雲ひとつない澄み切った青空の下。咲き誇る向日葵畑の中心で、幽香と燐香はのんびりと日向ぼっこをしていた。脇には一緒に作った手作りのお菓子とお茶を用意して。ぽかぽかとした穏やかな陽気がとても心地よい。隣にいる燐香も幸せそうな表情だ。時折通り過ぎる風が眠気を誘うのか、燐香は大あくび。幽香はそれを見て軽く笑いを漏らす。
(ようやく、一区切りついた。これで、もうなにも心配することはない。不安なことはなにもない、はず)
幽香はお茶を口に含み、小さく息を吐く。彼岸花異変での罰ということで、燐香には白玉楼での蟄居が命じられていた。幽香としてはとても納得いくものではなかったが、これから始まる、長い、ここでの暮らしを考えると、妖怪の山や地底との関係を悪化させるのは得策ではない。それくらいのことは幽香にも分かっている。だから断腸の思いで紫からの提案を受け入れたのだ。燐香本人は苦痛を感じているようではなかったのが幸いではあった。
だが、それもつい先日の間欠泉騒動、地霊殿異変解決によりようやく終わりを迎えた。地底の連中の失態に伴い、蟄居が解除されたのだ。燐香は晴れて自由の身となり、この風見家へと帰ってきてくれた。だから、こうして穏やかで幸福な毎日を送っているというわけだ。燐香は相変わらず、いつもの四馬鹿でつるんで悪戯ばかり。たまには説教することもあるが、それも含めて穏やかな日常といえるだろう。
かつてのように、暴力による束縛は二度と行うつもりはない。剣呑で空虚な日常は訪れない。あれは幽香が望んでしたことではない。憎ませるために憎まなければならなかった。仕方がなかった、それしかなかったからそうした。だが、本人からしたらどうだろうか。幽香の思考に靄がかかる。本当に、それしか方法はなかったのか。どろどろとした何か形容し難いモノが湧き上がってくる。頭に鈍痛が生じる。それは、何をしても良いという免罪符たりうるのか? 否ならば自分はどうすればよかったのか。親切に答えてくれるような存在は誰もいない。
「母さん、どうしたんですか? なんだか苦しそうですけど」
燐香が心配そうに声をかけてくる。大丈夫、ちょっと咽ただけだと応えようとするが、舌が上手く回らない。まるで舌が蛞蝓に変化したかのように、思い通りに動かない。
「苦しいんですか?」
ええ、苦しい。今が幸福であればあるほど、罪悪感が胸をしめつける。どうすればよいのか分からないのだ。そんな経験は今までにない。自分の行いに後悔などしたことはない。それが風見幽香という妖怪の生き方だったから。だから、この苦しみの解消方法が分からない。誰か教えて欲しい。
「実は、一つ名案があるんですけど」
燐香が穏やかに微笑む。その目には喜怒哀楽を感じさせるものは一切なく、ただあるのは諦めのみ。それは介錯を待つ罪人の目だ。一体、これはなんだ?
「――殺してください。"母さん"なら、私を殺すことなど容易いでしょう。私が傍にいると苦しいんでしょう? 遠慮はいりません。さぁ、どうぞ」
前に、確かに聞いた言葉。幽香の脳に刻み込まれた呪詛。あの日から幾度も見る悪夢。繰り返される同じ場面。そうだ、必要だからそこまで追い込んだ。幽香が追い詰めた。自死を望むほどまでに、追い詰めてしまった。でも仕方がなかった。あの時点で、他に方法はあったか? 違うというならばどうすればよかったのだ。どう動けばよかったのだ。今でも分からない。故に悪夢は延々と続く。
幽香は無言で、ゆっくりと立ち上がる。その表情は能面のようだ。何の感情も浮かんでいない。それを見た燐香は嬉しそうに頷くと、跪き首を前へと差し出した。幽香の手にはいつの間にか死神の鎌が握らされていた。掌に馴染むその鎌を悠然と振り上げる。そして、全力でその細首に振り下ろした。
舞い散る彼岸花の赤い花びら。いつまでも降りしきる血飛沫。幽香を睨みつける、切り落とされた生首。幽香は鎌を投げ捨て己の両手を見つめる。どろりとした生温かい血がびっしりとついている。そして絶叫する。
――これが、燐香が帰って来てから、幽香が頻繁に見る悪夢。またいつもの悪夢だということは途中で分かる。だが、本当にそうなのかという不安は常にある。もしかしたらこれこそが現実ではないのか。朝起きて隣で眠る燐香を見るまで、幽香はその答えに確証を持つことが未だできないでいる。
「…………燐香?」
不快な頭痛とともに、大きく息を吐いた後、ゆっくりと目を覚ます。身体には気持ちの悪い汗が滲んでいる。動悸が激しくなる。慌てることはない。そう、今日もきっと大丈夫だろうと、期待を持って隣にいるはずの燐香を見やる。……そこには誰もいなかった。頭痛がひどくなる。呼吸が荒くなる。ああ、悪夢は未だ続いているようだった。
◆
「…………」
ふらつきながらも、幽香は燐香の痕跡を調べ始める。今が夢か現かはまだ分からない。だが、動けるならば動くべきだというのは分かる。ベッドの布団は剥がされており、誰かが寝ていたような痕跡はある。寝巻も綺麗にたたまれている。衣装棚を乱暴に開ければ、燐香お気に入りの服はなく、幽香がプレゼントしたマフラーもない。こめかみを押さえながら、台所へと向かう。やはり誰もいない。食事をした形跡はない。
幽香は水差しから水をグラスに注ぎ、引出しから薬瓶を取り出して中身を一気に飲み干す。永遠亭で処方された頭痛薬。強引に押し付けられたそれだが、多少の気休めにはなっている。酒棚に思わず目を向けてしまいそうになるが、強く振り払う。夢の中でまで酒に溺れてどうするというのだ。それでは前と変わらない。二度とあのような醜態を見せないと誓ったはずだ。空になった瓶を乱暴に放り捨て、玄関を観察する。
「…………靴もない」
大きく息を吐き、冷静に思考する。風見家周辺だけではなく、各地に張り巡らせている向日葵の警戒網に燐香は引っかかっていない。何より、悪夢を見ていたとはいえ燐香がこそこそと着替えていれば、確実に気が付くはずだ。そこまで深い眠りについた覚えはない。ルーミアあたりと一緒に悪戯に出かけたという可能性もなくはない。もしくは、単純に幽香に出かけてくると声をかけそびれたか。分からない。分からないならば動くしかないだろう。そうすれば、今が悪夢か、現実か。その答えも出るだろう。
アリスの家に全速力で訪れると、不審気な表情でドアを開けて応対する家主。燐香が一番心を許している相手はアリスだ。だから、一番可能性が高いのはこの家だと思った。本当はこの家で暮らしたいのであろうことは、訊かなくても分かる。
「いえ、今日は来ていないわ。どこかに遊びに行くような話も聞いてないし。……幽香、貴方酷い顔色よ。大丈夫なの?」
その問いには答えず、ならば良いとすぐに移動しようとすると、上海人形でそれを遮られる。苛ついた表情でアリスを睨みつけるが、向こうも真剣な表情で言葉を発してくる。実力で振り払うこともできたが、手間を考えれば大人しく聞いた方がいいだろう。
「貴方がいつもと違うのはとても良く分かったわ。どうやら状況も深刻みたいだし。それで、燐香がどこに行ったか分からないのね。勿論協力するわ。状況をできるだけ詳しく教えて」
目覚めてからの家の状況を説明する。燐香の行動を幽香が全く察知できなかったこと、各地に巡らせてある向日葵の警戒網に引っかかっていないことなどだ。自分で着替えている形跡があることから、家出の可能性も高いと考えたが。
「馬鹿ね、もうそんなことする必要はないでしょう。あの子は貴方との暮らしに満足していた。それは確かよ。……とすると、こっそりと誰かと企んで悪戯をしかけにいったか。でも、貴方の警戒に引っかかってないのはおかしいわね。今までのパターンからすると、引っかかることを前提に行動しているし。それも合せて楽しんでいるみたいだった。そもそもあの子に解除なんてできるわけもなし」
「…………」
「ちなみに、貴方が考える燐香の移動先は? 深く考えず、思い当たる場所を教えて」
「一番可能性が高いのはここだった。後は紅魔館、白玉楼、永遠亭、博麗神社。人里、妖怪の山、地底は絶対にありえない」
「確かにそうね。ならば手分けして探しましょう。私は白玉楼に向かってみる。いなかったとしても、妖夢に事情を話せば捜索を手伝ってくれるでしょうし。何か事情を聞いている可能性もある。貴方は近場の紅魔館と永遠亭をお願い。私は永遠亭に伝手がないし。丁度いいから博麗神社で落ち合いましょう。以前の宴会騒動の時は確か神社にいたはずだし。上手く行けば八雲紫に確認できるかもしれない」
「…………」
「ねぇ、聞いてるの?」
「…………ええ」
「しっかりしなさい。燐香も心配だけど、今は貴方の方が死人みたいよ」
「大丈夫よ。私は、何も問題ないわ」
「……そう。それじゃあ私は行くわね。また後で落ち合いましょう」
颯爽と飛び立っていくアリスを見やった後、幽香は近くの紅魔館へと向かうことにした。徒労になるだろうという漠然とした予感を抱いた上で。
「ああ、風見幽香さん。え、燐香さんですか。今日は来ていませんよ。妹様も今はぐっすり寝てますし。ええ、本当です。それより、大丈夫ですか。顔色が――」
「大丈夫よ」
「えっ、何かあったならこちらでも――」
声をかけてくる美鈴を遮り、さっさと飛び立つ。やはり徒労に終わった。頭痛が酷い。薬はやはり気休めだったようだ。永遠亭でもっと強力なのを貰おうかと一瞬考えるが止めておく。副作用で何が起こるか分かったものではない。そんなことを考えながら、迷いの竹林を抜け永遠亭に到着する。何か騒いでいる兎を適当にあしらい、さっさと永琳のもとへ向かう。書斎には書き物をしている赤青の装束の女、怜悧な視線を向けてくる八意永琳がいた。
「風見燐香? 来ていないわ。というか気楽に来ないで欲しいと伝えて欲しいのだけどね。何かの拍子で穢れをまき散らされたらたまったものじゃない。……といっても無駄でしょうね。姫とはたてがいる以上、諦めざるをえないというわけね。まぁ監視はさせてもらうけれど」
「はたては?」
「ああ、珍しく出かけてるみたいね。丁度、今さっき血相を変えて出て行ったわ。残念ながら貴方とは入れ違いという訳ね」
「そう。ならいいわ」
「どうやら体調がひどく悪そうね。薬なら出せるけど。ああ、この前の頭痛薬じゃない、もっと違うものを処方するとしましょう」
「…………」
「ふふ、貴方を悩ます悪夢を完全に取り除いてあげる。きっと、楽になれるわよ」
「結構よ」
永琳の顔を見ることなく、書斎を後にする。「お大事に」という声が背中にかけられる。悪夢を見ることも恐ろしい。だが、もっと恐ろしいのは、なにもなくなることだ。全てを忘却し、何も感じなくなることこそが何よりも恐ろしい。頭痛が酷い。
結局なんの手がかりもなく、博麗神社に向かうことになった。アリスはもう着いているだろうか。参拝客のない古びた神社、その境内へと着地する。誰もいない。騒がしい連中がいつもいるのは母屋の方か。そちらへ足を向ける。
「……ああ、来たの。予想より遅かったじゃない」
「いや、十分早いだろ。なぁ霊夢、どうなると思う」
「私は知らないわよ。まぁ、普通に考えれば血を見るんじゃないの。この物騒な顔を見ればね。対処が面倒くさそう」
「だよなぁ。既にビキビキ来てるし」
「命知らずもいたものよね。私は関係ないし知らないけど」
博麗霊夢と霧雨魔理沙がひそひそとなにやら喋っている。魔理沙の手には数枚の写真がある。それに視線を向けると、魔理沙が冷や汗を流しながら話しかけてくる。
「あー。落ち着いて聞けといってもダメだろうけどさ、本当に落ち着いて聞いてくれ。さっき、天狗、ほら、永遠亭のはたてがやってきてさ、これを置いていったんだ。『もうどうしたらいいか分からなくて困りすぎる! 誰か助けて!』とか騒いでてさ。真っ先にお前とアリスのところに向かったらしいけど留守だったとかなんとか」
「ねぇ、聞いてんのアンタ。本当に目がやばいけど」
「ええ、全部聞いてるわ。それで」
「あ、ああ。私たちもさっきコレをもらったばかりで、さてどうするかーって話しあってたところでさ。簡単に言うと、まずお前に声をかけるか、それともこっそりささっと行くかなーって」
「現状を見ると、声をかけない方が正解だったわけね。もう遅いけど」
「ほら、そんなに睨まなくても渡すって。渡すから手に噛みつかないでくれ」
魔理沙が躊躇いながらも写真を手渡してくる。それは見覚えのある光景。風見家の寝室の写真だ。はたての念写で撮ったものだろう。一枚目は燐香が寝ている写真。その次は、その傍に佇む見覚えのない人物の写真。特徴的なのは帽子と、身体に纏わりついた目玉のようなもの。――これはさとり妖怪か。そのさとり妖怪が、燐香を担いでいるのが最後の写真。
「人さらいならぬ妖怪さらいってやつだな。しかし大胆な犯行すぎるだろ。世にも恐ろしい母熊の真横でよくやるよ」
「そいつ、気づかれにくい性質みたいだしね。まぁ、ちょっと地底に行ってるだけでしょ。心配しなくてもそんなに酷いことには――って全然聞いてないわね」
「……うわぁ。怒りで真っ青だった顔に血管が浮き出て怖すぎるだろ。夜中に会ったら気絶するぜ。本気で」
「……………………」
何か雑音が聞こえるが、もう何も聞こえない。写真をぐしゃっと握りしめて焼却する。不愉快な臭いをあげながら灰が散らばっていく。鋭い頭痛とともに、憤怒と激情が湧き上がってくる。
以前にもこんなようなことがあった気がする。だが、よりによって地底妖怪の仕業とは。確かに、地底から脅迫状のようなものは届いていた。燐香がそれを見て悩んでいたので、抗議しようと地底に向かったところ、紫に強く制止されたのだ。お前が行くと余計こじらせることになるから止めろと。上手いこと取り計らうからここは私の顔を立ててほしいと。折角小康状態にあるのにむやみやたらに敵対心を煽るべきではない、燐香のためにならないと。
そこで思わず矛を収めてしまった。その結果がこれだ。紫の甘言に乗った自分に腹が立つ。自分が許せない。安穏とした生活で油断していた自分が許せない。血が出るほど歯を食いしばったあと、感情を凝縮させて雄叫びを上げる。そして、全力を籠めて、地面を思いっきり踏みきった。
大地が抉れる感触、風を切り裂く音。向かうべきは地底だ。意識が途切れ途切れになる。もういい、これ以上何も考える必要はない。後は本能に任せればいいだろう。地底には強力で厄介な連中が多い。邪魔する奴は力で全て排除するしかない。……これが夢か現か、それとも幻なのか。その答えはまだ出ていない。
気が付けば、暗闇と不快な空気の黴臭い空間。誰もが忌み嫌うであろう陽の当たらない場所を押しとおる。立ち塞がる全ての障害物を掴み、蹴落とし、叩き潰し、なぎ倒す。その度に悲鳴と怒声が轟く。返り血を気にせずに進む。そして鬼や土蜘蛛の防衛線を抜けた最後の場所、地底へと向かう縦穴の終着点、地獄の入り口。盃を片手に不敵に笑う鬼が立っていた。
「はははは、こんなところで迷子かい、なんて冗談は言ってられないね。いやー派手にやってくれるじゃないか、招かれざるお客人よ。防衛線はズタズタ、怪我人多数で大忙しさ。ああ、私は鬼の四天王の一人、力の勇儀だ」
「……………………」
「怒れるお客人の目的は探し人かな? いやなに、あんたが鎧袖一触で叩き潰してきた連中。そいつらが警戒していたのは、侵入者の脱出を防ぐためだったんだ。ま、その最中に派手に地底に降下してくるやべー襲撃者がでたってもんで、この私が出張ってきたわけだよ」
鬼が愉しそうに笑うと、盃を一気に飲み干す。
「その姿形を見るに、あんた、侵入者の身内かな? ま、力には力で出迎えるってのがここでの礼儀ってもんだ。あんたもそのつもりで降りてきたんだろう? どれもこれも古明地さとりの計画通りってのが心底気に食わないが、あんたと戦うのだけは楽しめそうだ」
「……古明地さとり? あの、さとり妖怪が?」
「ああ、ここの管理者の名前だ。陰険で死ぬほどいけすかない奴だが、この地底をまとめるだけの能力があるやつさ。鬼殺しを煽るクソ度胸もある。今回の件も全部あいつの計画らしいしね。ま、そんなことは置いといてだ。さっさと始めようじゃないか」
「…………燐香は?」
「さぁて知らないね。ま、あの陰険妖怪らしく、この前のケジメをつけさせるつもりなんじゃないかな。腕一本か、それとも首根っこ引っこ抜いて晒し首か。どちらにせよ碌なもんじゃないだろう。そうだ、もしあんたが私に勝ったら良い物を返してやるよ。形見になるかもしれないからね」
「……………………」
勇儀が懐から見覚えのあるものを取り出す。地底の泥にまみれているそれ。燐香が持っていた赤いマフラーだ。綺麗だった赤は見る影もなく、薄汚れて黒くなっている。勇儀はそれを上機嫌でひらひらと靡かせている。最後の一本が切れる音がした。
「はははは、いいねいいね。さらに良い顔になってきたね。ここまで煽った甲斐があったよ。萃香の奴が死ぬほど羨むことだろう。――さぁ、無駄話はここまでにしよう。地上の妖怪の力、存分に見せてもらおうかッ!!」
返す言葉はもうなかった。幽香の意識は完全に途切れ、ただ本能のままに全身が動き始める。抉りこむように突き動かした拳が鬼の腹部を捉え、一挙に妖力を爆発させた。激しい爆音、崩壊する岩壁、響き渡る咆哮、視界が黒く染まっていく。今朝の悪夢はまだ続いているようだった。
感想ありがとうございます。
連日更新ではなく超不定期更新です。
どうぞよろしくお願いします。