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「……というわけだったんですよ。霊夢ってば、いったいどうしたんですかねぇ?」
「うーん……」
背を壁に預けて立つ美鈴が首を傾げて、ドアへと顔を向けた。その疑問に関してはまったくの同感だったので、つい私も廊下の壁に背を預けて腕を組み、唸ってしまう。
霊夢が着替えの為に入っていった部屋の前で立ち話しながら、私と美鈴は着替え終えて出てくるのを待っていた。
聞くところによれば、なんと、当初霊夢は門番の美鈴に気を使ってこの大雨の下で待つつもりだったというのだ。あの『霊夢』がである。
これが記憶があった頃の霊夢ならば問答無用で館に押し入りを敢行し、行く手を塞いだ美鈴を有無を言わさず撃墜し、私の制止も聞かず勝手に着替えの服を漁っていてもおかしくない。流石にそこまでしないかもしれないけれど、やりかねないイメージが彼女にはあった。
そういえばと思い返してみれば、今の霊夢は私が館の中を濡らさないようにと言えば、気を使ってその通りにしてくれている。もしかしたら、今の霊夢の方が以前よりも遥かに常識的ではないかしら? 月日が彼女を成長させたのか? それとも、記憶を失った時に一緒に不遜な性格が削ぎ落とされて真人間となったのだろうか?
……いや、前の霊夢を比較対象にしているからそう見えるだけで、今の霊夢だって真人間から程遠いのには変わりがなかった。人里で会った時ははしたなく地べたに座り込んでうなだれていたし、そのことで里の人間の注目を集めていても気にした様子もなかったようだし。挙句の果てには荷物を運んでやった私を置き引き扱いしたりもした。今しがたも部屋の中から紅魔館に居るはずのないゴブリンの鳴き声が聞こえたと思ったら、どうやらあれは霊夢の発した唸り声だったらしい。以前の霊夢だって突然に奇声を上げたりするなんてことは、私の知る限りなかったと思う。
やっぱり。霊夢は記憶の有る無し、どちらがいいかと言われれば困るぐらいには一貫して変人であった。
それはそれとして、廊下に待機してもうそろそろ十分が経とうとしている。部屋から衣擦れの音が聞こえ始めたのが数分前からなので、それまでは着替えもせずただ唸っていたということになる。
まったく、着替えるだけのことに何をそんな梃子摺っているのだろう。渡した着替えに何か不備はなかったかと考えるも、渡した服はまだ一度袖を通したばかりのもので着終えた後には石鹸を使って洗濯したから血の汚れも血の臭いもない。
サイズにしても身長差からちょっとばかり丈が余ってしまうだろうけれど、決して着れないということはない筈だ。丈は足りているのだからあとは幅ぐらいになるけれど、霊夢は私よりも細身である。特にこれといった問題はないように思える。
……ああ、そうか。逆なのかもしれない。むしろ、生地が余り過ぎることを気にしているのかも。美鈴よりは控えめでスレンダーな私だけれど、それでも出るところは出ているしで決して貧相というわけではない。そして霊夢はといえば、普段の食生活が悪いのか無駄な脂肪がほとんどない。魔理沙よりはマシではあるものの、きっと標準的な体型と比べて少々控えめであることを気に病んでいるのだろう。
まぁ、まぁ。着替え云々とエントランスで話している時にはじっと美鈴の胸部を眺めていたし、その辺りに無頓着に装っていたけれど記憶という心の鎧が剥がされたことで彼女の心底が顕となったに違いない。意外だけれど、あの巫女も一人の女の子だったということか。
「ああ見えて霊夢も年頃の女の子だもの。色々とあるのよ」
一度そう結論づけてみれば、霊夢は中々可愛らしい性格になったように思えた。私自身メイドとしての振る舞いからかよくよく実年齢より高く見られがちだけれども、その私から見ても以前の霊夢は達観しすぎていてあまり年下とは思えなかったのである。
今の記憶を失った霊夢は私に対して度々敬語を使っているし(聞き慣れないので気色が悪いことこの上ないけれど)、今回のことにしても見方を変えればわざわざ私を頼ってきたようにも考えられる。
記憶を失って心細いというのも多分にあるのだろうけど、霊夢の周りには妖怪や妖精などの人外が多く、人間はことさら少ない。知っている中で人間なのは魔理沙ぐらいのもので、その白黒は面倒見がいいのか悪いのかわからない気まぐれな人間だ。神社によく姿を現すという妖怪にしても、尋常じゃなくうさんくさい八雲紫やいつも酔いどれている伊吹の鬼と、頼れる相手かどうかなどは考えるまでもない。
……もしかして私は今、あの霊夢にとって唯一の頼れる人間なのではないだろうか。荷物を運んでやったことが発端なのだろうけど、少なくとも以前よりも懐かれている気もする。敬語で話しかけてくるのも、門番である美鈴に気を使って同僚である私の面目を潰さないようしたのも、頼りになる人間に庇護して欲しい、助けて欲しいという深層心理の表れだったのかもしれない。
ふむ。以前のふてぶてしい振る舞いも周囲と対等であろうとして大人ぶっていたと考えると、随分と微笑ましいものに思える。一生懸命に威嚇する子猫を見ているような、そんな気持ちにさせてくれる。私自身お嬢様が異変を起こすまでは館の外との関わりを絶っていたので仕方がない部分があるのかもしれないが、年下の子に頼られるというのはこんなむず痒いものなのだろうか。初めての感覚なのだけれど、悪くない。
「年頃の女の子ですかぁ? それはまた、霊夢には似合わない言葉ですね」
「そうね」
私の言葉に美鈴は、言われてみればそんな年齢だったか、と思い出したように、けれどもやっぱり違和感が拭えないのか腑に落ちないというような、苦笑いに近い形容しがたい表情を浮かべた。
確かに今までの霊夢のイメージからすると『年頃の女の子』はあんまりにそぐわない言葉だ。それを言った私が、美鈴の言葉に反射的に相槌と頷きとを同時に返してしまうほどである。
「っとと、違う。『そうね』じゃなかったわ。あの年で神社で一人過ごしていれば人恋しいこともあるのでしょう。あの子も人の子なのだから、年上の頼れる人間に甘えたい時もある筈だわ。そういう時は年長の人間が率先して世話して守ってやらないといけないと思うのよ」
「……んん? 今度は咲夜さんがおかしくなった。さては、霊夢のがうつったのかな?」
「美鈴にはわからない感覚なのかしら。記憶を失い、右も左もわからない少女が一人神社に住んでいるのよ。そんな子がわざわざ私を頼ってきた。無碍に出来るはずがないでしょう」
「そういうものなんですか? どうも人間はよくわからないなぁ。でも、咲夜さんが愉快な思い込みをしているんだろうなって確信はあります」
「ええと、二人とも?」
美鈴にどういう意味なのか問い質そうと口を開いたところで、声がかけられた。ドアへと振り返れば、空いたドアの隙間から霊夢がこっそりと顔を覗かせている。そうして私と美鈴の姿を認めると普段のはきはきとした様子からは想像もできない、踏ん切りの悪い動きで部屋から出てきた。
きっと慣れない姿を見せるのが恥ずかしいのだろう。女の子らしい反応である。――――それが『恥らい』ではなく、治る前に剥がしてしまったかさぶたの傷跡を見るかのような『怖れ』を感じさせるものなのは、普段の霊夢のイメージが残っている為に見せる幻に違いない。
「どう? どこか、おかしくはない? 姿見がなかったから、ちゃんと確認できなかったのだけれど」
おずおずと姿を現した霊夢に、つい私は眉根を寄せてしまった。
長袖のブラウスの上に青いベスト。私の身長では膝上のミニになる青色のスカートは、背が低い霊夢では膝辺りまでを収めている。腰から下にはエプロンをしているのだけど、これがどうにも落ち着かないようだ。以前にちらと霊夢が酒の肴を調理しているのを見たけれど、普段は首から下を覆う割烹着を着ているからかもしれない。
髪の毛もまだ濡れていたので髪留めにしていたリボンを取り外し、フリル付きのヘアバンドで後ろに流して三つ編みに束ねて下ろしている。どうやら、気を使ってくれたようだ。これなら髪が湿っていても水が撥ねるということはないだろう。
「……そう、ね」
ただ、その。なんと言えばいいのだろう。非常に言いにくいのだけれど、あんまりメイド服が似合っていない。黒髪の所為だろうか。それともスカートが膝下まで隠している所為だろうか。アンバランスで、野暮ったく見えてしまう。
いつも通りに思ったことをそのまま口にしようとして、しかし年下の女の子らしい振る舞いをするようになった霊夢にそれを告げるのは酷だろうと考え直し、必死に言葉を探す。
「巫女姿の霊夢を知っているからどうにも違和感が拭えないわ。あ、悪い意味ではなくてね。別に、格好自体は似合っていないわけではないと思うのだけれど。でも、いつもの髪型以外を見たことがなかったから、そこは新鮮なのかしら。ねぇ?」
困った。私の語彙では今の霊夢を褒めてあげられそうな言葉が見つからない。
苦し紛れに美鈴に話を振って、ウインクをぱちぱち。これまた霊夢のメイド姿に微妙な顔をしていた美鈴は、私の意図を察したのか視線を天井へ惑わせて見るからに焦った様子で言葉を探す。
「え、はい。うー……、えっと、こう言っちゃなんだけど、普通、なのかなぁ。うん、あんまり霊夢っぽくないというか。あ、これも悪い意味じゃなくて。世にも珍しい巫女のメイド姿だけど、でも巫女って役職自体が神様の仮住まいにしている神社のハウスキーパーみたいなものだって言うからね。うん」
美鈴はわたわたとあちらこちらへ視線をやって、誤魔化すように苦笑いを浮かべている。駄目だった。それじゃ妙に勘の鋭い霊夢が相手では、似合わないと言っているようなものだ。
慌ててずいと、美鈴を視界から隠すように私が前に出て霊夢のヘッドドレスの位置を直してやる。
「大丈夫。着こなしには問題ないから」
「そ? なら、よかったわ」
ヘッドドレスを直されるがままの霊夢が私を見上げて、はにかんだ。どうやら誤魔化されてくれたようだけれど、彼女と真っ向から向き合ってしまった私の思考は見事に停止してしまって、一拍固まってしまった。どう反応していいものかわからなくなってしまったのだ。
……以前の斜に構えた霊夢からは想像できない、見たことのない表情だった。心の底から安心したかのような、童女のような屈託のない微笑み。そんな霊夢と感情を共有してしまったかのように、気がつけば私の表情も崩れてしまう。つい、霊夢に微笑み返してしまった。
「……霊夢。もし、もしよかったらだけれど、記憶が戻るまでうちでメイド見習いとして働くのはどうかしら? 人里から離れた山の上の神社で一人生活するのは大変でしょう? お給金はそれほどあげられないけれど、衣食住ぐらいなら困らないよう用意できるわよ」
「ちょ、ちょっと咲夜さん? いきなり何を言い出すんですか? だいたい、そんな勝手なこと、お嬢様が何て言うか……」
「妖精を雇ってメイドとして働かせるよりはよっぽど役に立つでしょう? あれはさぼって遊んでばかりだもの。十匹いても人間一人分の仕事すら満足にこなせないお陰で、館の中の雑事のほとんどは私が時間を止めて終わらせているのだから。お嬢様に許可は必要だけれど、メイド長として使用人の人事に関しては私にもいくらか裁量があるのだし、もし霊夢が私と一緒に働きたいというであれば何とかして通してみせるわ」
言いながらうんうんと頷いてみる。半ば思いつきで口にしたことだけれど、考えれば考えるほどに妙案である気がしてきた。
空間を操作する私の能力に拠るものだけれど、紅魔館の内部は外から見る数倍は広い。人を迷わせる妖精が、館の中で迷子になるほどだ。当然広ければ掃除する箇所も増える訳で、使用人はいつも足りていない状態である。新しく雇おうにも、妖怪は自由気ままな本性である為に職につこうという物好きもそういない。人里から遠く、妖精や妖怪ばかりの人外魔境である紅魔館で通い・住み込みに問わず仕事をしようという人間は皆無である。消去法から残るは妖精となるのだけど、前述の通りアレはまったく働かないのだ。
美鈴も言っていたけれど、此処に寄り付く人間なんて霊夢か魔理沙ぐらいのものである。以前の霊夢や魔理沙では働かせることに不安しかないけれど、記憶を失っていくらか常識的になった霊夢であれば、偶に起こす奇行にさえ目を瞑れば及第点である。結果として私の仕事の負担が減って、霊夢も安定した生活を送れるとなれば、悪いこともないように思える。
「で、霊夢はどうかしら? もちろん仕事は私が一から教えてあげるし、何か他に――そう、仕事のことに限らず、困ったことがあれば相談してくれるなら力になるわよ」
「うーん……」
二つ返事で快諾してくれるかと思いきや、霊夢は口を尖らせて難しい顔をしている。
「そう言ってくれるのは本当にありがたいけど、辞退させてもらうわ。一週間前だったなら一も二もなくお願いしていたんでしょうけど、数日前に巫女として修行するようにってお説教されたばっかりなのよ。その時に巫女の仕事をやるなんて言っちゃった手前、早々に放り出すわけにもいかないのよねぇ」
「そうなの……残念だわ。けれど、巫女の修行があって毎日では難しいというのなら、別に住み込みでなくてもいいのよ? 都合のつく日だけでも手伝ってくれるなら、助かるもの」
「咲夜さん、必死過ぎ」
美鈴に横槍を入れられたので、横目で睨み付けて黙らせる。必死とは何だ。伝え忘れていた雇用条件を改めて提示しただけである。
「そうね。それじゃ、神社の財政が破綻した時はお願いするわ」
「それなら今日から働けるじゃない。だって、とっくの昔に破綻しているもの」
いつもの調子で余計なことを言ったと気づいて口を塞ぐも、もう遅い。宴会でのお嬢様の付き添いやらと博麗神社には幾度となく顔を出しているけれど、参拝している人間なんて見た
これまで霊夢がそれなりに裕福に暮らせていたのも、妖怪退治の仕事をこなして半ば自力で食料を調達していたからである。賽銭だけで暮らそうと思ったら一月を待たず餓死することだろう。記憶を失ってから空を飛べず霊力も使えなくなったという霊夢が、未だこうして生きていられることが奇跡とまで思えてくるほどだ。
「……」
苦難の日々が脳裏を去来したのか、伏せられた霊夢の目は泥水のように濁り諦観と悲哀の苦々しい色に染まりきっていた。
▽
霊夢ほどではないにしろ雨に濡れている美鈴を着替えに行かせると、どうしたものかと困ってしまった。館の中を案内し終えるまでの間、霊夢がおとなしく私の後ろについてくるのだ。
いつもなら案内する私のことなどお構い無しに勝手にいなくなり、館の中をうろつきまわっては飽きるかしたら帰っていくので、よっぽどのことがなければ(お嬢様が好きにさせろと言うので)私も好きにさせている。
端的に言って、やりにくい。とりあえず霊夢を応接間に通して普通の紅茶と普通の焼き菓子を振舞って他愛のない世間話をしていたのだけれど、そうこうしているうちにお昼時を過ぎている。
お嬢様はまだお休み中なので人里の人間たちの言うところの昼食の用意は必要ないものの、私は館の掃除の続きをしなくてはならないのだ。使用人として客人より優先させることでもないのだが、このまま丸一日霊夢の相手をしている訳にもいかない。まともに仕事しているのは私だけなのだから、業務が滞るどころの話じゃない。かといって、客人を一人放っておくわけにもいかないわけである。
霊夢は着替えを借りた礼代わりに掃除を手伝ってくれると申し出てくれたのだけれど、使用人として雇用してもいない者を私の独断で働かせてはお嬢様の面子を潰すことになりかねないので、安易にお願いすることもできない。
紅茶を啜ってどうしたものかと考えていると、霊夢が「あっ」と何か思いついたように声を上げた。
「そうそう。咲夜、お願いがあるんだけど」
「お願い? このティーセットはあげられないわよ。香霖堂でセット購入したものだから、代えはないのよ」
「そうじゃないっての。以前に言っていたけど、ここ地下に図書室があるんでしょう? よかったら使わせてもらえないかと思って」
「ああ、そんなことも言ったわね」
少しばかり考えてみるも、ふむ、悪くない。世間話のネタも尽きてきたし、何より本人の希望である。
いっそ、霊夢の相手もパチュリー様に押し付けてしまえばいい。
「そういうことなら、お客様を図書館へご案内致しましょうか」
ちょうど霊夢が紅茶のカップを空にしたので、時間を止めて自分のカップやソーサー、茶請けの入った籠とまとめて豪奢な配膳台車の上に片付けていく。
このまま調理場に持っていってしまおうかとも思ったけれど、霊夢を図書館に案内した後に持っていけばいいと考え直して手を止めた。
「あっ!? 私のスコーン!」
「……もう。余ったのは持って帰ったらいいでしょ」
配膳台車を入り口の脇に寄せてから一旦能力を解除すると、次の瞬間には霊夢は勢いよく台車の上に乗せたスコーンの入った籠へ顔を向けていた。もちろん時間を止めていたので霊夢は籠の行方を目で追えないのだから突然目の前から消えたように見えている筈なのだけれど、とてもそうとは思えない反応である。よもや、眼球だけでも私の止まった時の世界に入門しているのではなかろうか。
「やった! 後で返せって言われても返さないわよ」
「はいはい」
そんな馬鹿馬鹿しい結論に遅れて思い至り、つい戦慄した目を向けるも、そこにはにっこにっこ笑っていそいそとペーパーナプキンにスコーンを包んでいる霊夢の姿があるだけだ。……例えこの霊夢が時間を止める能力に目覚めたとしても、くだらない事にしか使いそうにない。
人外の反応速度を見せたり、少し見ない間に空を飛べるようになっていたりと普通なら驚嘆することばかりしているのに、普段がこれでは感心してやる気も失せてしまう。
どうも他人を脱力させる奴である。