――不可能だと、思った。
歴史の影で、古くから時の権力に仕えた暗殺組織――
その追手から逃げ切ることが容易でないことを、先生が一番よく解っているはずなのに。
なにより足手まといになるのは俺だ。それに先生は、誰も殺さずに逃げるつもりでいる。こんな縛りを二つも受けては、脱退など不可能だ。
『
俺は先生に命を救われた。その時に俺は一度死んだ。既になきこの身、この命、あの方のために捨てる覚悟はとっくにできている。
「……」
身体を休めている先生を起こさぬよう、先生の刀を手に取る。追っ手の影は、もう崖の下に見えていた。動くなら、今しかない。
そっと先生から離れ、坂道を下って歩いて行く。
……ごめんなさい、先生。
先生の志を護れねば。
まだ見ぬ弟弟子の志を護れなければ。
一番弟子なんて、言えないでしょ。
そう決意して、更に足を踏み出そうとした時だった。
「烏が 一羽」
闇の中から。
憎悪と殺意の入り混じった、平淡で無機質な声が聞こえた。
足を進めようとした先。
そこには薄汚れ、裾もボロボロになった黒衣をまとう者が立っていた。
顔は、外套と一体になった頭巾を深く被っているため見えない。背丈は、子供である俺とさして変わらない。だがその身が放つ気配は、ただの人間と言うには程遠い。
まるで死という言葉を具現化したような。
死神と呼ばれる奈落よりも、より死そのものとも言えるその存在。
そして俺は目の前の奴の名を、今この瞬間に直感した。
「
烏を狩る存在。いつからか奈落の前に現れた、天照院最大にして唯一の天敵。
奈落が、幕府がいかに捜索し抹殺しようとしても、決して手の届かぬ死の御使い。
奈落に恨みを持つ亡霊の具現か、或いは地上で死をもたらし続ける奈落へ、天が遣わした罰の象徴か。
出会えば必死。
いかに屈強な部隊といえど、その最後は必ず皆殺し。残る命は一つたりとて存在しない。
殺された仲間たちが最後に残した、断片的な情報を集めて、ようやくソレには「羅刹」という名称がつけられた。……名称だけで、未だにその正体は掴み切れていないが。
人か、呪いか、亡霊か、現象か。
必ず烏を殺し尽くす存在が、なぜ今ここに……!
「……何の用だ、何が目的だ。まさか先生を追って――」
その先の言葉は続かない。
気配もなく足音もなく。
俺のすぐ喉元には、刀の切っ先が突きつけられていた。
……指先から、体温が冷えていく。眼前には避けようのない死神。
至近距離で感じる、あまりの殺気の圧に呼吸が浅くなる。
少しでも身じろぎすれば、殺される。
一秒後に、俺はかつて見た、見知らぬ「物」になる――
「……
耳に届いた声が、目の前の死神の言葉と悟るのに数秒かかった。
声には疑念の色が帯びている。予想外の相手の反応に、こちらも思わず目を瞬いた。
「小烏?」
声が再び尋ねる。
ハッとなって、俺は反射的に、
「あ、ああ……」
そう、喉から声を絞り出して肯定していた。
その答えが果たして正解だったのか。
スッと喉元から刃が引き、鞘に納められる。
「失礼。烏違い」
殺気も憎悪も嘘のように。
相手が顔を上げる。
そこには、黒衣をまとった赤眼の少女……らしき者が立っていた。
……いや、少女!?
あの羅刹の正体が!? 長らく奈落を壊滅に追い込んできた存在の正体が、こんな――!?
「――君!!」
呼び声は己の背後から。
それは紛れもない、眠っていたはずの師の声だった。
「せんせっ……!」
まずいと咄嗟に振り返った瞬間、
「大烏ッ……!!」
目の前を、死の黒風が通り過ぎた。
その後姿をこの目が捉えた時には遅く。
斬、と空中に、師の鮮血が舞っていた。
「先生ェェェ!!」
「――!」
死神の白刃は音より速い。
再び凶刃が師に迫り来る直前、俺は手に持っていた刀を投げ飛ばす。
「止まれ――ッ!!」
死神が刀を避ける。直後、素早く先生が刀剣を掴み取り抜刀した。
ガキィンッ!! と火花が激しく散り咲く。死神と、死神の刃が衝突する。
交わされる凄絶な剣舞。その一挙一動は、俺の目では追い切れない。
「待ってください、私は――」
「問答無用……ッ!」
幾度目かの剣戟が二人の間で行われる。
先生が本気で相手にしていない――決して殺さぬよう手を抜いているのは明らかだった。しかしそれでも、彼女の剣術も決して師に劣らぬものであることが見て取れる。
「ッ――」
先生の腕を刃が掠め、次の瞬間、その刀が弾き飛ばされる。
トドメの突きが放たれる。
それは真っ直ぐに、師の心臓を狙った一撃だった。
「やめろォォオオオッ!!」
気付けば俺は、突き出された刃と、先生の間に割り込んでいた。
何故、その刹那、彼女の動きに、身体が追い付けたのかは分からない。
ただただ必死だった。先生のために、と考えていた思考もなく、ひたすらに先生を失いたくないという感情が、俺の身体を動かした。
目を瞑った瞬間。
――死をもたらすハズの痛みは、いつまで経っても来なかった。
目蓋を開けると、そこには無感動な表情でこちらを見つめている死神。
その瞳に底はなく、光さえない赤い虚のようだったが。
果てしない憎悪と殺意と怒りという意志だけが、そこには在った。
「……別物」
ポツリと、静寂に彼女が零した。
見れば刃は、全く俺の方なんて向いておらず、すぐ後ろの先生の首筋ぎりぎりで、完全に停止していた。
……更に言えば、彼女の瞳が見つめていたのも、俺ではなかった。
「別人。異物。特例。例外。――理解、不能」
「……貴方、は。“羅刹”……なんですか?」
背後から聞こえる師の声は、どこか震えていた。
恐れというよりは、驚愕の色に近い。
それに対し、小さな死神は。
「皆目知らず。当方、烏を滅すのみ。――だが」
刀が引く。
殺気も殺意もそのままに、彼女はふと、崖下の方へと視線を動かす。
「大烏、肩透かし。想定外に予想外。
失望を帯びた目で、彼女は言う。
ついでにチッ、と強い舌打ちもして。
「故に、
八つ当たり、と最後に相手はそう言い残し。
ふわり――と、崖を飛び降り、その幼い体躯を宙に躍らせた。
「待っ――――」
先生が手を伸ばすが、届くことはなく。
落下していった死神の黒影は、下を歩いていた奈落の追手たちに襲い掛かった。
どよめきと混乱の気配が、地上に広がっていく。
まき散らされる血潮。奈落の精鋭たちが、次々と彼女の手によってその命を刈り取られていく。
「……っ、行きましょう、先生。今の内に……!」
肝の冷える出会いだったが、追手の注意が逸れている今が好機だ。
グイと師の着物の裾を引っ張ると、先生は彼女のいる地上を一瞥する。
「……、」
「先生!!」
強く声をかけると、ややためらいながらも、先生は視線を切る。
手早く準備を整え、後ろ髪を引かれる思いであろうそんな師の手を握りながら、俺は足早にその場を後にした。
*
それから――
先生は吉田松陽と名乗り、松下村塾という学び舎を始めた。
旅の道中、いつまで経っても生意気な銀髪の子を拾い、また次の場所へ移動していく内、いつの間にか旅をする弟弟子は、一人二人と増えていた。
「だからあの時、朧兄さんの注意をちゃんと聞いていれば……」
「ハァ!? ありゃ高杉が先に行ったんだろ! 俺はそれを止めようとして、」
「なに人に責任なすりつけようとしてんだ。最初に話を持ってきたのは銀時、お前だろーが」
「いやホントに見たんだって! 仙人っぽいの居たんだって! マジで!!」
「お前ら、最初から全員乗り気だっただろう。結果がその泥濡れだ。帰ったら早急に風呂に入るように」
……はぁーい、と揃う三人分の返答。
毎日問題を起こす困った弟弟子たちだが、おかげでこの日々に飽きがくることはない。
「あはは、仙人ですか。私も見てみたかったですね」
隣で微笑する師の顔は、奈落にいた頃では、決して見ることのできなかった、この平穏な日々の象徴だ。
ただ、それでも。
様々な土地を歩き、門下生が何人増えようとも。
俺と師の頭には、あの時置いてきぼりにした、一人の少女の姿がチラつくのだった。
*
「――君が居眠りとは珍しいですね、朧」
目蓋を開ける。
そこは奈落の拠点にある、己にあてがわれた自室だった。
「何か夢でも見ましたか?」
「……いいえ。今となってはもう不要の、下らぬ過去の記憶です。――虚様」
正座したまま見上げると、そこには赤い眼をした当代奈落の頭首が立っている。亜麻色の髪やその顔立ちは、記憶にあるかつての師と瓜二つ。
幾日が経った。幾月が経った。幾年も経った。
あの温かな日々の時代から。
「吉田松陽」は処刑され、その弟子たちは別々の道を歩んだ。
そして己は、弟弟子たちより一足早く道を決め、再びこの日陰に戻ってきた。
「そうですか。私は今も夢を見ています。“未知”たる彼女とまみえる日を――」
かつて。
少女が探し追い求めていた大烏は、そう言い残して去って行く。
「……、」
この胸に抱く意志は、無謀なものかもしれない。無意味であるのかもしれない。
――それでも、俺は信じている。
決して、不可能ではないと。
必ず彼らと相まみえる時は来る。必ず師は、生きて戻られる。
黎明、未だ来らず。
烏となった男は、闇の中で、今もその日を待ち続けている。
~緊急記者会見~
羅刹「朧くんを松下村塾ルートに叩き込みました。ごめんなさい」