忘れられし都、アルハザード。
茫洋たる次元世界の片隅、ある時空の狭間に置き去られた残骸の地。
通説では、時を操り死者を蘇らせた古の秘術が眠る地とされている。また、最後には必ずこう付け加えられる。それはおとぎ話でしか無い、と。
どうしてもやり直したい過去があって、どうしても蘇らせたい人がいたとしても、分別の付いた大人ならばおとぎ話に縋ったりはしない。天国では死者に会えると自ら命を絶っても、心の奥底では覆らない真実に慟哭している。
もし、その大人がおとぎ話に縋るというのなら、もはや分別など抜け落ちてしまった獣か、あるいはおとぎ話に僅かでも真実味を見出した人間だろう。
♪
古ぼけた白銀色の懐中時計が、カチ、カチと音を立てて秒針を刻む。時針が七を指したところで、壁の向こうから目覚まし時計の音が鳴り響いた。音はすぐに鳴り止み、リビングに雨音の静寂が戻ってくる。
プレシアはコーヒーの入った白いマグを片手に、窓の外を見やった。強くなった雨脚が、景色を灰色に染めていた。
「おはよう」
寝ぼけ眼にパジャマ姿のアリシアが、リビングに顔を出した。
「おはよう、アリシア。今日は残念ね」
「また、雨……」
アリシアは寝癖で跳ね上がった横髪を右手で気にしながら、カーテン越しに窓の外を覗く。起き抜けの雨音で分かっていたことでも、落胆を隠しきれずにため息を付いた。
「また今度にしましょう。来週も、再来週も、時間はたくさんあるのだから」
「……うん。またお出かけできるように、今日は家で勉強頑張るね」
「アリシアは、本当に偉いわね」
プレシアはマグをテーブルにおいて、いつもどおりの優しい笑みでアリシアの頭を撫でる。その姿が、アリシアにはどこか淋しげに見えた。
「……ねえ、最近、雨が多いね。去年まで、一度も降ったことなかったのに」
「そうねえ。天候のことはわからないわ。けどね、きっとこれが当たり前のこと。おかしいのは、去年までのこと」
「どうして?」
「雨は、降るものよ。今日みたいにお出かけが中止になることも、おかしいことじゃない。わたしの仕事が忙しくなって、アリシアと一緒に居られなくなることだって、あるかもしれない」
「雨は、降るもの……」
気付けば、アリシアの表情は曇っていた。それはプレシアにとって、見覚えのある顔だった。今のアリシアと同じ年齢で、同じ形をして、同じ声をしていた、もう一人の娘の顔。
「……でも、アリシアも、もう今年で九歳だものね。強くならなくちゃ。ほら、顔洗ってきなさい」
プレシアの言葉にこくりと頷くと、アリシアはリビングを出て洗面へ向かっていった。それを見送ったプレシアは、テーブルの席について再びマグを手に取り、コーヒーを口に含む。
アリシアは去年まで、空から雨が降ることを忘れていた。雨がふらずとも架かる虹を見て、喜んでいた。
この場所では、強さを知る必要はない。望めば雨が降ることはないし、他者を攻撃をする人間もいない。優しい時間がいつまでも続いていく。
まるで、おとぎの楽園。それは、時を操り死者を蘇らせることと同列に語られる奇跡に違いなかった。老いてしまえば若返ればいい。飽いてしまえば楽園をやり直せばいい。そこにある何もかもが、満たされている。
「いいのですか。あの子は、誕生日を楽しみにしていました。本当に、今日……」
リニスがキッチンから朝食を運んでくる。いつもと変わらない、トーストとオムレツ、サラダのメニューだった。
「いいの。それより、リニス。あなたこそ」
「わたしは……しょせん、あなたに作られたものですから。あなたの望みは、わたしの望みです」
「……ごめんなさい。これが、最後のわがままだから」
「ええ」
プレシアは白銀色の懐中時計を手に取り、テーブルに並べられた朝食に手を付けないまま席を立った。
ちょうどリビングに戻ったアリシアが、首を傾げながらプレシアの顔を見る。リニスはなにも言わずにプレシアの後ろに控えた。
「ふたりとも、どうしたの?」
「アリシア。ちょっとこっちに来てくれるかしら?」
「うん」
アリシアは跳びはねるようにしてプレシアの元へと駆け寄った。プレシアが微笑みながら自分の名前を呼ぶときは、いつだってその先に良いことが待っている。期待に満ちた表情のまま顔を上げた。
アリシアはそこに、優しい笑みを見た。プレシアの手のひらがアリシアの前髪をかきあげる。そして、額の白肌にくちづけがおりた。
「少し早いけれど、誕生日プレゼント」
懐中時計に取り付けた白銀色のチェーンを、アリシアの首にかける。首に下げられた懐中時計はアリシアの胸の付近で揺れ、小柄な背丈にぴったりと合わせられていた。
アリシアは不思議そうな表情で、自分の首に下がった懐中時計を手にとった。外周の突起部分を親指で押すと、懐中時計の上蓋が開く。その下にあったものに、アリシアは思わず声を漏らした。
「キレイ!」
時刻を指す白銀色の針の向こう側に見えるのは、透明で不思議な輝きを持った歯車たちがぐるぐると回って針を動かしている光景。透明な歯車のそれぞれが確かな厚みを持っており、アリシアは懐中時計の中にひとつの世界が広がっているのではないかと思った。
古ぼけたような外見をしていながら、中には見たことのないような神秘的な空間が広がっている。ただの懐中時計なら、今年で九歳を迎える少女にとっては面白くないプレゼントだったかもしれない。アリシアは上蓋を閉じ、満面の笑みを浮かべながら嬉しそうに懐中時計を眺めた。
「ありがとう! でも、どうして今日なの?」
「知りたがりね、アリシアは。でも、それでいいのよ」
プレシアが優しげに微笑むのを見て、アリシアはますます上機嫌に笑った。言葉の意味が分からなくとも、アリシアにとってはどうでもいいことだった。
「その時計は、アリシアが大人になるために必要なものよ」
「大人……」
「そう。わたしは、アリシアに強い人になってほしい。だから、少しでも早くプレゼントを渡したかったのよ」
「そっか、うん。わかった。わたし頑張るよ!」
「よかった。アリシアは、きっと素敵な人になれるわ。わたしの、娘……」
プレシアはアリシアの体にそっと手を回す。そのまま抱き寄せられたアリシアは、心地よさそうに目を細めてプレシアの体に顔を埋めた。そして、その暖かさに包まれながら、ゆっくりと、ゆっくりと穏やかな眠りへ落ちていった――
♪
雨は止み、空が色彩を失う。楽園の残滓が、風にさらわれて漆黒色の空へ消えていく。
廃墟の街となったアルハザードには、心臓の鼓動が二つ残るだけ。その二つを除けば、すべての生命が停止している。どれほど潔白な街並みも、価値を持たないのなら瓦礫の山に等しい。
広く果てしない世界に、たったふたり、確かに呼吸をしている。ベッドの上で眠り続ける子と、それを見守る母親。
『楽園の奇跡』は終わった。長い夢から醒めて、本来の世界へ戻った。
夢といえど、今までの記憶は、感じた体温は現実のものだった。せめてそうあって欲しいと、プレシアはベッドの前で膝をつき、愛しい我が子の頬を撫でる。
アルハザードに眠る秘術は死者を蘇らせた。楽園を生み出すことも、時を巻き戻すことすら可能にした。
けれどひとつ、どうしようもない、叶わないことがあった。
楽園の中で、ちょっとした行き違いからアリシアを泣かせたことがある。プレシアは時を巻き戻して、行き違いの理由を探した。そうしてやり直した日にアリシアが悲しむことはなく、幸せそうに笑っていた。
それでも、プレシアがアリシアを泣かせてしまった事実は消えない。プレシアはアリシアの悲しむ顔を知っている。あの日見せたアリシアの悲しみが嘘だとは、プレシアには言い切ることが出来なかった。悲しみを嘘だと言い切ってしまえば、そこにある幸せさえも否定することに繋がってしまう。
アリシアは命を落とした。それを嘆く自分がいた。悲しみから立ち直れずに、新たに生まれたもうひとりの娘をひどく傷つけた。そうして手に入れた楽園で、ようやく悲しみから立ち直った日に、プレシアは気付いてしまった。
どんな奇跡に縋ろうとも、それらの過程を塗りつぶすことはできないと。
事実が不実に裏返ることは、いかなる奇跡を以ってしても起こりえない。アリシアはずっとあの家で命を落としたままで、それを嘆いて苦しんだ真っ暗闇の時間も、決して消えることはない。奇跡とは、事実を積み重ねるだけの、ありきたりな現象にすぎなかった。奇跡とは、打ち捨てられた瓦礫だった。
奇跡を擁するこの場所が廃墟である理由を、プレシアは知った。
廃墟を訪れた先人がそうしたように――奇跡を終わらせるために、プレシアはアリシアの首にかけられた白銀色の懐中時計に手を伸ばす。
アリシアは八年前のあの日、命を落とした。また再び、アリシアがアリシアとして生きることはない。自分の身勝手で消えてしまう我が娘に、せめて新しい名前と、新しい未来を添えて。
奇跡を求めた過去をやり直す、最後の奇跡を。