北東の要に車両が着いたのは、午後八時二十分を少し回った頃だった。
公園の北の端、雪に埋もれた土手の下に、それはあった。
苔むした石の祠が一つと、その周りを囲む低い石組み。祠には扉もなく、中には何も祀られていない。ただ、石組みの内側だけ雪が薄く、地面の黒がところどころ覗いていた。土の下で、何かがまだ熱を持っているかのように。
都内から集められたエージェントが十人ほど、既に周りに散って札を張っている。対策室の班が来るのを待っていたらしく、車両を見るなり何人かが小さく手を挙げた。
「始めます」
諫山冥は祠の前に膝をつき、石組みの四隅へ順に符を置いていく。
「神楽さん、弐村剣輔。周りをお願いします。群れが来るのは、たぶん北の土手を越えてからです」
「はい!」
土宮神楽が土手の方へ駆けていく。弐村剣輔は舞蹴を肩から下ろし、祠と土手の間、どちらにもすぐ動ける位置に立った。
符が置かれるたびに、石組みの上を細い光の線が走る。線は祠を中心に組み上がり、雪の下を潜って、南西の方角へと伸びていった。公園の杭の列へ繋がっているのだろう。
弐村剣輔は、その手元をしばらく見ていた。
術の良し悪しは、正直なところ分からない。ただ、線の組み方には見覚えがあった。
諫山黄泉が術を組む時と、同じ運びである。一本目の線を引く向きも、角で一度折り返す癖も、同じ現場で何度も見てきた。最初は黄泉個人の癖だと思っていたが、こうして諫山冥の手から同じ線が出てくるのを見れば、そうではないのだと分かる。個人ではなく、家に伝わる組み方なのだろう。
そして弐村剣輔は、この組み方を、ごく最近どこか別の場所でも見ている。
北の空気が、重くなった。
雪の降り方は変わらない。変わらないのに、肌に当たる冷たさだけが一段増す。土手の向こう、三郷の方角から、地鳴りのような低い音が近づいてきていた。
『本体、都県境を越えました。公園北東の入口まで、およそ五分』
無線から、二階堂桐の声が流れる。
「来たよ、剣ちゃん!先頭、C が十くらい!」
土手の上で、土宮神楽が叫んだ。
その時だった。
祠が、鳴った。
音ではない。地面の底から突き上げてきた何かが、石組みごと空気を揺らした。諫山冥が置いた符の一枚が、雪の上で黒く焦げて反り返る。
石組みの内側の雪が、一息に溶けた。
覗いた黒い土の下から、さらに黒いものが噴き上がる。煙のようでいて、煙ではない。形を持たないまま膨れ上がり、膨れ上がりながら、祠の屋根を内側から押し割った。
「……なぜ、今」
ごく小さな声だった。
一番近くにいた弐村剣輔にだけ、かろうじて届くほどの。
振り返った時には、諫山冥はもう両手を石組みに当てていた。光の線が、ちぎれかけたところから無理やり繋ぎ直されていく。
その横顔に、いつもの余裕はなかった。唇を引き結び、石組みを睨むその目は、弐村剣輔の方を一度も見ない。この人がこんな顔をするのを、弐村剣輔は初めて見た。
「弐村剣輔、本部に連絡を。北東の要の下で、封じが破れました。結び直すまで、十五分。それまで私は、ここから一歩も動けません」
「十五分って――」
「手を離せば、要が落ちます」
それで十分だった。
要が一つでも落ちれば、結界は崩れる。本体はあと五分で公園に入る。
北東の要に付いた三人の役目は、要を据えることだけではない。北東の入口まで来た本体を、結界の中へ追い込む最後の一押しも、ここの仕事だった。黄泉と現地のエージェントが引っ張ってきたものを、取りこぼさずに檻の中へ押し込む。三人でも、余裕があるとは言えない段取りである。
その三人のうち一人が、ここから一歩も動けなくなった。
残るのは二人。本体を追い込み、群れを止め、その上で、動けない諫山冥を守る。どう数えても、手が足りなかった。
周りには、都内から集められた黒服のエージェントが十人ほどいる。ただ、封じの下から出てきたものは、彼らに任せるにはあまりに重すぎた。カテゴリー B 相当の相手である。何人束になったところで、時間稼ぎにもならないだろう。
本体の追い込みも、同じことだった。道を塞ぎ、札を張り、通りやすい筋を一本に絞るところまでは、彼らにもできる。ただ、目の前まで来たカテゴリー A を、最後に檻の中へ押し込むとなれば話が違う。一歩間違えれば押し返されるのはこちらで、押し返された先にあるのは街である。それを黒服だけに任せるのは、さすがに無理があった。
だから彼らは、諫山冥の周りに散って石組みに手をかざし、要を支える術に霊力を注いでいる。それが、今の彼らにできる一番の仕事だった。
黒いものが、祠の残骸の上で形を結び始めていた。長い腕が何本も、雪の上を這うように伸びてくる。その一本が、膝をついたまま動けない諫山冥の方へと向かった。
弐村剣輔は、考えるより先に舞蹴を抜いていた。
撃鉄が落ちる。鞘の中で圧縮された空気が刀身を押し出し、抜き放たれた刃が腕の付け根を断つ。断たれた腕は雪に落ちる前に霧のように崩れ、崩れた端から、また新しい腕が生えてきた。
「……キリがねぇ」
土手の上では、土宮神楽が C の群れを相手に一人で線を張っている。本体が来れば、追い込みもあの子一人でやることになる。こちらへ回る余裕はない。
弐村剣輔は、襟元の無線を叩いた。
「本部!北東の要、封じが破れてデカいのが出てます!冥さんが要を押さえてて動けない!二人じゃ回りません!」
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その声を、小野寺凛は杭の列の前で聞いた。
『北東の要に異常反応。カテゴリー B 相当、なお上昇中。要の出力、低下しています』
二階堂桐の報告が、弐村剣輔の叫び声に重なる。
小野寺凛は、北東を見た。雪の向こうに公園の端は見えない。見えないが、そちらの空だけが、雲の底から黒く濁り始めていた。
本体はあと五分で公園に入る。
小野寺凛は内部担当である。本来なら、今ここで杭の列の内側へ入り、諫山黄泉の隣に立っていなければならない。
ただ、北東の要が落ちれば、結界そのものが崩れる。結界が崩れれば、滝夜叉姫を閉じ込める檻は消えて、本体はそのまま都内へ抜ける。その時、檻の中に一人で立っているのは諫山黄泉だ。
そして今、あの要で動けるのは二人だけだ。本体の追い込みと、群れと、動けない諫山冥の守り。三人でも余裕のなかった段取りを、二人で回せるはずがない。
ここで黄泉の隣に立っていても、要が落ちれば何の意味もない。
それに、あの要には諫山冥がいる。
「二階堂さん」
『はい』
「本体が入ったら、俺を待たずに閉じてくれ。外からなら、俺は後からでも入れる」
一拍の間があった。
『……了解しました』
返事は、それだけだった。
小野寺凛は、杭の列の向こうを見た。森の手前に、諫山黄泉が一人で立っている。こちらを振り返りもせず、北東の暗がりだけを見ていた。
「黄泉」
無線ではなく、声で呼んだ。
「耐えろ。すぐ戻る」
諫山黄泉は、振り返らなかった。
ただ、獅子王を握っていない方の手が、ひらりと一度だけ上がった。肩の傷を庇うように、少しだけ低い位置で。
それで十分だった。
小野寺凛は走り出した。
園内の道を車で回れば二十分かかる。だが、雪に埋もれた芝生と池の縁を突っ切れば、直線にして二キロもない。霊力を脚に回し、くるぶしまで沈む雪を蹴り飛ばしながら、小野寺凛は北東へと駆けた。
全速力だった。息を整えることも、足元を確かめることも考えなかった。凍った水たまりに一度足を取られ、それでも速度は落とさない。肺が焼けるように痛むのは、寒さのせいだけではなかった。
走る先、北東の空が重くなっていく。都県境を越えた本体の霊圧が、雪雲ごと地面を押し下げてくるようだった。
間に合え、と小野寺凛は思った。それ以外のことは、何も考えなかった。
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小野寺凛が北東の要に飛び込んだ時、祠の上の黒いものは、もう人の背丈の三倍ほどにまで膨れ上がっていた。
数えるのも嫌になる数の腕が、祠の残骸を中心に雪の上を這い回り、その半分が弐村剣輔へ、残りの半分が石組みに手を当てた諫山冥へと伸びていた。
弐村剣輔は、そのほとんどを一人で斬り落としていた。
舞蹴の撃鉄が落ちるたびに、刃が空気を裂いて走る。ただ、一振りごとに、弐村剣輔の顔から血の気が引いていくのが分かった。霊力を食う刀なのだ。ガス欠になる、と本人が言っていたのは誇張ではなかったらしい。
土手の上では、土宮神楽がまだ C の群れを押し返している。
そして、石組みの前。
諫山冥は、両手を要に当てたまま、一歩も動いていなかった。その周りでは、黒服のエージェント達が石組みに手をかざし、諫山冥の術に霊力を注ぎ続けている。それでも光の線は今にもちぎれそうに明滅していて、最後にそれを繋ぎ止めているのは、諫山冥の手だった。
「冥さん、あと何分です」
「……十分」
振り返らずに返ってきた声に、余裕はない。
「凛ちゃん!」
土手の上から、土宮神楽の声が降ってきた。
「来た!でも、あれ、止まりかけてる!」
小野寺凛は、土手の向こうを見た。
雪を割って、黒い巨体が近づいてくる。人の形をしているのかどうかも、この距離ではよく分からない。ただ、それが通ってきた跡だけは、雪の上に黒く残っていた。札で絞られた筋を辿り、北東の入口まで、あと百メートルもない。
その足が、入口の手前で鈍っていた。
道は一本に絞ってある。それでも、目の前にあるのが檻だと、あれには分かるのだろう。黄泉はもう中にいて、鼻先を飛ぶ者はいない。最後の一押しがなければ、あれは向きを変える。変えた先にあるのは、街である。
「剣輔、冥さんを頼む。腕は一本も通すな」
「……うっす!」
「神楽、横から叩け。俺が正面で気を引く」
「分かった!」
小野寺凛は、入口と要を結ぶ線の上に立った。本体と、動けない諫山冥との間である。ここに立てば、あれの目はまず自分に向く。
霊力を練り、雪の向こうの巨体へ叩きつける。届いたところで、大した傷にはならない。それでいい。欲しいのは、あれの注意だけだった。
黒い巨体が、こちらを向いた。
その横腹へ、土手から飛び降りた土宮神楽の舞蹴12号が走った。
空気の弾ける音と共に鞘から押し出された刃が、黒い横腹を浅く裂く。着地と同時に、間髪入れず同じ場所へ蹴りが叩き込まれた。
霊力を乗せた一撃でも、あの巨体を動かすほどの力はない。ただ、同じ場所を何度も打たれれば、あれは打たれる側から離れようとする。土宮神楽は刃を鞘へ戻すなり雪を蹴り、また同じ横腹へ跳ぶ。居合で裂き、蹴りで押す。二度、三度。打たれるたびに巨体は身を捩り、捩った分だけ、本体の足は入口の方へとずれていった。
正面には小野寺凛がいる。横からは土宮神楽が打ってくる。逃げ道として空いているのは、檻の口だけだった。
「凛ちゃん、右!」
「見えてる!」
本体の腕が、雪をすくい上げるように薙いでくる。小野寺凛は半歩下がってそれを躱し、躱した先からまた霊力を叩きつけた。狙うのは顔のあたりである。傷を負わせる必要はない。こちらを見させ続ければ、それでいい。
あれが小野寺凛を見ている間に、土宮神楽が横腹を打つ。土宮神楽に気を取られれば、今度は小野寺凛が正面から打つ。どちらか片方だけでは、あの巨体は向きを変えない。二人で交互に打ち続けて、ようやく一歩ずつ、檻の口へとずれていく。
一分が過ぎ、三分が過ぎた。
―――強い。相手の攻撃を避けて跳ぶたびに、着地した足が雪に、地面に深く沈むようになっている。それはつまり、相手の攻撃が的確になってきていることの証左だった。それでも、二人とも止まらなかった。止まった瞬間に、あれは向きを変える。
声を掛け合う回数が、少しずつ減っていった。
減ったのは、必要がなくなったからだ。小野寺凛が右へ外れれば、土宮神楽は左から跳ぶ。土宮神楽が着地で体勢を崩せば、小野寺凛がその分だけ前へ出て、あれの目を引き受ける。
同じ現場は何度も一緒に踏んできた。目配せがなくても、次にこの子がどこへ跳ぶのかくらいは分かる。
五分を回った頃、入口までは、あと十メートルほどになっていた。
その時、本体の腕が後ろへ振られた。
狙いは小野寺凛ではなかった。その後ろ、石組みに両手を当てた諫山冥である。檻の口に押し込まれながら、それでも、檻を支えている者が誰なのかは分かっていたのだろう。
諫山冥にも、見えてはいたはずだった。それでも、手を離さなかった。離せば、要が落ちる。
小野寺凛は、考えるより先に動いていた。
止める手段を選んでいる時間はない。腕の軌道の上へ、身体ごと割り込む。腕を受けるのではなく、腕の通り道に自分の身体を置くしかなかった。
衝撃は、左の脇腹から来た。
鈍い音が、身体の内側で鳴った。息が、肺ごと外へ押し出される。足が雪から離れ、小野寺凛は祠の脇の雪の中へ叩きつけられた。
視界が白く跳ねる。
息を吸おうとして、吸えない。吸おうとするたびに、脇腹の奥で何かがずれる。
折れたな、と頭のどこかが冷静に判断した。一本ではない。致命傷ではない。ただ、今夜のうちに治るような傷でもなかった。
振り向きざまの、掠めるような一撃でこれである。これから檻の中で、諫山黄泉はあれと一人で向き合う。
雪に倒れたまま、小野寺凛は入口の方を見た。
正面から気を引く者がいなくなった巨体が、ゆっくりと向きを変えかけている。檻の口から、街の方へ。
「剣ちゃん!」
土宮神楽が叫ぶより早く、弐村剣輔は要の前から駆け出していた。
冥さんを頼む、と言われた持ち場である。それでも、今ここであれが向きを変えれば、守るべき要ごと全てが無駄になる。弐村剣輔が離れた場所へ、黒服のエージェントの何人かが入れ替わるように回り込んだ。
撃鉄が落ちる。空気に押し出された舞蹴の刃が、向きを変えかけた巨体の顔の前を薙いだ。浅い。だが、あれの目をこちらへ引き戻すには十分だった。
「神楽ぁああああ!」
「分かってる!」
剣輔が吠える。再度、神楽は舞蹴を薙ぐ。本体から切り落とされる左腕。大金星の一閃。
正面に弐村剣輔、横から土宮神楽。さっきまで小野寺凛が立っていた場所を、弐村剣輔が埋めていた。
二人がかりで追い込まれた巨体が、悲鳴のような音を上げ、逃れるように檻の口を越えていく。その背中を追うように杭の列から淡い黒の光が立ち上がり、雪の中で一枚の壁になった。
『本体、結界内に進入。結界、閉鎖しました。内部、諫山黄泉一名』
二階堂桐の声が、耳元で告げた。
祠の上の黒いものが、その隙を見逃さなかった。太い腕が一本、雪に倒れた小野寺凛の上へと持ち上がる。
それが振り下ろされる前に、横から飛び込んできた影が、腕の付け根を斬り払った。
果たして、土宮神楽である。本体を押し込んだ後、一瞬も油断することなく雪の上を一直線に駆け戻ってきていた。舞蹴12号の居合に付け根を断ち切られた腕は軌道を逸れ、小野寺凛の頭のすぐ横の雪を深く抉る。
「凛ちゃんに、触るなぁっ!」
着地した土宮神楽が、間髪入れずに黒いものの胴へ蹴りを叩き込む。黒いものが、初めて悲鳴のような音を上げて仰け反った。
その隙を、駆け戻ってきた弐村剣輔は逃さなかった。がら空きになった胴の中心へ、最後の撃鉄が落ちる。舞蹴の刃が黒いものを下から上へと斜めに断ち割り、断たれた二つが、それぞれ霧のように崩れて雪の中へ消えていった。
祠の残骸の上に、もう何も残っていなかった。
残りの数分が過ぎ、石組みの上の光の線が、一本、また一本と落ち着いていった。最後の一本が静かに止まったところで、諫山冥はようやく石組みから手を離した。
十五分。最初に告げた時間から、一分も違わなかった。
「……要、保ちました」
無線へ告げるその声は、わずかに掠れていた。
『確認しました。北東の要、出力安定』
二階堂桐の声に、土宮神楽が一息つく。弐村剣輔は舞蹴を雪に突き立て、それにもたれるようにして荒い息を吐いた。
「凛ちゃん!凛ちゃん、大丈夫!?」
起き上がろうとするの小野寺凛のところへ、土宮神楽が駆け寄ってくる。その土宮神楽に、小野寺凛は手だけを上げて返した。声を出すと、脇腹に響く。
「……あなたは」
すぐ傍から、声がした。
諫山冥が、雪の上に膝をついたまま、小野寺凛を見ていた。
雪の夜は明るい。月のない空の下でも、積もった白が僅かな光を拾って、互いの顔くらいは見える。
ただ、前髪に隠れて、その表情はうかがい知れなかった。
「……あなたを、呼んでおりませんが」
「……呼ばれなくても行くって、言ったでしょう。……っ!」
息を吸うたびに、脇腹が軋む。それでも小野寺凛は、どうにか口の端を上げてみせた。
諫山冥は、すぐには何も言わなかった。
雪が一片、その睫毛に落ちて溶ける。
「……ええ」
それだけ言って、諫山冥は目を伏せた。
「存じていました」
弐村剣輔と諫山冥に肩を借りて、小野寺凛はどうにか上体を起こした。
起こしたところで、ずれた骨が脇腹の内側で軋む。このままでは、立ち上がることもできそうにない。
さしもの小野寺凛も、他人を庇って一撃を受けたその身で走り回れるほど化物ではない。だが、やりようはある。
小野寺凛は、歯を食いしばって脇腹に霊力を回した。頭がおかしくなるほどの激痛が走る。だが、動くためにはやらねばならない。
治すのではない。そんな器用な真似は、今の自分にはできない。折れた骨の周りに霊力を流し込み、骨の位置を調整して、鉄の輪を巻くように締め上げずれた骨を無理やり元の位置に押し込む。押し込んだら、そのまま固める。骨がこれ以上動かないようにするためだけの、荒療治だった。
肩を貸している二人にも、何をしているのかは伝わったのだろう。弐村剣輔が短く息を呑み、諫山冥の手が、ほんの少しだけ強く小野寺凛の腕を掴んだ。
激痛で視界が白く跳ねた。肩を掴まれるその感覚がなければ、意識を失っていたかも知れない。
骨は止まった。ただ、骨と一緒に潰れた周りの血管や肉まで、霊力で塞げるわけではない。息を吸うたびに、脇腹の奥で焼けた鉄を押し当てられるような痛みが走る。それでも、吸える。吸えれば、動ける。
小野寺凛は、二人の肩を借りたまま、自分のその二本の脚で立ち上がった。
南西の方角、公園の奥に、暗い光の壁が雪の中に立っている。その向こうで、時折、黒い何かが大きく揺れていた。
中にいるのは、諫山黄泉一人である。
「凛さん、それ……本当に大丈夫なんすか」
「凛ちゃん、今の絶対痛かったでしょ!骨、くっついたの?」
「……骨だけではないでしょう。内臓にまで、届いているのではありませんか」
三者三様の声が、ほとんど同時に飛んできた。
「くっついてはないよ。動かねぇように固めただけだ」
土宮神楽にそう返してから、小野寺凛は諫山冥の方を見た。
「内臓は大丈夫です。筋肉と皮が痛いだけなんで」
小野寺凛は、脇腹を押さえたまま答えた。
「我慢すれば動けます」
「いや、動けねぇっすよ。普通の人間は」
「……やっぱりおかしいよね、この人」
弐村剣輔と土宮神楽が、揃って呆れたような顔をする。
「……お前も大概だけどな」
ぼそりと、小野寺凛は呟いた。
前世で見た物語の中で、この子は肩を木の棒で貫かれたまま、それでも刀を振るっていた。あれを画面越しに見ていた身としては、おかしいと言われる筋合いはないと小野寺凛は独りごつ。
「え、何?」
「なんでもないよ」
小野寺凛は、二人の肩からそっと腕を外した。固めた骨が軋む。それでも、足は雪を踏みしめていた。
南西の光の壁を見る。
「待ってろよ、黄泉」
走り出そうとしたその背中に、声が掛かった。
「お待ちください」
諫山冥だった。
「その傷で中に入れば、どうなるか分かっているはずです。閉じた結界は、中の怨霊か、中の退魔師のどちらかが全滅するまで開きません。今のあなたが入ったところで――」
言葉が、そこで途切れた。
続けるべき理屈は、いくらでもあったはずだった。それなのに、喉の奥まで上がってきたのは、そのどれでもない言葉だった。
諫山冥は、口を閉じた。
自分が何を言おうとしたのか、諫山冥自身にも、すぐには分からなかった。
「すぐ戻ります」
小野寺凛は、振り返らずにそう言った。
くるぶしまで沈む雪を蹴り、固めた骨を軋ませながら、その背中が白い闇の中へ遠ざかっていく。
諫山冥は、伸ばしかけていた手を、雪の中でゆっくりと下ろした。