「颯お兄ちゃん……。ねえってば」
耳元で聞きなれたこの世で最も愛する者の声がする。まあ、最もといっても二人いるわけだが。
「小町……?」
「うわっぷ!抱きしめないでよ!苦しい!」
そんな声に誘われて思わず抱きしめてしまったのだが、この行動は間違いだったらしい。
それにしても、良い匂いだな……。このまま二度寝したい。
「悪い……」
「もう。朝だよ。準備して学校いこ?」
「あれ?八幡はぁ?」
やばい、眠すぎて語尾が伸びてしまう。
やはり昨日の夜更かしが効いたようだ。そうか、あの後そのままここで寝たんだったな。
「お兄ちゃんはまだ寝てるけど、一人で起きていくでしょ」
「小町、悪い顔してるぞ」
黒い笑みを浮かべ、楽しそうにしている小町を見て思わず覚醒してしまった。
カーテンの閉められた薄暗い部屋を見回すと、確かに静かに寝息を立てながら眠っている八幡が目に入った。
「テヘッ!小町何のことかわかんなーい!」
うん、可愛い。お兄ちゃん許しちゃう!ごめんね八幡!
「颯お兄ちゃんは受験生だからね。流石に遅刻しちゃまずいから」
「かといって八幡が遅刻していいってわけじゃないけどな……」
「まあまあ!颯お兄ちゃんを迎えに行くのが今日だけ小町だったってだけだよ!」
「そういうことにしておくよ……」
ほんと、小町には敵わないな。
昔から変わらない悪戯っ子な妹の姿に苦笑を浮かべながら俺は学校へ行く準備を始めた。
「よし!レッツゴー!」
「おーう!」
朝食を食べ終えた俺達は意気揚々と学校へ向かう。
いつもは八幡の後ろにいる小町も今日は俺の背中にしがみついている。
「うん、たまには颯お兄ちゃんの後ろもいいね」
「そうか?まあ、滅多に乗らないもんな」
俺が小町を後ろに乗せるといったら、八幡が病気などで学校を休む時くらいだ。
まあ、八幡が学校を休むことは意外にも少ないため、必然的に小町を後ろに乗せる回数は少なくなる。新鮮と言われればそうかもしれない。
「お兄ちゃんは小町が後ろに乗ってないと危ないからねー!」
「はは、そうだな」
確かに小町が後ろに乗っていれば危ない運転はしないだろうしな。俺もいつもより若干安全運転を心がけている。
「あ、颯お兄ちゃん。別に校門の前まで行かなくてもいいからね?」
「ん?なんでだ?」
別に校門の前まで行く位どうってことないのだが。
「だって、校門前まで行くと人だかりができちゃうから」
「何故に?」
「はぁ……。この無自覚モテ男め。颯お兄ちゃん目当ての女子が寄ってきちゃうでしょ?」
いきなりこの子は何を言い出すのだろう。
確かに俺はそれなりにモテる方だと思うが、接点のない女子中学生に寄ってこられるようなことは流石にないと思うのだが。
「いつもはお兄ちゃんがいるから寄ってこないけど、いつも学校に入った後友達に紹介してってせがまれるんだから」
「えぇ……」
今頃の女子中学生ってアクティブなのね。
八幡がいるからってのは少々酷いとは思うけど……。
「だから、あんまり行っちゃダメ。……それに、あの噂を知らない子がいないわけじゃないんだよ?」
小町の声が不安気に落ちると同時に腰に回された手がキュッと締め付けられる。
「ははは!別に俺は気にしないけどな!もう卒業したわけだし」
「それでも!颯お兄ちゃんが変な風に言われるのは嫌」
「……わかったよ。じゃあ、ここらへんでいいか?」
俺ができる最大限の優しい声で語り掛ける。
「うん。……よし!ありがとね颯お兄ちゃん!」
「おう!行ってらっしゃい」
今日はちゃんと鞄をもって学校の方へ走っていく小町を見ながら俺は溜息を吐く。
「俺が吹っ切っても、小町や八幡達の中からは消えないってのかよ」
そんな自分に嫌気が差し、未だに消え去らないクソみたいな噂に思わずキレたくなる。
だけど俺は、今の自分を辞める気はない。
愛する弟妹の為にも。
そして友人の為にも。
今日も今日とてつつがなく終了した学校からの帰宅途中、少しばかり時間があった為近くの喫茶店で勉強でもして帰ろうと思ったのだが、案の定考えることは皆同じようで多くの学生でごった返していた。
こんな中で勉強をしても集中できないと思い踵を返そうとしたとき、喧騒の中に聞き慣れた声が耳に入る。
「君達何してんの?」
「あ、颯お兄ちゃんだー!」
「兄貴か」
そう、我が愛すべき弟妹がそこにはいた。
しかし、そこに居たのは八幡達だけではなかった。
「先輩も勉強かしら」
「あ、お兄さんだー!やっはろー!」
「八幡のお兄さん、こんにちは」
こちらも見慣れたメンバーだ。
ちなみにガハマちゃんはめでたく奉仕部へ入部したらしい。
それはそうとして、戸塚君はいつから八幡を下の名前で呼ぶようになったんだい?なんかおかしくないのにおかしく感じるぞ!
「で?何してんの?」
「あ、そうそう!大志君の相談を受けててね!そこに偶然お兄ちゃん達が来たから、奉仕部の皆さんにも協力してもらおうと思って」
「なるほど」
確かに八幡も相談しろと言っていたし相談をするには最適な場だろう。
ん?大志君?
そこで小町の対面に座る学ラン姿の男子生徒が目に入る。
「颯太お兄さん!力を貸していただけると嬉しいです!」
うん、少年らしくハキハキとしていて印象良いね。
だけど……。
「あはは。君にお兄さんと言われる筋合いはないよ?次言ったらどうなるかわかってんのかワレェ!」
「口調が最初と最後で全然違うわね」
「ねえねえゆきのん、ワレって何?」
「お前って意味よ」
「へー」
最早驚くことすら諦めている奉仕部の女子連中をよそに、件の大志君はびくびくと震えていた。
「もー!大志君が怖がってるでしょ!颯お兄ちゃんが怒ったらこんなもんじゃないけど、今の時点でも怖いからやめて!」
「これより怖くなるの!?」
小町のフォローになってないフォローに大志君は更に顔を青く染める。
「そろそろ話を進めてもらっていいかしら……。私達もあまり暇なわけではないのだし」
呆れたような声で話の先を促す雪ノ下さんの言も正しい。ひとまずここは引いておくとしよう。
「は、はい。えと、姉の名前は川崎沙希って言います」
「うちのクラスの奴か」
「あー!川崎さんだね!」
八幡達の様子から、どうやら同じクラスのようだ。
「ちょっと怖い系な感じだよね」
ガハマちゃん達が話を進めていく中、俺は川崎沙希という名前を脳内で繰り返し唱えていた。
そして、思い出す。
陽乃さんに連れられて行ったバーに居たあの子だ。
名前も合致しているし、総武高だとも言っていた。見かけは少し怖そうという部分も一致している。
「変なとこからも電話がかかってくるんです!エンジェルなんとかっていうところから!」
「なんか変なの?」
「エンジェルっすよ!?絶対変なお店ですっすよ!」
うーん。この男子中学生はなかなか将来性があるな。
確かに前や後ろにつく言葉によってはエロい店なようにも感じる。わかる、わかるぞ大志君。八幡も大方解っているようで大志君と熱い抱擁を交わしている。
だけどな、今回に限っては間違っている。
川崎さんがいたのは大人なバーであり、エロいエンジェル的でヘブンな場所ではない。まあ、大人なバーっていうのもあれなのでお洒落なバーとしておこう。
八幡と大志君の熱い絆が結ばれるのを横目に、女子達の間では方針が固まりつつあった。しれっと戸塚君が入っているのは最早何も言うまい。
雪ノ下さんは今回の相談に関して協力をするらしい。
八幡は渋っていたが、小町のお願いに逆らえず了承していた。
「颯お兄ちゃんは無理して協力しなくてもいいよ?」
「え、小町ちゃん。俺、仲間はずれ?」
お兄ちゃんショックなんだけど。
「先輩は受験生でしょう?小町さんなりの気遣いよ」
「そうですです」
「そっか、ありがとな小町。まあ、川崎さんに会いに行くときは俺もついていくよ。それぐらいはいいだろ?小町や大志君はいけないだろうし」
「その時はぜひお願いするわ」
まあ、川崎さんのバイト先を教えるのもそれはそれでいいのだが、本当に行き詰った時で良いだろう。
「よろしくお願いします!」