小野寺凛の背中が、降りしきる雪の向こうへ消えてから、しばらく、誰も口を開かなかった。
北東の要の周りでは、黒服のエージェント達が、怨霊の腕に払われた仲間を雪の上から起こしている。払われたのは三人。命に別状はないが、うち一人は、腕が肘から妙な方向へ曲がっていた。
「私、車まで運ぶの手伝ってくる」
最初に動いたのは、土宮神楽だった。
「お願いします、神楽さん」
「うん。冥さんも、ちゃんと休んでてくださいね。十五分もずっと手、離さなかったんだから」
言うだけ言って、土宮神楽は怪我人の肩を担ぎ、土手の向こうの車両へと歩いていく。その背中を、諫山冥はしばらく黙って見送っていた。
『小野寺凛、記名を確認。内部、二名』
二階堂桐の声が、無線に乗る。
走り出す前、小野寺凛は一度だけ、この要の石組みに手を触れていた。あの時に、名を記していったのだ。結界の入口は、ここから目と鼻の先である。
「……入りましたね」
諫山冥は、それだけ言った。
それから、結び直したばかりの要の前に、もう一度膝をつく。石組みの上の光の線を一本ずつ指でなぞり、緩んだところがないかを確かめていく。
土宮神楽の気遣いは、ありがたかった。ただ、この状況で休んでなどいられなかった。
其れを見ながら、弐村剣輔は少し離れた場所で舞蹴の鞘についた雪を払っていた。
鞘の撃鉄の周りには雪と一緒に怨霊の残滓がこびりついている。指で一つずつ掻き出しながら、弐村剣輔の意識は、いつの間にか崩れた祠の方へ向いていた。
焦げた符の下、暴発した封じの跡に、術の気配が残っている。
弐村剣輔には、そういうものが分かった。目で見るのではない。誰が組んだ術なのかが、肌で分かる。同じ家の人間が組んだ術は、似た匂いがする。同じ人間が組んだ術なら、なおさらだ。諫山黄泉にも一度、本気で驚かれたことがある。
封じの跡に残る気配は、今夜諫山冥が要に組んだ術と、同じ匂いをしていた。
驚きはなかった。
餓者髑髏の時にも、筑波の墓でも、既にみている。
土宮神楽は、まだ戻ってこない。黒服のエージェント達は、怪我人を運ぶか、要の周りに札を張り直すかで、誰もこちらを見ていなかった。
要の前に膝をついているのは、諫山冥一人である。
弐村剣輔は、そちらを見なかった。舞蹴の鞘に残った最後の雪を、指で弾き落としながら言った。
「仕掛け、暴発しちゃいましたね」
光の線をなぞっていた指が、止まった。
雪が、二人の間に音もなく降り続けている。
やがて、諫山冥が顔を上げた。
その目が、真っ直ぐに弐村剣輔を見た。今夜、この人がこちらを見たのは、これが初めてかもしれなかった。
そして、諫山冥は微笑んだ。
「ええ。古い封じの仕掛けは、放っておくと暴発するものです。報告書には、そう書いておきますね」
穏やかな声だった。
諫山冥は、それから自分の手元に目を落とした。雪の中で着けていた手袋の、指の付け根のあたりに、赤黒い染みが滲んでいる。小野寺凛の血を拭った時についたものだろう。
「もし仕掛けた者がいるなら」
染みを見つめたまま、諫山冥は続けた。
「今頃、ひどく後悔しているでしょうね」
弐村剣輔は、何も返せなかった。
認めたようにも聞こえた。何一つ認めていないようにも聞こえた。どちらに取るかは、聞いた側の勝手だと言われているようでもあった。
「……そうっすね」
それだけ言って、弐村剣輔は舞蹴を肩に担ぎ直した。
諫山冥はもう、要の方へ向き直っている。光の線をなぞる指は、先ほどと同じ速さで、同じ線を辿っていた。
「剣ちゃーん!冥さーん!」
土手の上から、土宮神楽の声が降ってきた。
底抜けに明るいその声。それが、その明るさが悲劇へのトリガーになると喰霊-零-の視聴者なら誰でも知っている。
だがこの瞬間も、その明るさがありがたかった。
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三人が北東の要から、そのすぐ脇にある結界の入口の前へ移ったのは、午後九時を少し回った頃だった。要の石組みは、入口から数歩のところにある。
要の方は、もう黒服のエージェント達だけで保てる。結界の外で群れの残りが来ないかを見張りつつ、中からの合図を待つ。それが、北東の組に残された仕事だった。
要の石組みの縁には、名が二つ、霊力で刻まれている。
一つ目は諫山黄泉、二つ目は小野寺凛。諫山黄泉が南の要で記した名も、三つの要は繋がっているから、ここにも同じように浮かんでいた。その隣、三つ目の場所は、まだ空いている。
中の様子は、外からは一切分からない。
雪の中に立つ壁は、夜よりもなお黒い。その表面が、時折、内側から押されたように大きく波打つ。それは見える。ただ、波打たせているのが何なのか、誰と戦っているのか、戦いがどちらに傾いているのかまでは、分からない。二階堂桐の分布図にも、壁の内側は何一つ映らなかった。
外に伝わるのは、霊具の音だけである。
対策室が配った、小さな鈴の形をした霊具がある。今夜の作戦に出ている者は、全員がそれを身に着けていた。中に入った者が自分の鈴に霊力を込めれば、結界越しにも、外にいる全員の鈴と、対策室に置かれた片割れが一斉に鳴る。
誰が鳴らしたのかは分からない。分かる必要もない。伝えるのは、中の状況だけだ。全員無事なら一回。誰か一人が欠けたなら二回。続けるのが無理なら三回。それを二十分に一度、中にいる誰かが鳴らす。中に入る前に、そう決めてあった。
結界が閉じてから、鈴は一度も鳴っていない。
「……ねえ、剣ちゃん。閉じたの、八時四十分くらいだったよね」
腰に下げた鈴に目を落としたまま、土宮神楽が言った。
「二十分に一回でしょ。だったら九時には鳴ってないとおかしいよ。もう過ぎてるのに」
「戦ってて手が離せねぇんだろ」
「黄泉だよ?戦いながら鳴らすくらい、片手で済ませるでしょ」
弐村剣輔は、それ以上言い返さなかった。簡単なことではないが、確かに諫山黄泉なら出来るだろう。
九時二十分。
二度目の合図の時刻も過ぎた。鈴は、やはり鳴らなかった。
諫山黄泉一人なら、戦いの最中で手が回らないということもあるだろう。だが、中には二人いる。二人ともが一度も鳴らさないとなると、話が違ってくる。
土宮神楽が、要の前で拳を握った。
「冥さん、私が入る」
「いけません」
答えは早かった。
「なんで!あと一人なら入れるんでしょ!」
「一人"なら"ではありません。あと、一人"だけ"です」
諫山冥は、石組みの空いた三つ目の場所に目を向けた。
「ですから、入るのは私です」
「でも――」
「結界は、まだ開いていません。中の退魔師が全滅していればとうに破れるはずです。ですがこの結界はびくともしていない。―――つまり、中では誰かがまだ戦っている。合図を鳴らす余裕もないほどに」
諫山冥は、黒い壁の方へ目を向けた。
「今、中に要るのは助けです。それも黄泉と彼の隣ですぐに動ける者が。……既にそれはご覧になったでしょう」
土宮神楽が、言葉に詰まった。
見ている。一緒に戦うのは初めてのはずなのに、目配せ一つなく噛み合っていた二人を。熟年の夫婦のように息ぴったり戦う二人を。
「それに、外にも人が要ります。群れの残りが来れば、また要を守らなければならない。その時に組むなら、私とあなたより、あなたと弐村剣輔の方がいい。今夜―――いえ、これまでで十分にそれは見せてもらいました」
土宮神楽は、唇を噛んだ。
言い返したいことは、山ほどあった。それでも、言い返せなかった。諫山冥の言うことに、穴が見つからなかったからだ。
諫山冥は、その頭にそっと手を伸ばし、髪に積もった雪を払った。
「大丈夫です。中に入って二人を確認したら、すぐに合図を送ります」
「……絶対ですよ」
「ええ」
弐村剣輔は、黙ってそのやり取りを見ていた。
神楽の髪から雪を払う指先は、ひどく優しかった。
おにぎりを受け取った時もそうだった。それが芝居だとは、弐村剣輔にはどうしても思えなかった。
三十分ほど前、同じ人が要の前で顔を上げ、自分を真っ直ぐに見て微笑んだ。もし仕掛けた者がいるなら、と言った。あの時の目が何を考えていたのか、弐村剣輔には今も分からない。
どちらも、同じ人だ。。
諫山冥は、要の前に膝をついた。
石組みの空いた場所に指先を当て、霊力で自分の名を記す。三つ目の名が刻まれた石組みが、一瞬だけ淡く光った。
『―――諫山冥、記名を確認。侵入を許可します』
二階堂桐の声が、無線に乗る。本部には承諾を得ず行ったことだ。だが、本部も同じ心配をしていたのだろう。
これで、もう誰も入れない。
諫山冥は振り返らなかった。黒い壁へ向かって歩き、その中へ、溶けるように消えていった。
雪だけが、降り続けていた。
一分が過ぎ、二分が過ぎる。土宮神楽は、要の前から一歩も離れようとしなかった。
五分が過ぎた時だった。
鈴が、鳴った。一度だけ。つまり、全員生存の合図。
土宮神楽の腰で、弐村剣輔の胸元で、要の周りに散った黒服達の懐で、同時に。澄んだ音だった。鈴を一度だけ振ったような、短い音。雪に吸われて、すぐに消える。
「……鳴った」
土宮神楽が、詰めていた息を吐いた。
「一回だよ、剣ちゃん!全員無事って!」
『合図、一回。全員無事を確認しました』
二階堂桐の声にも、心なしか安堵の色が混じっていた。同じく周りからも歓声があかる。
「冥さん、入ってすぐ鳴らしてくれたんだ。黄泉も凛ちゃんも無事なら、鳴らす暇がなかっただけだよね」
「……たぶんな」
弐村剣輔は、胸元の鈴を指先で押さえた。
鳴ったのは、冥が入ってからの一回きりだ。
そして、鈴はそれきり鳴ることはなかった。