ラビットハウス――この街に点在する喫茶店の中にあってもそれなりの歴史を持つ喫茶店兼ジャズバーである。
昼は老若男女問わず、多様な客層がこぞるスタンダードな喫茶店。夜は店主が趣味で集めたジャズミュージックが耳を、腕によりをかけた料理が舌を、そして豊富な種類の酒が心を癒す大人の憩い場としての顔を持つ、一風変わった店である。
今は亡き祖父に代わり息子が現在の店主を務めているようで、どうやらジャズバーとしての側面を持ち合わせるようになったのはその頃からだとか。
ともあれそんなラビットハウスでは今、昼の喫茶店としてのラビットハウスでバイトをこなす三人の少女が小さな問題に直面しているようであった。
「チ、チノちゃん……ここはお、お、お姉ちゃんに任せてっ」
「は、はい。姉と認めるかどうかの最終試験です」
「ずいぶんと急な試験だな」
震えた声音で告げるのはこの店で居候をしているココア。
頭に白い毛玉を乗せ、お盆で口元を覆っているのがこの店の店主の娘であるチノ。
前の二人に比べて幾分か心にゆとりの持てているのがリゼ。
そして、店の一角を遠巻きに囲っている三人が相対している問題とは、テーブルの陰で怪しげな黒い光沢を放つ畏怖の化身――ゴキブリだった。
「そ、そうだ。スプレーなら遠くからでも!」
「切らせてます……」
「スリッパとかがあれば私が――」
「切らせてます……」
「いや、それはあるだろう」
その時、この場に於いてたったひとり平常心を保っていたリゼは悟った。
「もしかしてチノ、テンパってるのか?」
「切らせてます……」
「うわあぁんリゼちゃん、チノちゃんが壊れたラヂオみたいになっちゃったぁ」
「いやココア、壊れたラヂオなら音はしないぞ」
青ざめた顔色のチノは小刻みに震え、テーブルの下を見据え続ける。今にもそこの暗がりから黒光りする小さくて醜悪な生物が這い出て来るのではないか、と。
しかし、チノの怯えや恐怖の感情は彼女――慌てふためくココアへと、思いもよらない贈り物を届けることとなる。
「わわっ――チノ、ちゃん?」
見据えた暗がりで畏怖の対象が見せた蠢きを受け、咄嗟の自衛心から近くの人間へすがろうとしたチノが、無意識の赴くままにココアの懐へと飛び込んで来たのだ。
結果、彼女の頭に乗る白い綿毛――もとい、彼女の飼っている丸っこい特徴的な形状のウサギに顔をうずめる形となったココア。だが、綿毛に埋もれた内では脈々と、その顔は闘志に溢れ返っていた。
「チノちゃん――お姉ちゃんに任せて」
身を寄せて来たチノの痩身な身体を優しく抱き返した刹那――その小さな肩を掴み、身を離させる。
「ココアさん……」
「なんだ、ココアがいつになく真剣な顔になってるぞ」
二人は悟る――今のココアはこれまでの彼女ではないことを。
愛おしい妹が初めて自分を頼り、すがって来たのだ。ココアは、これまでの一方通行気味だったチノとの想い出を瞬時に喚起させ、その想いの丈を全身を流れる血潮に溶け込ませて行く。
火照る――否。彼女の内で芽生えた熱は業火となり、愛する妹の平常を苛む畏怖の化身への烈情となってココアの身体を突き動かす。
「チノちゃんを怯えさせるゴキブリなんて私が――」
紫の煌めきがテーブルの下へ移ろう。
眼光が軌道の線を描き、左手が木目の床へ降り立つ。右足は伸ばされ、左足は屈折させている。そして――チノへの想い火を宿した右手は敵を掴み、握り潰さんとしているのか、指を開いては閉じてを繰り返す。
「いざ――」
ココアは雷光の如き速度で右腕を暗がりへと伸ばそうとした――が、
「きゃああぁぁぁ――」
次いで店内に響き渡ったのは勝利の咆哮ではなく、悲鳴だった。
☆ ★ ☆ ★
モカが扉を乱暴に開け放ったのは、詰まらない苛立ちや粗悪な性悪の為ではない。むしろそれは彼女の身に宿った強い正義感、もしくは使命感が所以だった。
「大丈夫です……か?」
勇んで飛び込んで来たモカは、店内のあまりの静けさに呆気を取られる。
想像していた光景とはだいぶ異なった様に惚ける彼女が、木製の椅子やテーブルで統一されたシックな雰囲気の店内を見回すと、入り口から見て左側の床に腰を据えた三人を発見した。
着ている服から見て、彼女たちはこの店の従業員だろう。
「あの……」
放心状態の三人へ向けてモカが声を掛けると、藍紫色のツインテールの店員だけが彼女の存在に気付いたようで、赤面しつつ機敏な動きで身体を起こす。
「い、いらっしゃいませっ――ほらチノ、ココア」
引きつった笑みを向けてきた店員は次いで、他の二人にも声を掛ける。が、白髪の店員も茶髪の店員も一点を見つめたまま動こうとしない。
「えっと……いったい何が?」
未だ状況を飲み込めないモカが問うた瞬間、困惑に目尻を落としていた彼女の視界の端に、黒い影が映った。
「ああ――っ!?」
ツインテールの店員が放った驚嘆の叫びが残響となるより先に、モカの右手は迫っていた黒い影を払い落としていた。
しかしモカは、それの正体がなんだったのかも理解していなかった。払い落として見せたのは半ば反射的な行いだったのだ。
故に――
「何だった――のぉ?!」
床に衝突し腹を見せて足をピクつかせるのがゴキブリだったのだ、と確認した瞬間、モカの視界に黒い幕が降ろされたのだった。
楽し気な笑い声に起こされるようにしてモカが意識を取り戻した時、最初に彼女の瞳に映ったのは見知らぬ木目の天井。そして、腹の上に乗っかっている白くて丸いフワフワの物体。
「目が覚めたようだな」
夢か――腹の上に乗った物体には粒な黒い目が二つと口らしきものが備わっており、首を曲げてその姿を見据えた彼女の目は確かに、聞こえてきた老人の言葉の通りにその小さな口が動いたように見えたのだ。これが夢の続きに思えても無理のないこと。
モカは自分が未だに夢心地に浸っているのだと悟ると、再び知らない天井を仰ぎ見る。
「あ、起きた?」
しかし、聞き覚えのない明るい声音が彼女の閉眼を妨げる。
驚き加減も程々に、モカが首を回して声の方を向くと、そこには小さな丸テーブルを囲って座する五人の少女たちの姿があった。
内、こちらを見やっている紫色の瞳には見覚えがあった。意識を消失させる間際に見た茶髪の店員だ。そしてもう二人、同じくあの店の店員が座っているのが見える。
だが、残りの二人に見覚えはなかった。
一人は長い黒髪、もう一人はくせ毛の具合が凄まじい金髪。
「もう目が覚めないのかと思って心配したんだ。昼間はありがとうな、お蔭であのゴキブリはなんとかなったよ」
「ココアさんの最終試験、結果は不合格です」
「ええっ、そんなぁ……」
「あらあら、次の試験はいつなのかしら」
「何の試験よ……」
各々が繰り広げる文字通りの談笑。
見ず知らずも良いところのモカだったが、なぜか五人のそんなやり取りは耳に心地よく、自分の方から話題が逸れてしまっているのにも関わらず、いつの間にか聴き入る姿勢をとってしまっていた。
「不思議だろう。あの子らの話はつい、聴き入ってしまうんじゃよ」
「そうですね……え?」
知らぬ間にすぐ側まで寄っていた先程の白い物体から又しても、老人の声が聞こえてきた。
今度のモカは自分が夢の内に揺蕩っている訳でないことをしっかりと認識していた為、当惑して固まる。そして、
「喋ったぁ?!」
驚嘆の情を叫び声に変えて発するのだった。