魔法少女と孵卵器(インキュベーター)~規制版~   作:ダル神

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第六十六話 さようなら…… (ゆま語り部)

「この地区で、千歳ゆまの両親は地上げ屋をやっていたそうだよ? それもかなり悪質な」

 

そんなことを、漆黒の少女は言っている。マンションの住人、常根暗闇子。彼女は不思議な少女というよりも。薄気味悪い少女だった。

 

足の先から頭まで全て黒い衣装に身を固める少女。

 

何故彼女と、あたしが一緒に居るかと問われれば、彼女がゆまの住所を知っているというからだ。

 

あたしはゆまの住所をなんとか掴もうと、あの怪しいマンションの住人に頼んだのだ。ちょうど最近行ったゲームでの勝利のこともあるし、その願いとして、あわよくばという感じだった。

 

なんでも、千歳ゆまとは古い友人だったそうだ。ゆま自体が年端もいかない少女なのに、古い友人とは些かおかしいとは思ったけれど、そんな事は気にしていられなかった。

 

ゆまに会ってそれで一体あたしはどうしようと言うのだろうか。もうゆまのあの家庭は終わるところまで終わっていて、あの母親はとても母親とは呼べないほどに、歪み、狂い、壊れている。ゆまをどうしたら救う事ができるかなんて元魔法少女の中学生であるあたしにはわかるはずもなかった。でも、それでもあたしはどうしてもゆまに会わないといけない。

 

救う方法がわからなくとも、そばにいると、そう言った。

そう約束した。

 

焦る感情はあたしを忙しなく前へと押し出す。

 

急ぐ道中、走りながら常根暗闇子は、聞いてもいないゆまの住居周辺の情報をくれた。

 

「だから、問題も多々あって、ご近所さんにはよく迷惑をかけていたそうだよ。故に問題事が起こらないようにやることはしっかりやっていた」

 

「……やること?」

 

「うん。住居周辺の人間にしっかりと恐怖を与えていたんだ。自分達を怒らせたら何をするかわからない、というね」

 

「………」

 

「心底千歳家に恐怖を刷り込まれた周辺住人は、どんな音を聞いても、どんな物音が響いても、どんな叫び声を上げていても、知らぬ存ぜぬを押し通していたし、間違っても警察に通報するものなんていない」

 

胸糞が悪くなる。歯ぎしりが、怒りが収まらない。しかし、今の今まで、ゆまをほったらかしにしていたあたしが憤りを、怒りを抱くことすら許されない。

 

「故にゆまをみたら一目でわかりそうな、児童虐待も、児童相談所に話が持ちかけられた事などあるわけもなく、千歳ゆまは今の生活を強いられていた。誰の救いの手もなく、ただ一人ぼっちで」

 

「……どうして、なんで!」

 

あたしは我慢しきれずに叫ぶ。

 

「なんであんたはゆまをそのままにしたんだ! 友達だったんだろ!」

 

自分の事は棚上げして、無責任にも責めるように言う。

 

「……ああ。きっとそれは悪い事だったのだろう。でもボクはそれが悪い事だとわからなかった」

 

「……」

 

「ボクはきっと千歳ゆまよりも、可哀想で幼い存在だったのかもしれないね」

 

薄く微笑んだ闇子は少し、寂しそうだったし、もの悲しそうだった。

 

「そして、きっと友達ではなかったのだろうからね。ただお互いがお互いの目的の為に、利用していただけだから。だから、そこに愛はなかった」

 

その言葉はまるで理解できないものだった。彼女がマンションの住人ならば、あの戦いの時は意識を失い、魔女になる寸前だったのだから、あの時のゆまに関わっているはずがない。

 

「でも、君は違うのだろう?」

 

そんな彼女の言葉にハッとする。気が付けば彼女は止まっていて、振り返る事無く真後ろに指を差しまっすぐにあたしを見つめる。

 

「君とあの娘はしっかりとした愛で、絆で繋がっているのだろう?」

 

彼女の背後には小さな一軒家があった。その古びて、ボロボロな家屋には小さな窓が取り付けられていた。そこには、カーテンなどの遮るものはなく、簡単に中をのぞくことができた。

 

「だったら、救ってもらえないだろうか。本当にどうしようもないあの娘の世界を変えてあげてはもらえないだろうか」

 

そう言って、漆黒の少女は頭を下げた。

 

あたしは彼女が頭を下げたことで見えてしまった、窓の奥の光景に頭が真っ白になって、 気が付いたらその小さな窓を破り、家の中に飛びこんでいた。

 

―――佐倉杏子

 

 

目が覚めた。

 

それは、空虚な目覚めだった。

 

ひとりぼっちの目覚めだった。勿論そばに杏子はいてくれなかった。そんなことは当たり前のことだけれど、落胆しているのが少しおかしかった。

 

絶望のようなこの世界。それはまるで変わることはなく、この世界はやっぱり残酷だった。あの人が愛したこの世界は、ゆまにはあまりにも厳しすぎたし、辛すぎた。

 

目の前には変わらず酒に身を浸すママがいた。

一つ何かが変わったとすれば、それは酒とたばこ以外にも、薬に手をだしたくらいだろうか。

 

ママの周りには、たばこの吸い殻、酒瓶にほかに、白い粉上のものが入った袋が散乱していた。そして一本の注射器が無造作に転がされている。

 

それは、医薬品などではない。身体のどかが悪いわけではない。精神の治療の為のものでは決してない。

 

ママの身体におかしいところはない。それなのにこの大量の薬がなんなのかは、年端もいかないゆまでも簡単にわかった。

 

身体におかしいところも、悪いところもないのだろう。

 

しいて言えば心がおかしかったし、頭が悪かったのだ。

 

ゆまは布団もない、いつも通り、家の床で眠りにおち、そして目覚め起き上がる。

 

いつもとどこか変わりがあるのだとすれば、少しだけ寂しくて、そしてもう何もかもが嫌になったことぐらいだろうか。

 

虚ろな瞳でママを見つめて、自分の小さく、惨い世界を見て、そんな大したことない自分の感想が滑稽で、薄く笑みがこぼれる。空虚で、どこか滑稽なそれは、本当に笑っていたのかどうかは、きっとそんなゆまを恨みがましく睨んでいた、ただ一人のママにしかわからなかったことだろう。

 

「……何よ、その目は」

 

苛立たしげにゆまを睨むママ。そんなママはもうすでに見飽きていて、恐怖すら湧いてこない。いや、もしかしたらゆまの心は、感情は、擦り切れて、なくなってしまったのかもしれなかった。あの夢のような世界で、夢のような罪を犯したゆまは、必死に助けを、救いを請うたゆまの心も感情も、きっとあの世界で使い切ってしまったのだろう。だからもうゆまには何にも残されてなどいない。

 

「なんなのよ! その目はっ!」

 

髪の毛をむしり取られるのではないかというくらいに、力いっぱいにゆまの髪を引っ掴み、身体ごと簡単に持ち上げられて、ぶら下げられる。痛みはあるけれど、驚きはない。なにいつものことだ。ゆまにとってこれは朝起きて、みんながおはよう、とあいさつするのと変わらない恒例行事といえた。

 

ただ一つ違うとすればゆまが自発的に言葉を発することくらいなものだけれど、そんなものは些細なことだろう。所詮ゆまがしゃべったことぐらいで何かが変わるわけはないのだから。この世界が変わることなどありえないのだから。

 

「……ほんっとうにさぁ、かわいそうだなぁ、と思って」

 

でも、もしかしたらゆまはここで希望的観測を抱いていたのかもしれなかった。変わることも、変える事も出来なくとも、もしかしたら終わらせることはできるのではないか、幕を下すことはできるのではないか、と。

 

この残酷で小さな世界を変える事はできなくとも。

 

「………!」

 

鬼のような形相に、つりあがった眼を見開いて、小さな瞳はゆまの身体を射抜く。

 

「パパに捨てられてさぁ。未練がましく何かしてるかと思えば、酒だ、たばこだ、しまいには薬だ、なんて。それで何が納得いかないのか、ゆまに暴力をふるってどう? 少しは何かやってる気になれた? 何かを変えられる気になれた? パパは帰ってきた?」

 

「このバカガキがぁっ!」

 

ゆまは髪を掴まれたまま、地に足はつかず、持ち上げられながら、壁に何度も頭を打ち付けられる。がんがん、と。この小さくみすぼらしいゆまの世界は、家は、こんな衝撃にも軋んで、今にも崩れてしまいそうだった。なんなら今すぐにでも崩れてくれたなら、もっと早く崩れてくれてたなら、どれほどよかっただろうか。

 

「あんたのせいだ、あんたがいたから! パパは! あの人は! 帰ってこないんじゃない!」

 

ぐるぐると目の前が回り、揺らされた脳はなんだか気分が悪かったけれど、ゆまは変わらず、虚ろな、諦めた瞳でママを見つめる。

 

ねぇ、もう終わりにしようよ、と。もう終わらせてよ、とそんな思いが込められた眼差しだった。ママが始めてくれたゆまの命を、ママが終らせてよ。無責任にもゆまを生んだのだから、最後くらいは責任をもって終わらせてよ。

 

「そうやってゆまのせいにしないと息も吸えないから、可哀想だよね? ママって、ゆまと同じだ。やっぱり親子だよね、血は争えないっていうのかな。ママは誰かに救ってほしかった? 誰かに愛してほしかった? それとも哀れんでほしかった?」

 

ママは握っているとは反対の拳を強く、握り、ゆまのお腹を思い切り殴る。

 

「がはぁっ!」

 

ゆまは目を見開き、突然の衝撃が内臓を駆け巡り、肺の空気をほとんど外に吐き出す。

 

「がはぁ……おえぇ……っ!」

 

遅れてやってくる、吐き気と嘔吐物が汚いゆまの家をさらに汚した。

 

「このクソガキが! 舐めた口聞いてんじゃないわよ!」

 

ママの怒りは収まることはなく、地面に這いつくばり、呼吸すらままならないゆまを何度も蹴りつけ、踏みつけた。

 

ゆまは殴られる衝撃と、唯一ママに与えられる痛みを感じて、ゆまの全てを終わらせてくれる時をただひたすら願う。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 

薬とたばこでぼろぼろのママの身体ではゆまを殴り続ける体力なんてあるはずもなく、すぐに息を切らす。

 

それでも怒りが収まることはなく、怒気を孕んだ、荒々しい呼吸が響く。

 

「ねぇ、もう終わりにしようよ、ママ。もう何をやっても、何をどうしてもさ」

 

ゆまは蹲り、体中に内出血を作りながら、口からは血を吐きながら、言う。はやく終わらしてくれと懇願するように。それが最後の望みのように。

 

「どうせパパは帰ってこないんだからさ」

 

何かが切れる音がした。それはママの血管の切れる音だったのかもしれないし、わずかに残された理性だとか、常識だとか、もしかしたら良心の切れる音だったのかもしれなかった。

 

「……殺す」

 

そう言って背を向けて、何のためにそこにあったのかもわからない果物ナイフを手に取り、ゆっくりとゆまに振り返る。

 

その瞳からは、容赦のない殺気が含まれていた。

 

「殺す、殺してやる! あんたのせいで、全部おかしくなった! あんたなんて生まれてこなければよかったんだぁああああああああああああああああ!」

 

突然勢いよくゆまに走りこんでくるママを、見てやっと終れると思った。この時ばかりはゆまも安らかな表情をしていたのかもしれなかった。

 

ただ何故か涙が零れ、一瞬だけ思った。

 

最後でいいから。

 

会いたいかったなぁ、杏子。

 

ママはゆまに突進し、ナイフが到達する――

 

「ふざけんじゃねぇえええええええええええええええええええええええええええええええええ!」

 

その直前、窓ガラスが突然砕け、赤みがかった美しい髪を振り乱しながら叫ぶ少女が舞い降りた。

 

そう叫んで、彼女はママの果物ナイフを右掌で受け止めた。勿論その手はナイフで貫かれ、血が噴き出すが、彼女は気にした様子も無く、力強くそのナイフを握る。

 

ゆまは目を見開く。

 

何が起きたか理解できずにただ困惑した。

こんな奇跡がこの世界で起こる筈がないのに。

 

暴力的なまでに突然現れた彼女を見つめる。しかし一生見ていたいその希望に溢れた光景は、何故か霞んでしょうがなかった。

 

……そんな、なんで、なんで。

 

ゆまはぼろぼろと涙が溢れて止まらない。あれ? おかしいな。ゆまの感情は、心は擦り切れて、枯れ果てたはずなのに。

 

なんで、あなたの前だと、あなたと一緒にいるとゆまは泣き虫で、弱くて、それでもこんなにも生きているのだろうか。

 

「杏子!」

 

ゆまは泣き叫ぶように彼女の名を呼ぶ。

 

杏子は本当に怒っているようで、果物ナイフを握りながら叫ぶ。

 

「何やってんだよ! あんた! ゆまの母親じゃないのかよ!」

 

「あんたこそなんなんだ! 勝手に人様の家の窓ガラスぶち割って、勝手に入り込んで何様だ!」

 

ママは突然の来訪者に困惑したまま叫んだ。

 

杏子はゆまに背を向けたまま凄い威圧と、咆哮を兼ね備えた叫び声で言う。どうどうと。心の底から。

 

「ゆまの友達だよ! 文句あるか!」

 

ゆまは初めての言葉に困惑する。

 

……ともだち?

 

それはゆまが夢見ていたあの映像でも、聞いたことはなかった。

 

それでも、その投げかけられたことのない言葉には、胸一杯の愛が内包されているようで、ゆまは嬉しくてしょうがなかった。

 

空っぽな心が満たされるようだった。今になって突然痛みが響きわたり、鼓動が鮮明に聞こえる。

 

まるでゆまは今目覚めたかのように。たった今生まれたかのように。

 

「杏子……! 杏子!」

 

ゆまはいつの間にか泣き叫んでいた。杏子、と叫びながら吹き荒れる自身の感情に身動きが取れなくなった。擦り切れ枯れ果てたと思っていたゆまの心はこんなにも満ち溢れていた。

 

「わかってる! 絶対にあたしがお前を救ってやる! もう少しだから! ……だから! そこで待ってろ!」

 

ゆまは涙を必死にぬぐいながら、使い物にならない喉で嗚咽を漏らしながら、頷く。

 

杏子の後ろ姿を見ただけでこんなにも安心してしまう。

 

灰色に映った光景が嘘のように色とりどりに染め上げられるようだった。

 

「何が友達だ! ふざけるんじゃないわよ!」

 

ママは迷いなく杏子の顔を殴り飛ばす。薬のせいでもう何がなんだかわかっていないのかもしれない。それでもゆまへの怒りと憎しみだけで、破壊行動に出ているのかもしれなかった。

 

「ふざけてんのはあんただろうが!」

 

杏子も負けずとママの顔を左拳で殴り返す。

 

「ゆまはなぁ! 愛してもらいたかったんだぞ! 他人からじゃない! あたしからでもない! たった一人の母親であるあんたに愛してもらいたかったんだぞ!」

 

ママは杏子のそんな叫びが聞こえていないのか、ただ一心不乱に杏子の顔をお腹を殴り続ける。

 

杏子はそれでも倒れることなく、ナイフを右手で握り締めながら叫ぶ。

 

「どうして、こんなに懇願する自分の娘に酷い事ができるんだ! この娘はこんなにもあんたを愛しているのに! どうしてそれに答えてやれないんだ! ただ頭を撫でてやればいいだけじゃないか! ただ優しい言葉をかけてやるだけでいいんだ!」

 

いつの間にか、殴られ晴れ上がる顔と、口の中がボロボロに切れているのか口から血を流しながら、涙を流す杏子。

 

ゆまを庇って傷を負い、涙を流してくれる。

 

ゆまは、もうそれだけでよかった。もう何もいらない。

 

「もうやめて! 杏子が死んじゃうよ!」

 

だからゆまはそう叫んだ。杏子に会えた。杏子がゆまをこんなにも愛してくれて、思ってくれていた。それだけでゆまの心は満たされたから。

 

最後の小さな願いが叶えられたゆまはもう満足だった。

 

「だから、もう逃げて! ゆまはもう大丈夫だから! もう十分幸せだから! だから!」

 

杏子は逃げて! 元の幸せな世界に戻って! 杏子には帰るところがあるんだから!

 

「言ったろうが! せっかく掴んだ手だ! 誰が離してやるもんかよ! 今からお前に見せてやるんだ! この世界はお前が思っているほどに何も変えられない世界じゃないって事を! そんなに酷い世界じゃあないってことを!」

 

杏子がもう一度左拳を振り上げ、ママの顔を思いっきり殴り飛ばし、ママは音を立てて家具の中に突っ込む。ママが吹き飛ばされた衝撃で手のひらに刺さっていた果物ナイフも抜ける。

 

血が噴出し、杏子は痛みのせいか少しだけを顔を顰める。

 

「!? 杏子! 手が!」

 

ゆまは今更杏子の手の傷に慌ててしまう。杏子に駆け寄って手をとる。溢れ出す血が止まらない。ああ、どうしたらいいの? 

 

ゆまはただ泣きべそをかくことしかできなかった。

 

「……こんな傷、なんて事はないよな? だってゆまはこんな痛みと、苦しみと、絶望の中にひとりぼっちで生きていたんだ。それに比べればかすり傷にすらならないよ」

 

「……きょうこぉ……」

 

ゆまは涙だけじゃなく、鼻水でも顔をぐちゃぐちゃに濡らし、くしゃくしゃに顔を歪めて泣いていた。人は本気で泣いてしまうとこんな顔になってしまうのだろうか。

 

「なんて顔をしてんだ、ゆま。安心しろ。あたしが絶対に何とかしてやるから。大丈夫だから」

 

優しく微笑み、頭を撫でてくれる杏子。

 

しかしゆまは杏子の言葉がとても悲しいものに聞こえてしょうがなかった。杏子の声が聞けてこんなに嬉しいのに。

 

ママは身体を起こし近くにあった注射器を手に取る。

 

杏子はゆまを庇うように一歩前に出る。

 

「ゆま、さがってな」

 

その注射器をママは、自分の腕に刺して、薬を注入する。白目をむき、だらしなく口を半開きにして、あいた口からは血と涎があふれ出している。

 

杏子はこれほどまでに終わっているママを見て、それでも言うのだ。“大丈夫”だと。もうこんなにも酷いママをそれでも諦めようとせず、信じようとしている。もともと存在していたかも怪しい、ゆまへの愛を。

 

夢と希望を、信じて疑うことのないその姿は魔法少女のようだったけれど、それはやはり、儚く悲しいものに見えた。

 

「杏子、やめて……。もうママは」

 

「黙って見てな」

 

ぴしゃりとゆまの言葉を遮って言う杏子。その顔を不適に笑わせ、白い牙がむき出しになる。

 

「あぎゃがああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 

人の言葉を発する事すらできないほど狂った奇声をあげるママは、ただむき出しの闘争本能でナイフを手に取り、一心不乱に突っ込んでくる。

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 

杏子も怒り狂う獣のように雄叫びを放ち、ママに応戦する。

 

杏子の身体になんの躊躇もなくナイフを突き刺そうとするママ。

 

「あんたなんかが生まれてきたから私の人生は滅茶苦茶になったんだ! あんたさえ生まれてこなければぁあああああああああああああああああああ!」

 

もうすでに、目の前の視界すら認識できていないようで杏子をゆまだと勘違いしているようだった。

 

「もうやめて! ママ! その人はゆまじゃないよ!」

 

ゆまが必死に叫んでもママに届く事はなかった。

 

杏子は刺されていない左手でそのナイフを弾く。

 

「本当にそれはゆまのせいなのかよ! ゆまはただ必死に生きていただじゃあないのか! てめぇらがどんなに最低の人間でもなぁ! ゆまからしたらたった一人の父親と母親なんだぞ!」

 

杏子は刺された右手を強く握り、血を吹き出しながらその拳でママのお腹を殴る。

 

「ゆまにとってはどうしても愛してほしかった掛け替えのない、大切なものなんだぞ!」

 

しかし、薬で痛みも苦しみも思考さえ麻痺しているママは、殴られても、身じろぎ一つせずに杏子の左肩をナイフでなん度も突き刺す。

 

「あんたなんて死んじゃえ! 死んじゃえ! 死んじゃえ!」

 

それはまさしくゆまにむけられた言葉だった。それでもゆまはそんな母親からの拒絶よりも、存在の否定よりも、ただ杏子が心配でしょうがなかった。

 

「杏子! 本当に死んじゃうよ! もういいから! ママのことはいいから! もう逃げよう! ゆまも一緒に逃げるから!」

 

「ぐぁあっ……!」

 

ナイフに刺される痛みで顔を顰めながら、悲鳴を漏らす杏子。

 

「もうちょっと……なんだ。もうちょっとで、届くはずだから……!」

 

ゆまはもう我慢できずに杏子に飛びつく。できることならママの猛攻を庇ってあげたいくらいだけれど、ゆまの身体の大きさでは非力さではそんなことすらできない。

 

それでも、必死に杏子にすがり付く。

 

「もういいんだよ! もうゆまは満足だから! お願いだからもうやめて!」

 

ママは泣き叫ぶゆまに気が付いたのか、その狂気に満ちた瞳でゆまを見下ろし、あんたなんか死んじゃえ、死んじゃえ、死んじゃえ、死んじゃえばいいんだと何度も蹴り、踏みつけられる。

 

「ゆま! やめろ!」

 

それでもゆまは必死に杏子にしがみつく。間違っても悲鳴なんて漏らさない。ゆまは大丈夫なんだと、杏子に笑いかける。

 

「何笑ってんだクソガキが! 気持ち悪いんだよ! さっさと死ね!」

 

「あぐぅ!」

 

少し強く蹴り上げられてしまえば、ゆまはボールのように簡単に跳ね飛ばされてしまう。

 

「てめぇ!」

 

杏子は右手のひらにはナイフで風穴をあけられ、左肩には刺し傷をいくつもつけられ、まともに両腕はつかえない。しかし杏子はそんな中それでも戦い続ける。

 

「娘にむかって死ねなんて、死んでも言うんじゃあねええええええええええ!」

 

杏子は渾身の頭突きを食らわせる。ゴッ、と鈍い音が響く。その勢いに負けて、ママの体は再度吹き飛ばされる。

 

杏子は倒れこみそうになる身体を必死に持ちこたえさせているように、前のめりになるも、踏ん張りが利かず尻餅をついてしまう。

 

「杏子! 大丈夫!?」

 

「……へ、情けないね。ゆま、いいからもう少し離れてろ……」

 

血の出しすぎなのか顔色がもう青くなっていて、冷や汗も凄い。こんなボロボロの杏子を置き去りにしていけるわけない。

 

「嫌だ! 杏子が逃げないならゆまもここからどかない!」

 

ゆまは杏子の身体にすがりつくように抱きしめる。杏子が座ってくれているおかげでやっと杏子を覆える事ができた。

 

「何やってんだよ、ゆま! あともう少しなんだ!」

 

杏子はゆまを突き飛ばそうとするも、ゆまは必死に杏子の身体を抱きしめて離さない。まるで幼い子供が母親の背中から落ちてしまわないように必死にしがみ付くように。

 

「もうだめだよ! もう何をどうしても優しいママにはなれっこないよ!」

 

杏子はがっしりとゆまの肩を掴んで、真っ直ぐな瞳を潤ませて言う。

 

「ゆま……お願いだ。お願いだから諦めないでくれ。ゆまのママはな少しおかしくなってしまったのかもしれない。普通とどこか違うのかもしれない。それでも、ゆまだけは諦めちゃだめなんだよ。捨てちゃ駄目なんだよ。お願いだから……あたしみたいにはならないでくれ……!」

 

杏子は前の世界では両親の裏切りも、拒絶も割り切っていた。それはしょうがない事なんだと。夢と希望と一緒に、愛も切り捨てて、割り切っていた。

 

だから杏子はこんなにも必死になってくれている。ゆまにだけはそんな思いはしてほしくないと。切り捨てないでくれと、そう言ってくれている。

 

この時ゆまは確信した。

 

このままでは杏子は死んでしまう。

 

ママが立ち上がる音が鮮明に聞こえる。その手には血に塗れたナイフがしっかりと握られている。

 

杏子はゆまのためにその思いを突き通してしまう。例え何度刺されてしまっても、何度血を噴出しても、肉を切り裂かれても、骨を折られても、それでも立ち上がってしまう事だろう。

 

死んでしまうまで。

 

ゆまは気が付いたら立ち上がっていた。どうしたらいいのかなんてわからない。

 

それでもゆまはこの時、変わらない、とただ嘆くだけではいられないと思った。誰かに終わらせてもらいたいなんて甘えた事は一切考えなかった。

 

ただどうしたら杏子が生きられるか。

 

それだけが、頭の中をぐるぐると回っていた。

 

その静寂を打ち破ったのは、拍子抜けしてしまうくらいの音。

“ピンポーン”

呼び鈴の音だった。

そして数回のドアを叩く音が響く。

 

「すいません! 警察ですけど! 物凄い音がしていると通報があってきました! どうかしましたか!」

 

ゆまも杏子もママも何が起きたか一瞬理解できなかった。まず警察が来ていること事態がおかしかった。ゆまの家から警察署は離れているし、何よりも、通報なんてありない。

 

ここの住民はゆまがどんな事をされても今まで沈黙を押し通してきたはずだ。それがなんで今になって。

 

ゆまはふと外を見た。そこには真っ黒な喪服を着飾った女の人が真っ黒なケータイを片手に持って立っていた。その真っ黒な感じはまるで常闇のようだった。

 

そしてその唇が開く。

 

“今度は自分の手で世界を変えてみるんだ”

 

そう言っているようだった。

 

ゆまはママを見つめる。

ママはゆまを見つめてくれる。

 

焦点の合わない瞳がゆまを射抜く。

 

「……ゆま?」

 

杏子が震える声でゆまを呼ぶ。

 

ゆまはそれを合図に駆け出す。

 

「まあぁアアアアアアアアああてええええええええええええええクソガキがぁああああああああああああああああああああああああああああ!」

 

リビングを走り抜けて、廊下に出る。ママも駆けてゆまをおってくるのが振り向かなくてもわかった。

 

今度はゆまが世界を変える。この小さな世界をゆまが壊す。

 

「ゆまぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 

本当に久しぶりにママがゆまの名前を呼んでくれた気がした。

 

ゆまは玄関に手をかけて、ママを一瞥する。

 

涙を浮かべ、隈のできた酷い顔を凶悪に歪め、ナイフを突き出している。

 

ゆまはもうこれで終わりにする。

 

誰かに頼り、すがりつくのはやめる。

 

もうあなたみたいに可哀想なふりをするのはやめにする。

 

もしかしたら杏子の言うとおりゆまは本当はママに愛してもらいたかったのかもしれない。

 

しかしゆまはママにどうしたら愛してもらえるのかわからなかった。

 

だからそれを杏子に代わってもらおうとしていたのかもしれない。杏子ならゆまを愛してくれると思ったから。

 

でも、もうそれはやめにする。もう誰かに愛されるのをただ待つのはやめる。何かが変わるのを夢見るだけで何もしないなんてことはもうしない。

 

自分で生きて、自分で選んで、自分で変えて、そして何より誰かをゆま自身が愛そう。

 

「さようなら……ママ」

 

それはゆまが初めてした拒絶だった。

 

ゆまが自分で望んで、自分で行動した事が母親の否定だった。

 

ママの顔を見て、ママを切り捨てた。ゆまがもっとしっかりしていればこんなことにはならなかったのかもしれない。

 

でも、そうはならなかった。そうすることができなかった。だからゆまはこれをもうしょうがない事だと割り切った。あの人がそうしたように。

 

ゆまは変わるのを待つでも、終わるのを待つでもなく。

 

ゆま自身で終わらせる。

それだけで世界は変わる。

 

そしてゆまは鍵を外して扉をあけ、力いっぱいに叫ぶ。

 

「たすけてぇえええええええええ!」

 

扉が開いて、警察の人達と思われる男の人達の手がママを取り押さえる。

 

「ゆまぁあああああああああああああ! あんたさええええええええええええええええええ」

 

ママの怨嗟の声が響く。

 

「あんただけはゆるさなぃいいいいいいいいい! あぎゃあぎゅあばばばあああああああああ!」

 

薬のせいか、それともゆまへの憎しみのせいか最後はもうろくに言葉も話せていなかった。

 

そんな母親をゆまは目に焼き付ける。もうこれで元には戻れない。

 

もうそんな事は覚悟の上で、全部承知したはずなのに、何故だか涙が溢れて止まらない。

 

あんなに辛い日々だったのに。ママには痛みと苦しみを数えきれないほど与えられてきたはずなのに。

 

それなのに後から後から溢れてくる想い出は、優しかったママの記憶ばかりだった。

 

まだパパがいて、よく夫婦喧嘩していたけれど、それでもゆまが泣くと二人して必死にあやしてくれた。

 

寝るときはパパとママに挟まれて眠った。それが暖かくて嬉しくて、本当に幸せだった。

 

悪いことをした時は叱られたけれど、それでも最後は絶対に笑顔でゆまの頭を撫でてくれたママ。

 

パパとママでゆまの誕生日パーティーをした。びっくりするくらいの大きなケーキにろうそくが歳の数だけ立てられていた。息を吹きかけてもなかなか消えない火に、涙目になったけれど、そんなゆまを見てパパとママも嬉しそうに笑っていてくれた。それがなによりの誕生日プレゼントだった。

 

ゆまが寝ていたときに、こっそりサンタクロースのプレゼントおいてくれたパパ。本物のサンタクロースはいないことは少しがっかりだったけれど、それでもプレゼントはまるでゆまへの愛でいっぱいで涙が出るほど嬉しかった。

 

どうしても眠れない時はママが本を読んでくれたり、お話を聞かせてくれた。どんなに恐い事があっても、不安なことがあっても、すぐに眠れた。

 

パパとママが大好きだった。

 

でもパパはゆまを捨ててどこかへ行ってしまった。

そしてママは一生ゆまを許す事はなく、愛する事はない。

 

もう後戻りはできなくなってしまった。そんな事はわかっているのに、わかって全部やったのに、ゆまはいつの間にか、大泣きしていた。

 

ゆまはふらつく足取りで取り押さえられるママの横を通り過ぎて、廊下の奥の部屋へとむかう。

 

情けなかった。ついさっき誓ったはずなのに。心に決めたはずなのに。もう誰にも頼ってはいけないと。すがってはいけないと。

 

それでもただ求めてしまう。

 

どうしても杏子に抱きしめてもらいたかった。

 

部屋に入ると呆然とした顔でゆまを見ている杏子。その瞳には滂沱の涙が流されていた。

 

「……ゆま……なんて……ことを……!」

 

ゆまは覚束ない足取りで杏子に近づく。もう何もかも終わってしまって、何もかもが壊れて、希望も幸福も夢も、もう跡形も残ってはいない。

 

全部捨ててしまった。

 

それでもゆまは何にもない世界では生きられない。

 

杏子にすがるのはこれで最後にする。

 

だからお願い、今だけは甘える事を許してはもらえないだろうか。今だけは歳相応に幼い事を許してもらえないだろうか。

 

「きょうこぉ!」

 

ゆまはろくに前も見れないほどに泣いてしまって、ただ必死に手を前に突き出すだけだった。

 

「ゆまぁ!」

 

それでも杏子は掴んでくれた。ゆまの手を。ゆまの身体を優しく包み込んでくれた。強くしっかりと抱きしめてくれた。

 

「うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん!」

 

その安心感がゆまの塞き止めていた感情を爆発させた。ゆまは力いっぱい杏子を抱きしめて、泣き叫んだ。もう一生分涙を流してしまうくらいに。

 

「あたしのせいだ! これは全部あたしのせいだ! だから恨め! あたしを恨め! 憎め! お前のママを奪ったのはこのあたしだ! ゆまは何も悪くない! だからゆまはあたしを憎んでいい! 殺してもいい! それほどの事をあたしはしたんだ!」

 

杏子も大泣きしながら叫ぶ。

 

「ああああああああああああああああああん!」

 

それは違うんだと、これは何もかもがゆまが悪かったんだと、そう言いたかったけれど、涙が止まらなくて、泣き声で喉が枯れてしまいそうで、とても言葉を紡ぐことができなかった。

 

「いいかゆま! いつかあたしを殺しに来い! あたしはそれを待ってるから!」

 

なんでそんな事を言うの? 杏子はこんなにもゆまを救ってくれているのに。だからそんな事は言わないでよ、杏子。ただゆまは杏子を愛したいだけなのだから。

 

「うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん……!」

 

しかし、そんな杏子の言葉に弁解する事はとても叶わず、ただ杏子の腕の中で泣き崩れる事しかできなかった。

 

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