n氏は冴えないサラリーマン。
営業成績も同期に置いていかれ、妻と子供にも冷たく当たられている。何をやってもダメな自分。ゴミだめのような押入れから崩れ落ちた卒業アルバムに過去の自分を見つめ、視線の先にかつて自分の初恋の相手であるa氏を見つける。
残業帰りの道であやしげな建物を見つける。想い出の中で、別の行動を取れる、そんなバーチャル体験が出来る漫画喫茶らしい。
心身ともに疲れたn氏はふらっとその店に入る。寂れた店内は、昭和のゲームセンターのような作りで、大した娯楽もないように見える。何時間パックにしますか?不愛想な店員が尋ねる。店のシステムを理解しないままとりあえず1時間くらい、と応えるn氏。机の上にどんっとなにやら線のついたゴーグルを置かれる。延長は出来ませんので。ごゆっくり。とだけ残し店員はカウンターに背中を向けてしまう。いぶかしげな表情をしながら個室に移動するn氏。ふとよそのブースを覗くと、そこには咽び泣きをする男性の姿が。ゴーグルの端からは涙が流れていた。不思議なものを見たような顔で自分に割り当てられた個室に座る。そこには黒い一つの箱があり、先ほどのゴーグルから出ているケーブルが接続出来るようだった。ゴーグルをかけ、ゆっくりとケーブルをその箱に挿入する。
見覚えのある景色。彼は走っていた。学校の廊下。これは中学校の校舎だ。走っていた理由を思い出す。そうだ、部活に行かないといけない。ふと廊下から校庭を見る。すでに彼の所属する野球部は列を作り校庭を走り出している。しまったぁ…彼は頭を抱えた。ふとメッセージがどこからともなくポップアップし、彼の視界に入る。この先に分岐点があります。カーナビの交差点の案内のような記号が右下に現れた。なんのことだ?と思いながら、彼は校庭を目指しまた、走る。その時一人の女性にぶつかる。a氏だった。a氏は美術部部長で、持っていたデッサンを派手に廊下にばらまいた。
n氏は思い出した。自分はかつて絵を描くことに憧れた。幼少の頃から絵が好きだった。今のしがないサラリーマンをしているのも、印刷業界というイラスト、デザインと全く関連がないわけでもない業界になんとかしがみつくためだった。しかし美術部にはa氏一人しか入部せず、どちらかというと粗暴な性格の自分は体育会系が合うだろうと思い美術部には入らなかった。床にばらまかれた恐らくa氏が描いたであろうデッサンはどれも美しく、物の形をしっかりと捉えていた。そうだ、この時俺は部活に急ぐあまり、自分とぶつかった拍子にばらまかれたこの画用紙を拾うのを手伝わなかったんだ。もしかすると、それが先ほどのアナウンスにあった分岐点かも知れない。と思いn氏は恐る恐る画用紙に手を伸ばす…。手伝ってくれるの?a氏は明るい口調で問いかけた。
ふと画用紙を拾う手が止まる。そこには校庭に生えている、ほとんど葉も枝もない、みすぼらしい木が描かれていた。その雰囲気は忠実に再現されており、ひょろっとした背の高いその木の特徴をよく捉えていた。そのデッサンをじっと見ているとa氏はn氏に声をかけた。そのデッサン、なにかおかしい?不安そうな声が夕焼けの差し込む廊下にぽつりと響く。いや、そういうわけじゃなくて、もっと大きな枝のある木を描けば良いのに、とn氏は答える。
わかってないなー!このひょろっと病弱で誰にも見向きされない感じが良いんじゃないか!とa氏はまた、明るい口調で話す。思えばa氏とまともに会話したのはこれが初めてだった。n氏はa氏の、どこかいつも寂しげな、大人しそうな雰囲気が、自分、そして周りとまったく異質だと感じ、そこに惹かれていた。だが声をかけてみてわかったのはそれは勘違い思い込みで、a氏も自分となんら変わらない、一人の人間だという事だった。すっかり部活に遅れる事など頭から無くなっていた。画用紙はすっかりまとめられa氏に抱えられていた。じゃあ、ありがと!本当に嬉しそうな声が廊下にまた響く。ぶつかったのは自分であるし、その引け目を感じながらn氏は控えめに頷いた。
ふっと目の前が真っ白になり気付くとn氏は狭いブースの中でゴーグルをかけ、綿の薄い椅子に腰掛けていた。良い夢だった。先ほど見かけた咽び泣いていた男性は何を泣いていたのか。こんなにスッキリするものなのに。そしてn氏先ほどよりも少し軽い足取りで帰路に着いた。次の日からもn氏は相変わらずだった。仕事ではたいした業績もあげられず、家庭ではほとんど口を開かなかった。唯一の楽しみはあの漫画喫茶に通い、過去を少しずつ、少しずつ遡り進めていく事だった。
空想の中のn氏は、野球部を退部し美術部に入部していた。a氏に一度自分の描いた絵を見せた際に、ひどく気に入ったようで、強引にその足で野球部の顧問の元に連れて行かれ、その場で退部届を書かされた。一緒に絵を描こう!!その一言で十分だった。野球部では万年球拾いだし、とくに必要ともされていなかったのだから。二人はいろんなものを描いた。その時間は本当に楽しく、心安らぐものだった。最初は1時間くらいだった漫画喫茶への滞在時間も次第に伸びて、今はあまり家に帰らずここで過ごす夜も増えていた。ある日、二人は並んでデッサンをした。校庭の隅に植えられたヒョロヒョロの樹。以前にも増して枝は細く、葉もつけないその樹を二人で描いた。n氏は遊び心に、その樹に枝を足してやった。そして葉も、青々と茂らせてやった。それを見たa氏は笑った。笑った後に咳き込んだ。大丈夫、大丈夫とまた、明るく笑ったがその顔は苦痛がにじんでいた。
その日はa氏の家までn氏が送って帰った。帰り道でn氏はa氏に想いを告げた。数十年間、a氏の事が好きだった、という滑稽な告白になったが、a氏は本当に嬉しそうに頷き、私も好きだった、と笑った。そうして二人は恋人になった。そこでその日は漫画喫茶を後にした。もう外は明るく、そのまま会社に向かう事にした。n氏は上司に呼び出された。やれやれまたお説教か、とため息まじりに上司の元へ向かうと、晴れやかな顔の上司が自分に任せたい仕事があると言い出した。入社以来期待など一度もされた事がなかった。戸惑いを隠せないまま承諾の返事をし、その日の仕事を終えた。その日も漫画喫茶に行き、ゴーグルをかけた。しかし、a氏には会えなかった。こんな事は一度もなかったのだが、a氏は部室にも、校庭の樹の下にも、どこにもいなかった。いつもより早い時間だったが帰路についた。家に帰ると妻と子供がたいそう嬉しそうな顔をして出迎えた。新しい仕事を任せられたんでしょ?すごいじゃない。と妻は喜んだ。最近帰りが遅かった事を、この仕事の準備だと思っていたようで、本当に喜んでくれた。こんな温かい気持ちを家にいて感じたのは久しぶりだった。思えば子供を授かった時、こんな風に笑い合った事もあったなぁ、としみじみ思った。
その晩、n氏は夢を見た。a氏の夢だった。それは忘れていた記憶の夢だった。ある朝少し遅刻して学校についたn氏は職員室から出てきたa氏とa氏の母親に会う。そして今日で転校するという話を聞く。理由はa氏はかねてより喘息を患っており、空気のきれいな田舎で過ごすというものだった。これは空想の話ではなく、実際にn氏が聞いた事である。今の今まで忘れていたが、それを境にa氏は転校してしまい、学校でも見かける事がなかった。n氏は目をさます。そうか、空想の中でもその日が来たのか、だからa氏はどこにもいなかったのか。それなら全てつじつまが合う。その朝n氏は体調不良を理由に仕事を休んだ。上司は少し不機嫌な声であったが、仕方ないと承諾した。そして妻には今日は少し仕事で遅くなる旨を伝え、いつものように漫画喫茶に向かった。
n氏は受付で初めて12時間パックを頼んだ。今までは長くても6時間。n氏はゴーグルをかけた。
いつか見た景色が広がる。そこは校庭のヒョロヒョロの樹の横だった。相変わらず葉も枝もみすぼらしい。しげしげと眺めていると、用務員の男が声をかけた。
この樹を眺めているなんて珍しいな。もうこの樹は切り倒してしまおうと思っている。葉も枝もひとつもつけやしない。みすぼらしくてしかたないからな。a氏が好きと言った樹ではあるが、学校の意向であればそれは仕方ない事だ。n氏は少し残念に思いながらも用務員の男に別れを告げ、a氏の家に向かった。a氏の家は町外れの工業地帯の近くにあった。たしかに空気はあまり良くなさそうに感じた。家の前まで来たところでn氏はその家がすでに空き家になっている事に気付いた。すでに遅かったか…。立ち尽くし、取り外された表札を眺めていると背後から女性の声がした。あら、あなたn君じゃない?その声はa氏の母親だった。あの日、職員室前で会った女性だった事を思い出し、挨拶をした。そして、今の自分とa氏の関係、どうにか、なんとかしてひとめa氏に会いたい旨を伝えた。母親の顔はあからさまに曇り、ためらっている様子だった。n氏はちぎれんばかりに何度も頭を下げた。そして母親はしぶしぶ承諾した。新しい家はどこなんですか?と尋ねると、母親は言いにくそうに話した。場所は隣町だった。隣町であれば、転校の必要はなかったのではないかと疑問に思いながらも、それだけ近くならまた会いに来れる。n氏はまた、a氏に会える事に喜び、母親の車に乗り込んだ。
母親の車に乗り込み15分ほどで車は大きな道を外れ、山の上に向かった。景色はまるで変わってしまい、先ほどまでの工業地帯とは別世界のようだった。この先にa氏の新しい家がある。a氏にまた、会える。と思っていた矢先、車はとある施設に入る。そこは病院だった。n氏は疑問に思い母親に尋ねたが、母親は何か言いにくそうに、とりあえず一緒に行きましょう。とn氏に言った。静かな病棟の廊下を二つの足音が響き、ある病室の前で母親は足を止めた。それに習いn氏も病室に向かい足を止めた。ネームプレートにa氏の名前が書かれており、そこにa氏がいる事を示した。ここは…?n氏の問いかけに母親は口を開く。aは喘息などではなく、呼吸器の重い病気である。詳しくはわからないが、余命に限りがある事、よくてもこの病院から2度と出れないかもしれない事を母親はわかりやすく、ゆっくりと話してくれた。n氏は頭を整理し、母親に問いかけた、それで、いまaには会えないんですか?母親は言った。会う事は出来るけれども、本当に会いたい?とn氏に尋ねた。力強くうなづいたn氏を見て、母親は何かを決めたように病室のドアを開いた。そこにa氏はいた。
何本かのコードにつながれ、顔には呼吸用のマスクをつけられ、a氏は眠っていた。シューシューという規則正しいリズムで刻む呼吸音が、呼吸機を伝い部屋に響いていた。n氏は驚いた。こんなにひどい病気だったなんて、想像もしなかった。母親の顔を見ると、母親はわざと明るい声でりんごでもむきましょうか?と言った。n氏はそれに応えず、a氏に歩み寄った。近くまで来るとa氏の腕には点滴の管が通っており、手を握ろうとしたがつかむ事ができず断念した。そばでa氏の名前を呼んだ。3度、4度目に声をかけた時、a氏は目を開いた。あぁ…見つかっちゃったね。呼吸用のマスクから漏れたそのこえは、力をなくしかすれていた。何も言えずに立ち尽くしたn氏にa氏は続けた。部室に、描きかけの絵があるの。大作よ。途中だけど良かったら見て…。ロッカーの裏に隠してあるから。とだけ言い、またa氏は目を閉じて眠ってしまったようだった。母親が言うには呼吸もほとんどこの機械なしでは出来ず、病院から出る事はおろか、この病室から出る事も難しいと言った内容だった。眠ってしまったa氏に別れを告げ、母親に学校まで送ってもらい丁重に礼を言ったn氏は部室に向かった。学校は授業中の時間であったため、静かだった。そして、美術部の部室のドアを開きn氏はロッカーの前に立った。
ロッカーの後ろに、たしかにa氏が言うように何かが隠されていた。その絵は白い布に覆われた大きなキャンパスに書かれていた。縦1メートルくらいあるような、大きな絵だった。n氏は丁寧にその白い布を取った。そしてそこに描かれていたのはあの、校庭の外れにあるヒョロヒョロの樹だった。キャンパスの真ん中に枝も葉もないみすぼらしいヒョロヒョロの樹が、大きく描かれていた。まだ描きかけだったようで、着色もされていないが、念入りにデッサンされ、完璧に形を捉えたその樹は、葉も枝もないにもかかわらず、雄大で、勇ましかった。ふと、キャンパスの右端に目をやった。aと書かれた筆記体のサインが目に入る。彼女はこの作品を完成させ、そしてn氏に見せるつもりだったのだ。しかし、それももう叶わない。きっと彼女は2度と病室から出られず、その命を閉じる事だろう。n氏は涙を流した。どのくらいそうしていただろう。すっかり日は暮れ、窓の外は夜になっていた。
そして、n氏は漫画喫茶にいた。重い足取りで帰路につく。妻と子供は相変わらず上機嫌でn氏を出迎えた。重い頭を風呂場で流し、n氏は早めに床につく事にした。その晩n氏は考えた。今の生活を全て捨て、a氏が息を引き取るまで、そばにいてやれないだろうか。毎日、漫画喫茶に通い空想の世界の中のa氏が目を覚ますたびに、そばにいてやれたら、どんなに安心するだろうか。今の生活に特に未練もない。空想の中でa氏を看取った後、自分も死んでしまうのはどうだろうか。妻と子供には申し訳ないが、今の自分はこの生活と向かい合っていくには、あまりにも子供のまま大人になってしまったのだ。そんな事を考えるといつの間にか眠ってしまっていた。
次の日の朝、n氏は一人で目を覚ます。いつもと同じ時間、妻と子供はもう出かけたようだ。そういえば重たい頭の端に、明日は早くに学校に行くので朝から車で送っていく、と言っていた。n氏は漫画喫茶に向かう。それに迷いはなかった。もうこの生活は捨て、空想の世界で、自分の果たすべき事をしよう。それはa氏のそばにいる事で、今一時的にうまくいっている仕事や、家族を大事にする事ではない。何十年も抱き続けてきたa氏への思いを大事にし、そして自分もa氏の後を追おうと決めた。
いつものように漫画喫茶に着き、いつもの個室を借りようとしたが、あいにく先客がいたようで、15分ほど待って欲しいと言われた。そのくらいなら、と待合に腰掛け、ふと携帯電話を開いた。無断欠勤である会社からの連絡に混じり、一件の見知らぬ番号からの着信を見た。待ち時間もまだある事だったので、n氏はその番号に電話をかけた。
電話の相手は都内でも有名な救急病院の受付だった。n氏は名前を伝えると、着信履歴を見て電話をかけた旨を伝えた。受付の女性は少しお待ちください、と言い保留音がなった。ほどなくして今度は男性の声に電話の相手は変わった。話はこうだった。妻と子供が二人で歩いている際に子供が急に車道に飛び出し、走ってきた車と接触した。命に別状は無いが意識が現在戻っていない。今妻一人で待合にいるので来て欲しいという事だった。それだけを伝え電話は切れた。n氏は漫画喫茶の待合で頭を抱えた。今捨てようとした家族が、困っている。きっと常識的な考えでいくのであれば、今すぐどんな理由があれ病院に駆けつけるべきである。そんな事はわかっているし、妻の不安そうな顔も容易に想像出来た。しかし、自分は今朝a氏の最後を看取るためにこの場所にいて、これから家族を捨てて空想の世界の住人になろうとしている。そんな自分が果たしてどんな顔をして妻と子供の前に現れたら良いのだろうか。そして、いつもの受付の無愛想な声が自分の名を呼んだ。空きが出来たのだ。n氏は重い腰を上げて受付に向かった。その短い距離の間色々な事を考えた。ここ最近のこの漫画喫茶での日々の事、今の生活に至るまでの事。時間にして数歩歩くくらいの時間だったが色々な事が頭をよぎって消えていった。たしかに人はここでの時間を空想だと笑うだろう。過去にすがり、それをやり直したところで今の生活は何も変わりはしない。むしろ、こんなところにいるくらいなら現実と向き合って生きる方がいくらかも生産的であることなんて、少し考えれば分かる事だ。a氏が病にふせっているとしても、実際は何もする事は出来ない。空想の中の自分に何の力もなく、病気を一蹴するような能力も持ち合わせていないのだから。それでもn氏はa氏の元に向かいたかった。十数年間抱いた思いを伝え、それを受け入れてくれた相手に会いたかった。そばにいてやりたいと、心の底から思ったのだ。n氏はゆっくり漫画喫茶の会員証をカウンターの男に差し出した。
お客さん、顔色が優れませんが大丈夫ですか?珍しくカウンターの男が口を開いた。いつも世間話など全くしない男が声をかけるほど、今の自分は憔悴しているのだろう。ふとカウンター越しにかかる丸い鏡に目をやった。顔色が真っ青だった。いつからだろう、髪にツヤもなくなり、a氏と過ごす自分とは違う。とっさにn氏は自分の頬を触った。ひどく冷たく、血の気が引いているように感じた。頭のどこかで、今自分がしようとしてる事が、どれほど恐ろしい事なのか身体が教えてくれていたのかもしれない。n氏は重たい頭をくっと持ち上げ、店員の男に言った。すまない、この会員証はもう不要なんだ。破棄しておいてくれないか。店員の男は少し、ほんの少し笑ったのかもしれない。わかりました。お気をつけて。とだけn氏に声をかけ、またカウンターの奥で雑誌を読み始めた。n氏は急いだ。小走りが次第に全力疾走になった。少しくらい速く走るなら、タクシーに乗る方が早い事に気付いたのは息が切れて走れなくなった時だった。駅前の人混みの中を走るのはn氏だけだった。皆が好奇の目でn氏を見た。苦しかった。苦しそうな顔のa氏が頭に浮かんだ。すまない。きっと今頃、朦朧とした意識の中、自分を探している事だろう。n氏は泣きそうになりながら、汗だくのままタクシーに乗った。すぐに病院へ向かって欲しい旨を伝えると運転手は二つ返事で車を走らせた。
病院の待合には人がまばらに居て、それぞれ会計を待つ人、お見舞いに来た人、色々な人がいた。その中にn氏は妻を見つける。声をかけ、近寄ると妻の目は真っ赤に腫れ上がり、妻もまた疲れ切った様子の表情だった。n氏の顔を見るなり妻は頭を下げ、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返した。しっかり見ていなかった自分を責めたようだった。n氏はその言葉が胸に痛く、それ以上聞いてられなくなり妻に子供の容体を訪ねた。命に関わる怪我では無いが、頭を打って意識を失っている。すぐに戻るかも知れないが、このまま戻らないかも知れない、と説明を受けたらしい。そうか…とため息をひとつ吐き、n氏はまた頭を抱えた。
自分はなんと恐ろしい事を考えたのか、この妻を捨て、空想の世界に入り込もうとしていたなんて。きっとa氏は死んでしまった事だろう。しかしそれはもう済んだ事で、今の自分に関係の無い事だ。答えの出ない問いに頭を支配されていた時、待合の呼び出しのチャイムが鳴った。指示された診察室に入ると、かたわらのベットで子供が横たわっていた。目はしっかりと開き、ドアを開けたn氏と目が合った。とっさに名前を呼び、子供にかけよって抱きしめた。妻も遅れて歩み寄り、子供を抱きしめた。子供は照れくさそうに笑い、母親に飛び出した事を詫びた。医者が言うには、精密検査を受ける必要があるが、なにか障害が残る事は無いだろうとの事だった。妻とn氏はほっと胸をなでおろし、病室を後にした、子供はこの後もいくつか検査があるとの事で、しばらくの時間待合で待つようにと言われた。
n氏は妻の顔をそっと覗き見た。真っ赤な目をしているが、先ほどより顔色もましになっている。きっと安心したのだろう。思えば妻もすっかり歳を取った。a氏を想う時間はたしかに長いものではあったが、n氏が妻と過ごした時間、そしてこれから過ごすであろう時間はきっとそれよりもはるかに長い事だろう。n氏の視線に気づき、妻が口を開いた。自分に対して、冷たく当たっていた事を申し訳なく思っていた、と妻は言った。聞くと、きっとしたくも無い仕事を朝から晩までしている夫に対して、なぜ自分のしたい事をしないのだろう。なぜ自分の思うように生きないのだろう。と腹立たしかったという。たしかにそうだ。今の自分は何一つしたい事など無く、未来に希望の一つも無い。思えば漫画喫茶に初めて行ったあの日、選択肢を選び、自分の意思で行動したのだって、ずいぶん久しぶりの事だった。毎日起きては仕事に行き、疲れては眠る。それを家族のためともおもわず、ただなんとなく、決められた作業をするロボットのようにこなしているだけだった。妻は続けた。あなたが捨てられない夢や、したいことがあるなら本当はそれを優先して欲しい。けれどもあなたはそういう事を言い出す人では無いから、子供と口を合わせ、あなたの仕事での出世を喜ぶフリをした。ごめんなさい。と。n氏は自分の行い、態度が恥ずかしくなった。まだ小さい子供と、こんな自分の事を考えてくれた妻の事も考えず、ただ冷たくされた事にすねて、空想の世界に引きこもろうとしていたのだ。n氏は今までの自分の行い、態度を妻に謝罪した。ひいては今朝の事故だって、自分のせいかも知れない。自分が送っていくのに同行していれば、妻一人での負担にもならなかったと痛感した。
二人は互いに頭を下げ、今までの生活について話し合った。n氏にはもっとしたい事をして欲しいという妻の意見を聞き、n氏はこれからの生活について考えた。会社を無断欠勤した事はきっと咎められるだろう。自分に任せたい仕事があると言ってた件にしても、きっとなにか厄介払いに違い無い。それなら、自分は残りの人生、本当にしたいことをする方が良いのでは無いか…。n氏は悩んだ。妻はこれからはもう少しいろんなことを話して欲しい。とその話を締めくくった。ふと、待合の時計のかかる壁を見た。その下に、寄贈されたであろう絵画が数メートル置きに壁に掛けられていた。まだ待ち時間はかかりそうだったので、妻に声をかけ、その絵を見に行く事にした。絵は大小様々で、地域の祭りを描いたもの、花を描いたもの。様々なテーマに基づいて描かれたものだった。廊下の端にかかった絵を見た時、n氏は込み上げる涙と驚きに立ち尽くしてしまった。そこにはあの日部室のロッカーの裏に隠されていたa氏の描いた巨大なキャンパスが掛けられていた。キャンパスいっぱいに描かれたあの樹は、いつかn氏がふざけて描いたように、枝も、葉もキャンパスからはみ出さん限りに描かれていた。この絵は…たしか未完成のまま、ロッカーの裏に隠されているはず…ふと右下の作者のサインを見た。そこにはa氏の特徴的なサインがあった。そして下の作品名と作者名が描いたプレートには、やはりa氏の名前が記されており、作品名は「ヒョロヒョロの樹」と描かれていた。ヒョロヒョロの樹、という呼び方はn氏がよく空想の世界の中で使ったこの樹の呼び名で、わざわざこの樹に名前をつけて呼ぶものは他にいなかった。急に涙をこぼしたn氏を見て妻は驚いた。あなたは昔から絵を見る時に本当に子供みたいな顔をするけれど、そんなに感動したの?と少し笑った。この絵は自分の人生にとってすごく大事な意味を持ってるんだよ。とn氏もまた笑った。作品の寄贈日を見ると、今から1年半前だった。そうか、a氏はあのあと、病気を回復しこの絵を完成させることが出来たんだ。n氏はこんな奇跡のような事が起きた事に本当に驚き、また今日この場所に連れてきた神様のいたずらに少し笑みがこぼれた。
精密検査が終わり、帰ることを許された家族は帰路に着いた。その帰り道、漫画喫茶の前をなんとなく通ると、たしかに入り口があったそこは神社になっていた。車を止め、走り出したn氏を慌てて妻は追った。どうしたの?そんなにいきなり走り出して。n氏は必死に周りを見渡したが、たしかにそこは昔から神社であったとしか思えないほど、木が茂り、厳かな雰囲気に包まれていた。カウンターがあったあたりまで歩いてきた時、足元に何か落ちているのを見つけた。そこには先ほど店員の男に返したはずの会員証が落ちていた。
不思議な気持ちと暖かい気持ちに包まれ、n氏は眠りについた。次の日、n氏は神社の前を通り、会社に向かった。神社の前では小さく一礼し、襟を正した。会社に着くと連日の欠勤を詫び、退職届を上司に渡した。上司は驚いたが、晴れやかなn氏の今までに見た事が無いような表情に驚き、これを受け取った。趣味も何もなく過ぎたn氏の人生は少し同年代の家庭から考えると大きな額の貯金を残していた。n氏はこれから、もう一度絵の勉強をしながら、街のはずれに小さな画材屋を開く事にした。開店初日、そこに初めて客としてきたのはa氏であったa氏は熱心に新作の筆や、珍しい紙を眺めていた。n氏はこうなることをまるで分かっていたように、少し笑った。