恋姫立志伝   作:アロンソ

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二十話 蓮の華

 

 鼻孔をくすぐる甘い香り。

 

 引き締まった太もも。同じく引き締まってはいるが少々大ぶりな尻。どちらも女性特有の柔らかさを秘めている。口から微かに漏れる呼吸音すらも耳に入るほど近い距離に孫権がいた。

 

 一体全体どういう状況なんだと思う気持ちも強かったが、それよりも酒が入った今となっては高揚感もかなり高かった。押し倒された拍子に背中を打ったことさえも些細なこと。美女に押し倒されるなんて状況は個人的に願ってもないことではあるが、流石に喜んでばかりもいられない。

 

 孫権の背後では高順と甘寧が睨み合って向かいあう。放っておけば今すぐにでも得物を手に斬り合いを始めんばかりの気迫を感じる。だがどこか甘寧の方は悩んでいるようにも見える。

 

「よくわからんがこの体勢で話をするのは不便だとは思わないかな?まずは起き上がってさ……」

「私にその身を委ねて下さい。まずは左慈様のお召し物を、お召し物を脱がせて…………んっ!」

 

 オレの衣服に手をかけようとした孫権。その動きをオレは尻を軽く撫でることによって止める。

 

 孫権は酒が入ると脱ぎ女ならぬ脱がせ女になるのか。体も火照ってきているし脱ぐのはぜんぜん構わないけど、まずは後ろを見ろといいたい。あれを止めなければ大事になってしまう。

 

「時に甘寧殿。君は今の状況を理解した上で、高順の足止めをしようとしているのかな?」

 

 一人の力では到底孫権を引き離せそうにはなかったので、まずは甘寧の説得を図ってみる。

 

 甘寧は高順の前に立ち塞がってはみたものの、どこか芯が通っていないとでも表現するべきか。先程までの凛とした姿はなく、心の葛藤が見え隠れしている。これなら相手が甘寧であっても高順であれば突破できるかもしれないが、高順が負傷する可能性も十二分に考えられる。

 

 今であれば酒の席での悪ふざけとして流すことは出来ても、流石に怪我が絡むとあってはそうもいかない。説得できるのであればそれに越したことはないだろう。

 

「高順はオレの話が終わるまでは動くんじゃないぞ。半端なことになると余計に面倒だ」

「御意ッ!」

 

 しかしウチの忠義者は高順だけだな。

 

 公孫賛は眠ったまま気配を感じて起きるなんて芸も見せない。月華は何処かへ行ったまま戻っては来ない。このタイミングで便所なんてオチはないだろう。全く困ったものだ。

 

「さ、左慈殿。私は……その……」

「無礼講と言ったことだ。孫権殿は酒の席の悪ふざけとして許してやれるが君はそうはいかんぞ」

 

 孫権に動かれると話ができなくなってしまうので、その尻を撫でながら甘寧に圧をかける。

 

 高順の動きから目を外さない甘寧は、オレと会話をしていてもこっちを見てはいない。待機中の高順は時折こちらを向き「意外と余裕がありますね」とでも言いたげな表情を浮かべた。

 

 余裕はぜんぜんある。むしろ嬉しいぐらいだ。二人が緊迫状態でなければ酒の席でもある。なんなら自ら率先して服を脱いでいたかもしれない。だが今となってはそうもいかないだろう。

 

「主君やその主筋の過ちを咎めるのも配下の立派な役目だろうに。加担してどうする。加担して」

「私は……しかし……それでも……」

「さあ頭を冷やして、よく考えてみろ。君がしていることは本当に正しいことなのかどうか」

 

 甘寧の離反を謀る。

 

 冷静に場を見ればわかるはずだ。オレはこれでも都の立派な高官である。このような行為は決して許されることではない。今ならまだ不問とするから落ちついてみろと暗に声をかけてみる。

 

 それでも冷静になった甘寧に尻を撫でている姿を見られるのは不味い。始終撫でっぱなしであった手をどけると孫権は小さく息を吐いた。頻繁に身悶えしている様子を見るに意外とオレはテクニシャンなのかもしれない。この手のことは焔耶でかなり鍛えられたような気がする。

 

「仰ることはよくわかりますがそれでも……。それでも私は蓮華様の一の家臣としての務めを果たします!主の幸福こそが家臣の幸福です!」

「……っ!よ、よく言ったわ思春!」

「当然です蓮華様!私はここを死守します。私は身命を賭してでもこの場を離れません!」

 

 麗しい主従関係かな。とんだ茶番だな。オレの言葉で甘寧はその覚悟を固く決めたようだ。

 

 甘寧は手に持つ得物を強く握り直す。その姿に高順は珍しく苛立ちを表に出していた。高順にも思うことがあるのだろう。オレが合図を出しさえすれば間髪入れずに動き始めそうだ。

 

「左慈様。そろそろ某が……」

「まだいい。それなら次は孫権殿だ」

 

 高順の言葉を制す。しかし困ったものだな。甘寧は物分かりが悪くはなさそうではあったが。

 

 オレがこんな状況であっても余裕をもって構えている理由は二つある。一つはこの状況がオレにとって悪いものではないこと。美女に押し倒されて文句をいうことなんて普通はあり得ない。

 

 相手が孫家でなければ宦官側が放った刺客の可能性を考慮したことだろう。それでも孫堅がそんなことを命じるとは考えられなかった。恩着せがましいことを言うつもりはないが南陽での戦功なども色々と優遇してやったし、それを仇で返す様なことはあり得ないだろうという確信もある。

 

「オレにとっては困った状況ということもないけれど、そろそろ理由を話してくれないかな?」

 

 そして二つ目。孫権は酔ってはいるだろうが話が通じないということはない。

 

 目も正常だし呂律だって普通に回っている。尻を撫でてみた時だって反応は鈍くなかった。

 

「酔って意識を飛ばしていれば、異性の衣服に触れようとしただけで手を震わせはしないからね」

「……お気づきでしたか」

 

 孫権はそう答えて俯いた。

 

 なによりオレの衣服に手をかけようとする孫権は小さく震えていた。戸惑いと躊躇い。さらには罪悪感や恥じらいなどの感情などもその一つの動きから窺い知ることができた。

 

「……私の酒癖が悪いということも、母に飲むなと厳命されたことも事実です。それであっても左慈様の前で自分を忘れて飲んでしまう程、私も馬鹿ではありません。それでも私は…………」

 

 

 

 

 

 孫権はオレに跨ったままの体勢で、ぽつぽつと自分のことを話し始めた。

 

 自分には優れた姉や妹がいること。自分は何をやっても人並みにしか出来ず、姉や妹と比べるまでもなく劣っていること。姉妹の中で自分だけが秀でたものを持っていないこと。

 

 孫権の心の深くにあるのは劣等感。どんな人であっても大なり小なり劣等感を抱えて生きている。自分よりも優れた人を羨む気持ちもあれば妬む気持ちもある。自らの理想が高いと劣等感が生まれやすい。また育った環境によってもそう感じてしまうことが多いと聞く。

 

 孫権は孫策と孫尚香の間に挟まれて悩むことも多かったんだろうと考える。南陽郡での一戦には来ていなかったが、孫策は孫堅に似て武勇に秀でているという噂は耳にしたことがある。孫尚香のことはよく知らないが、身内にしかわからないこともあるのだろうと思う。

 

 孫権は苦しんでいたのだろう。そんな中でオレの話を孫堅から聞いたようだ。自分を必要としてくれる人の下で精一杯尽くすことに幸せを見出そうとしていると孫権は話した。それでも孫家の家柄も高くはなく、まずはオレに気に入って貰わないといけないから頑張ろうと心に決めたこと。

 

 その話を聞いてオレの酔いは途端に醒めた。何気なく言った一言が原因でこんな事態に陥っているのなら自業自得だ。そして罪悪感を感じる。孫権はオレに好意を寄せてくれているようだ。

 

「焦った挙句、勢いに乗じてこんな暴挙に出てしまいました。馬鹿な女とどうか笑って下さい」

「い、いやそんなことはないよ。オレも悪い気はしていないし、君がいいのなら別にオレは……」

「それでも、それでも御迷惑でないのならば、左慈様の寵愛を賜りたいです。私はそれを望んで今日という日を待ち侘びておりました。何もなく終わってしまうのはあまりに辛いです……」

 

 君がそれでいいのなら嫁にでも来ればいい、とオレは安易に言ってしまおうと思った。

 

 元は自業自得であるし、オレが困ることはない。孫権は将来的に呉の君主になるはずだけど、この世界の劉備も女であると仮定するなら孫尚香が嫁ぐこともないし、案外なんとかなるかもしれない。それに孫家と関係を深く結べれば、この先どう転んでも損はないだろうと。

 

 それでもそんな打算的な考えを口に出来なかったのは、孫権が今にも泣きだしてしまいそうな表情をしていたからであった。その潤んだ無垢な瞳に射抜かれると自分の醜さがよくわかる。昨日の月華の話でもそうだ。オレは相手の気持ちよりもその先にある利のことばかりを考えてしまう。

 

 本当にいつまで経っても成長しない。そんなことでは駄目だろうと自分に強く言い聞かせる。

 

「オレは口が上手い方ではないけれど、その結論を出す前に一つ聞いて欲しいことがある」

 

 小さく孫権が頷く。そして孫権もまたそればかりに捉われていては駄目だろうと思う。

 

 高順にも合図を送って武器を下ろさせる。こんな体勢ではイマイチ説得力の無い言葉になるかもしれないけど、それでも話しておきたいことがあった。

 

「君が姉や妹に対して引け目を感じてしまっていることはわかった。孫尚香殿のことはわからないけど、孫策殿は孫堅殿とよく似ているからわかりやすい。あれは英傑の風格とでもいうのかな」

 

 この時代においても極一部の人にしか備わっていないであろう特殊なものがある。

 

 風格、覇気。あるいはもっと形容すべき言葉があるのかもしれない。孫堅と孫策には自然とその類の雰囲気を感じ取ることができた。人を強く惹きつけ、または引き離す力のようなものだ。

 

 その雰囲気をこれまでに感じた人は三人。孫堅と孫策。それと何時だったかな。もう何年も前のことになるが、都で出会った髑髏の少女。彼女もまたその雰囲気を強烈に放っていた。近頃耳にする後の時代を彩る英傑達の名前。おそらく髑髏の少女は、と頭に浮かび上がる名前があった。

 

「それは先天的に備わるものだろう。いくら凡人が努力したところで届かない領域にいるのかもしれない。天稟といえばわかりやすいのかな。理不尽な存在というのはどうしてもいるものだ」

 

 孫権が唇を強く噛む。

 

「それらの人は自然と成功を積み重ねるんだよ。そして人を強烈に惹きつける。優秀な人材も自然と集まることだろうが、それが必ずしもいいというわけでもない。その理由がわかるかな?」

「私にはその……ぜんぜんわかりません……」

「それに慣れてしまうんだよ。自分も周りも優秀だとそれが普通だと考えてしまう。気をつけるべきだとはわかっていても、どうしても次第に小さなことが目に入らなくなってしまうんだ」

 

 たった一度の小さな失敗が死に直結する世界においては、そうなってしまうのも無理もない。

 

 そしてオレも成功を重ねる側の人間だ。小を積みて大と為す。そう言ってしまえば聞こえはいいが、成功を重ねれば重ねるほど失敗を恐れる気持ちも強くなる。より効率的により確率の高い方法を選んでしまう。そうしていると脇にある小さな出来事に対し、次第に目を向けなくなっていく。

 

「君の一族は成功を積む側の人間であり、本質的に強者なんだろう。後ろを顧みることはなく前へ前へと突き進んで行く。それでもそれに従う人の中には弱者だって多くいるはずなんだ」

 

 孫権は少し孫堅や孫策とは毛色が違う。その身に纏う穏やかな気を好ましく思いもした。

 

 孫三姉妹のことは孫堅から南陽で共闘した際に色々と聞かされた。名や字。さらには真名の漢字やそれに籠めた思いの丈なども細かく話してもらったことがある。

 

 孫権の真名は蓮華だと聞いた。一目その字を見た時に良い真名だと思った。孫策や孫尚香の真名も良いとは思いもしたが、孫権の真名だけは特に良いなと感じたことが印象深い。

 

「君の真名を許可なく呼ぶことなんてあり得ないが、とても綺麗な真名だと思う。蓮と呼ばれる花を知っているかな。確か山越地方で盛んな品種であったと耳にしたような気がするが……」

 

 うろ覚え気味な知識を出して尋ねてみると、孫権は少し照れながら首を横に振った。

 

 (はす)(はな)。オレは孫権の手を取ってその手の平に文字を書いた。高順も甘寧も手を止めてこちらをジッと見ていた。その中でも特に甘寧はオレの話を真剣に聞いていた。

 

「蓮は綺麗な水の中ではほんの小さな花しか咲かせないが、汚れた水の中では大輪の花となる」

「私の真名の花……」

「とても綺麗な花だよ。蓮を人に置き換えると水はその人生にあたる。清らかに不自由なく生きた人よりも、悩み苦しんだ人の方が最終的に大輪の花を咲かせることもあるということだ」

 

 世のほとんどは平凡な人間だ。

 

 一握りの中のさらに一摘みにも満たない英傑。その強烈な光は人を強く惹きつけるが、時に人を離してしまう。孫権のように悩み抜いた人にこそ、見える世界もあるんじゃないかと思う。

 

 大器晩成。老子の言葉にもあるように大きな器は出来上がるまでに長く時間がかかるものだ。孫権がそれに当て嵌まると言い切ることはできないけど、そう考えるのも悪くはないだろう。

 

「左慈様…………」

「君が咲かせる花はきっと孫堅殿や孫策殿とは違った花になるはずだ。この先努力を怠らなければ、君はきっと弱き者や小さなことにも目が届く立派な人に成長するだろう。そしてそんな君を慕う人も多くいると思う。だから自分の可能性を諦めることなくこれからも頑張って欲しい」

 

 孫権は大粒の涙を零しながら何度も何度も強く頷いた。きっと孫権は上手くやるだろう。

 

 こうして諭してはみたものの、これはオレには出来ないことだった。強く意識しても見逃してしまうだろう。人の根本的な性質が大きく関係する話だと思う。

 

 そう思うと孫家はやっぱり安泰だ。孫堅に孫策に孫権がいる。孫堅や孫策の目が届かない細かいところを孫権が見てやれば益々結束は固くなることだろう。配下の層も厚いし申し分ない。

 

 しかし孫権は嫁入りの話があるのか。本当にどうしたものか。元は自分で撒いた種。そして孫権は美人。少し話をしただけだが性格も良さそうである。いつものように濁して保留に出来ないこともないが、そうしてしまうと孫家は地方へ赴任してしまう。それは流石にどうだろうと思う。

 

「それでなんだけど……さ。孫権殿」

「は、はい。なんでしょうか左慈様……っ!す、すいません。どうか御立ちになって下さい!」

 

 袖で涙を拭っていた孫権ではあったが、馬乗りのままであることに気づくと立ち上がった。

 

 別にそのままでもよかったが、どいてもらったのでオレも立ち上がる。そして頭をトントンと叩きながら、どう話を切り出そうかと考える。しかし嫁なんて碌に考えたこともなかったな。

 

 現状嫁候補は一族が認めている孫権。それに昨日聞いた月華と真偽はわからんが荀彧。そしてオレは個人的にずっと、この先も出来るなら焔耶や香風と一緒にいたいと考えていた。

 

 孫権に司馬懿に荀彧に魏延に徐晃。国盗りであっても成功しそうな面子がずらりと並ぶ。

 

 この中で誰かを選べなんて状況がそもそも理解できなかったが、それでもわからないなりになんとかするしかない。そう思い、意を決して口を開こうとした時のことであった。

 

「申し訳ありません!道に迷っておりました!」

 

 月華が大声を張り上げて部屋へ戻ってきた。その白々しさには流石に苦笑いを禁じ得ない。

 

「君はさ……」

「ごめんなさい。お察しされている通りです。後学の役に立つかと思い隠れて見ていました」

「二週間、休日全ての出勤を命じる」

 

 オレがそう告げると月華はこの世の終わりのような表情をして膝から崩れ落ちた。

 

「御冗談……ですよね?私も本当に左慈様の危機と見れば我が身を挺してでも御守り致して……」

「冗談じゃない」

「それだけは御容赦下さい!お願いします。私に出来ることであればなんでも致しますので!」

「ダメダメ。はい。この話はもうおしまいね」

 

 どんだけ働きたくないんだよ。ここで甘やかしては月華のためにならんと心を鬼にする。

 

 オレと月華の会話を孫権は少し驚いたような表情をして見ていた。猫被りしか見ていなかった孫権にとっては今の月華は驚くのだろう。休みの話が絡むといつもこうなるから困ったものだ。

 

「表面上の付き合いだけではなく、親しくならないと見えてこないことも意外と多い。だからもっと君の事をオレに話してはくれないだろうか」

「……っ!は、はい!よろこんで!」

 

 それでも話を始める前に、孫権と甘寧は並んでオレと高順に深々と頭を下げた。

 

 自分達のした罪の重さは重々承知であり、どんな裁きでも謹んで受け入れると。オレも高順も正式な漢王朝の官職に就いている。見逃してもよかったが生真面目な性格の二人なんだろう。

 

 オレは勝手に尻を撫でたこともあり、それでチャラでいいよと孫権に笑って言った。甘寧のことは高順に任せると命じた。オレがチャラにした以上、高順も大きなことはしないだろうと。

 

「ならば某から甘寧殿に一つ」

 

 そういうと高順は甘寧の頭に拳骨を落とす。予想外のことに思わず感嘆の声が出る。

 

 高順は甘寧の行いを強く咎めた上で「それでも忠義を通すのなら迷うな」と言った。それが間違ったことであったとしても、忠義を通すと決めたのであればもう迷うことはするなと。

 

 オレは気づかなかったが、高順は甘寧がオレとの会話の後でもまだ悩んでいるというのを感じ取っていたようだ。それがどうしても気に入らなかったらしい。高順の言葉もまた一つの忠義の形なんだろうと思う。甘寧は頭を押さえながらも高順の話をしっかりと聞いていた。

 

「……ま、反省はこんなところでいいだろう。酔いも醒めたことだ。もう一度飲み直すとしよう」

 

 公孫賛は眠っていたが、それからはみんなで酒を飲んで楽しく話をする。

 

 孫権はぽつぽつとではあるが自分のことを話してくれた。得意なこと。苦手なこと。最近あった出来事やずっと前に起きた印象に深く残っている思い出などを聞かせてくれた。

 

 和やかに場は進む。やれやれ色々とあったが綺麗に収まってよかった。そんなことを考えていると部屋の隅にぽつりと置かれた酒杯を見つける。中には酒が並々と注がれていた。

 

「あんなところに置いたっけな?」

「あれは母が左慈様に飲ませるようにとのお酒ですが、今の私にはもう必要のないものです……」

 

 少し照れながら孫権は答える。

 

 いくらか飲んで酔っていたオレは迷うことなくその杯の前へと足を運ぶ。せっかく用意されたのであれば飲まない手はないと。場が丸く収まったことで油断していたのかもしれない。

 

「さては高い酒だな。よし飲もうか」

「で、ですが左慈様。その杯の中に入っているお酒はかなり度数が高いものと言われたので……」

「おお、それは願ってもないことじゃないか。このオレが酒如きで酔い潰れるわけがないだろう」

 

 この言葉が間違いであった。

 

 孫権の制止を振り切り、オレは上機嫌に杯を持ち上げては勢いのまま一気に飲み干す。

 

「…………っ。ふう、飲んだ飲んだ。ほら大したことなかっただろ?オレはこう見えてもさ……」

 

 酒にとても強いんだ、と言ったことまではなんとか記憶にある。

 

 問題はそれから後のこと。その言葉を言ってからの記憶が丸々抜け落ちていた。次に気づくと空は明るく、部屋の中には誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 翌朝目覚めると部屋には誰もいなかった。

 

 締めつけるような頭痛。カラカラに渇いた喉。体中が倦怠感に包まれている。どうやら酷く飲み過ぎたようだ。いつの間にか酔い潰れて寝てしまったが、皆は一体何処へ行ったんだろうか。

 

 しばらくその場に座り込みぼんやりと昨晩のことを思い返してみる。断片的な記憶しか浮かび上がってはこなかったが、楽しい宴ではあったはずだ。しかし皆は一体何処へ行ったのだろうか。

 

 やがて目も冴えてくる。外に複数の足音と話し声を聞き取ったオレは大きく一つあくびをし、頭をぽりぽりと掻きながら立ち上がる。少し寝癖は目立つが、この程度なら大丈夫だろう。

 

 声のした方へと向かうとそこには孫家一行と月華、高順、公孫賛の三人がいた。何か特別なことをしていたわけでもなくただ談笑しているようではあるが、オレはその場の光景を見た瞬間になんとも言葉では言い表せない悪寒を覚える。ひんやりと冷たい何かを肌に感じた。

 

「おお、左慈か。昨夜はよく眠れたか?」

「眠れたような眠れてないような。体の具合は大丈夫なのか?見たところピンピンしているが」

「ん?ああ、そうだな。そうだったな。体調は問題ない。良い話も聞いたし機嫌もすこぶる良い」

 

 確か孫堅は高熱を出したとかなんとか。嘘なのはわかっていたが少しは演じようとしろよ。

 

「それでなんだが……左慈よ。お前は昨夜のことをどの辺りまではっきりと覚えているんだ?」

「なんだいきなり?そうだな。孫権殿と甘寧殿とウチの連中で飲んで色々と話をしただろ。途中で乱痴気騒ぎもあったが酒の席のことだし気にしてないぞ。その後は各々適当に寝たんじゃ?」

 

 その答えが外れだということは場の空気ですぐにわかった。なんだか嫌な予感がする。

 

「高順。オレは何かやらかした?」

「某は甘寧殿と酒を酌み交わした末に酔い潰れてしまい、その後一切の記憶がありませぬ」

「私も高順殿と酒を酌み交わした末に酔い潰れてしまい、その後一切の記憶がありません」

 

 高順に尋ねてみるも答えは得られず。そのすぐ後に聞いてもいないのに甘寧も続けて答えた。

 

 まるで示し合せたかのような回答。というか嘘臭い。明らかにオレに対して気を遣っている二人の態度が一層危機感を煽る。口に出してはいけないような醜態を晒したんだろうか。

 

 不安を覚えてキョロキョロしていると孫権と目が合う。孫権はオレと目が合うと頬に手を当ててスッと視線を外した。その思わせぶりな態度をどう受け取るかで大いに悩む。孫権も昨夜はけっこうやらかしていた。そのことを恥じらっているのであれば構わないが、別件だとなんだか怖い。

 

「ならば公孫賛」

「なんでしょうか中郎将!」

「君は何か知っているだろうか。些細なことでもいい。なんでも心当たりがあれば言ってくれ」

「私はずっと寝てましたのでさっぱりです。気がついたら朝でした。何か起こったのですか?」

 

 公孫賛は何も知らないようだ。薄々はそんな気がしていたがとりあえずは聞いておいた。

 

 何か起こったのかはオレが知りたい。さてオレはどうするべきかと考える。何かをやらかしたのは濃厚。だが誰も答えようとはしない。そしてオレは昔からあまり酒癖がよくはない。

 

 焔耶と二人で旅をしている時も酒に酔ってはセクハラに精を出していた。官職に就いてからは何処で誰が聞いているかわかったものではないこともあり、酒の席では自分の許容量を越えることなく適度に飲む事を心がけていた。そんなわけでこれまで大きな失敗をしたことは一度もない。

 

 外では飲み過ぎない代わりに家ではけっこうハメを外して飲むこともあった。焔耶はいつも「仕方がないやつだな」と言って笑って許してくれた。それこそちょくちょく記憶が抜けることもあったが、まさか暴れたりなんてしていないだろう。笑って流せる程度の小さな悪戯のはずだ。

 

 なら問題ない。それにオレはどれだけ酔っていても嫌がる相手にそんなことはしない。無意識でもきっちりブレーキが掛かるはずだ。なら大丈夫だ。悪い方にばかり考えるのもよくはない。

 

「私は尋ねられましたら御答え致しますよ?御三方とは違い無関係ではありませんので」

「君も関与しているのか……」

「ええ、それはもう。孫堅さんとも明け方に大事な話し合いを致しました。気になります?」

「いや、特に気にならないな……」

「絶対気になりますよね。私もついポロッと話してしまいそうです。隠す様な事でもないので」

 

 いつものように柔らかく微笑む月華。だが今は猫被りではなく素で機嫌が良さそうだ。

 

 そしてオレは月華の含みのある言葉を聞いた瞬間、この話はもう止めにしようと心に決める。誰も進んで言い出さないのであれば、もういいじゃないか。次回から気をつけることにしよう。

 

「時に月華よ。君に休日出勤を命じていたが、それを全て取り消そう。普段通りに休んでくれ」

「もう一声下さい!」

「……君は実によく頑張ってくれている。来週は追加で一日休んでいいよ。いつも御苦労さま」

「はい!左慈様のそういうところも大好きです!私は口が堅いので今は安心して下さいね!」

「あ、ありがとう。とても嬉しいよ……」

 

 自分の仕える主君を脅しておいて良い笑顔をするものだ。そしてオレは本当になにしたんだ。

 

 二日酔いのせいか。それともそれ以外の何かが原因か。頭痛がする。全く蘇らない夜の記憶がオレを酷く不安にさせる。大事な話し合いとは一体。オレ抜きで話し合うことなんてあるのか。

 

 とても気になるが、聞けば何かが決定的に定まってしまいそうな予感もする。だから今はいいや。孫堅も大事な話とやらを言ってはこないしオレも聞かない。今日はここまま仕事へ行って、帰ったら早く寝ようと思う。寝て起きて翌日も元気に一日を頑張ろうと思う。

 

「左慈様!」

「そ、孫権殿。昨日は楽しかったね」

「はい。それはもう……楽しい宴でありました。それと私のことはどうか蓮華とお呼び下さい」

「蓮華か。やっぱり綺麗な真名だな」

 

 真名は嬉しいけどこのタイミングで預けられると色々と勘繰ってしまいそうになる。

 

 たまたまなんだよな。オレが眠ってしまったから今になっただけなんだよな。それでも月華が孫堅と話すってことはつまり、と頭に過ぎってしまうが考え過ぎだと思いたい。

 

「あ、ありがとうございます。本当に嬉しいです。これからしばらく離れ離れになってしまいますが……その。廬江郡へ行った後でも……私は左慈様へ文をお書きしてもよろしいでしょうか?」

「ああ、勿論歓迎するよ。オレも仕事があるけど、なるべく早く返事を返すようにするね」

「は、はい!次にお逢いする時までには、今よりもっと素敵な女になってみせますので……」

 

 次って何時だろうか。

 

 黄巾の乱。反董卓連合。赤壁の戦い。色々と候補が頭に浮かぶも何処も戦場だな。その後にニヤニヤとしながら孫堅がやってきた。ホントに機嫌が良いな。オレは謎なことだらけだ。

 

「オレもお前になら真名を預けても構わないが、今回は蓮華だけにしておく方がいいだろう。昨日言っていた大事な話もオレの真名も次に回しておくとしよう。是非楽しみにしておいてくれ」

「……楽しみにしておくよ。そうだ孫堅。一つ聞いておいて欲しいことがある」

「どうかしたか?酒を用意したのは確かにオレだがそれを飲んだのはお前だろ。文句は…………」

 

 本当に謎なことだらけで頭が痛いが、それとは別件で孫堅には忠告しておくべきだろう。

 

 孫堅と孫策は反董卓連合から赤壁の戦いまでの間に死ぬ。病死であるならどうしようもないが、戦場であれば防げる可能性はある。孫堅が生き延びれば孫策も生き残る可能性は大いにある。

 

 忠告。いや、これはオレに対しても全く同じことが言える。人は死ぬ時はあっさりと死ぬ。オレのような弱者であっても孫堅のような強者であってもそれに違いはない。だからこそ生き残る備えは互いにしておくべきだろう。オレの忠告が何かの役に立てばいいが。

 

「この先世は大いに乱れる。既にその兆候は感じ取っているはずだ。オレであっても貴女であっても死ぬ時は死ぬ。有事の際は些細なことでも一報寄越してくれれば、出来る限りは力になろう」

「……ああ、わかった。オレも力になると約束しよう。孫を抱くまでは死んでられんしな」

 

 その後、孫堅は正式に廬江郡太守を叙任され、やがて孫一行を引き連れて都を去って行った。

 

 オレも孫堅もこの先、生き残ることが出来るのだろうかと考える。そして何進にも生き残る道はあるのだろうか。みんながみんな生き残る平和な世なんてあり得るのだろうか。

 

 多くの屍の上に成り立つのが平和。オレはこの世界を生きていくうち、その現実を嫌というほど身に染みて理解していた。その上で自分や自分の知人だけが都合良く生き残る平和な世を望むにはどうすればいいのだろうと考えるも、結局その答えに辿り着くことはなかった。

 




次話から何進と焔耶の三話。それから黄巾の乱の予定です。

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