黒雪のコモリオム --What a beautiful Fakes -- 作:ジンネマン
照明に照らされる。舞台が照らされる。劇場が照らされる。
黄色を基調とした舞台には扉はない。ここは出ることも、入ることも出来ない。
何者も見たことない程の大きな劇場。誰も見たことない意匠の壁と観客席。如何な人も見たことのない舞台装置。
見たことない観客席、壁、舞台、各所に施された
人を嘲笑うのとも違う感情が込められたシンボル。人も英知や経験を遠く高みから見下ろされている感覚に囚われる。
ならばこの舞台は何の為の舞台か。
ここはたった一つの演目の為の舞台。ここはたった一つの戯曲の為の舞台。ここはたった一つの狂気に彩られた舞台。
その劇場には誰もいない。観客も、楽団も、役者も、裏方も、誰もいない。
あるのは狂気だけ。一人の王が望み、一人の王が見て、一人の王が嗤う。
普段ならば、一人の劇場だ。しかし、
「また、貴様か、卑しく人を嘲笑う道化師」
「アハハハハハ、相変わらず辛辣だね気狂いの王。 ただ一人、ただ一つの戯曲に
話す声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。
「なんの用だ
「ああ、つれないな。私と貴方の仲ではないか黄衣の王。今日は友として君に吉報を届けに来たんだよ」
「友として、吉報だと…………戯れ言は死んでからにしろ黒い道化師」
「喝采せよ! 喝采せよ!
ああ、ああ、素晴らしきかな!
盲目の生け贄が、次なる階梯を昇る!
狂気にその身を染めた王と共に!
後に訪れる
「だまれ」
「悍ましき《歓喜なる》未来は訪れる。必ず訪れる。
契約の時が、終末の時が、
日本狼たちとも違う未来が」
「なに?」
「そうだ。そうだ。
狂気なりし王。破滅の王。
生贄は、哀れなる少女は、
「どういうことだ道化師」
「ああ、ああ。
歓喜なる瞬間は、そう遠くない」
「貴様! 答えろ」
着古した黄色とも緑ともとれる外套が、触手のようにうねりながら黒い道化師を拘束、今度こそは逃がすまいと以前よりも多くの外套が巻き付き逃がさない。逃がさないはずだった。
「さあ。
私からのささやかな贈り物。
どうか、存分に、盲目の生贄と共に。
味わってください」
外套が握りしめた場所に黒い道化師はおらず、ただ彼の声は劇場に響き渡る。誰もいない、ただ一人の王の劇場に。
ユーリーは劇場を見渡す、たしかに感触はあった。たしかに仕留めたハスだった。だがそこには、誰もいない。まるで、彼の
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
私があの激痛が落ち着いて、シューホフ先輩を探そうと動こうとした時、始めて彼に気づいた。
「
部屋の備え付きの椅子に足を組み坐している彼、着古した黄色とも緑ともとれる外套をし、深くフードを被っている少年。ユーリー。ユーリー・ハリトンがいることに。
「――ユーリーさん」
「ああ、調子が良いようで何より。うん。火傷の痕も包帯やファンデーションで隠せて、時間を置けば消える程度みたいだし安心したよ。
でも、まだ病み上がりなのだから早くベットに横になった方がいい。痛みもまだ残っているだろ? 無理をせずに、さあ」
火傷の傷が目立たないか不安だったようで、ほっと胸を撫で下ろしている。
そして、私よりほんの少し小さい彼は、私の腰に手を添えてベットまで介添えするように付き添って、寝かせてくれた。でも、私を心配する彼の表情に、何かを感じた。
――まただ。またどこか、別のモノが混ざってる。
以前感じた違和感、まだ彼の何かを見落とした。そう思えた。でも、その正体がわからない。
「――あの、ユーリーさん」
「ああ、君は聞きたいことが山ほどあるんだろ。わかってる。僕が答えれる限り答えよう」
「…………まだ、全てではないのですね」
「すまない。全ては話せない、君のためにならないから。君に危険が及んでしまうから」
ユーリーさんが頭を下げて謝罪してくれる。しかし、その声の中になにかが混ざっている。それは、煮え滾るほど熱く、灰色雲のように
大切な何かを護るように、大事な何かを守るために、その熱量に比例する重さを伴って、本人は意識することのない意思を伴って、声を出していた。
「いいんです。ユーリーさんには感謝してますから。
でも最低限、シューホフ先輩無事なのか教えて下さい? いえ、コンスタンチン先輩とタマーラとウラジミール先輩も大丈夫なんですか?
だって、あの二人は――」
とても怖い二人。お伽噺の
そして、ニコライ・エジェフを従える男。重たく、硬く、鉄の軋むような声の男。鋼鉄の男。
真紅のスーツと制帽に身を包んだ男。制帽の端から見え隠れする色素の薄い灰色の髪に青い左瞳と、猫のような
その二人から追われていたのだ。私たちは。
あの二人が早々に私たちを見逃すとも思えず、帝国陸軍に捕縛されたとも、ましてや殺されたなんて想像がつかない。あの二人、いやニコライ・エジェフが主と呼んだ男が負けるなんてもっての他だ。
ニコライ・エジェフ以上に、あの鋼鉄の男に人間が
そんな者たちに狙われて無事なのが不思議でしょうがない。今、この時にでも殺されてもおかしくない。
いや、ニコライ・エジェフなんて比ではない程に、鋼鉄の男から逃れられない。それこそ黒き海の深淵、灰色雲を突き抜けた彼方まで行かなければ安心できない。
いや違う。たとえ、どこまで遠くに逃げても、どれだけ速く逃げても、あの鋼鉄の男の人からは、決して逃げれない。なぜだか、そう思えて、そうとしかわからない。直感かもしれないし、それ以外の何かかもしれない。
だから、この不安を払拭したくって、ユーリーさんの言葉を待つ。
「そんなに震えなくって良いよアンナ。少なくとも今のところ彼らが君たちに執着した感じはない。と言うよりも彼らがその気ならこんな悠長に寝ていられない。だから当分の心配はないよ。
それと、君の友人二人なら無事だよ。足を射たれたコンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキーは静脈や動脈などのには損傷はないし、骨にも当たらず貫通したからね。
もう一人のウラジミール・シューホフもたいした外傷もなく、脳に至っては記憶に少々の混乱が見受けられるがその程度だ。
まあ、それとは別に僕がメスメルをかけはしたがね」
「そうですか――よかった。
でも、なんでシューホフ先輩にメスメルを? シューホフ先輩は――」
「そうだね。ウラジミール・シューホフは自分の罪悪を受け入れて前に進むと言った。夢を歪められて兵器を造り、アンナを傷つけたその過ちをすべて。
でもね。すべてを覚えている必要はない。彼が背負い続けるべき罪は、兵器を造ったこととアンナを傷付けたことの二つだけだ。それ以外は、彼奴等と接触したことやあんな醜い化け物を造ったことは覚えていなくってもいいことだ。
むしろ、その彼奴等は人の世には不要な存在だ。
まあ、メスメルと言っても僕の実力でできるのはせいぜい全体のほんの一部の上書きと書き換えることくらい。その点今回は奴等に感謝だね。
元々ウラジミール・シューホフの中にあった奴等に関しての記憶はひどく曖昧で、たぶん後々のことを考えてそういうふうにメスメルを施したんだろうけど、そのおかけで僕の実力でも容易に《ハボリム》を彼手製の"手榴弾"に改変する事ができたからね。
いやー。今回ばかりは奴等様様だね」
ユーリーさんはケラケラとひどく愉しそうに、"奴等"赫い者達を蔑み嘲笑っている。
彼にしては珍しく。いや、初めての顔で、とても嫌な顔。それはレフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー先生やニコライ・エジェフの笑顔とは違う。脊髄が氷柱に変わっていしまったと錯覚してしまう程の――
――とても怖い。こんなユーリーさん見ていたくない。変えないと。別のことで、話題で変えたい。
「! つまり、シューホフ先輩は『追手から私を守るために使った"手榴弾"に何らかの不手際があって私を傷つけた』ということですか?
でも、なんで《ハボリム》を手榴弾と錯覚できたんですか?」
「ん。ああ。大体そんな感じだね。《ハボリム》に関してはまあ、ウラジミール・シューホフが《ハボリム》を単純に兵器として認識していたからかな? いざやってみると《ハボリム》の姿は認識していなかったかのか、出来なかったはわからないけど。拍子抜けするほど容易だった。
多分ウラジミール・シューホフが生き残った際に機密が漏れないように措置したんだろう。おかげでどうにかなったんだけど、結局はそれが僕の限界でもあるんだけどね。
本当はウラジミール・シューホフから奴等に関連する記憶全て消し去りたかったんだけど、印象強いものはいじり辛いからね。全く儘ならない」
急な質問にユーリーさんは答えてくれた。先程の怖い雰囲気は成りを潜め、いつもと変わらない役を演じるように答えてくれた。
それから私は特に聞くことが無くなり一息つくと、ユーリーさんはため息を吐いた。
「本当に君は自分のことを気にかけないんだね。もう少し自分を大事にしてもいいと思うよ。僕はね」
「? なんのことですか?」
突然のため息。それも私に対してのため息。
失礼だと思う。女の子に前ぶれなくため息を吐かれて失礼だ。もちろん私が到らないだけだということも考えられるが、それでも失礼だと思う。
「…………アンナ。君のその痛みは」
「わかってます。これも契約の内なんですよね――」
ユーリーさんがため息をついた理由がわかった。彼は私が自分をないがしろにしていると思い、私のためにため息をついたのだ。
契約。ユーリーさんと私が交わした契約。それは必ず訪れるある未来、決して免れられない未来、確定した未来。
死よりも悍ましい未来。
前回は生涯一度も経験したことも無いような激しい吐き気と嘔吐。
今回は全身に走る激痛、それこそ全身の筋繊維すべてが断絶したかのような痛み。
今後、どのような災厄が私を襲うか想像も出来ない。
それは恐怖でしかない。恐怖でしかないが、後悔はない。
後悔、そう。後悔なんかするはずがない。だって、彼は私だけでは助けられなかったモノを、守れなかったモノを、救ってくれた。だから、後悔なんか
「大丈夫です。大丈夫ですからーー」
「アン」
コンコン。
「はーい」
「――アンナ僕だ。シューホフた。今大丈夫か?」
「シューホフ先輩、はいだい……」
――大丈夫?
シューホフ先輩の突然の来訪。この時になって私は始めて自分の状態を認識した。身だしなみが大丈夫か確認する。寝間着はいつの間にか着替えていた。でも、汗の臭いや髪の毛が少し荒れている。
「! ちょっと待ってください!
ユーリーさんは外に出てってください! 今すぐ!」
「ふう。何を今更……とは言え、僕はペルクナスと違って女性との接し方は心得ているからここは大人しく退散するとしよう。
まあ、彼とは積もる話もあるだろうしね」
先程ユーリーさんが何か聞き捨てならない事を言っていた気がする。が、今は自分の状況を再確認し、最短の時間で最少の工程で準備をする。
体の痛みはあるものの、我慢できるレベル。なら次に急いでシャワーを浴びる。降り注ぐ水滴が暖かくなる時間すら無視して最低限汗の臭いを流すくらいに、暖かくなるころには髪も軽く洗う、そのあとは少々乱暴にでも髪を乾かして調えて
シューホフ先輩には悪いが、女の子は身だしなみがとても大事なのだ。少々心苦しいがここは待ってもらう。
最後に鏡で確認。
――うん。大丈夫。
「どうぞ」
所要時間は五分ほど。いつもならもっと時間が掛かる、具体的には十五分ほど。でも、そのことをタマーラが知った時の驚愕と怒った顔は今でも忘れられない。
――タマーラ曰く『女の子が、いえ。女性はもっとお化粧に時間をかけるものなの!』と怒鳴られた時、今度は私が驚いた。だって、故郷にいた頃はもっと簡素で、帝都に来てからいろんな化粧品を見て、その中から自分に必要なものを予算内に収めて、その結果が十五分なのだ。
それでもタマーラは納得しなかった。それからは大変で、初めはお金を出すとか自分の化粧品をあげるとか言っていたけど、タマーラの化粧品はどれも高価で私は気安く使えないし、返せる見込みのないのにお金を出してもらうなんて論外だ。
時には口喧嘩までして、このままではタマーラとの友情が壊れてしまうと思った。それはタマーラも同じで、お互いに話し合いと言う名の討議の末に妥協案として幾つかの約束をした。
①タマーラから受け取る化粧品は企業の試供品のみ。
②化粧品の貸し借りは基本的(ほぼ私が一方的に渡される)に無しで、緊急時のみあり。
③女の子としてタマーラは私の現状が納得いかないので、タマーラからいまある化粧品だけでより良い使用法を教えてもらい。それが実践できているか抜き打ちで検査を受ける。
他にも細々した決まりはあるが、基本的にはこの三つだ。
しかし、この決まりのおかげでタマーラから『前よりもきれいになったよアンナ――』と言われて時は嬉しかったし、緊急時の短縮法も今この時に生かされておりとても感謝している。
そして――
「……失礼するよアンナ」
控えめに、それどころか怯えるようにシューホフ先輩は入ってきた。手にはお見舞い用の造花の花束(この国で生花は大変高価で、お水気温空気などの関係ですぐ痛み枯れてしまう)を持って、なにかを恐れるような顔をして入ってきた。
「シューホフ先輩。立ってないでそこに座ってください」
呼んだ。シューホフ先輩の名を呼んだだけで俯き震える。震えながらも私の近づき止まる。そのまま無言で立ち続けそうなので、もう一声かける。
「座ってください」
その一言に逡巡してから、僅かに頭を振って近くの台に花束を置いてからゆっくりと座ってくれた。
「……その、アンナ。大丈夫だろうか? 何か後遺症など、は、ない、だろうか?」
オドオドと視線をあちこちに揺らしながら、目に見えて顔を汗だくにして声をかけてくれた。でもその声は語尾が聞き取りずらくなるほど小さかった。全部聞き取れはしなったが、何が言いたいかは見当がついてる。
「落ち着いてシューホフ先輩。私はなんの問題はありません。後遺症もありませんし、傷跡も時間を置けば大丈夫らしいので、シューホフ先輩はなんの心配はいりませんよ」
笑顔。なんの淀みなく、シューホフ先輩に安心してほしいと、思いを込めた笑顔。未だに残響する痛みを堪え、今にでも唐突に襲ってくる吐き気にえづきそうになるのを耐えて、笑顔をつくる。
――大丈夫。私だってバレエダンサーの一人だ。これくらい演じて切ってみせる。
優しく、過去においたをした私を母が笑って許してくれたのを思い出して、泣きそうな顔をやめてほしいから。
「でも、アンナ。俺は――」
「シューホフ先輩。私との約束。覚えてくれてますか?」
シューホフ先輩の懺悔ないし自虐の声を遮る。そんなのは聞きたくないから、私の知っているシューホフ先輩に戻ってほしいから。
「でも――――」
シューホフ先輩が言葉を止めた。いや、私が止めた。
シューホフ先輩は自分でも気づかず、ベットに身を乗り出していた。そして、乗り出して喋っていたシューホフ先輩の上唇に私の人差し指を添えた。
目を丸くして言葉も表情も止まったシューホフ先輩、そんな彼を私は抱擁した。
決して力を込めずに、母が私にしてくれたように、優しく抱きしめる。
「シューホフ先輩、私は気にしてません」
シューホフ先輩の背中をさすり、心音が伝わるようにさらに密着させる。
そして、あの時の言葉を、もう一度言う。
「それでも気になるなら私ともう一度、約束してください。いつか絶対に、私に、この国に、
――春を見せてください――」
「ああ。アア。嗚呼。そう、だね。俺たちは、約束、していたね」
肩が濡れる感覚がある。もう一度、今度は強めに抱きしめる。シューホフ先輩が落ち着くまで、少なくともこの嗚咽が収まるまでは。
それか嗚咽が収まったシューホフ先輩は若干私から顔を背けつつ静かに座っていた。座っているものの、時折そわそわと落ち着きなくするのは気になるところだが、私はシューホフ先輩が何か話してくれるのを待つ。待つ。
「そう言えば! アンナはいつもいい匂いがするね! やっぱり女の子はみんなそうなのかな!?」
突然の大きな声、たぶん沈黙に耐え切れず強引に話題を作ろうとしたんだろう、普段のシューホフ先輩からは想像できないが、もしかしらこれが本当のシューホフ先輩かもしれな。だって一人称が"俺"って言うのだってあの時が始めてだった。
――そう思うと自分も役者としてまだまだね。
でも、
「ふふふ」
「なに、どうしたんだアンナ。急に笑い出して」
「だって、シューホフ先輩がおかしなことを言うんだもの」
――もしかしたらシューホフ先輩は女の子が砂糖と果実でできていると思っているのかもしれない。
「シューホフ先輩女の子だって汗をかくんですから、そんな生理的にいい匂いが出るわけないじゃないですか」
「でも、あの時も今日もいい匂いが――」
「それはこれですよ」
私は引き出しに入れてあった香水を取り出し見せる。
私のお気に入りの香水。とある人から貰った香水。ラベルには――
「……
ロマーシカ。かつては野原や道端、土手などでで短い夏の間に小さく白い花が日光を浴びて良い香り漂わす花。二つある国花のうちの一つ。
しかし、機関文明がもたらした灰色雲と雪はこの国とって短くも貴重だった春と夏を消し去った。前世紀でいう夏の季節にも咲かせることもなく、咲こうにも灰色の雪に覆われた大地に花は芽吹くことはまず無い。たとえどのような花であろうともほぼ例外なく。
「ええ。たしかに今のこの国では花は希少で高価なものです。特にそれこそ昔のオランダのチューリップみたいや値が付くこともあるとも言いますが、流石にそれは都市伝説の類いですけど、19世紀に季節になればどこでも見れたこの花も、今では見つけると幸運になれると言われるくらい珍しい花になったんですよ。
かくいう私も見たことは無かったんです。このアカデミーに来るまでは」
「……来るまでは?」
「ええ。ロマーシカを見れたのも、その香水を使えるのもシューホフ先輩のお陰です」
「? なんの事だアンナ。俺はそんなことした覚えが」
「え? でも、『この香水を作ることができたのはシューホフの発明あればこそ』って、コンスタンチン先輩が……」
疑問。シューホフ先輩と預かり知らぬところで、シューホフ先輩の発明が使われている。でもコンスタンチン先輩が無断でそんなことするとは思えない。いや、そもそもそれなら『シューホフの発明あればこそ』って言わないはず、なんで?
「それはねアンナ。あのお人好し先輩が頑張ったからよ。自分の研究そっちのけでね」
私たちの疑問に答えてくれる声が扉の方から聞こえた。
「タマーラ。ウラジミール先輩」
そこには扉を乱暴に開けてずかずか私に近づくタマーラと、その扉が閉まる寸前に部屋に滑り込み、切り分けた"プリャーニク(ロシア伝統の焼き菓子)"をトレイに乗せたウラジミール先輩がいた。
「アンナ大丈夫? どこか悪いところはない?」
「ちょっと! タマーラ、待って!」
タマーラは左手で私の手を握り、残りの右手は体のどこかに異常はないかとあちこちを触る。
たまに服の一部を引っ張り隙間を作っては、そこから背中や胸の辺り、果てにはシーツどころか服まで捲り始めた。
「やめて! タマーラ、後で、後で思う存分確認していいから、今は待って!
先輩たちも見ないでーーーー!」
そんな、私の悲痛な叫びを聞いてはくれず、タマーラが触るを通り越して
――死守したよね。死守できたよね!?
「――ふう。なんとも無さそうね。怪我をして運ばれたと聞いた時は心配したけれど、火傷の痕もこれくらいならファンデーションでどうにかなりそうだし、完治すれば目立たないってお医者さんも言っていたし。うんうん。よかった」
「うぅ。よくないよ~」
シーツで身を隠し、少し息が切れて汗だくになった。さっき身嗜みを調えたばかりなのにこの有り様だ。
先輩たちも途中からは後ろに振り向いてくれたのを確認できたけど、どこまで見られたか、そもそも部屋から出てってもらえばよかったと今更ながら思った。かなり不安だ。
と言うか、先輩たちが未だにこちらに向かないのはなぜか気になる。心なしか耳まで赤くなっている気がする。ウラジミール先輩も未だにトレイを持ち続けている。不安だ。
「あの、先輩。見ました?」
「いや! ナニも見てない! 鎖骨から際どいところなんて見てない!」
「そうだ! 膝から太ももの辺り何て見てない!」
――それ見ていたっていうことじゃないですか!
二人の馬鹿正直な、焦っているせいか声がかなり上ずっていて、地が出てきたシューホフ先輩はともかく冷静沈着なウラジミール先輩も動揺しているのがとても新鮮で、こんな時でなければ写真に納めたいくらいだ。
「ちょっとあんたたち! 病人のアンナをいやらしい目で見ないで!」
――タマーラがそれ言うの!?
タマーラもタマーラで、自分のことを棚に上げて二人を糾弾する。このままだと話があらぬ方向に行きそうなので、強引に話題を変える。
「そう言えばタマーラ! さっきのコンスタンチン先輩が頑張ったってなんの事!?」
ウラジミール先輩がトレイをガチンっと、少々大きい音を鳴らして机に置いたところで話題を挟む。
「うん――それね、それは以前にシューホフ先輩がコンスタンチンに飛空挺用の動力管を提出したんだけど、結果は不合格。
理由は部品の規格と出力は安定するものの管が長くないと難しいのが問題で、飛空挺に載せるこに各部品は最小最軽量が理想だけど、その点でシューホフ先輩のは不適合で却下されたんだけど、そのあとコンスタンチンが他のなにかに使えないかってアカデミーの知り合いに片っ端から声かけていったの。
んて、農林学科の目に留まっていくつか研究会等に提供できた。しかも名義はシューホフ先輩でね」
話はそれたけど、私も細かい経緯までは知らなくってコンスタンチン先輩がそんなことをしていたのは驚いた。
「でもタマーラ・カルサヴィナ。俺のは飛空挺用に作ったものだから農林関係に役立つとは思ってないんだか」
シューホフ先輩の疑問も最もで、機関で農林関係にあること、聞いた話ではフランスのマルセイユ洋上学園にはある人工庭園は前世紀の緑を疑似太陽と空調によって再現してるのと……
「動力管、出力、人工庭園…《small/》あ!」
「!!」
思わず手を思い切り合わせてしまいヒリヒリするも、シューホフ先輩の発明がそのまま夢に繋がっているとわかって興奮してしまう。いや、興奮がおさまらない。
「お。アンナはわかったんだね」
――わかった。わかったわ。シューホフ先輩の発明がどのように使われたか。
「どうしたんだアンナ。そんな大声を上げて」
「わかったんですシューホフ先輩! 先輩の発明がどのように使われたか! 温室栽培ですよ! 温室栽培!」
「温室、栽培……」
「そう。温室栽培だ。シューホフの動力管は長ければ出力が安定して、もともと飛空挺用のやつだから高出力にも耐えれるから無理が効きやすい。
なによも評価されたのが既存の動力管よりも材料が少なくってすむのが大きい。コンスタンチン先輩はそこを売りにあちこちに触れ回って契約を取ってきたんだ。シューホフ名義でな。だから後で自分の残高見とけよシューホフ、今月辺りから入金されてるはずだから凄いことになってるはずだ」
ウラジミール先輩は得意気に、まるで自分の誇れるものを自慢するみたいに、とても嬉しそうに言う。
もっとも、隣のタマーラが何故か、途端に不機嫌な顔になったのは気がかりだが。
「でも、なんでコンスタンチン先輩は俺の動力管を評価しているんだ? 飛空挺には使えなかったのに」
シューホフ先輩の困惑、自分の発明が評価されているのに実感が持ててない。それはとても悲しいことで、原因は私の傷の事だと思う。たぶんそう。
私はそんなことでシューホフ先輩に止まってほしくない。シューホフ先輩はいま自分の夢に近づいているのをわかってほしい。何よりもシューホフ先輩はコンスタンチン先輩のことをまだよくわかってない。
だってコンスタンチン先輩は
「それは簡単だよ。あの人がお人好しで、不採用をくらって落ち込んだ後輩のことが放っておけなかっただけの話だ。まあ、純粋にお前の動力管が良かったから倉庫に埋もれるには勿体無いというのもあったんだろうけど。
それとシューホフお前はまだ研究会に入って短いからわからんだろうがコンスタンチン先輩は足許、つまり後輩や研究会のやつらのことはちゃんと見ているし、自分の目標に向かうことができる人なんだ」
そう。コンスタンチン先輩は誰も見捨てない。あの人は誰よりも他人の夢を応援する人、自分のことは多少おざなりになるけども、それでも他人の夢も自分の夢も諦めない。
そういう人だから、あの人が輝いている。
「もっとも、あの人が上と下が見えても自分という名の中間が見えてないのが問題なんだけどね」
「それだけじゃなくってあの人は、女の子のことが何にもわかってないのも忘れないで」
ウラジミール先輩とタマーラは最後にコンスタンチン先輩をなじる。ウラジミール先輩は笑いながら冗談のように言うけれど、タマーラはなんか恨み節にしか思えない低い声で言う。コンスタンチン先輩はタマーラに何かしたんだろうか?
その疑問はウラジミール先輩がまたも笑いながら教えてくれた。
「タマーラ。タマーラ・カルサヴィナ。いくらコンスタンチン先輩に香水を貰えなかったからってそんな言い方はどうかと思うぞ。女心がわかっていないのは賛同するが」
「な! そそそそそ、そんなことないわよ!」
うろたえるタマーラ。顔どころ首や耳まで真っ赤に染めて、防音性の高さが災いしてかタマーラの声は反響して耳がキンキンする。その後もタマーラが何が言っているがうまく聞こえない。少し回復してところで私はそばにいたウラジミール先輩の袖を引いて耳元に顔を近づけて聞いてみる。タマーラに聞こえないように小声で。
「《small》どういうことですかウラジミール先輩?」
「ああ。その香水を彼女は貰えなかったのを根に持っているんだよ。僕もその場にいたんだが、ほらアンナはこの手の物をあんまり持ってないだろ、だからコンスタンチン先輩にしては珍しく気の利いた親切なんだが、彼女はそれを知って自分も欲しいと遠回しに言ったんだが、それは上手く伝わらなかっただけでなく『お前その手の物いくらでも持ってだろ?』って言ってあげなかったんだ。
まぁその後、鳩尾に回し蹴りをくらって医務室に速攻したんだけどね
もっとも、コンスタンチン先輩も素直にあげれなかったのもどうかと思うけど」
ああ。その光景が目に浮かぶ。なんで二人はいつも喧嘩ばかりしているんだろう? あと、ウラジミール先輩は最後になんて言ったかよく聞こえなかった。
でも、今手元に写真機がないのが寂しい。この騒がしくも、暖かな光景を。《きれいなもの》と《うつくしいもの》を留めてたい。
あの怖かったのが嘘のように、夢幻のように、いつかそう思えるようになってほしい。
しかし、そんな私の淡い希望は、泡沫と消え失せた。
突如、扉が叩きつけられるように開かれた。
「おいお前たち! 今すぐラジオをつけろ!」
「コンスタンチン先輩どうしたんですか急に」
二つある松葉杖の片方でバランスを取りつつ、もう一本で手摺を叩きつけるように開けたせいか、扉から少し離れており部屋に入ろうとした時に扉に挟まれ、そのまま肩で体当たりするように開けた拍子にこけそうになって撃たれた足で踏ん張り、部屋には何とか入ったもののうずくまって動かなくなった。
「……あの、コンスタンチン先輩大丈夫ですか?」
「っっ! どのチャンネルでもいいからラジオつけろアンナ! 帝都が大変なんだよ!」
「はい!」
コンスタンチン先輩のあまりの必死さに、慌てて部屋に備え付けのラジオつける。
そして、聞こえてきた
『……緊急速報です。現場からお伝えします。本日2月23日の早朝から行われていた
それと未確認ですが、この暴動帝国各地に波紋を広げ、各都市でも暴動が発生しているとの報告があります。善良なる帝国市民は暫くは不用意に家の外には出ず、この混乱が収まるま――キャー――――』
キャスターの悲鳴と共に放送が途絶えた。
その後各地に広まった暴動も警察と軍の迅速な行動により一週間と経たずに収束する。一月前に起きた《血の安息日事件》と関連が囁かれるこの騒動。しかし、これはほんの序章にすぎなかった。この事件がきっかけとなり、この国は激動たる終焉が始まる。
そう。この2月23日の事件、後の世に言う《二月革命》からこの国は音を立てて崩れ始めたのだ。いや、もしかしたらあの安息日から始まっていたのかもしれない。
後に歴史家たちはこう言う。
『終焉の一年』『終末の一年』『激動の一年』『ロシア機関帝国の最も短く、最も長い一年』『ロシア機関帝国最後の一年』
そして、一部の人たちはこう呼んだ。
遅れました。うん。最近これしか言ってない気がするジンネマンです。
ほんとに、月一投稿とか嫌になる。せめて月二もしくは二週間に一回としたいですが、当分は努力目標にしかなりませんね。
それはともかく、物語が大きく動きます。次章は主に「血の安息日事件」私たちの歴史で言うところの『血の日曜日事件』を発端に色々なことを起こします。
具体的には、アンナたちの出番がほとんどなくなるということですね。
まあ、何があるかわ見てのお楽しみと言うことで(自分でハードルを上げる愚行)
ただ言えることは、次章にはテンプレ戦闘はありません。
では、今夜はこのくらいにして、
親愛なるハーメルン読者の皆様方。良き青空を。