屋敷でのことを掻い摘んで焔耶に話した。
やはりというか焔耶は気が乗らないようだ。何進のことは知らないし、まだ旅を続けたい。仕官するにしても自分が認めた人物がいいとのこと。まったくもってその通りだ。そしてそう答えられることも予想がついていた。
だが旅はいつまでも続けられるものでもない。いずれ終わりを迎えることになる。そしてそう都合良く終われるようなものでもない。
黄巾の乱が起これば旅なんてしている場合ではないだろう。それを乗り越えたとしても焔耶は魏延である。いずれは劉備に仕えるはずだ。つまりは早いか遅いかの違いでしかない。そしてオレのような人間は焔耶のような猛将とは違い、機というものを逃してばかりはいられない。
今のタイミングは決してベストとはいえないだろう。もっと長く旅を続けたいという気持ちだってあるし、こんな早期のうちに何進に仕えて大丈夫なのかと心配に思うこともある。だがまあ、悪くもない。これを逃してそこそこの役割につけるという保証もない。ならやるしかないのだろう。
「焔耶。君のことは君が決めるといい。できれば一緒にやりたいが、無理強いはしない」
何進が郎中に立てられ、妹さんが後宮へ入るとオレは金策に奔った。
金はいくらあっても困ることはない。集められるだけ集めるべきだ。そして使うべく時はケチケチせずに大きく使うのがいい。それが今できる最善の方法だと考えた。不慮の事態に備える際には、やはり金が一番物を言う。
それと並行して物書きを始めとした勉学も自己流で学んだ。歴史のことを学んでいるといくらか見えてくるものもある。どうして庶民である妹さんが皇后になれたのか。美貌や知略だけでは難しい。やはり相応の理由があるはずだと。そして暫定的ではあるが、その答えもでた。
「なあ左慈。最近は……その。あんまり村や町で食料を配ったりしてなくないか?」
「今はそんなことをしている場合じゃないんだ。元々気晴らしで始めたことだし、配るのは余裕がある時でいいだろ」
「そ、そうか。そうだよな……」
焔耶は寂しそうだった。
それに気づいていながらもオレはなにもしなかった。今はやるべきことが無数にあったし、後になって後悔するようなことは絶対に避けたいと。あるいはもう、頭の中には焔耶が抜けた後のことがあったのかもしれない。
ある日のことだった。
「ワタシはやっぱり何進って人のところに行くつもりはない」
焔耶がそう言った時に特別響くものはなかった。既にわかりきっていたことであったし、むしろもっと早く言い出すものとさえ考えていた。
「そうかわかった。これからはどうするんだ?」
「一人になるけど、旅を続けようと思う」
「そうなるか。もし荊州方面に行くんだったら一つ頼まれてほしいことがあるんだが、いいか?」
残念だが仕方ないだろう。
確か焔耶の出身は荊州だという話を聞いた気がする。なら荊州へ向かうのだろうか。ちょうどそっち方面に仕事を頼まれていたから道すがら、引き受けてくれると助かる。
「あまり実りの良い仕事とは言えないが、向こうの人間と顔を繋ぐためには必要なことなんだ。路銀の足しにもなるだろうし、これは信頼できる人にと考えていたから、君になら…………」
「…………っ!」
大きな音が響いたと思ったら頬が熱くなった。
平手打ちされたと気づくのに数秒かかった。そして焔耶が泣いているのに気づくのにさらに数秒かかった。そして叩かれた痛みよりもずっと、驚きのほうが大きかった。
「どうしてお前はそうなんだ!どうして引き止めようとしない!」
「そんなことしても無駄だろう。引き止めたところで一度決めたことは覆らないだろう?」
「……出会った頃のお前はそうじゃなかった。今よりもっと笑ってたし、もっと人のことを考えていたし、もっとワタシのことだって……」
昔と今は大きく違う。
出会った頃はこの世界のことなんて碌に理解していなかったし、死んでも元の世界に戻るだろうと考えていた。やることだってなかったから自由気ままにやっていた。
だが今は違う。何進に仕えるからには準備段階でさえ万全を期す必要がある。そうしないとひどく不安だった。いくらか鍛錬も積んだがまるで芽が出ない。せいぜい一般の兵士と互角がいいとこだろう。複数人相手じゃまず勝ち目がない。
そんなオレには悠長に構えている余裕なんてなかった。
「今と昔は違うんだ。そしてオレは焔耶ほど強くはない。多少意地汚かろうがやらなきゃならんこともある。別にわかってくれとは言わんが、そういうもんなんだ」
「ワタシは馬鹿だから左慈の話の半分もわからない。それでもやっぱり嫌なことは嫌なんだ」
「嫌なことなんてこの先いくらでもある。その度に癇癪を起していたらキリがないぞ」
本気で叩いてないことはわかる。
焔耶が本気で叩いていたら、こうして立ってはいられないだろう。そして気に入らないと思っていることもわかる。最近のオレの行いは決して褒められたものじゃない。
賄賂に癒着。身分の低い商人が周りに認められるには必要なことである。宥め賺し、甘い言葉をかけては相手を持ち上げる。傍から見れば馬鹿らしいだろう。だが必要なことだ。そして必要なことだからこそやっている。
「……殴って悪かった。でもワタシはやっぱりそんな左慈は嫌だ。ごめん……」
そう言って焔耶は部屋を後にした。
後味の悪い空気が部屋を支配する。熱を帯びた頬を撫でるとひどく情けない気分になった。別に間違ったことをしたとは思っていない。だがオレが悪いのだろう。だからと言って他に掛けるべき言葉があるのかと考えても思いつかなかった。
何進に対して機微に疎いだのと考えていたがオレも大概だろう。
今だって焔耶が気に入らないと思っていることはわかっても、なら自分はどうすれば良かったのかということがまるで見当がつかなかった。嫌味らしいことを言ったつもりもなかったし、気持ち良く送り出すつもりでいた。
焔耶と出会った頃の自分はどうだっただろうか。特別今と変わったところはない気がする。もしくは自分がそう思っているだけで、大きく変わってしまったのかもしれないが。
「あら左慈じゃないの。とても浮かない顔をしているけど、なにかあったのかしら?」
誰かに声をかけられた時に自分が何処にいるのかわからなかった。
我に返って周囲を見渡してようやく気づく。どうやら自分が思っていた以上に参っていたようだ。なんとも情けない限りだな。
「ああ、君はいつかの。別に大したことじゃない。少し上手くいかないことがあったんだ」
「そう。最近はかなり手広くやっているって耳にしたけど、上手くいってないのかしら?」
「君は耳が早いんだな。そっちはまあ、それなりにぼちぼちやってるよ」
「でしょうね。内は後宮に入った何進の異母妹とやらに外は貴方。内外で手段を問わず、実に上手くやっていると聞いたわ」
本当に耳が早いな。さながら物知り博士か。
髑髏の少女の言葉を信じるなら妹さんも上手くやっているようだ。流石に宮中の奥のことまでは情報が届かない。この子はなんで知っているんだろうか。まあ今はどうでもいいや。
「それで肝心の何進の話を聞かないけど、彼女はなにをしているのかしら?」
「何進のことは知らん。おそらく社会勉強中だろう。今はヘマさえしなきゃそれでいい」
「なるほどね。そっちは期待薄ってわけ。しかし貴方、本当に酷い顔をしているわね」
「……余計なお世話だ。用が無いならオレはいくぞ。悪いが今は暇というわけでもない」
他人に当たるのも馬鹿馬鹿しいが、苛々した気持ちが湧いてもくる。
上手く行っていたはずだったんだ。焔耶だって気持ち良く送ってやれば、何処かで再会した時にはまた昔話にでも花を咲かせられるだろうと。それがどうしてこうなった。まったく訳がわからん。オレはどうしていればよかったんだ。
「そう邪険にすることもないでしょうに。女のことは女に尋ねるのが解決への早い糸口だとは思わない?」
「まあそれは確かに。でも自分の恥を晒すようで気は乗らないが……」
「私に悩みを打ち明ける名誉を与えるわ。光栄に思いなさい。さあ存分に話すといいわ」
「まったく偉そうに。まあでもいいか。気晴らしにもなるだろう。実はだな……」
いくらか要点だけを髑髏の少女に話してみる。
何進に仕えることを旅仲間に話し、一緒にどうだと誘ってみたこと。自主性を尊重して強要はしなかったこと。金策に奔って慈善活動を休止したこと。後日誘いを断られたこと。それを承諾した後、旅の足しにもなるだろうと遣いを頼んだら叩かれたこと。頬が未だにジンジンすること。
こんなところだろうか。焔耶は何進と会ったことはなかったが、オレの話で名前ぐらいは知っていたはずだ。仕えると言った話はしていなかったしオレも予想外ではあったが、それに近い形を取る可能性も話していたので、そう急な話ということもないはずだ。
「特別貴方が悪いというわけではないけど、なんというか情に薄いわね。良い意味でも悪い意味でも商人らしいわ。利に目敏く情に薄い」
「別にそれが悪い事でもないだろう」
商人らしいか。確かにそうかもしれない。
人はその環境によって左右されるものだ。農民やってれば農民らしくなるし、職人やってれば職人らしくもなる。なら商人をやっていれば商人らしくなるのも必然だろう。
「ええ、そうね。でも金は所詮、道具でしかないの。道具に振り回されるような者は小者に過ぎない。ましてはそれが人の上に立つなんて考えている愚か者は長生きできないわ」
「だが富は要塞で貧苦は廃虚とも言うぞ」
「上手いこと言うわね。でも知己は一生の物よ。目先の利に囚われ過ぎて、それを失うのはあまりに馬鹿げているとは思わない?」
確かにその通りかもしれない。
ここ最近は焔耶が去って行くものだと勝手に決めつけ、いい加減に接していたかもしれない。することがあるからと言って酒場への誘いも断っていたし、呑気に旅をしていた頃のように話をすることも減っていた。
どうしてオレはそうしたのだろうか。最初は難しいだろうと思いながらも、焔耶が来てくれたらいいなと考えていたはずだ。これまでのようにワイワイ騒いで楽しくやれれば面白いだろうと。
逸る気持ちを覚えたのはいつからだろう。わからなかった。だが少し冷静になれば、こんなにも足りない自分に気づけるものなのか。
「……謝ってくるわ。今更あいつの考えが覆るかはわからんが、このままじゃ申し訳ないし」
「それがいいわ。頭が固くなる前に気づけてよかったじゃない。彼女もきっと同じようなことを思っているはずよ」
「そうだといいが……。ん?というか君に旅仲間が女だって話をいつしたっけな。なんだか始めから知っているような風だったし」
女のことは女に尋ねるのが解決へと糸口、とか言っていたような。
焔耶のことを以前に話したような気はしない。あるいは一緒に歩いているところでも見られたのかもしれない。別に隠していたなんてことはないし、ぜんぜん構いはしないことだが気になるな。
「貴方はもっと注目されているという自覚を持つべきかもしれないわね」
「注目……。そういえば、以前よりも人に見られているような気がしないでもないが」
別段、声をかけられる機会が増えたわけじゃないけどな。
「ま、今はそれでいいでしょう。貴方は私が興味を持った唯一の男と言ってもいいわ。お願いだからつまらない人間に成り下がるのだけはやめてね」
「いくらか大袈裟な気がしないでもないが、期待を裏切らないように頑張るよ。話を聞いてくれてありがとう。いくらか楽になったような気がする」
「それは重畳。じゃあね左慈。また、いずれ」
そう言い残すと少女は満足げに去って行った。
また名前を聞きそびれてしまったな。ずいぶんとためになる話をしてくれたし、今度会ったらちゃんと礼をしておかなければいけない。
街を歩いていると花屋が目に止まった。
この道はもう何十回も通っていたのに花屋があることなんて一度も目につかなかった。造りは古く、最近できたというわけでもなさそうだ。単にオレがそんなものに興味がなかったのだろう。
「……花か」
花はやがては枯れ散ってしまう。
そんなものになんの意味があるのだろうとずっと思っていた。だが今日は自然とそこへ足が伸びる。大の男が手ぶらで頭を下げるよりかはなんだ、花が一輪でも傍にあったほうがずっと見栄えがいいだろうと。もしかすると焔耶も喜んでくれるかもしれない。
結果として焔耶は許してくれた。それどころか何進には仕えないが、オレに着いて来てくれるとのこと。これには凄く喜んだ。こんなに嬉しいことなんて覚えている限りはなかった。
「そ、そうか!やっぱり花が利いたのか?オレはどうせ枯れるだろうから、正直どうかと思っていたんだけどよかった!」
「左慈の言葉と花をくれた気持ちが嬉しかったからだけど……。って、もう!良い雰囲気だったのに台無しじゃないか!左慈の馬鹿野郎!」
「しかし心が晴れやかだ。やっぱそうだな。心には常にゆとりを持つべきだよな……」
「ワタシの心はもう曇ったよ。さっきまであんなにドキドキしてたのに。もう……。はあ……」
花はやがて枯れてしまった。
それでもその気持ちは残るものだと焔耶は言った。そう思えることがオレにはとても尊いものに思えた。これからのことを考えるとやはり不安はあるが、焔耶がいてくれることがわかると、ずいぶんと気持ちが楽になったような気がする。
何進が虎賁中郎将になるとオレは招かれ、虎賁郎中となり何進の属官となる。
その後、何進が潁川太守に命じられるとオレは潁川郡丞としてそれに従い、何進に次ぐ次官として潁川郡へと向かうことになる。
後半端折った部分は焔耶視点の話を書く時に書きます。
次話は潁川郡の話。荒ぶる桂花の巻。