私とえりちはいつもの下校道を歩いていた。
二月の空気はピンと張り詰めて、私達のローファーがコンクリートに擦れるかわいた音が響く。冷たい風はスカートに素足の女子高生にだって遠慮もせずに吹きつけて、私は抵抗するように手袋をした手をキュッと握った。
「今日も寒いわね。早く春が来ればいいのに」
えりちはそう言って眉をひそめる。白く吐いた息はすぐに風に飛ばされた。
私は反射的に「ロシアの方が寒いんやない?」と尋ねたくなったけどすぐに思い留まって苦笑した。この三年間、私はえりちにこの質問を何度しただろう。
音ノ木坂から淡路坂下の交差点まで、私達はこの道を何度も歩いた。
たった10分程の、都会の合間のなんの風情も変哲もないこの下校道を、晴れの日も雨の日も雪の日も、私達は歩いた。
「……それでね。にこったらおかしいのよ」
えりちは口に手を当てながらくすくす笑って、それに合わせてポニーテールもゆらゆら揺れる。私は隣で見るこのえりちの横顔が好きだ。えりちのブロンドの髪は灰色の街によく映える。白い肌は冬空の下だといつも以上に透明で、まるで冬の妖精みたい。
「希? どうしたの? ポカンとして」
えりちが私の顔を心配そうに覗く。
「え? いや、なんでもないよ」
えりちは「そう?」とまた正面に向き直る。三年間私が見てきたその横顔は、今が一番柔らかく、優しく見える。私と同じように不器用だったえりちは、私と同じようにμ'sに出会って変わった。
「もうすぐ卒業ね」
「そうやね」
この道を二人一緒に歩く事が、あと何回あるだろう。
今日もあと数十メートルも歩けばいつもの交差点に着いて、私達はそこで別れる。
「こうして希と一緒に下校する事もなくなるのね」
小さなため息と一緒にえりちは感傷的に呟く。残念そうではあるけれど、それを悲しむような様子はない。
いつからだろう。
「おはよう」から「また明日」までの楽しさより、
「また明日」から「おはよう」までの寂しさの方が大きくなったのは。
感情を遡るとその変化はグラデーションの様で、まるで最初に出会った時からそうだったような錯覚をしてしまう。
「……それは少し寂しいかも」
えりちは寒そうに体を震わせると、コートの袖を引っ張って手を半分ほど隠した。
「少しだけ?」
えりちの言葉になぜか私の心はいつもより敏感に反応した。
この冬空のせいか、卒業が近いせいか。でも本当はそんな事は全然関係なくて、私の募った想いがただ限界を越えちゃっただけなのかもしれない。
「え?」
「亜里沙ちゃんがうらやましい」
私らしくないと思った。だけど気付いたら口に出ていた。
えりちは何の事だか分からないと言った様子で首を捻る。
「……卒業しても一緒にいられるんやもん」
私は少しじゃない、すごく寂しい。
もっとえりちと一緒にいたい。
「何言ってるの。卒業したって私達だって一緒じゃない」
「違うよ」
私は一人立ち止まって、二歩ぶん先にいるえりちの背中に訴える。
きっと泣きそうな顔をしていたと思う。
たった数分後の別れだってこんなに寂しいのに、卒業した後なんて考えられない。
冬の妖精は、春とともにどこかに消えてしまうかもしれない。
「希……」
振り返ったえりちは困った顔をしていた。
人を困らせ慣れていない私にはそれが怖くて、でも目は逸らしたくなくて必死で堪えた。
えりちの青い瞳が私をじっと見つめる。
やがて、えりちはフッと表情を崩すと笑顔で私に歩み寄って、その手を私の頭に置いた。
手袋のポフッという柔らかい感触がちょっとだけ私の心を溶かす。
「子供みたいな事言うのね」
「たまにはそういう事だってあるよ」
えりちが子供を諭すように言うから、私は照れ臭くてぶっきらぼうに答えた。
「姉妹だからってずっと一緒にいられるわけじゃないのよ」
「分かってるんやけど……」
えりちの言う通り、私は子供みたいな駄々をこねただけ。えりちが私ほど寂しがってないのが悔しくて、そんなの当たり前の事なのに。
えりちは私の頭を撫でるように手を降ろした。
「一緒にいたいと思える人がいるって幸せなことかもね」
自分がその対象になっている事を分かっているだろうに、えりちはまるで人ごとのように言った。私は突き放されたような気持ちになって唇を噛む。
何が幸せなんだろう、叶わないならそれは不幸せでしかないよ。
「……でも一緒にいたいって、そう思ってもらえる私はもっと幸せかもしれない」
えりちは、私がよくえりちにそうした様になんでもお見通しって顔をした。私はそれをどう捉えていいか分からずに俯いて目を逸らす。
胸の奥がギュッと締め付けられるけど、これはえりちのせいじゃない。
えりちにこんな想いを抱いてしまった私のせい。
「ウチだって……幸せになりたい」
不器用な私の精一杯の抵抗。
全部分かってる。
私とえりちは友達。一緒に過ごす時間が減ってしまっても、こうして帰りに一緒に歩けなくなっても、私達の関係はずっと変わらない。μ'sのみんなともそうであるように、きっと。
だから、こんな事を言うのは今日が最初で最後。
「もう、なってるかも」
えりちの言葉に私が頭を上げると、えりちは意味ありげに微笑んでくるりと私に背を向けた。ポニーテールが横にふわっと優しく揺れる。
私はその背中を慌てて追いかけて、えりちの横に並ぶ。
「えりち……?」
私より少しだけ背の高いえりち。今度はその横顔がなんだかすごく大人びて見えた。
そんな私は、この時もやっぱり子供みたいな顔をしていたと思う。不安と期待が綯い交ぜになって、でも期待し過ぎたくはなくて。
えりちの表情はいつもと変わらず涼しげで柔らかい。やがてえりちは記憶を辿るように空を見上げながら言った。
「自分と同じような人……だっけ? 似てるんでしょ? 私と希」
私と同じように、えりちも?
核心を突かない言葉はやっぱりえりちも不器用だから?
さっきまでの不安が一瞬で昇華して、私の顔は思わず熱くなる。
「……だから卒業したって一緒」
すぐ先の交差点の信号が青になって、車が次々と通り過ぎる中を私達は黙って歩いた。車の起こした風が車道から歩道へと流れて、体温の上がった私の体をヒヤリとさせる。
「うん、一緒やったみたい」
車が通り過ぎると私はポツリと言った。
「あ、赤くなってる」
えりちが私の顔を覗き込んで微笑む。
私は慌てて顔を両手で抑えた。
「冗談」
指の間から見えたえりちは、少しだけ舌を出していたずらっぽく笑っていた。
「もう! えりちのいじわる!」
私はえりちに肩からトンとぶつかる。えりちは驚いていたけれどまだ笑顔のまま。私はなんだか悔しかったけど、その顔が余りに微笑ましかったから結局釣られて笑ってしまった。
もうあと20歩も歩けばいつもの交差点。
今日も私達はそこでお別れ。
あそこまで歩いたら私達はどちらともなく、いつものように言うだろう。
「じゃあ、また明日」
だけどもう、きっと寂しくないと思う。
私の中にえりちがいるように、えりちの中にも私がいると分かったから。