、束さんの意識がどこか別の場所に向いているのを感じる。
「うーん、これは気付かれちゃったかなぁ?」
――まさか不法入国に気付かれた、とか?
「そうだね。
なんでそんな、と言いかけてハッとする。
「まぁ、束さんは世界中から指名手配されてるからね!」
この人こそは全世界に名を轟かせる
だったら束さんと距離を取ればいいと人は言うだろう。俺が望めば、束さんはきっとそっとしておいてくれる。けれども俺は、絶対に束さんを手離したくない。
世界を敵に回すとしてもだ。
「あっ……」
束さんの手を強く握りしめた。二人カリフォルニアまで来た時と同じように、指を絡ませた握り方だ。これなら、手離してしまうことはない。
――今日は束さんがエスコートしてくれるんですよね?
そう問いかけると、束さんはにっこりと笑って。
「もちろん! それじゃあ行こうか、世界が私たちを待ってるよ!」
二人、並んでサンタバーバラの街を笑いながら駆け回る。
――屈強な警察官、あるいは軍人たちを背後に逃げ回るのは、実をいえば怖かったが。
◇
束さんに言われるままにドアを開けて飛び込むと、そこはIS学園の自室だった。振り返ってもう一度ドアを開けてみても、広がるのは寮の廊下ばかりだ。今の今まで、束さんと一緒に世界中をデートして回っていたとは到底思えない。
部屋に差し込む西日と、朝に見た時より進んだ携帯の時計表示だけが、束さんと過ごした時間の経過を感じさせてくれる。
「ねぇねぇ、今日は楽しんでくれたかな?」
束さんは期待した表情で俺を見つめている。
――もちろん、楽しかったです。
CIAやアメリカ軍に追われながら、世界で一番有名なネズミと写真を撮ったのは束さんと俺くらいだろう。無論、入場料とかそういう諸経費はきちんと払っているので不法入国以外に問題はない。
やっぱりそういう問題じゃないかもしれない。冷静になれば罪悪感も遅れてやってくるものだ。
「そう、良かった……そ、それにしても君の携帯は随分光ってるね?!」
束さんが喜色を誤魔化すように、俺の掌の中で暴れる携帯を指差した。
先程から俺の携帯には、織斑先生から鬼の様な着信が来ている。今までアメリカのみならず他にも数えきれないほど世界を回ってきた。そうすると、各国で束さんと俺の目撃情報が頻出する。つまりはIS学園がパンクするほどの問い合わせが世界から押し寄せて来る訳だ。結果として、織斑先生の堪忍袋は限界に来ている。
どうやら、このままのんびりとしている時間は多くないらしい。その前に、渡すものを渡しておかなければ。
「今ちーちゃんと鉢合わせたら君も私も怒られるぐらいじゃすまないから、束さんは先に帰るね」
束さんがドアに手を掛ける前に、呼び止めた。
「? どうしたの?」
不思議そうに首を傾げる束さんに対して、若干の躊躇が産まれる。どうせなら寮の自室ではなく、もっとロマンチックな場所で渡すべきだった。思えば世界を巡る中、絶好のポイントもあった筈。が、はしゃぎ過ぎてしまったのは俺の不覚だ。
どんな文句を言われたとしても俺は受け入れる。絶対、後でへこむが。
――これを、束さんに。
束さんの右手を取って、薬指に輪を通す。ポケットに潜ませておいたケースから取り出す一連の流れは、驚くほどにスムーズにすることができた。束さんにはめた指輪とまったく同じものを、自分の右手薬指にもはめる。
「えっ、えっ、えっ? これ? えっ、もしかして? えっ?」
――婚約指輪、とかいうやつですかね?
恥ずかしさのあまり頬をかく。
指輪自体は値打ちのあるものではない。ISのあれこれのおかげで金がない訳ではないが、所詮は何かしらの保護下にある未成年である。相応の大金を動かせばそれだけで国に勘付かれる。束さんに渡すものに、そんなケチがついたものを渡したくはなかった。
「……私で、いいの? 私を、選んでくれるの?」
束さんが指輪を抱きしめるようにしながら問いかけてくる。
これが境界線だ。世界の範疇に留まるか、束さんが居る
――決まっている。
俺は束さんを手離したくない。俺のものにしたい。俺のものになって欲しい。
――束さんが、いいんです。
言い切った。
今この瞬間から俺も束さんと同じ場所に立った。唯一束さんと違う点は、何の力もないくせに世界を敵に回した世紀の大馬鹿野郎というところである。だというのに、どうしてかすっきりとしている。
束さんが与えてくれたものに、少しは応えることができたからだろうか。
「………………」
束さんは何も言わない。大きく目を見開いて、俺の顔をじっと見つめて、目尻に涙を溜めている。頬は赤らみ、唇はわなわなと震えて絞り出す言葉を探して彷徨っているようだった。
とても長い一秒の後に、一際大きな涙が頬をゆっくりとつたって零れ落ちた時。
「……う……う、う゛わあ゛あ゛あ゛ぁぁぁっ!」
感情が、束さんが抑えていたものが爆発した。恥も外聞もない。子供の様に泣きじゃくりながら束さんが俺の胸に飛び込んでくる。息が止まるかと思うほどに抱きしめられ、うっと空気が肺から逃げ出して行く。
だけども俺は束さんを抱きしめて、胸の中にある暖かさを再確認する。このまま圧し折られても構わない。そう思える程に束さんが愛おしいのだ。
◇
随分と時間が経った様な気がするが、すぐに落ちる筈の西日が未だに強いのだからそうでもないのだろう。束さんは既に泣き止んでおり、肩を小さく震わせていることくらいしかその名残は感じられない。
束さんが、俺の胸に押し付けていた顔を上げた。
「ねぇ? 少しだけ……私らしくないことを言ってもいい?」
赤く泣きはらした目を見つめ返しながら、俺は頷いた。
「ずるい」
――はい。
「ムードもロマンチックもない」
――はい。
「馬鹿なの?」
――はい。
「本当に悪いと思ってるの?」
――はい。
「悪いと思ってるなら」
束さんが、頬を朱に染めた。
「キスして」
言葉は必要ない。
束さんを逃がしてしまうことのないように、抱きしめながら唇を塞いだ。束さんも、俺が途中で止めてしまわない様に背中に手を回しながら唇を押し返してくる。
息が出来ない、それは束さんも一緒だ。しかしキスを止めることはない。
どれくらいの間そうしていたかわからない。どちらからということもなく唇を離した時は、お互いに荒い息を吐き、息も絶え絶えという有り様だった。
「……愛してる」
束さんがぽつりと呟いたのを、今度は聞き逃さなかった。
――俺も、束さんのこと愛してますよ。
陳腐で使い古された言葉だが、これ以外にどう言えば良いのか俺にはわからない。子供の戯言かもしれないが、それでも俺の想いを束さんに伝えたかった。
束さんは少し目尻に涙を溜めて微笑んだが、すぐに悲しそうな顔をする。
「……でも、今日はこれでお別れだね」
ゆっくりと、強く繋がったものを無理矢理引き剥がすように束さんが離れていく。未練なのは束さんも一緒なのだ。俺の我が儘で束さんをこれ以上引き止めてはいけない。抱きしめていた腕を離す。握った掌に爪が食い込んで血が出る寸前でも、握り込んで耐える。
「………………」
束さんは俺の握った拳を見ると、少し考える素振りをした。そして人差し指を唇に当てると、その人差し指を俺の唇に当てた。柔らかな白い指先が俺の唇から離れて行き、その先は再び束さんの唇に触れた。
にこり、と束さんは今まで見たこともない様な笑みを見せて、身を翻してドアを開けて出て行った。ドアが閉まるか閉まらないか、その瞬間。入れ違うようにして織斑先生が部屋の中に入ってくる。
「話があるのだが、居るか?」
居ますよ、と返事をする。まさかドアのほとんど前に居るとは思わなかったのか、織斑先生は若干面食らっていたようだ。しかしそれも僅かな間のこと。咳払い一つしていつもの顔に戻ると、単刀直入に俺の今までを問い質しに来た。
無論、俺は本当のことを喋ることはない。今の俺には束さんがついている。そう思うと面白いように口が回った。それでも、一つ困ったのは右手の薬指にはめた指輪について突っ込まれたことだ。
――束さんに同じものを。
意味を察したのか織斑先生はちょっと視線を逸らしながら、そうか、と呟くだけだった。多分、織斑先生は同じものを渡したい、か渡された、という風に受け取ったのだろう。もちろん、俺は渡した、という部分を言わなかっただけなのだが。
気まずくなったのか織斑先生は俺に職員室へ顔を出すことを命じると、部屋を後にした。なんとか切り抜けることができたらしい。俺は大きく息を吐き出すと、外を見た。
西日は既に海の果てへと沈み、月の淡い光が部屋の中を照らしていた。窓に近づいて月を見上げる。
――月に兎がいるのなら、束さんは月にいてもおかしくないよなぁ。
ぼんやりと、そんなことを考えた。
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