〈物語〉シリーズ プレシーズン 【裁物語】   作:ルヴァンシュ

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 三篇を統合しました。そしてお久しぶりです。

■ 以下、注意事項 ■

・〈物語〉シリーズ、アニメ未放送分のネタバレを含みます。
・他、何か有れば書きます。

■ NOIR ■


第伍話 しのぶハート 其ノ肆

[014]

 

 

「暗いのう怖いのう狭いのう」

 

「うるせえ、吸血鬼が何言ってんだ」

 

 テントを設営し終えた僕たちは、軽い食事を終えてから中で横になっていた。

 忍の言う通り、一人で入るのであればそれ程でもないのだろうけれど二人で入るには、このテントは少々狭かった。暗いというのも、明かりなんて精々薄く薄く覗き込んでくる月明かりくらいしかない。どうしてもというなら懐中電灯があるけれど、僕らが僕らなだけに、ぶっちゃけ明かりは必要ない。怖いのは知らん。

 

「いや、怖いと暗いは冗談じゃよ。しのぶジョークじゃよ。けれど狭いのは確かじゃ。という訳でお前様、出て行け」

 

「こらこらしのちゃん、滅多なことを言うもんじゃないよ」

 

「誰がしのちゃんじゃ。しずちゃんみたいに言うな」

 

「しずちゃんと言えば、最近ではアニメのイメージが強すぎて原作でのび太くんがしずかちゃんをしずちゃん呼びしているシーンが誤植のように思えてくるよな」

 

「あれは寧ろ逆なのじゃがな。アニメ版だと声優さんがしずちゃんと発音し辛いからしずかちゃん呼びになったのだとか」

 

「ふーん……待て待て、そうやってドラえもんの知識をひけらかしてさっきの発言を誤魔化すんじゃあない」

 

「うぬが勝手に路線変更したのじゃろうが」

 

 そうだっけか。

 まあいいや。

 

「つべこべ言っておる間に行動したらどうじゃ? ほら、出口を開けてやるから」

 

「おかしくないか? 僕が出て行くとかどう考えてもおかしくないか? 逆じゃあないか?」

 

「おかしくないおかしくない。これ以上なく理に適っており正当じゃ」

 

「いいや不当だね! 出て行くなら忍、お前の方だぜ。ほら、影を作ってやるよ。影の中って案外居心地良いんだろ」

 

「はぁぁ!? 阿呆かうぬはー? 確かに魅力的な提案ではあるが、しかしその程度で儂を負かせると思うな! かかっ!」

 

 負けず嫌いな忍さんであった。一度出て行けと言ってしまった以上、後に引けなくなったのだろう。頑固な奴め。つーか魅力的って認めちゃってるじゃねーか。

 

「でもな忍、よく考えてみろ。僕が外に出たらお前にとって困ることになるぞ。僕の影で充電できなくなるんだからな」

 

「儂を携帯の子機のように扱うな。ならうぬはあれか、儂にパワーを与える以外は特に何も出来ないヒモということでよいのか」

 

「子機の充電器は紐っぽくないぞ。残念だったな」

 

 まあ台座にくっ付いてるんだけども。つーかコードを紐呼ばわりすんなや。そんな機械に弱い年配の方みたいな……。

 

「僕は台座の方だ。僕の膝は小さな子を座らせるためにある」

 

「うぬ、あまり迂闊な発言をするなよ。今この場には電話子機ならぬすまーとふぉんとやらがある。いつでも変質者として通報できるのじゃからな」

 

「一瞬でもスマートフォンに手を掛けてみろ、お前の無い胸を撫で尽くしてやる」

 

「むう。そこまで忠誠を誓われると主としては庇いたくなるのう」

 

 もうこの発言が、というか胸を撫でる行為そのものが十分通報理由になりかねないのだけれど……吸血鬼でよかったと切に思う。

 

「……この言い訳で八九寺の胸を撫で回したいな」

 

「そこで元委員長ではなく迷子娘の名前が出てくる辺り救いようがないなお前様。いや、結局どちらも変質者どころか只の屑であることに変わりないが」

 

「僕は屑じゃない。阿良々木だ」

 

「噛んでおらんし間違ってもないしこればっかりは不当でもなんでもないぞお前様」

 

 酷い言われようである。

 まあ。

 そんなこと(羽川の胸を揉む)僕は出来ないんだけどな。百歩譲って屑じゃなくてもチキンな阿良々木くんなのだ。

 

「常々思っておったのじゃがなお前様。最近ハチクジに対するセクハラが当たり前のようになっておるが、ぶっちゃけこれ犯罪じゃからな? 通り魔じゃよ?」

 

「なあ忍。そういう今更なことを言うの止めにしようぜ。ちょっと冷めちゃうからさ」

 

「自分に都合が悪くなったら即座に話を畳みおったぞこやつ」

 

「いやいや違うんだよ忍、そうじゃあないんだ。確かに僕は八九寺に対するちょっとした出会い頭のスキンシップはほんの少しだけ楽しんでやっているフシはあるよ。そこは否定しない。けれど最近はそういうのにも飽き飽きしてるんだよ、だから僕としてはあの一連の流れから早く卒業したいと思っているわけなんだ。高校を卒業したと同時にロリラギさんから卒業したい訳だよ。でもそれを許さない読者諸兄という概念がこの世界にあってだな、僕はみんなの期待を一身に浴びてしまっているんだよ。やりたくないよ? もう足どころか手も洗いたいくらいなのだけれど、でも仕方ないんだよ、仕方なくなんだよ! 最早このテンプレートは僕の意思を離れてしまったんだ! もう自分の意思なんてあってないようなものなんだよ忍! 後には引けないんだよ! くそっ、この状況をどうにか打破出来ないものか……助けてよ、のぶえもん〜!」

 

「長い! 吸血鬼だぶるぱんち!」

 

「ぐふっ!」

 

 いつもの片手ではなく、両手を用いたアッパーパンチ。視界がぐらっと揺れた。

 どうやらこののぶえもんは聞く耳を持たないらしい。ドラえもんと違って耳があるってのになんてこった。

 

「儂の拳はチャンピオングローブにも等しい。参ったか」

 

「道具を出さないとか酷いぞのぶえもん!」

 

「チャンピオングローブと言えば、他にもハイパワーグローブとかスーパー手袋なんかがあるが、何が違うのかの?」

 

「その辺は藤子・F・富士雄先生の記憶違いとかじゃないかな……」

 

 あれだけ膨大な設定量なのだから忘れることだってあるだろう。どれだけ巨匠でも人間なのだから。

 いや、寧ろ、巨匠と呼ばれる存在が得てして高齢なことから考えると、"巨匠でも"ではなく"巨匠だからこそ"なのかもしれない。

 

「……いやいや。案外そうとも言えんぞ? 儂もある巨匠(マスター)を知っておるが、そやつは人間ではないからな」

 

「へえ? そんな知り合いいるのか」

 

「まあの。とは言え遥か昔の話じゃ――今も生きておるのか、はたまた既に死んでおるのか。知りかねる」

 

「ふうん……」

 

 当たり前といえば当たり前なのだが――しかし僕は、忍の昔の知り合いなんていうのが存在することを、全く知らなかった。いや、知らなかったどころか、思いつきさえしなかった。

 

 忍の過去。

 

 考えてみたこともなかったが――僕はこの、僕の主人にして従僕であり、あどけない幼女であり艶やかな美女であり、吸血鬼であり吸血鬼もどきであるこのパートナーについて、どれほど無知なのだろうか?

 

 僕は彼女について何も知らない。

 何も。

 

「……なあ、忍――」

 

 ――この時、僕が忍に何を訊こうとしたのか、思い返しても定かではない。仮に訊くことが出来たところで――僕はまともな質問など出来やしなかったと思う。

 

 だから。

 

 だから、突然テントが凄まじい音を立て、遥か彼方へ吹き飛んでも吹き飛ばなくても――結果は案外同じだったのかもしれない。

 

「っ…………!!?」

 

「何っ…………!!?」

 

 僕と忍は反射的に跳ね起きた。テントは拙いながらもちゃんと張ってあったし、仮に暴風が原因だったとしても、風の音なんて全くしなかった。地面に刺した柱だって、粘土細工じゃあるまいし、バキバキに折られて散乱することなんてまずあり得ないのだ。

 

 自然現象ではあり得ない――なら、超自然現象なら。

 怪異の仕業なら――あり得ないことなどないのだ。

 

 僕たちの目が、吸血鬼の眼が、この暗闇の中で捉えたのは一人の男だった。

 

 闇においてさえ目も眩むような金髪で。

 その目は鋭く金色の光を放ち。

 肌は陶器か彫像のように白く。

 血も凍るほど美しい相貌であった。

 

「――■■■■」

 

 男が声を出した。何語で喋っているのだろう、それは理解出来ない言語だったが――一つ分かったことがあるとするならば。

 ちらりと覗いたその八重歯が、まるで牙のように鋭く尖っていたことから推察すれば。

 

 この男は――吸血鬼だ。

 

 

 

[015]

 

 

「吸血鬼……!」

 

 吸血鬼特有の牙という動かぬ証拠を見せつけられて尚、僕は信じられなかった。吸血鬼だと仮定すれば、テントを吹き飛ばした怪力も説明がつくのだが。

 

 どうして吸血鬼がここに?

 

 こちらも信じたくはないし思い出したくないが――今この街には吸血鬼ハンターが居る。しかも一人ではない。手練れのハンターが集団でやって来ているのだ。普通に考えれば、態々そんな状態の場所へやって来るなど自殺行為も良いところな筈だが。

 

「■■■■……■■■■■■■■■■」

 

「な、何を言っているんだ」

 

 全く分からない。言語が違う。英語でさえない。

 ドラマツルギーとの初対面でも言葉の意味が分からなかったけれど、あの時はギロチンカッターが諌めていたし、ドラマツルギー自身も『現地の仕事は現地の言葉で』を信条にしていた。

 けれどこの様子を見る限り、こいつにそういう意図はないらしい。僕が全く理解出来ないままに、淡々と喋り続けている。

 

「■■■■■■■■■、■■■■■■■――■、■■■■■。■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」

 

「……げ、現地では現地の言葉で喋ってくれないか」

 

「■■■■■■■■■■■■」

 

「…………」

 

 原産の言葉でしか喋ってくれないようだった。

 というかよく考えてみれば、こっちがこの調子なら向こうにとっても僕たちの言葉は解読不明なものに聞こえているのかもしれない。だとすれば、応じようにも応じようがない訳だ。

 仮にそうならばそれは最悪の事態である。何せ双方の言語が通じないのであれば、まず話し合いが出来ず、交渉さえも出来ない。雑談スキル全振りの僕であっても、そもそも話が出来ないのであれば話にならないのである。

 

 さて、どうしたものか。

 穏健派の僕としては、出来れば戦わずにこの場を切り抜けたいのであるが、生憎この吸血鬼はそうではないらしい。言葉が通じなくとも、いきなりテントを吹っ飛ばすなどという先手を打って来たのだから、間違いなくこの吸血鬼は僕達に対して敵対の意思を持っている。一体僕達に何の恨みがあるのか知らないが――或いは。

 

 考えられるのは二つ。

 

 一つは、それこそ血に飢えて狂ってしまっている可能性。これならば早速攻撃の意思を見せたのにも納得はいくし、ハンターの居るこの地にやって来たことも分かる。切羽詰まって狂い、自暴自棄的になっているのならば理由がないという理由を理解出来る。

 

 ただ、個人的にありそうと思っているのはもう一つの理由で――二つ目は、則ちこいつが、織崎記の差し金であるという可能性である。正弦の弦を信じるならば、この件は完成形変体刀と何らかの関係があるため織崎が介入してきてもおかしくはない。

 

 いやまあ、会話出来ないことにはそれらも知りようがないけれど。

 

 取り敢えずここいらで、僕の相方の意見を聞こうと思う。吸血鬼事情なら、なんだかんだで詳しい筈と踏んだ。

 

 僕は忍を見た。

 

「忍、お前の意見を聞こ……忍?」

 

 見ると、如何なることだろうか? 忍はあの吸血鬼を凝視したまま両手で体を抱え、がたがたと震えていた。

 あの忍が。

 嘗て伝説の吸血鬼と呼ばれていた存在が、がたがたと。がちがちと。震えていた。

 

「お、おい? 忍、どうした!」

 

「違う……違うぞ……! お前様、違うんじゃ、違う! 違う!」

 

「っ…………!?」

 

 『違う』――って、何がだ?

 忍の様子は明らかにおかしかった。尋常でない反応――"怯え"とさえ表現出来そうなそれであった。

 

「違う、違う――儂は知らん! 知らんぞ! 儂は、此奴など知らん! うぬなぞ知らん! お前様よ、儂は、儂は――!」

 

「お、おい! 落ち着け! 落ち着けよ忍! どうした!」

 

「■■■■■! ■■■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■!」

 

「黙れっ!! 儂はお前なぞ知らん! 出鱈目を言うな!! あれはもう既に――!!」

 

 今までに聞いたことのないような金切り声で、男の声をかき消すかのように忍は叫んだ。

 

 何のことだかさっぱり分からない――忍はこいつを知っているのか? それに、どうやら言葉も解っているようだ。僕が知らないということは、忍がこいつに出遭ったのは、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードと名乗っていた時期なのか。

 

 言葉が通じるなら交渉が――などと思ったが、無理だ。今の忍は、軽くヒステリーを起こしていると言っても過言ではない。話し合いなど出来るものか。

 

 過去に何があったというのだ? 忍がこんなに取り乱すとは――こいつは、何者だ!?

 

「お前様!! こやつを殺すぞ! このような不愉快な存在、この世から消してしまおう!」

 

「こ、殺すって――待てよ! 相手は吸血鬼だ! そんな簡単に倒せる訳が!」

 

「儂に血を吸わせろ! 限界まで!! 仮に――仮に、百歩どころか億歩以上譲ってこやつが本当に『あの男』だとしても、限界まで吸血鬼に近付いたうぬなら! 互角程度の戦いが出来る筈!!」

 

「な、何言ってる! おい忍! 説明してくれよ!」

 

「説明などせんでよい!! こやつは儂らの敵であり儂らはこやつを殺す、ただそれだけ、それだけでよい!! それ以外の情報なぞ不必要じゃ!!」

 

「っ――――!!」

 

 何故だ――何故、こんなにも忍は動揺しているんだ。何が忍をそうさせている? あの死屍累生死郎の時に匹敵する程の……いや、それ以上だ。

 

 だが――忍は、間違ったことは言っていない、筈だ。確かにこいつは僕達に対して攻撃を仕掛けてきた、それは間違いない。敵であることは間違いないのだ。

 それに何より。

 この尋常でない忍の反応が、こいつの危険度を如実に表しているではないか。忍が恐れているものをぼくが倒せるのかは正直なところ甚だ疑問ではあるが――忍の言うこともあまりあてにできない。春休みの時は、あのハンター三人組との戦闘を『楽な仕事』と評していた程度に、この幼女は敵の見積もりが甘いところがある。

 

 やるか?

 やれるか?

 やるしか――ない!

 

 もうそれ以上僕は考えなかった。服を引っ張り、忍が血を吸いやすいように首筋を露出させた。

 

「分かったよ――吸え! 忍!」

 

 忍は僕に飛び乗り、首筋にその鋭い牙を突き立て――

 

「超ウケる」

 

「え?」

 

 ――ようとした、その時である。突然、嘲笑うかのような響きの声が何処からともなく聞こえてきた。そして同時に、僕のすぐ横を何かが猛スピードで通り過ぎて行った。それは僕の腕を少し掠めたようで、焼け付くような痛みが、そこから腕全体に、熱が伝導していくように広がっていった。

 この痛みには覚えがある。耳が少し疼いた気がした。

 それに、この声――聞いたことがある。いや、どころか――本当、数時間前に聞いたぞこの声!

 

「■■■……!!」

 

 さっきとは違う場所に吸血鬼は立っていた。そしてさっきまで居た場所には、まるで墓標のように――巨大な十字架があった。

 

「くくっ、くくくっ! 本当ウケるぜ――んな気軽に吸血鬼化しようとしてんじゃあねーぞガキ! しかも限界ギリギリまでだ? あれ程痛い目ぇ見たってのに懲りねえ奴だ。超ウケる」

 

「なっ……お、お前! エピソード!? 何でここにいるんだよ!? っつーか、どっから出てきた!」

 

 そう、エピソード。さっき確かに僕と別れた筈のエピソードが、何故かここに居た。

 

「あん? どっからってそりゃあ、ずうっと霧になって、お前らの後を追ってたんだよ」

 

「き、霧って――え!? じゃあ山に入る前のあれは何だったんだ!? お前、別の仕事に行ったんじゃあなかったのか!?」

 

「だからこれがその別の仕事だよ、うっせえな! ごちゃごちゃ抜かしてるとてめえもついでに後遺症の残らない程度に殺してやる!」

 

「ごちゃごちゃ言いたくもなるわ!! え!? じゃあお前、つまりは、ずっと僕達と一緒に居たってことか!? おまっ……!」

 

「別に別れるなんて俺は一言たりともいってねーぞ。てめえが勝手にそう解釈しやがっただけだ、ガキ」

 

「えぇ……」

 

 そう、だったかあ?

 そう言われてみれば、まあ、そうだったような気がしないでもない……何にしても酷い屁理屈だ……。

 

「俺が態々探しに行くより、隠れててめえらに着いて行った方が、こいつを仕留めるには最も確実な手段だと踏んだってことだ。そして、見事にやって来やがった」

 

 エピソードはそう言うと姿を消した。数秒後、突き刺さった十字架の側に姿を現し、十字架を引っこ抜いた。

 

「俺としちゃあ、ついでにお前らも死なねーかな程度の気持ちで初撃は見逃したんだが……こりゃ無理だな。相当ヤバいランクの吸血鬼と聞いていたが、性質がすっかり変わってやがる」

 

 何気に僕達を見殺しにしようとしていたところは、まあ、追求しないとして(そんなに僕達のことが嫌いか)――相当ヤバいランクだと。忍が恐れるほどの吸血鬼――え? マジでなんで僕が倒せると踏んだんだ、この肩に捕まったまま震えていらっしゃる金髪幼女は?

 

「まあ、仕事が楽になったってんなら大歓迎だ。さっさと死ねや吸血鬼――トロピカレスク・ホームアウェイヴ・ドッグストリングス!」

 

「〜〜〜〜っ!!」

 

 エピソードは再び十字架を投擲した。吸血鬼は跳躍し、そのままバク転を繰り返してそれを避けた。エピソードは軽く舌打ちし、再び消えた。

 

 トロピカレスク・ホームアウェイヴ・ドッグストリングス――それがこの吸血鬼の名前か……だから長えよ。言ってる間に三回は噛むっつってんだろうが。キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードといい、なんで吸血鬼の名前ってこんなに長いんだ?

 

「……■■■■……アセロラ――!!」

 

「っ〜〜〜〜っ!!」

 

 ん? 今……アセロラっつったか?

 

 アセロラ?

 アセロラオリオン?

 

「貴様……貴様……」

 

「■■■■■■■■■■! ■■■■、スーサイドマスター■■■■■■■■■■■■!!」

 

「黙れ黙れ黙れ!! 亡霊めが!! 大人しく退治されろ!! 儂は知らん!! うぬなど――うぬなど――!!」

 

 またも、辛うじて聞き取れる言葉があった――スーサイドマスター? 英語だ。直訳すると、"自殺の巨匠"……どういう意味だ。どういう文脈で使ったんだ。ますます分からなくなってきたぞ。

 

 スーサイドマスター……ん?

 

 あれ? マスター……マスター?

 

 ついさっき……忍が――。

 

「おいガキ!」

 

「っ!?」

 

 エピソードの怒鳴り声で、考察から現実に引き戻された。

 

「な、なんだよ!」

 

「いつまでそこに突っ立ってやがんだ? 超ウケる! さっさと向こうへ行けよ!」

 

「え!?」

 

「だから、邪魔だっつってんだ――よっ!!」

 

 エピソードは再び十字架を投擲。しかし吸血鬼はそれを避け――!

 

 こ、こっちに十字架が飛んできただと!?

 

「うおっ!?」

 

 僕は忍を抱き抱え、慌てて横に転がった。あの吸血鬼のように、スタイリッシュにバク転までは出来なかったけれど、なんとか避けたので良し。

 

「分かったろ? 邪魔なんだよ――荷物纏めてさっさと失せろ。こいつは俺の獲物だ」

 

 姿を消したエピソードが言った。

 

「■■■■アセロラ■■■■■■■■■!! ■■■■■■■■■! ■■■■、■■■■■■■■――は「はは「ははは「はははは「ははははは!「はははははは!「ははははははは!「ははは「ははははははははは!!」

 

「っ!!」

 

 まずい。

 直感的にそう感じ取った――これは太刀打ちできないとも。この哄笑――吸血鬼全員が、この笑い方をするのか? いや、共通項なんて今はいい。今は――逃げる!

 

「っ――悪い、エピソード!」

 

 僕は忍をおんぶし、テントの失踪によって露出した荷物を引っ掴み、出せ得る全速力で駆けた。

 

「■■■■■■■■■■■■!! ■■■■■■■■■――!!!」

 

「後遺症の残らない程度に――殺してやるよ!!」

 

 吸血鬼とヴァンパイアハーフの、そんな殺気立った声から僕達は離れていった。きっとこの戦いはそれはもう熾烈なことになるのだろうが――それなら余計、僕に出来ることはないだろう。

 

 僕は走りながら忍に話し掛けた。

 

「なあ、忍」

 

「訊くな」

 

「…………っ」

 

 けれど、忍は『訊くな』の一点張りだった。僕は多少なりとも気になりつつも、結局それ以降、僕がこの件について忍に追求することはなく。

 

 只管に我武者羅に夜通し走り続けた末――夜が明けると共に、僕達は、鬼会山を越えたのであった。

 

 

 

[016]

 

 

 千針山。

 

 この山はそう呼ばれているらしい――そして、実際に近くで見てみると、なるほどこの名は的を射ていると思った。

 そして、斧乃木ちゃんの言っていたことも理解できた――山であることは疑いようはないが、しかし見る限り、どうやら鬼会山のようなまともに休息できるような場所は無いように見受けられる。

 

 岩。

 岩山。

 

 鋭く尖った岩があちこちから顔を覗かせている。まだ入り口だというのにこの調子では、果たして頂上はどうなっているのだろうか? 僕は見たことがないけれど――そして諸事情により死後にさえ見ることはできないであろう――針山地獄を彷彿とさせる。

 

 僕は厚手の軍手を取り出した。斧乃木ちゃんの勧めで選んだものだが、大袈裟ではなく、心の底から斧乃木ちゃんに感謝しなければならない。もしも彼女のアドバイスが無ければ、今頃僕はもっと尻込みしていたであろうから。

 

「取り敢えず……今日中とは言わずとも、明日中には超えたいな」

 

 なんだかんだで、鬼会山はほぼ1日での攻略に成功した。だからという訳ではないが、きっとこの山も1日程度で超えられるだろう、という根拠のない自信があった。

 

 愚かにも。

 愚かなことに。

 

「…………」

 

 僕は影に目をやった。けれど、何の声も聞こえないし、何の反応も見られない。

 

 鬼会山を超えた後、ちょっとした激励を掛けてくれた後、忍は僕の影の中へと入って行った。曰く『眠い』とのことだが――きっとそれは間違ってはいないだろう。何せ結局徹夜で山を越えたのだ。僕だって休息はとりたかったので、その後暫く眠ったくらいだ。

 

 けれど、それだけじゃああるまい。

 

 あの吸血鬼――トロピカレスク・ホームアウェイヴ・ドッグストリングス。あいつと忍がどういう関係だったのかは知らないが、どうやら奴との遭遇は忍のメンタルに甚大なダメージを与えたらしく、眠気とは別に、忍はすっかり疲弊してしまっていた。

 あれから結局僕達を追いかけてこないところを見ると、戦いはエピソードの勝利に終わったのだろうが――謎は謎のままであった。

 

 トロピカレスク・ホームアウェイヴ・ドッグストリングス。

 謎の言葉『スーサイドマスター』。

 

 そして――『アセロラ』。

 

 僕は彼方此方から突き出す岩に気を付けながら、進んで行った。

 

 地味に気になるのは、そこである――『アセロラ』。忍の反応から察するに、きっとそれは『アセロラオリオン』のことなのだろうが――どうしてあの吸血鬼は、忍をそう呼んだんだ?

 大抵、嘗ての忍を呼ぶとすれば、それはフルネームか、或いはハートアンダーブレード呼びだった。例外として、眷属である僕と生死郎だけはキスショットと呼んでいる。

 けれど、今までミドルネームで呼んだ者は居なかった。たまたまあいつが、ミドルネームで呼ぶ主義の奴だったと考えればそれまでだが……それに、"アセロラオリオン"ではなく"アセロラ。オリオンの部分は僕の聞き逃しかもしれないけれど。

 呼び方さえもイレギュラーだった、あいつは一体なんだったのだろうか?

 

 幾ら考えても、僕の頭ではそこから先に進めない。疑問が生まれるだけで何一つ解決しない。これが羽川なら、こんなに思考するまでもなく答えを導き出してしまうだろう。或いは臥煙さんなら――いや、臥煙さんなら疑問に思う前の段階で、既に知ってそうだ。

 つい先程、忍にぼうっとするなと注意されたところだというのに、早速僕は心ここに在らずな状態で歩いていた。さっき僕は何を考えていたんだったか――そうだ。日和ちゃんだ。確か、日和ちゃんと一緒に和服を買いに行ったときのことだ。

 

 鬼会山を下っている時のことである。流石にずっと走り続けるのは身が保たないため歩行に切り替えていた。その際、僕はすぐそこにあった木に、真っ白な着物が引っ掛けられてあるのを目撃したのだ。

 またぞろ怪異か、と思ってその着物を引っ張ったり被ったり畳んだりしたけれど、結局それは何の変哲もない、ただの着物でしかなかった。

 誰かが脱ぎ捨てたのだろうか? だとすれば何の為に――気にはなったものの、それより気になったのは、その着物は日和ちゃんに買ってあげたあの着物と瓜二つだった、ということだ。材質も、色も、大きさも、何ら変わりのないもののように思えた。

 これを持って行ったところで何かある訳でもなかったのだが――そういうセンチメンタルな気分もあって、僕はその着物をバッグに入れた。

 改めて考えると、その行為のどれだけ軽率であったことだろう。はっきり言って僕のこの行為は実質盗難に等しい。もしもこの服が棄てられていたのではなく、敢えて持ち主が掛けていたとしたら? いや、周囲に人の気配なんてなかったからその可能性は極めて低いだろうけれど、どちらにせよ最早立派な犯罪と言えた。

 ……犯罪っつーなら、もうこの一年間で色々犯してしまっているような気がするけれど――これでいいのか、警察官の息子。

 

 そんなことを考えていると、いよいよ眼前に岸壁ならぬ岩壁が立ちはだかった。これの前では、もうこのストックでは意味いだろう。

 これはもう置いていくしかないか――いや待て。それはない。ストックは置いていく前提のものではなかった筈だ。普通のリュックサックならいざ知らず、斧乃木ちゃんから貸してもらった(厳密に言えば臥煙さんから)ザックは登山用、何処かに収納スペースがあるのでは?

 輪っかか? ザックにいくつかの輪っかが付いている。ここに装着するのか?

 取り敢えず差し込んでみた。

 

「……安定しないな」

 

 今にも滑り落ちそうである。

 どうしようか……僕は、斧乃木ちゃんに少しでもレクチャーしてもらうべきだったと少し後悔した。ストック要らずの装備無しで山登りするような彼女である、訊いたとしても知っていたかどうかはちょいと怪しいところではあるけれども。

 影の中に仕舞えたりするのかな? いや、あくまで出し入れ出来るのは、忍のスキルで作ったものだけだったか? 確か、そうだったかも。

 

「えっと……」

 

 不味いな。こうしているうちにも時間はどんどん進んでいる。ずっと立ち往生しているわけにもいかない。

 仕方なく、ストックを安定しないところに差し込んだままで、僕は登ることにした。

 軍手装着。

 うむ、さすが登山用。見るからに厚そうだったので指が動くがどうか内心心配していたが、十分動かしやすい。杞憂だったな。

 出っ張った岩に手を掛けてみる。ごつごつした感覚はあるけれど、痛くはない。技術って凄いんだな。

 

「よし」

 

 不安定要素がある時点で何も良しくないが、ともかく、よし。

 さあ、登るぞ――ちょっとワクワクしてきた。ロッククライミングなんて初めての経験だからな……劇場版【傷物語 Ⅱ 熱血篇】では校舎の壁を登るという荒技を披露していた僕だが、あれは飽くまで演出の一環であり、フィクションであるから、あまり気にしないように。

 

 じゃあ、いくぜ!

 

 僕は改めて気合いを入れ、ついに片足も突起に乗せた。

 今日中に超えてやらあー!

 

「ちょいとちょいとお兄ちゃん。何処から出てくるのです、その根拠無き自信は」

 

「根拠無きって言うな! つーか、今そんなこと言う、な……」

 

 今にも登ろうとした瞬間――何処から出てきたのか、背後から児女の声がした。

 

「……え?」

 

 そう、児女だ。

 あくまでも声質から特徴を判断しただけであって、この時点では、僕はその児女を"彼女"だと認識していなかった――いや、実際のところ、思い当たってはいたのだ。

 

 けれどあり得ない。

 あり得ないのだ。

 

 だって――だって、彼女は。

 

「お久しぶりでございますね。……阿良々木お兄ちゃん」

 

 僕は降りて、振り向いた。

 

 神崎日和。

 

 彼女はもうこの世界から、消えてしまった筈なのに――?

 

 

 

[017]

 

 

 僕は夢でも見ているのか? そんなありきたりな感想を抱いてしまった。それくらい信じられなかったのだ。

 

「ひ――日和ちゃん、なのか?」

 

 恐る恐る僕は訊いた。そんな僕とは全く真逆と言ってもいいような、まるで太陽のような笑顔で、日和ちゃんと思われる児女は言った。

 

「ええ、ええ。勿論ですよ阿良々木お兄ちゃん。あたいは日和以外の何物でもありませんとも。お久し振りでございます」

 

「お、おう、久し振り……って……か、軽いなおい」

 

 僕たちってもっと重い別れ方してなかったっけ? このシリーズ史上類を見ないレベルで悲惨な別れを経験していなかったっけ?

 

「まあまあ良いではありませんか。左様なことなど些細なことでございます。ちょいとバラバラにされた後真っ暗闇の中に葬られた程度のことですゆえ」

 

「それがちょいとした些細な事だと主張するというのであれば、是非とも教えて欲しいもんだな、大事ってやつを!」

 

「そりゃあもう、阿良々木お兄ちゃんが斬り刻まれて斬殺されるか、北白蛇神社が倒壊することくらいじゃあないですか?」

 

「僕の死が神社倒壊と同列なのか……」

 

 この町の要であるあの神社と同等と言われるのは、喜んでいいものかどうなのか。視野を広げて考えれば、神社倒壊の方がよっぽど大事そうだ。 

 

 僕は目の前の児女を見た。

 隅々まで観た。舐め回すように診た。

 ふむ……確かに、見た目は紛う事なく日和ちゃんだ。服装は初期設定のものではあるけれど、真ん丸なオッドアイ、ほんの少し尖った歯、ぷにぷにして柔らかそうな頰、張りがあって瑞々しい肌――僕は人物鑑定自体にはそこまでの自信がある訳ではないけれど、児女と幼女と童女と少女と羽川だけは絶対に見間違う事はないと自負している。

 だから僕の感覚を信じるならば、このらうたき児女は、神崎日和なのだろう。

 

「……なんで居るの?」

 

「おや。酷いですね阿良々木お兄ちゃん。あなあさまし――あたいがここに居るのが、ご不満でありますか」

 

「い、いや。不満じゃねえよ。嬉しい。嬉しい、けど――君……」

 

 僕は再び日和ちゃんを見た――いや本当、どういうことなのか?

 僕の記憶が、興奮と焦燥によって捻じ曲がっていないのならば、確か日和ちゃんはあの絶対者、世界の修正力、『くらやみ』によって跡形もなく消し去られた筈だ。

 まさかあの苛烈な非存在が消し残しを許す筈もあるまい――初代のあいつの時は、それこそ規格外の例外として――形見である二振りの刀を遺して、残さず消し去った、筈。

 

「いやはや。あたいも如何なる理由で此処に居るのか、さっぱりでございます」

 

「君自身にも分からないのか?」

 

「はい。理由というなら、あたいだって知りたいですとも」

 

「ふむ」

 

 『くらやみ』に呑まれたものが自然復活するとは、正直考えにくい――再生は出来ても復帰は不可能なのだろう。いや、でなければ修正力だの消失者だの、そういうのが完全に意味をなくした名前になってしまう。

 『くらやみ』が『くらやみ』自身を呑み込んでしまいかねない程に。

 けれど、じゃあそうなると、目の前の彼女は何なんだという話になるのだが――。

 

「…………」

 

 もしかして。

 もしかして――ありえないとは思うが、あり得る一つの可能性として――織崎記が何かしたか。

 随分ふわっとした表現だが、何をしたのか分からない以上『何か』と表現するしかあるまい。あいつには未だ何か隠している能力がある筈だ。先の戦いの際、そう感じた。

 糸だけじゃないだろう、と。

 

 或いは、あいつのお付き……なのかどうかさえ定かではなくなってきたあの亡霊、淡海静の仕業か? 怪異を作る怪異――どういうプロセスを経ているのか見当もつかないが、そういうことが出来るのなら、日和ちゃんを再び生成するのも可能かも……と思ったけど、無いか。

 何せ、また作るメリットが向こうにない――作ったとしても、またこちらに寝返ってしまうのだ、寧ろデメリットである。行動原理から何から何まで意味不明な存在であるが、流石にないだろう。

 

「……なんか、考えれば考えるほど、分からなくなってくるな」

 

 今考えるべきことではない、とも思えてくる。

 重要極まりない事象ではあるけれど、ぶっちゃけ僕のミッションとは何の関係もないのである。なら、考えるのは、臥煙さんに丸投げしてもいいんじゃあないのかな? なんて。

 言われたことだけやってりゃいいのか、とか斧乃木ちゃんなら言いそうだが、忘れられがちだがこちとら怪異、更には『くらやみ』に関してずぶの素人である。素人にどうしろと、って話だ。

 

 だから……。

 まあ……。

 

 うん。

 保留!

 

「じゃあ日和ちゃん。一緒に行こうか」

 

「変わり身早すぎませんか?」

 

 うるさい。考えることを放棄した僕が児女を放っておくと思うな。

 

「懐疑の念は晴れましたか? あたいはあたいであると、理解して頂けましたか」

 

「理解はしてないけどな。まあ何にせよ……また会えて嬉しいよ」

 

「はい。あたいもです」

 

 日和ちゃんはにこりと笑った。

 

 太陽のような笑顔。目が焼けてしまいそうなほど、それは眩しくて。

 

「おかえり、日和ちゃん」

 

「はい、ただいまです」

 

 そして同時に、まともな思考回路さえ、焼いてしまいかねないものだった。

 

 

 

[018]

 

 

「そして逝ってらっしゃい、お兄ちゃん」

 

「いってきま、え?」

 

 ……いやまあ。

 

 そりゃあ。

 

 そりゃあ、そうだよなあ、と。

 僕は思った――そんな、都合のいいような事、ある訳ないよなあ、と――僕の腹部に刺さった、血で赤く染まった刃を見ながら、思った。

 

「っあ――――っ!!」

 

 痛みと血が、じわりと広がっていく。

 

 日和ちゃんは何も喋らず、張り付いたような、しかし満面の笑みで、そのまま僕を斬り刻んでゆく。

 腹の刃をそのまま上昇させ、肩まで斬られる――後退する僕。ギリギリ半身はくっついているが、まるで嵐のような連続斬りで、身体中の彼方此方に傷が生じ、血がどばっと噴き出し、流れ出した。

 

「お、おい……日和ちゃん……何の、つもり、だ!」

 

「やはり、厄介でございますね。吸血鬼というのは」

 

 日和ちゃんは刃の血を振り払って――否、刃と化した両手の爪を振り払って、言った。

 

()()()()()()()()()()()()、ここまでとは――普通斬死されておりますよ、その傷では」

 

「日和ちゃ――いや、お、お前! 誰なんだ!?」

 

「誰とは。あたいは神崎日和でございます。今も昔もいつだって――『日和号』でございますとも」

 

「くっ……!!」

 

 ふらふらとしながら、岸壁に触れた――現在、僕の吸血鬼度はそれほど高くない。それでも尚生きていられるのは、腐っても吸血鬼もどきってところだが――傷の治りは当然遅く、さっきまでなら今頃傷が塞がっていたろうが、今は精々血が止まった程度である。

 

 日和号だと?

 血が回っていない、不活性な脳で考える――成る程、初期設定状態で現れたと言うのなら、僕に対し敵対してくるのは全く自然である。気付くべきだった。

 

 彼女は今、簪を付けている。

 

 微刀『釵』――その名が示す通り、日和号としての本性は、この簪に集約されている。以前日和ちゃんと戦った時には、簪を抜き取ると元の日和ちゃん、即ち神崎日和に戻ったのだ。それは裏を返せば、簪こそが、日和号を覚醒させるパーツであることに他ならない。

 

「阿良々木暦・認識。即刻・斬殺。です」

 

「っ!!」

 

 再び爪を振り上げる日和号――その姿は嘗て見たメカメカしいものではなく、神崎日和そのものであったし、微妙に台詞が人間らしいものになったような気がするが、しかし本質的には変わらない。

 

 多少無茶でも、やるしかない。

 

 僕は駆け出した――走った、とは、とても言えないようなスピードだ。爪がまた身体を裂いたけれど、それを全力で無視して、手を伸ばす。もっと出てくれアドレナリン。

 

「!」

 

 日和号が、驚いたような表情を見せた――顔が日和ちゃんのそれなので罪悪感が募るが、なに、傷つけるわけじゃあない。

 

 僕は簪を掴んだ。その間にも多少斬られたが、問題ない――そのまま、引き抜く!

 

「っしゃあ!」

 

「な"っ……」

 

 引き抜いた僕の手には、しっかりと簪が握られていた。日和号の髪が解け、それと同時に日和号はよろけ、倒れ込んだ。

 

「は、はあ……」

 

 な、なんとか助かったぞ。流石に二度目だからか、随分とスムーズにいったな。

 

 そもそも、こんな動きが制限されるような場所、日和号にとってはさぞ動き辛かったことだろう――なんて、相手を思いやるという勝者の余裕をかましながら、僕は突き出した岸壁に、渾身の力を込めて、簪を叩きつけた。

 パキンッ! そんな軽い音と共に、簪は壊れ去った――そして、そのまま塵とも霞ともつかない物質となって、消え去った。

 

「さて……」

 

 まあ、これでハッキリした――わざわざこんな敵対行動をとらせてくるのだ、これは淡海静の仕業だろう。結果としてはやっぱりこちらの戦力を増やすことなったが、少なくとも僕にダメージを与えたのは、確かなのだ。

 ……多少、引っ掛かるところはあるが――淡海静が、こんな大雑把な策をぶつけてくるのか、と思わなくもないが、しかし僕はそもそもあいつのことを何も知らない。もしかすると、ああ見えて結構雑な性格なのかも。何でもかんでもどうでもいいと切り捨てる辺り、それっぽい。

 

 僕は日和ちゃんのところへ戻った。爪は元通りだし、別に傷付いてもいない。頭は打ったかもだが、大丈夫だろう。

 

「おーい、日和ちゃん。起きろー」

 

 僕は冗談めかして、軽く日和ちゃんの頰をペチペチと叩いた。

 

 のだが。

 

「…………ん?」

 

 感触がおかしかった。オノマトペで表現するなら、ペチペチではなく、べちゃべちゃといった具合。

 

「お、おい? 日和ちゃ――ひっ!?」

 

 次の瞬間、僕は仰け反った。日和ちゃんの頰を見、次に掌を見た。そして、戦慄した。

 

 それはべっとりと、へばり付いていた。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――!

 

「なっ……こ、これは!?」

 

 日和ちゃんの頰は削げ、そこからは白い骨が見えてしまっていた。何度も見返す。

 

「そ、そんなつもりじゃあ! 日和ちゃん!」

 

 再び触ろうとしたところで、ギリギリで手を止めた。もしかするとまた皮膚がとれるかも? そんなことを考えていたかもしれないけれど、しかし、手を止めた瞬間、そんな考えは吹っ飛んだ。

 見ると、骨が剥き出しになった頰から、円状に皮膚が剥がれてゆくではないか。皮膚が溶け、爛れ、垂れ落ちてゆく。僕はそれをただ、恐怖を感じながら見つめていた。

 過程が怖いのではなかった。ましてや、そのゾンビのように、腐敗していく様に恐れをなしたのでもない――そんな段階は、去年のタイムスリップでとっくに通り過ぎた。

 だから、そうではなく――これから何が起きるのか全く予想できないのが、何も止める手立てが思い浮かばないのが、只管に怖かった。

 

「な――何が――」

 

 何が起こるんだ。

 何がトリガーとなったんだ――僕はさっき簪を折った場所へ目をやった。しかしやはり、簪は完全に消えたのだ、何処にもない。

 あれがトリガーだったのだ。ただ抜き取っただけではなく、壊すことによって発生する現象――日和号が日和号でなくなった瞬間、回帰不可能になった際に起動する機能、なのか。

 

 僕は恐る恐る、溶けてゆく日和ちゃんを見下ろした。

 

「う……これは……」

 

 その顔は、もう半分以上が骸骨であった。どうやら融解しているのは皮膚だけのようで、目は眼窩に嵌ったままだ。そしてそれがより一層、彼女をグロテスクに見せかけている。

 手足の融解も始まったのだろう、着物の隙間から、液体とも個体ともつかないぐずぐずのものが流れ出した。靴下も、溶けた肉がずれ落ちて累積するのか、下部が膨らんでゆく。

 

 とても正視に耐えるものではなかった。

 

 これが赤の他人なら――いや、他人だからといって精神的なダメージが少ないかと言えば、多分そんなことはないのだろうが――なまじ日和ちゃんの姿をしているだけに、余計くるものがある。

 

 彼女は、究極的に言えば偽物だったのだ。今まで接してきた日和ちゃんだって、実質的には偽物であるけれど、これは後から作られた怪異。

 模したものを模しただけの。

 偽物――。

 

「っ!!?」

 

 その時である。突如、日和ちゃんの片目が、ぐちゃ、と開いた。その反動で、瞼周辺が崩れ落ちた。瞼がなくなり眼球が露出したその顔は、まるで白骨の人体模型を連想させた。

 

「…………」

 

 動いたのは瞼だけではなかった。起き上がろうとしているのか、腕が、足が、肉を零しながらびたびたと蠢いている。

 眼球は不規則にくるくると回転し、焦点が合っていない――回転というのは比喩ではない。視神経などは存在しないのか、まるで地球儀のように回っている。

 

「……◼︎…◼︎…………」

 

「っ……」

 

 何か喋ろうとしているのだろう、声にならない音が、開いた口から漏れ出している。皮はやはり千切れ、口裂け女もかくやという惨状。そして歯は人間のそれではなく、日和号のそれ、つまり刃であった。音はノイズまみれで聞き取れない。

 

「◼︎……◼︎◼︎……◼︎◼︎……◼︎◼︎◼︎……◼︎……◼︎……」

 

「……なんだよ」

 

 口をついて出た言葉の響きは、もうすっかり児女に対するものではなく――紛れもない、怪異に対してのそれになっていたことに、僕自身驚いた。

 この状況で、彼女を日和ちゃんだと思えるほど、僕の頭は日和っていなかった。

 

「なんなんだ――お前は!」

 

「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎!!!!」

 

「え!? 何だって!?」

 

 日和ちゃんのようなものが、叫び声のようなものをあげた――それもまたノイズまみれだ。まるで、テレビの砂嵐のような、ザザザザ、というような音。

 その音は暫く続いた。そして叫びも。五月蝿いというより、どちらかと言えば不快であった。

 

「…………くっ!」

 

 ――余りにも遅い判断であったが、僕は背を向け、突き出した岩に手を掛けた。

 

 これ以上ここに居るのは不味い。

 

 だが、遅かった。

 

 遅すぎた――逃げるなら、簪を折った時点で逃げるべきだったのだ。幾ら何でも余裕をかましすぎた。

 

 やはり日和っていたのは、僕の方だった。

 

「――――人間・認識」

 

「!!」

 

 声が聞こえた。

 

 それは人間のものではない。合成音声――機械音声のような。ノイズはもうなかった。

 僕はちらりと振り向いた――だから、こういうことをせずに逃げろと言うのだ。

 

 倒れていた日和号が、ゆらりと起き上がる――と同時に、まだ張り付いていた肉が、一気に剥がれ落ちた。べちゃべちゃべちゃと、足元に落下する。

 

 足元に。

 

 足元――を見ると、いつの間にか、そもそもの足は四本になっていた。四本とも骨は剥き出しで、足先は錐のように尖っている。

 四本足というのは日和号の特徴だったが、しかし、骨なんて通っていなかった筈だ――ましてや肉もなかった。

 いやそもそも、日和号に骨なんてなかった筈なのだ。あったのは骨組みだけで。

 

 まるで人間のような骨を――持ってはいなかった。

 

「っ…………!!」

 

 それは最早、日和号でも、況してや日和ちゃんでもなかった。四本の足、そして四本の腕を有した、着物を着込んだ人骨――それにしか見えなかった。唯一昔を思わせるのは、精々着物くらいである。

 

 骨の怪異――それには、人間らしさなど微塵も残っていなかった。

 

「――碑刀『鉾』」

 

 そして、"微刀『釵』"という銘さえも、残っていない――。

 

「斬殺・漸進」

 

 

 

[019]

 

 

「うわあああああああっ!!!」

 

「漸速・斬殺・漸進・惨殺」

 

「ぎゃあああああああっ!!?」

 

 斬りかかってくる怪異の手は決して止まなかった――否、それは手ではない。人間らしさをかなぐり捨てたこの怪異の腕の先にあるのは、五つに分かれた刃そのものだった。手本来の役割である筈の『ものを掴む』という行為は、あれじゃあ絶対出来ない。

 

 碑刀『鉾』。

 

 口上を発した瞬間、僕は慌てて岸壁を登った。ロッククライミングは不慣れな僕だったけれど、しかしいざやってみると、案外出来たものだった――追い込まれれば、人間なんでも出来るものなのだ。

 しかしそんな感動に浸る暇もなく――起動した碑刀は、すぐさま僕を追ってきたのだ。

 つまりは、こいつもまた登ってきたわけだ――鋭利な刃物と化した手足を、まるで鉾のように突き刺し、蜘蛛のような格好で這い上がってきたのだ。岸壁を裂き、砕き、抉ってゆく。

 それを目の当たりにした僕は慌てて、無茶苦茶に叫びながら登りきった――が、けれどここは山。この岸壁が終われば次の岸壁。まともに立って休めるスペースは少ししかなかった。

 スペースは少しはあった。けれど、問題はその余裕だ、余裕がない――碑刀は速度を全く落とさず上がってくる。僕に休む暇を与えてはくれなかった。

 

 と、そんな訳で、僕と碑刀との追いかけっこが始まったのだ――圧倒的に向こうが有利だったし、しかも地の利さえ会得していた。

 そう、問題なのは地の利なのだ。

 何せ僕は上下運動――ギリギリ左右移動が出来る程度なのに対し、向こうはそうではなかった。

 

「斬殺・斬殺・漸速・漸進」

 

 恐ろしいことに、ジャンプしてくるのだ――蜘蛛のようにと言ったが、これまた蜘蛛のように跳ね、僕に斬り付けようとしてくる。

 僕はそれをギリギリでかわしたりギリギリで被弾したりしながら登るが、ジリ貧である。こちらから向こうへは、まるで攻撃出来ず、ただ一方的に、漸進的とは名ばかりの連続攻撃によってダメージを受けるばかりだった。

 

「くそっ……うぎゃああっ!!」

 

 悪態を吐く余裕さえもない。一瞬でも隙を見せれば、碑刀は距離を詰めて僕を斬り刻むだろう。それだけはなんとしても避けねばならない。僕は下を見た。

 

「っ!」

 

 襲ってくるのは碑刀だけではない――ある意味それ以上にタチの悪いものまでが僕を蝕んでくるのだ。

 一言で言い表すなら――それはプレッシャーである。

 

 下を見れば簡単に見えた地面は今や遠い。それは本来の目的であるロッククライミングが、皮肉にも碑刀による追い込みのお陰である意味において順調に進んでいるということであったが――しかし、物事が順調に進んでいる時、その進行が断たれるというのは最も危惧すべき展開である。

 分かりやすくトランプタワーを例に挙げてみよう。順調に作り上げていたにも関わらず、最後の最後で、てっぺんを組むのに失敗し、崩壊、全てが水泡と化す――この山登りもそれと同じである。

 ここで岩のくぼみに捕まっていられないほどの大ダメージを受けて落下すると、どうなるか? 本来ならば潰れて死ぬことを考慮しなければならないが、ここは敢えてそれを排除するとしよう――となると問題となってくるのは、それこそ、ここまでの苦労が水の泡となるのだ。

 精神的にも体力的にも疲弊した状況で、一から振り出しに戻る――これだけは、なんとしても避けなければならない。人間にはモチベーションというものがあるのだ。全てが無駄になれば、なんだかんだ言ってもモチベーションは大幅に下がってしまうのは議論する必要もないだろう。

 

「斬殺・漸切・漸次・斬殺」

 

 襲いくる碑刀を避けて、さらに登ってゆく。

 恐らく、既に頂上まであと半分は超えている。ここを耐え凌げば、あとは下りである。転げ落ちてもあんまり問題はない(ズタボロになってしまうという問題があるけれど)。

 

 だが、この後少し――というところで、とんでもない失敗をやらかしてしまうのがこの僕、つまり阿良々木暦だ。今まで以上に用心しなければ――

 

「斬殺」

 

「くっ!」

 

「漸殺」

 

「ぐぅ!」

 

「全即・漸切」

 

「ぎぃっ!」

 

 ――ならないというのに、この攻撃の嵐である。冷静になろうとしても、否応なく焦らされてしまう。

 

 実際、この碑刀に何らかの戦略があるとするならば――僕をここで落としておきたい筈なのだ。焦っているのはお互い同じ――筈だ。あれに感情が残っているのかは分からないけれど……。

 碑刀に追い立てられ、追い詰められ、しかし着実に登っていった。勝利はすぐそこだ――ここで言う勝利とは飽くまでもこいつからの逃避だ。倒すのとは違う――頂上まで、あと、ほんの少しだ。

 

 しかし、ここに来て碑刀は、今までと行動パターンを変えてきた。

 

「漸速・漸進」

 

「何……っ!?」

 

 飛び越えた。

 僕を飛び越えたのだ――僕を飛び越え、僕の頭の上に、降り立った。いや、突き刺さったと言うべきか。

 つまり、道を塞いできたのである。

 ただ襲うだけでは大したダメージソースにはならないと判断したのか――全く恐ろしい。何が恐ろしいかって、今まで僕を追っていた間に発揮していた機動力は、あれで全力でなかったということがこれで証明されてしまったのである。

 さっきまでの追いかけっこ(こっちからしてみればただの追いかけられっこだが)は、結局こいつにとって、つまりは作戦の一部にしか過ぎなかったのかもしれない――これこそが、こいつが狙っていたもの。

 

 油断させておいて、最後の最後で逆転する――なんて。

 どこまでも悪趣味の塊だ――碑刀『鉾』!!

 

「即刻・斬殺」

 

 そして、当然ただ先回りし、道を塞ぐだけで止まる訳はなく。

 上から下へ、縦横に回転しながら落下するように斬り込んできた。手足全ての刀を使った攻撃――範囲が広過ぎる! 避けられないんじゃあないのか、これ!?

 

「うあああああぁぁぁぁぁっ!!」

 

 僕は叫んだ。叫んだところで何が変わる筈もない。

 碑刀の速度も止まらない――寧ろ落下している分だけ加速する。加速すればするほど、より深くまで斬り裂かれるだろう。最悪、両断されるかもしれない。

 

 何も変わらないのだ。

 だから、結果も変わらなかった。

 

「っ――――――――!!!!」

 

 言葉にならないほどの痛みが背中を襲った。見えないが、バッグは完全に斬り裂かれ、背中までぱっくり割かれてしまっているだろう。血だって吹き出ているのかも。

 けれど、不幸中の幸いといったところか、背中を裂かれたといっても、切り傷は腹側まで貫通していない。皮膚は間違いなく削がれて肉も断たれたが、骨と内臓にまではギリギリ響いていない。

 バッグがダメージを軽減してくれた――お陰でなんとか、手を離さずに済んだ。落下するのは奴だけだ。

 僕は下を見た。

 

「…………くっ!!」

 

 碑刀は落下した。したのだが――やはりそう思い通りにはならない。

 手足を突き刺し、再び岸壁に張り付いていた。しかしそれは一瞬であり、また跳躍した。

 果たして飛び越えてくるのか? 或いはまたさっきまでのように、下から直接攻撃するのか? なんて、考える必要は無かったといえよう。

 何せ落下したのは奴だけではないのだ――僕のバッグは奴によってばっさり斬り裂かれてしまった。ならば、重力に従い、その中身が零れ落ちるのは当然であるといえよう。

 

「漸さ――」

 

 飛び上がった碑刀に、大小様々のものが降り注いでゆく。碑刀はこれらを斬り裂きながら跳躍を続けているが、思うように動けないようで、明らかに僕のところまで届いていない。

 しかし跳躍を諦めようとしていない――が、そこへ、僕が道中拾った(もしかすると盗んだ)着物が、碑刀の頭に覆い被さった。

 

「漸次・漸進――漸……斬……」

 

「え?」

 

 碑刀がどこで僕を認識していたのかは分からない。が、一応頭部を使って認識していたのかもしれない――着物が頭に被さったのが奴の視界をふさいだのか、碑刀は両手両足をばたつかせながら、岩壁に突き刺すことも出来ず、落下していった。

 つまり……えっ?

 

「なっ……なんだと」

 

 襲われていた側の言う言葉ではない。

 えっと……あれ? こ、これは……つまり、ある意味では勝った、ってことなのか?

 思った以上に呆気ない退場だ。有り難くはあるが……いいのかそれで?

 いやまあ、そんなものか――下から再び駆け上ってくるような音は聞こえない。しかしこれで安心するのは余りに早計である。微刀『釵』は足をプロペラのように回転させることによって、跳躍どころか飛翔できた。あれにだって、もしかすると出来るかもしれない。

 となれば、だ。

 

「よし……!」

 

 僕はラストスパートを賭け、残った体力全てをクライミングに注いだ――幸い、奴が先に登ってくれたお陰で、窪みが多くなっている。敵に塩を送りやがって!

 当然、碑刀はてっぺんまで登りきった訳ではないので、そんな窪みも途中までだが……大分楽だったのは確かである。感謝する気はないが、まあ、グッジョブと思ったことは偽らざる事実であった——なんて、勝者の余裕を振りかざすには、それに見合う実感も何もなかったのだが。

 

 

 

[020]

 

 

「お疲れ様じゃったの、お前様」

 

「なあ忍、ちょっと言いたいことがあるんだが、良いかな?」

 

「なんじゃ? 聞くだけ聞いてやろう」

 

「もっと早く出てこいよぉぉぉ!!!」

 

 僕はがっくりと両手両膝を地面についた。石ころが痛いし身体中が痛い。

 ここは千針山頂上。登りきった僕を労うかのように、性格の悪い言い方をすればタイミングを見計らったかのように、先ほどまで傷心気味だった金髪幼女は姿を現した。

 

「いやいや……そうは言うがなお前様? あの状況で儂に出来ることなど何かあったか? うぬの話し相手になる程度しか出来んかったろうに」

 

「『心渡』でも影の中から突き出してくれれば、多少はマシになったかもしれないと思うのだが」

 

「影がほぼうぬの真下じゃった。そんなことをしたらうぬも貫いとるわ。腹からバッグまで一突きじゃわい」

 

「あいつ以上のダメージか……」

 

「ちゅーか!」

 

 忍は不愉快そうな顔をした。

 

「あやつはなんじゃ? 手は出さんかったが見てはおった……碑刀、じゃったか? あれも、あれか。シキザキシルシの刺客か」

 

「だろう、と思ってる」

 

 だろうというか、思っているというか、ぶっちゃけ確信しているのだけれど――つーか他に誰が居るんだよ? いや、実際に差し向けてるのは織崎と違うもう一人の方なんだろうけど、実質織崎からの嫌がらせってことで一まとめにしていいだろう。

 

「ふん。悪趣味と言おうか何と言おうか……何じゃ、自分で切り捨てておいて、案外あやつら刀娘に未練があったのではないか?」

 

「未練? あいつら、あんまそういうのは考えなさそうに見えるんだけど」

 

 未練どころか執着があるかどうかさえ怪しい連中である。特に幽霊の方。

 

「いやいや、決めつけるのは良くないぞお前様? もしかしたらあのシキザキシルシか、あるいは幽霊のどちらかが――或いは両方が、お前様並みのロリコンかも知れぬではないか」

 

「僕はロリコンじゃない。何度言えば分かるんだ」

 

「かかっ、うぬこそいい加減その返し、飽きてきたのではないか? 認めろ、認めろ! そうすればうぬはもう二度と、そんな返しをせずともよいのじゃぞ?」

 

「下手な悪魔の囁きだ……」

 

 駄弁っているうちに、疲労は大分薄れてきた。僕は身体中に力を入れ、立ち上がると、再び歩き出した。今度は下山――気合を入れて用心しないと、真っ逆さまだ。

 

「つーか、まずここで僕が根負けしなきゃならないって前提がおかしいんだよ」

 

「む?」

 

「問題はそんな前提じゃなくて、根底にあるロリコンという言葉の厳密な意味なんだ。ロリという言葉が一体何歳から何歳までをカバーするのか、まずそこから議論を進めようじゃないか。僕がロリコンだ云々は、その次の問題だ」

 

「おっ、言い訳じゃ言い訳じゃ」

 

「言い訳じゃあない。明晰判明ではないことは疑ってかかれって、カントも言っていただろう?」

 

「カントだかカントーだかなんぞは知らぬが、ふーむ。しかしお前様はそれで良いのか?」

 

「何が?」

 

「場合によっては、うぬ、もう逃れられんぞ? そこまで追求し、明晰にするということは、最早疑いの余地をなくすことであって、これからの反論が厳しくなる訳じゃが」

 

「何言ってんだ忍。僕は勝ち目のない勝負には挑まない……そういう男さ。知ってるだろ?」

 

「儂の知る限りうぬはその真逆をいく男だと思うんじゃが」

 

「なるほど一理ある」

 

 ある意味現在、そんな戦いに挑んでいるようなものだしな。

 大自然との戦いというか。

 

「仮に、万が一つ、億が一つに僕が不利になったとしても、なあに実用主義に転向すればすればいい」

 

「せこいのう」

 

「考え方が変わるのは人間として当然のことだ。人を構成する細胞はリアルタイムで変化しているのだから、同じ僕なんてあり得ない。そりゃあ考え方だって変わるというもんだぜ」

 

「言えば言うほどせこいのう」

 

 むう。

 まったく、とりつく島もない――足の置き場になる岩はこんなにもあるというのに(上手いこと言った)。

 

「いいか、忍。ロリコンってのは、ロリータコンプレックスの略で」

 

「え、本当にそれ、議論するのか? 知らんぞ? どうなっても儂知らんぞ?」

 

「心配なんて無用だぜ、忍――そのロリータっていうのは十二歳の少女な訳だが」

 

「はいアウトー。うぬ即アウトー。迷子娘に対するあれこれを考慮して即アウトー」

 

「甘いぞ忍! いいか、八九寺は普通に成長していれば実質今頃二十一歳だし、交通事故に遭った時の年齢は、十一歳だ! はいセーフ! どう考えてもセーフ!」

 

「お前様よ、そんな反論をして、虚しいとは思わんか?」

 

「お前こそせこいぞ忍。そういう精神に訴えかけてくるような真似はよしなさい。お前の想像以上にダメージ入ってるから」

 

「そもそもじゃ。その元となったロリータとやらが十二歳だろうがなんだろうが、世間一般、社会的に見れば、十五歳未満の相手を好む趣向こそがロリコンなのじゃから、うぬがどれだけ反論しても、結局ロリコンに帰結するんじゃぞ?」

 

「お前が言えたことかよ、実年齢約六百歳」

 

「年齢に触れるな。うぬも儂を後期高齢者呼ばわりするのか? なら死ね」

 

「とんだ言い掛かりだ!」

 

「そもそも外見からして儂は幼女なの! 傍から見ればアウトど真ん中直球じゃ」

 

「くっ……何故だ!? どうしてお前――いやお前らは、僕をロリコンってことにしたがるんだ! もういい加減結論を出せよ、何回したんだこの話題!」

 

「うぬが認めれば何から何まで全部上手くまとまるのにそうやって駄々こねるから議論が泥沼平行線化して終わらないんじゃ!!」

 

「嫌だ!」

 

 見苦しい言い合いだった。もう大半の読者が呆れ果てて、ブラウザバックしているかもしれないな……。

 閑話休題。

 

「おい待て、閑話扱いして終わらせるでないわ」

 

「なら秘技・章変えリセットを使う。僕は何としてでもこの話題を切り上げたい」

 

「自分で蒔いた火種じゃろうに……」

 

「そもそも、今はこんなおふざけ気味の会話をしている場合じゃないんだぜ? 八九寺を救うため、一刻一秒を争う自体だってのに……忍、お前にはその自覚が足りない」

 

「そう言われると言い返し辛いが、しかしそれはお前様も同じではないじゃろうか」

 

「ふむ」

 

 鋭利なブーメランである。

 

 まあ何せ(ロリコン議論は終わったよ!)緊張感がイマイチ薄れているのは確かである――鬼会山での吸血鬼、千針山での偽日和号と連続で襲い来ただけあって、少し精神的に疲れ気味なのかもしれない。一周回って非シリアスに走り過ぎたのかも。

 そもそも、本来なら今だって十分シリアスな状況なのだ――山登り。

 登りよりは全然楽とはいえ、まだ千針山を下りきっていないのだ。シリアスになり過ぎるのは良くないけれど、かと言っておふざけが過ぎると手元が狂って突き出た岩に串刺しエンドかもしれない。

 嫌だぞ、こんな会話が最期の会話になるとか。

 

「儂じゃって、こんな馬鹿みたいなやり取りの末でお前様を喪うとか、心底御免じゃ――ま、少し自重すべきだったかの」

 

 霧も出てきたしのう――と、忍。

 

 そう、霧。

 濃霧というほどのものではなかったが――しかし、いつの間にか視界に邪魔なモヤが映り込むようになったというのは、正直無視できない。

 これは急いだ方がいい――幸い千針山からは後数分で脱出出来そうだが、問題は次の山、カチカチ山である。

 今までの山はまだ何となく名前で特徴が先読みできたが――今度こそ訳が分からない。

 明らかに雰囲気が違う。名前からして異質感が伝わってくるではないか。

 

「だからこそ、天候だけでも万全の状態で臨みたいんだよな……。まさしく、何が起こるか分からないってやつだ――その上霧で視界を塞がれるとなると、たまったものじゃない」

 

「ま……吸血鬼の視力も、霧までカバー出来るものではないからの。そこそこ関係はある現象ではあるが」

 

 吸血鬼の視力も、やはり霧の中ではあまり期待できないらしい。嫌なお墨付きを貰ってしまった。

 だから、まだ視界を確保できているうちに、なんとなくでもカチカチ山の地形を把握しておきたい。もしこれがまた千針山のような地形だった場合、怪異とかとは全く関係のないところで命の危機に晒されることとなるだろう――その状況自体は今と大差ないが。

 

 正体不明の第三の山・カチカチ山。

 最後の登山が、これから始まる――いや、もしかすると。

 それはもう――既に始まっているのかもしれない。

 




■ 以下、豫告 ■

「神崎日和でございます!」

「忍野忍じゃ――っておい。何故うぬがおるんじゃ」

「いやあ、ほら。本編の方であたいの偽物が登場したではありませんか。それつながり、ということでここは一つ」

「よいのかそれで」


「さて、では丁度いい頃合いじゃしの。またドーナツの話題でもしてやるか」

「砂糖天麩羅! あたいも、あれ好きです! 含蓄あるお話お願いします!」

「うむ! そう言われると悪い気はしない……んん? うぬ、今なんと?」

「砂糖天麩羅ですよ! さあさ、どうぞ、忍野お姉ちゃん!」

「砂糖……天麩羅!?」

「あら、如何なさいました!?」

「天麩羅!? ドーナツが天麩羅じゃと!? はぁ!? おいおいうぬの目には穴でも開いておるのか!? ドーナツだけに!」

「えっ!? だ、だって、どーなつって砂糖天麩羅と書くんじゃあないんですか!?」

「儂はそんなこと知らんぞ!? おのれ、ドーナツの第一人者たるこの儂を差し置いて、うぬ、覚悟は出来ておろうな!?」

「何故ゆえにですか!?」


「「次回、裁物語 しのぶハート 其ノ伍!」」


「そもそも、こんなふざけた当て字を考えた奴はどこのどいつじゃ!? あの神聖な食べ物のどこに天麩羅要素があるというのじゃ、いい加減にせんか!!」

「忍野お姉ちゃん、どーなつの事になると厳しすぎませんか……!?」
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