恋姫立志伝   作:アロンソ

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十六話 司馬家一の才媛

 

 南陽郡で起こった反乱を鎮圧し都へと戻る。

 

 あまり褒められた戦法ではなかったので、お叱りの言葉でも受けるのかと思いもしたがそんなことはなかった。せいぜい仲の良い商人連中に包囲期間の長さについて小言を言われたぐらいだ。

 

 太尉には兵士の犠牲の少なさを褒められ、他の役人には官軍の強さを世に知らしめる圧勝であったと口々に称賛の言葉をかけられた。名将であるとまで絶賛された。

 

 必要以上に反乱軍をきつく締め上げたせいで宛城の中はすっかり荒れ果てていた。そのこともしっかり報告に挙げてはいたが、誰もオレを咎めることはなかった。

 

 咎めないどころかむしろそれを喜んでいるようにも見えた。賊の居城となった城なんて荒れ果てて当然であると。中の領民のことは考えないのだろうかと思いもしたが、少なくとも実行犯でもあるオレが言えた義理ではないだろう。なんとも複雑な心境ではあったが一先ずはいい。

 

 今はただ反乱を無事に鎮圧できたという結果が第一であると考えようと思う。賊の相手で小さな砦を落とすことはあっても城攻めは流石に初めてのことだった。欲を言えば、と思わないこともないが、今回はこれで良しとしよう。過ぎたことをいちいち振り返っていても仕方がない。

 

 そんなことを考えながら執務室でぼんやりしていると荀彧がやってきた。

 

「またアンタに来客よ」

「君の裁量で通すかどうか決めてくれ」

「そういうと思って既に追い返したわ。無能そうだったし。なんか卑しい面構えだったし」

 

 そう言うと荀彧はやれやれと溜め息を吐く。

 

 反乱軍を鎮圧した功績によるオレの昇進はなかった。その理由は単純に上の地位が詰まっているからである。地方に栄転。具体的には州刺史という選択肢も選べたが、太尉に「どうせすぐ呼び戻すことになるから止めておけ」と言われたので止めておいた。まあ選ぶ気もなかったが。

 

 その分孫堅に便宜を図ってやろうとして太守に推挙してみたが意外なほどにあっさりと通った。孫堅の出身である揚州は呉郡を含め、同じ揚州の丹陽郡と廬江郡も大丈夫とのこと。

 

 こうなると悩ましいものである。普通に呉郡で話を通してもいいのだが黄巾の乱のこともある。できることなら孫堅には長江を渡った先の地である呉郡や丹陽郡よりも、まだ中原に近い廬江郡を治めてもらいたい。せっかくの戦力を十二分に活かさないのは惜しいと思う。

 

 揚州なら九江郡が一番良かったが、流石に揚州の治所歴陽がある郡は難しいようだ。そういうことでオレの希望は廬江郡。孫堅が呉郡がいいなら呉郡でいいが、一応は廬江郡に入って欲しいとの旨を告げた文を送る。強制をするつもりはないし、好きに選んでいいと書き加えておく。

 

 そんなわけでオレの昇進は見送りとなったが、どうにも話はそれで終わることはなかった。

 

「なんだかこのところ妙にすり寄ってくる輩が増えたな。いい加減うざったくて仕方がない」

「仕方ないじゃないの。なんたってアンタは次の遠征から将軍位を賜るわけなんだしね」

「将軍か……。正直なところありがた迷惑でしかないんだよな。遠まわしに扱き使うって宣言されてるようなもんだよ。まったく面倒なことだ」

 

 その代わりにオレは次回から将軍として遠征軍を率いることになった。

 

 昇進が見送られたというよりは次に回されたというべきだろうか。その次が訪れるのが何時かわからない時代ならともかく、今の時世ならすぐにやってくると誰もが考えていた。

 

 その話が広まったことでオレの下へやってくる来客者が後を絶たない。早い話が自分や親族の売り込みである。ポストがたくさん空いていることで美味しい仕官先と見られたのだろうか。

 

「まあ、致し方ないんじゃない?アンタは将軍になるのよ。否が応でも注目は集まるわよ」

 

 普段よりいくらか落ちついた口調の荀彧。だがその機嫌が良いのは簡単に見てとれる。

 

 このところフードの猫耳がピンと張っている。もはやそれだけで荀彧の機嫌が良いという理由になりうるが、さらには鼻歌を口ずさんでいる時もある。今だってやれやれと溜め息を吐きながらもどこか演技をしているように思えてならない。

 

 しかし幕僚も何れは埋めなければいけない。オレの配下で文官枠は荀彧しかいない。今は荀家の者がいるから、と周りも理解を示しているがこのまま通すのは難しいだろう。

 

 軍師、司馬、長史、従事中郎、参軍、主簿。パッと思い浮かべただけでも将軍が幕僚に置く官職は多い。まさか荀彧に全てを兼任させるわけにもいかないし、周りも納得しないだろう。焔耶や香風に頑張ってもらうという手もないことはないが、文官の仕事は文官に任せたいところである。

 

 今挙げた官職もきっちり全て選ばないといけないことはないだろうが、それでも後二、三人は欲しい。そうすれば恰好は整うだろう。しかし誰でもいいというわけでもない。

 

「なあ荀彧。知り合いに誰か手頃な人材はいないだろうか。君の親族や関係者でもいいけど」

「そう……ねえ。身内で推薦できる人材はちょっと思い浮かばないわね。優秀な者はどこかしらに仕えていたり、まだ成人してなかったりするし」

 

 別に優秀である必要はないのだが、どうも荀彧は才能の無い者を推薦する気はないようだ。

 

「…………そうだ!河内郡の司馬家なんてどう?家柄もすこぶる良いし司馬防殿の御息女は皆例外なく優秀とのことよ!司馬家でいいじゃないの!」

「いやいや門前払いをくらうのがオチだ。名家の一族が成り上がり者のオレに仕えはせんだろ」

 

 荀彧の家柄も相当な名家ではあるが、荀家とは潁川郡の頃から交友があったこともある。

 

 なんの縁もない司馬家は流石に無理があると思う。司馬八達。その名は都でも広く知れ渡っているが、自分には関係のないこととばかりにあまり気にはしていなかった。

 

 司馬懿という名は勿論大きいが、司馬懿が世に出るのは今よりずっと後の時代の話だ。下手をするなら曹操の子である曹丕の世代の話かもしれない。黄巾の乱も起こっていない現状ではまだ考えることもないだろう。今はまだ他にするべきことが多くある。

 

「司馬家の先代当主である司馬雋殿は昔、潁川郡の太守をなされていたのよ。私はまだ生まれていなかったけど、お母様は司馬雋殿とも交友があったはずよ。その伝手でいきましょう!」

「伝手があるのはけっこうなことだが、それとこれとは話が別だろ。体よく断られるのが目に見えている。司馬家がオレに靡くとは思えんよ」

 

 手痛く断られるとまた困るしな。

 

 司馬八達。全員が全員そうかは知らないが司馬懿を筆頭にその多くは魏に仕えたはずだ。河内郡のある司隸が魏の支配下であることもあれば、曹操を戦乱の世の勝者と見たこともあるだろう。

 

 八人もいることだし一人ぐらい引き抜いても問題なさそうではあるが来るとは思えない。確かに引き抜けたら便利だろう。荀家に司馬家。この両家から配下を得ることができれば有象無象の相手を断る良い理由となるが、あまり現実的な案とはいえない。

 

「やってみないとわかんないでしょ!とにかくお母様を通して司馬家に打診してみるからね!」

「まあ、君の推薦なら断ることもないかな。やってみてくれ。のんびり果報を待つとするよ」

 

 どうせ駄目だろうと思いはしたが司馬家の返答は意外にも悪くないものであった。

 

 一族の娘とまではいかなくとも、人を寄越すのは是。ただ一つその条件として受けてもらいたいことがあるとのこと。それは司馬防の娘の一人とオレが話をして欲しいということであった。

 

 

 

 

 

 それから一週間程後のこと。

 

 都にある司馬家の屋敷に招かれたオレはそこで司馬八達の一人と出会う。この世界では珍しく長く伸びた艶のある黒髪に黒目。珠のようになめらかで美しく白い肌。

 

 眉にかかるラインで水平に切り揃えられた前髪。姿勢も良く上品でいて気品がある。その姿からは元の世界の優等生委員長を連想させる。

 

「お初にお目に掛かります。私は司馬防は次女。姓を司馬、名を懿。字を仲達と申します」

 

 物腰も柔らかで万人受けするような人懐っこい笑みを浮かべる少女。年は二十歳前後だろうか。

 

 司馬懿。という名を聞いたときにオレは全身から変な汗が噴き出しそうになった。表情もたちまち崩れそうになったが、かろうじて無表情をキープすることが叶う。

 

 この場に誰もいなければオレは大いに狼狽えていたことだろう。慌てふためくか口をぽかんと開けては馬鹿面を晒していたことだろうと思う。可能性として考慮していなかったわけではないが、実際に司馬懿という名を聞くと衝撃は大きい。

 

「中郎将殿のご活躍の程はかねがね拝聴させて頂いておりました。今日こうして謁見に預かれたことも恐縮至極に存じます」

 

 変わらず顔に笑みを張りつける司馬懿。だがその姿にはどこか違和感を禁じ得ない。

 

 感覚的なものだろうか。畏まっている態度が不自然に思えて仕方がない。こんな失礼なことを口に出すのも憚られるが、どうにも優等生を演じているように映ってしまう。

 

 海千山千。宮中に犇く多くの人間を見てきたオレには、この手の擬態に対する目が肥えている。中央の役人なんてものは腹に一物や二物抱えているのが当たり前。長くやっていると否が応でも気づいてしまうものだ。しかしそれをわざわざ好んで指摘することはない。

 

 一つ小さく息を吐き気持ちを落ち着かす。

 

「中郎将殿?如何なさいました?私に何か不手際でも御座いましたでしょうか……」

「ああ、いやなんでもないよ。オレの名は左慈。今は羽林中郎将を拝任してるかな」

 

 いつまでも黙っているオレに司馬懿が尋ねる。

 

 良い子を演じてくれるならそれでいい。おそらく司馬防殿にオレを見定めて来いとでも言われたのだろう。このまま普通に世間話でもして引き返すのが最良だ。変にそのことを突っついて、司馬懿と険悪になりましたなんてオチは笑えない。

 

 方針も決まったことであたり障りのない話をすることに決める。潁川郡の話。都のちょっとした話。司馬懿はぜんぜん興味が無さそうであったがそれを表に出すこともなく、喜々として聞いてくれていた。オレもどうでもいいと思いながらも他に話すこともなかったので話を続けた。

 

 互いの利害が一致していたこともあって話は起伏も無く進む。いくらか司馬懿にも慣れた頃、ふとした拍子に口を滑らせてしまう。

 

「司馬懿殿も楽にしてくれていいよ。窮屈な姿勢のままだと体も痺れてくるだろう」

「有り難いお言葉ですが口調も姿勢も染みついたものでして。崩すのは逆に不都合があります故」

「そうなんだ。そっちは素ってわけか……」

 

 ぽろっとそう零してしまう。

 

 言った後で不味いと思って司馬懿の方を見るも、そこには何も変わることなく笑顔の司馬懿がいた。だがその笑みは先ほどまでとは違い、一種の圧が籠められているにも感じられる。

 

「……いつからお気づきでしたか?」

「なんのことかな。今のは言葉の綾だ。他意なんてものは一切ないよ。うん。ないない」

「……いつからお気づきでしたか?」

 

 話を流そうとしているのに食らいついてくる。無表情にも等しい笑顔が怖くなってきた。

 

「……まあ、正直に言うと一言二言話して気づいたかな。違和感というかなんというか」

「そうでしたか。薄々そのような気も致しておりましたが、こうもすぐ看破されるとは……」

 

 司馬懿の纏う空気が変わる。

 

「……はあ。それならそうと申して下さいよ。表情を作り続けるのは意外と大変なんですよ?」

「それは悪かった。言い出すきっかけが無くてね。それと今の君の方が話しやすいかな。重ねて言うけど、さっきまでは纏わりつくような違和感があってね。話も盛り上がらなかっただろ?」

「それは失礼致しました。私もこちらの方が楽ですので、御言葉に甘えさせて頂きますね」

 

 そこからは素の司馬懿と話をした。

 

 喜怒哀楽を見せるようになった司馬懿との話はけっこう面白かった。先程までは何か思惑がありそうな様子ではあったが、素に戻ってからはその気配も無くなった。

 

 いくらか話していると司馬懿は今回の事の事情を話し始めた。オレを見定めて来るように頼まれたというよりかは司馬懿が自ら志願して来たらしい。何か特別な用事があるのかと尋ねるとそんなことはなく、むしろその逆であったようだ。

 

「私困ってるんですよ……。兼ねてからずっと仕えるように迫られている方がいまして」

「君は司馬八達の中でも一番優秀と都でも評判だし、そんな話も後を絶たないだろうね」

「なんというか強引というか傲慢というか百合というか。その方は私の才と体が目当てなんですよ。そんなのって信じられます……?」

 

 どうやら司馬懿は仕官の話を躱すために一時的に都へやってきたらしい。

 

 政略結婚の類だろうか。それとも仕官が本命で結婚はオマケに過ぎないのだろうか。この世界においてはなんとも判断に悩むところではあるが、あり得ない話でもないだろう。

 

 司馬懿は細身で特筆するほど秀でたスタイルというわけではない。それが良いという相手なのかもしれないが、そんな風に迫られるのは嫌だろうなと思う。

 

「それは困ったものだな。同情するよ」

「私も殿方に迫られるのであればまだ理解は致しますが、同性に迫られるのはちょっと……」

「……ん?同性に迫られてるの?」

「はい。全く笑い話にもなりませんよ。一度直接話したことがあるのですが、才気煥発とでも申しましょうか。とても優秀なお方で……」

 

 優秀な同性愛者とか堪ったもんじゃないな。

 

 男に置き換えると絶望感が増す。極めて優秀なホモ。そして自分の身を狙っていると宣言した上での雇用要請。堪ったもんじゃない。オレだってすぐに逃げ出すだろう。

 

「今は地方領主ですがあの方は絶対偉くなりますよ……。まだのらりくらりと躱せていますが、そのうち屋敷に火でもつけられて炙り出されるんだろうな。私の人生、お先真っ暗ですよ……」

 

 不憫な話だとは思う。

 

 そうは思うが何かおかしい。司馬家の人間なら別の選択肢だって選べるはずだ。何も好んで同性愛者の下へ行かずとも他の領主の下、または都の役人にでもなれば躱せるだろう。

 

 孝廉に茂才。司馬懿なら楽に選ばれ試験も突破するはずだ。荀彧同様、都の役人なんてお断りという姿勢なのかもしれないが、同性愛者の下へ向かうぐらいならそのほうが良さそうではあるが。

 

 そのことについて尋ねてみる。てっきり捨て置くことのできない事情があるのだと思っていたが、司馬懿の口から発せられた言葉には思わず耳を疑ってしまう。

 

「働きたくないんです。私は屋敷でごろごろ書物を読み漁ってその生涯を終えたいのです」

 

 司馬懿まさかのニート宣言。

 

 荀彧のそれとは違いその言葉には重みを感じるが、本当に悲しい程どうでもいい。

 

「そうか。それでなんだけど、司馬防殿が誰か人を向かわせるとの話だったが……」

「流さないで下さい。お願いします。これは私の人生が掛かってると言っても過言ではないんです。一緒に策を練って下さい。お願いします」

「いや、そんなことを言われてもな。答えは単純明快に働けとしか言い様がないが……」

 

 縋る様な目で訴えかけてくる司馬懿。だがそんなことを言われても困る。

 

 司馬懿はおそらく世から離れて隠士としてのんびりと暮らしたいのだろうがそうもいかないだろう。司馬懿が隠れるなんてことは不可能だ。才ある者は表舞台に立つしかない。

 

「全くもって正論ですね。貴方様と縁を結べれば後々役に立つかと思い画策してはみましたが、擬態は早々に見破られ、こうして醜態を晒す有様。馬鹿な女と笑ってやって下さい……」

 

 本気で落ち込んでいる様子の司馬懿。今回ばかりは演技ではなさそうだ。

 

「……ふふっ。やがて私はあの御方に拉致され昼は馬車馬の如く働かされ、夜は手篭めにされるのでしょう。もういいです。審判の日が来るまでは屋敷から一歩も出ませんので……」

「大袈裟だな。もうちょっとあるだろ。小さな尉か県長でもやってれば楽ができるだろうに」

「毎日働くなんて苦行はお断りです。そこだけは絶対に譲れませんので。悪しからず」

 

 まったくどうしようもないな。

 

 放って置けばいいといえばその通りではあるが、聞いてしまった以上はなんとかしてやりたいとも思う。しかしどうしたものか。司馬懿のニート根性は少々のことでは覆りそうもないが。

 

「それに何より、私の才は世に出すべきではありません。私の才覚は敵だけに留まらず、自分自身やその周囲をも傷つけてしまうでしょう」

「…………ふむ」

「傲慢だと思われるでしょうが自分のことは自分が一番良くわかっております。私は何処へ行こうが用いられることはありません。信用はされても信頼はされません。やがては疎まれ迫害され……」

 

 行き着く先は墓場である、と司馬懿は言った。

 

 その瞳には深い悲しみの色が浮かんでいた。大国魏を滅ぼした司馬一族。その心中を推し量ることはオレには遠く及ばない。司馬懿には今であっても見えているものがあるのだろう。

 

「貴方様やあの御方が傑物であることは、少し話をしただけでわかります。それでも不敬覚悟で申し上げるなら、私を御しきるだけの器であるとは思えません。私を御せるのは私だけです……」

「君の話はおそらく正しい。百合の人のことは知らないが、オレに君を従えさせる力があるとは到底思えない。器に例えてもそうだな。たちまち溢れでてしまうことだろう。それでもだな……」

 

 何進のことが頭を過る。

 

 周囲の人間の多くは何進の手にオレが余ると見ていた。いつかは離れていくだろうと。

 

 だがオレはそんなことを考えたことはなかった。この先どうなるのかなんてわからないが、少なくとも何進を裏切ろうなんて考えは頭になかった。今の生活もなんだかんだで気に入っている。

 

「器から溢れようが時には人を傷つけてしまってもいいじゃないか。人は憎しみ合うこともあれば、それを許すこともある。その賢も不賢も目に見えているようで意外と見えてないものだ」

「左慈様…………」

「君は大海に出てみるべきだと思うよ。世を憂うのは間違っていないが、案外この世界は面白い。思いもよらない出会いもあれば、考えていた遥か斜め上の事態に陥るなんてこともザラにある」

 

 あの司馬懿の言うことだ。その言葉は正しいのだろう。だが絶対にそうなるとも限らない。

 

 常に最悪の事態を想定することは必要なことだと思う。それでも前向きに考えるということも大事だと思う。悪い風に考え過ぎるとどうしても気が滅入ってしまうものだ。

 

「いくらか説教染みたことを言ってしまったが気を悪くしないでくれ。君も働こうな」

「とんでもありません。心に深く響き渡りました。それでもやっぱり働きたくないです」

「おいおい……。まあ、それもそれで一つの選択なのかな。親御さんに心配かけないようにな」

 

 まあなるようになるだろう。

 

 そろそろ話を次の話題へと移したかったが、司馬懿がそれを良しとはしなかった。司馬懿は少しの間黙ってオレを見ていたが、やがてその口を開く。

 

「少し言葉を交わした程度でわかったような口を利いてしまったことをここに謝罪します」

「ああ、別にいいよ。間違ってないだろうし」

「狭い知識に捉われていました。もっと広い世界が見たいです。でも働きたくはないです」

 

 司馬懿の言葉の真意を計りかねる。

 

 広い世界が見たい。でも働きたくはないときた。元の世界に置き換えるなら、働きたくはないけどお金は欲しいというところだろうか。いやはや無茶もいいところだな。

 

 もう少し柔軟に考えるなら働きたいけどフルタイムの仕事は嫌とも捉えられる。なら何が必要なのだろうか。拘束時間の短さか。それとも適度な休みか。ジッとこちらを見つめている司馬懿はまさに、オレの放つ言葉を待ち侘びているように思える。

 

 ここで正解を出せば司馬懿を引き入れられるという予感がした。慎重に言葉を選ぶ必要がある。司馬懿が欲しいのかと問われると、正直まだよくわからなかった。ただこの場面は絶対、外してはいけないという確信がある。きっとここはオレにとって大きな分岐点になるだろうと。

 

「なんならウチに来るか?君の才を見込んで厚遇で迎えるけど。具体的には休みをだな……」

「……ッ!?詳しくお聞かせ下さい!」

「お、おう……。そうだな。週休三日でいいよ。さらに実績に応じて隔週で一日休暇を与えよう」

「な、なんという破格の条件……。で、ですがそれですと一年の半分が休みとなりますよ!?」

「休めばいいじゃん。残りの半分でそれ以上の働きをするのならぜんぜん構わないけど」

 

 それ故にあっさりと司馬懿が食いついたことには大きく驚いた。

 

 まさかこれが正解だったのだろうか。この先のやり取りが頭にあった分、いくらか拍子抜けしたような気分となる。それでも目の前の司馬懿を見るに十分な言葉であったようだ。

 

「私の見上げる空はいつも鉛色の空でした。空は厚い厚い雲に覆われておりました……」

 

 その黒く大きな瞳には忠誠という文字がでかでかと浮かび上がっているかのようであった。

 

 自分で言っておきながら本当にいいのかという思いはあった。決まり手が休みの日数などという理由で、あの司馬懿を釣り上げるなんて大丈夫なのかという思いも確かにあったが。

 

「まさに今その雲の隙間に一筋の光明が差し込みました。真の君主を仰いだ心地が致します」

「よろしくな。ウチはけっこう気の良い連中ばかりだと思うから君もすぐに馴染めるだろう」

 

 それでも素のダメダメな司馬懿を見ていた分、驚くほどあっさりと受け入れられた。

 

 しかし荀彧に続いて司馬懿とは豪華なものだな。超優秀な文官二人。いや、司馬懿は文官というよりも将軍タイプか。なんでも出来そうだから好きにやらせるといいだろう。

 

「我が名は司馬懿。字を仲達。真名を月華(げっか)と申します。どうぞお受け取り下さい」

「真名までいいのか。残念ながらオレに真名はないけど、ありがたく受け取らせてもらう。これからよろしくな月華。大いに期待してるよ」

「はい!左慈様。私がただの堕落者でないということをすぐに結果でお応え致します。それと猫を被っているというのは内緒にして下さいね?これからも続けるつもりですので」

 

 そう言うと司馬懿は、いや月華は舌を出して嬉しそうに笑った。

 

 

 

 

 

 これまでどんな誘いにも応じなかった月華を一発で口説き落としたことは話題となった。

 

 月華はけっこう色んなところから声をかけられていたらしい。そりゃ司馬家一の才媛ともなると名も知れ渡っていたのだろう。その才媛を口説き落としたことでオレの名も上がったようだ。

 

 月華も本家に戻り司馬防を説き伏せて仕官する許可を得た。始めは司馬防も難色を示していたようであるが、結局は月華の強い願いに屈する形となったみたいだ。オレが将軍となることもかなり大きな要因であったらしい。面倒だとばかり思っていたが肩書きも意外と役に立つものだ。

 

 オレは月華争奪戦に勝った形となる。相手がどれだけいたのかは知らないが、月華が懸念していた百合の人のことは少し気になる。寝取られたなどと思われでもしたら少し面倒ではあるが、地方領主なんて取るに足らんはずだ。文句があるならかかって来いと声を大にしていいたい。

 

「聞いたわよ!司馬八達の中で最も優れた次女を引っ張ってきたんですってね!」

 

 高順も公孫賛も大いに驚きまた喜んでいたが、そんな中でも荀彧は一際嬉しそうだった。

 

「やっぱりアンタはやるわね!」

「これもオレの人徳の賜物だろうな」

「偉そう!でも今日だけは許すわ!それで肝心の司馬家の次女はどこかしら?一度は故郷へ戻ったらしいけど、もう都に入ってるんでしょ?」

 

 おそらく荀彧は月華と同年代ということをどこかで耳にしたのだろう。

 

 仲良くしたいのか。ちょっと先輩面でもしてみたいのか。おそらく両方だと思うが荀彧はとてもウキウキとしている。新しい人が入るとこういう風を運んで来るからいいものだ。

 

「仲達は今日休みだぞ」

「そ、そう。移動の疲れもあるだろうし一日はしょうがないか。まあ明日会えばいいしね!」

「明日も明後日も休みだぞ。明々後日から来るはずだな。確かそんな感じだったと思う」

「はあ!?なんで明日も明後日も休みなの!?ぜんぜん意味がわからないんだけど!?」

 

 御尤もな御意見だ。余人に聞かれてもぼかすが荀彧になら話しても構わないだろう。

 

「いや、なんだ。仲達はあんまり働きたくないみたいなんだ。困ったやつだが許してやってくれ」

「許すわけないでしょ!舐めた新参者にはこの私が直々に焼きを入れてきてやるわ!司馬家の屋敷はどこにあるの!?」

「ええっとだな。司馬家の屋敷は……」

 

 司馬家の屋敷の場所を告げると荀彧は腕を回して出て行った。まあ大丈夫だろうと思う。

 

 この手のやり取りは荀彧よりも月華の方が一枚上手とみた。おそらく丸め込まれて帰ってくることだろうと。それから四刻と経たぬ内に荀彧は戻ってきた。その早さに論破されたのかと思いもしたが、上機嫌であったので違うようだ。

 

「れ、礼儀正しい娘じゃないの」

「直々に焼きは入れてきたのか?」

「そんなことするわけないじゃないの!月華は幼少の頃から体が弱いのよ!アンタ正気!?」

「…………さいですか」

 

 月華は病弱設定で通すようだ。真名を話しているところをみるに仲良くなったんだろう。

 

 しかし荀彧も意外とチョロいな。かなり気を良くしているようだし、おそらくよいしょされまくったんだろう。何を言われたのか気になるな。今度こっそり月華に聞いておこうと思う。

 

「仲達はしばらく君の下に就けるから」

「任せておきなさい!この私がイロハを叩き込んですぐに使い物にしてみせるわ!」

「うん。そういうことでよろしく」

「私は月華のこと凄く気に入ったわ。家柄もとても良いしちょっと贔屓してあげようかしら!」

「仲達のどこを気に入ったんだ?」

「それは勿論!左慈様の次に私が偉いってことを言われずとも理解していたところかしら!」

 

 上機嫌な荀彧。おそらく月華と話をしたままの口調なのだろう。普段と違う呼び名に驚いた。

 

「……ほお。左慈様、ねえ。君も外ではちゃんとオレのことを敬ってくれてるんだな」

「…………あっ。ち、違うの。馬鹿男じゃ通じないでしょ?男なんてみんな馬鹿なんだから」

「そうだな。それじゃあ仕方ないな」

「そう思ってるならニヤつくの止めなさいよ!もうホントに最悪よ。一生の不覚だわ……」

 

 そう言って顔を赤く染めて俯く荀彧。日々新しい発見があって面白い。

 

 孫堅もそろそろ都へとやってくる。一族総出でと言っていたから孫策や孫権も来るのだろう。まだ見ぬ新しい出会いに胸が高鳴る。

 


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