結界の中は、思っていたよりも静かだった。
壁を一枚くぐっただけで、外の音が消える。黒服達の足音も、無線の雑音も、土宮神楽の声も。残ったのは、雪が降る音だけだった。
内側から見上げる壁は、外から見た時と同じく見える。水元公園は夜非常に暗い場所だが、今日の雪空のお陰で少しばかり明るく見える。
諫山冥は、薙刀を手に雪を踏んだ。
戦いの音は、どこからも聞こえない。
それが、最初の違和感だった。
舗装された歩道を歩き、森を抜けた先。開けた草原の上にそれは横たわっていた。
黒い巨体である。北東の入口で見た時には、雪を割って進んでいたもの。それが今は雪の上に崩れ、端から少しずつ霧になって溶けていっている。左の腕は、肩口から先がない。土宮神楽が切り落としたものだ。
滝夜叉姫は、倒れていた。
その傍らに、人影が二つある。
近くの岩に腰掛けている男と、雪の中に凛として佇む黒髪の女。
岩に腰掛けている方は、小野寺凛だった。左の脇腹を押さえ、防寒着のあちこちが裂けて、赤い染みがそこから広がっている。ただ、その傷は、北東の要で負った時から一つも増えていなかった。
そして、もう一人。
諫山黄泉は、獅子王を手に立っていた。
その黒髪に、うっすらと雪が積もっている。一歩も動かずに、ずっとそこに立ち続けていた証だった。防寒着に新しい裂け目はない。息も乱れていない。昼に対策室で見た時と、何一つ変わらなかった。
諫山冥は、その身体の奥にある霊力を測った。
減っていない。カテゴリー A を相手にした後とは、とても思えないほどに。
ありえない、と諫山冥は思った。
黄泉は強い。それは誰よりも、自分がよく知っている。それでも、カテゴリー A を一人で、無傷で、霊力すら削らずに倒すことなどできるはずがない。小野寺凛が加わったとしても同じだ。この男は、北東の要から真っ直ぐここへ来て、そこから一度も戦っていない。
「……これは、どういうことです?」
降りしきる雪の間を、諫山冥の声が進んでいく。
疑問と困惑。白とは無縁の感情を乗せた声が、雪の間を潜り抜けて、眼前の二人に届いた。
「見ての通りですよ、冥義姉さん」
黄泉は、獅子王の切っ先をゆっくりと持ち上げた。
「貴女の目の前には、獅子王を抜いて、貴女に向けようとしている女がいる。……ただ、それだけの話です」
答えになっていなかった。
滝夜叉姫を誰が倒したのか、黄泉は一言も触れない。触れる気もないのだと、その目が言っていた。
「何故、と聞きたそうな顔ですね。……剣輔君が気づいてくれたんですよ。貴女が仕組んだ、この一幕に」
諫山冥は、表情を動かさなかった。
勘のいい子だ、と思ったのは、ほんの四十分ほど前のことである。あの子は、確かめに来ていただけだったのだ。
そして、確かめるより先に、黄泉にはもう話してあったのだ。
「―――だから、こちらも仕組ませて貰いました」
鈴が鳴らなかった理由が、ようやく分かった。
鳴らせなかったのではない。鳴らさなかったのだ。中が無事だと伝えなければ、外はいずれ、三人目を中へ寄越す。そして三人目として入ってくるのが誰になるのか、黄泉には分かっていた。
諫山冥は、岩に腰掛けた男を見た。
「……全く、やってくれますね」
先に口を開いたのは、小野寺凛の方だった。ひどく掠れた声だった。
「北東の要に自分を置いたのも、あの暴発も。俺が走ってくるところまで、全部計算に入れてたんですね。……完全にしてやられましたよ。正直、屈辱だ」
いつもは飄々として、何を言われても軽口で返す男である。その男が、本気で悔しそうに、辛そうに顔を歪めていた。
脇腹の傷も、この寒さも。その激情の前では、何の意味も持たないようだった。
「剣輔が気づいてくれなきゃ、どうなってたことか。……神楽にも感謝しなきゃな。あの子がいなきゃ、俺はあそこで、アレに殺されてた」
違う、と叫びたかった。
脇腹を押さえて、血の染みた防寒着で、雪の上に倒れる彼をを見るつもりなど、どこにもなかった。
けれど、その言葉を口にすれば、何を認めることになるのか。それも、諫山冥には分かっていた。
だから、何も言わなかった。
喉の奥で行き場をなくした言葉は、雪のように冷えて、そのまま胸の底に沈んでいった。
「鈴を鳴らさなかったのは、俺もです」
小野寺凛は、黄泉の方へ一度だけ目を向けた。
「前に約束したんで」
そんな凛を見て、黄泉は優しく微笑んだ。それから、敵意を込めた目を、もう一度諫山冥へ向ける。
「……冥義姉さんが、私のことを快く思っていないことは知っています。養子でありながら、諫山を継ぐことになった私のことを」
かちゃり、と刀が鳴いた。
名刀、獅子王。諫山家に代々伝わる、千年の歴史を持つ宝刀。幾多の敵を斬り、無数の修羅場を、持ち主と共に潜り抜けてきた一振りである。
それが、ゆっくりと肩の高さまで上げられていく。
「でも、それを引き摺ったまま、諫山の名を背負っていくのは絶対にごめんです。だから―――」
一拍置いて、黄泉は紡いだ。
「―――勝負しましょう。私と、貴女で、諫山を賭けて」
二人の間にあったものを、はっきりと断ち切る言葉だった。
「賭けるのは、互いの命。
迷いも、逡巡も、躊躇いすらない。
息を吐くように、正気とは思えない言葉を、黄泉は紡いでいく。
「……黄泉。一体、何を言っているのです。そんなこと、許されるはずがないでしょう」
「その通りです、冥義姉さん。こんな馬鹿げたこと、普通は許されない」
獅子王の黒い刀身に、雪が降り積もっていく。
細い刀身に雪が積もるということは、持ち主が欠片も動かずに、その刃を構え続けているということだった。
「分かっているなら、尚更です。あまりにも馬鹿げている。……普通ではありません。気でも触れましたか」
それを分かった上で、諫山冥は一般論を紡いだ。
一般論は便利なものだ。正論に近く、相手の芯が定まっていない時には、有無を言わせぬ力を持つ。
だが、それは相手が並みである場合に限る。
「ええ。冥義姉さんの言う通りです。気が触れていると思われても、仕方がない。……普通じゃ、ない」
黄泉は、静かに頷いた。
「そう、普通じゃないんですよ、冥義姉さん。福島で目覚めたカテゴリー A が、都内まで降りてくる。都内のエージェントを総動員しても、まだ手が足りない。要の一つは暴発して、凛はあばらを折った。……そんな夜が、普通なわけがない」
それは、事実だった。
今夜の霊災は、対策室が始まって以来の規模である。茨城でも、福島でも、都内でも、今もまだ誰かが戦っている。死者が出ていないことの方が、むしろ奇跡に近い。
「そんな夜なんです。
たとえこの場で誰かが殺し合ったとしても、その事実は、今夜の異常に上書きされる。
「……ですが、ここには小野寺凛がいます。その誤魔化しは、利かないでしょう」
諫山冥は、そう返した。
人知れず死んでいたのならともかく、ここには目撃者がいる。怨霊に殺されたなどという嘘は、通らないはずだった。
「逆ですよ、冥義姉さん」
黄泉は、それを否定した。
「凛がいるからこそ、死体があっても怪しまれない。凛が怨霊の仕業だと証言すれば、私達のどちらが死んでも、諫山の確執で争ったことを疑われることはない」
第三者が見ている、ということは、ありのままの証言を引き出せるということでもある。同時に、嘘を本当に変える人間が一人増えるということでもあった。
そして小野寺凛は、まさにそのためにここにいる。
「……そういう、ことですか」
「ええ。そういうことです。凛はこの場で、一番フェアで、同時に一番アンフェアな人なんですよ」
諫山冥は、小さく息を吐いた。
小野寺凛は、黄泉と約束をしたのだという。
その内容は冥にはわからない。
ただ、どうせこんなものだろう。
―――二人の殺し合いを決して口外せず、勝ち残った方を支えること。
冥が勝てば、その事実を伏せたまま冥の諌山を支えること。黄泉が勝てば、今まで通り黄泉を支え、共に戦うこと。
どちらを贔屓することもなく、結果に対しては公平な審判として。過程と事実に対しては、詐欺師として。
「凛が約束を違える人ではないことは、冥義姉さんも知っているでしょう。この人は、私達を裏切らない。どんな結果になろうとも、私達のために最善を尽くしてくれる」
知っている。
諫山冥は、その男を、誰よりもよく知っているつもりだった。今夜、呼ばれもしないのに、北東の要まで走ってきた男である。
誰にも見られず、誰にも邪魔されない。正々堂々、一対一で信念をぶつけられる場所。これ以上の舞台は、この先二度と用意されないだろう。
「―――だから、つべこべ言わずに私と勝負しろ、諫山冥。お膳立ては十二分にしてやったんだ。これ以上お前は何を望むんだ?」
静かな声だった。怒鳴り声でもない。それでも、その声は確かに空気を震わせた。
諫山冥は、黒い壁へ目を向けた。
「……一つ、確かめておきます」
「どうぞ」
「滝夜叉姫が倒れた以上、この結界は、中からでも壊せるはずです」
「ええ。壊して出たければ、どうぞ」
黄泉は、あっさりと言った。
「外には神楽と剣輔君がいます。全部話して、全部終わりにすればいい。……貴女が、それで諫山を諦められるのなら」
諫山冥は、すぐには答えなかった。
懐に、手を入れる。
指先に、小さな鈴が触れた。
諫山冥は、鈴に霊力を込めた。
一度だけ。
澄んだ音が、雪の中で短く鳴って、黒い壁の向こうへ抜けていく。今頃、壁の向こうでは、土宮神楽が、対策室が、詰めていた息を吐いているのだろう。
鈴を懐に戻して、諫山冥は黄泉へ向き直った。
「外には、全員無事と伝えました」
薙刀の石突きが、雪を軽く打つ。
「―――嘘を、ついてしまいましたね」
冥が微笑む。いや、微笑みと呼ぶには、あまりに蠱惑的な顔だった。
黄泉が、初めて刀を構えた。
ただ突きつけていただけの切っ先が、刀を振るうための形に変わる。敵意を示すためのものから、相手を斬るためのものへ。
分水嶺は、とうに越えていた。
「―――構えろ、諫山冥」
降りしきる雪よりも冷たい声だった。
「お前が諫山足らぬことを。そして、私こそが諫山であることを」
獅子王の刃が、雪明かりを弾く。
「―――私の刀で、教えてやる」