瑞鶴は数日ぶりにドッグの外の風を全身で感じることが出来た。
朝日が昇り、晴天とはいかなかったが見上げた空は海のように蒼い。お世話になったドッグの人たちに見送られて空母寮を目指す。目指すといっても第一入渠ドッグからは目と鼻の先なので直ぐに寮の扉にたどり着いた。
空母寮は焦げ茶色の木製ドアと真っ白に塗装された4階建て建築の小洒落た外見をした大きな寮だ。実は艦娘寮が建てられる以前はもっと無骨な寮であったらしいのだが、女の子である艦娘にせめて戦闘で摩耗した心を癒して貰いたいと思った各鎮守府の提督が陳情して現代的な美しい内外装の洋式建築の寮にしたらしい。しかも、和式を好む艦娘には自室の内装を和式にしてもらえるサービスまである。故に殆どの艦娘は艦娘寮を気に入っている。無論、瑞鶴も例外ではなく気に入っていた。
三階にある自室に向かおうと木の階段を登ろうとした時、ふと瑞鶴が階段を見上げると見知った艦娘の後ろ姿が目に留まった。その艦娘は階段の踊り場で腕を組みながら苛立たし気に片足を小刻みに揺らしている。現在は早朝であるし、艦娘の殆どは訓練や任務へ赴くための仕度をしている時間帯だ。空母に至っては夜間任務をこなす事などないため朝のこの時間は基本的に自室に籠っていて、空母寮は静寂に包まれているのが日常だ。
と、なれば踊り場にいる艦娘はなにか私用があるに違いなかった。
何となく声をかけようかかけまいか迷っていた時、小さく囁くような声が瑞鶴の鼓膜を揺らす。その声は騒音のない空母寮の階段に響いてはっきりと聞き取れる。
「あーもう。遅いなぁ。もしかしてウチが早すぎたんやろか・・・」
その艦娘は踊り場で2階を見上げながらあーでもないこーでもないと繰り返す。
「それとも、もう寮に戻ってるとか・・・。それやったら最悪や。んんんー。どうしよ。見にいこっかなぁ。でも見に行ってる間に来て入れ違いなったら困るし・・・。あかん、もう我慢でけへん!迎えに行って居なかったらそん時考えればええんや」
待ち人来ずといった様子で長い間ぶつぶつと呟いていた艦娘は結論を出せたのか瑞鶴の方へと振り返った。そして唐突に瑞鶴を指刺して一言。
「って来てるやん!」
と、艦娘は静寂を切り裂く大声を張り上げた。その声の主は龍驤という艦娘だった。
特徴的なしゃべり方をしていて、身長が低く平地に並べば瑞鶴の胸辺りまでしかない。知らない人にとっては空母寮に駆逐艦が何故いるのか、と思われそうな幼い見た目をしているが龍驤はれっきとした空母である。しかも瑞鶴よりも先輩であり式神で艦載機を飛ばす方法を見つけた艦娘でもある。
ちなみに瑞鶴は鳳翔という艦娘が編み出した、弓で艦載機を操る手法をとっていた。これは鳳翔式と呼ばれ、一航戦や二航戦も行っている。龍驤の式神で艦載機を操る手法は龍驤式と呼ばれていて、こちらは雲龍型等の艦娘に受け継がれいる。
「も~、随分待ったで。30分くらい待ったわ」
聞いて瑞鶴は怪訝に思う。龍驤と待ち合わせる約束なんてした記憶がない。龍驤と最後にあったのは数日前にドッグにお見舞いに来てくれた時だった。仮にその時に約束していたのなら今より心身が消耗していたとはいえ意識はハッキリしていたから忘れるはずはなかった。
「えっと龍驤。私会う約束したっけ?」
「してへん。してへんけど待ってた」
龍驤は階段を降りながら言う。
「ほら、今日退院やって聞いてたから出迎えようと思って待ってたんよ」
なるほど、と瑞鶴は思う。龍驤は色んな艦娘からの相談事を快く聞いている姿をよく見かけることがある。龍驤は優しいのだ。とても慕われていると瑞鶴は感じていた。無論、瑞鶴も慕っていて相談事もしたことがあった。そんな彼女なのだから、こうして出迎えしてくれることに納得する。
「ありがとう。でも仕度は良いの?今日って休養日?」
「休養日や。瑞鶴のために休養日にしたで。だから鳳翔さんとこ行こう」
「ええ、朝から?」
「朝からや!鳳翔さんに開けてもらうように頼んどいたでー」
龍驤はにっこりと笑顔を見せた。鳳翔さんのところ、というのは空母寮にある鳳翔の寮部屋ではなく鳳翔が鎮守府内で開く居酒屋のことである。美味しい料理が食べられるとあって鳳翔さんの居酒屋のある舎は艦娘達で賑わう。しかし、普段は自由時間である夜間に開店するため、早朝に開けるのは特別な時だけであった。
龍驤が何を考えて鳳翔に頼んだのかを瑞鶴はなんとなく察する。
「そっか。なら行こう。ドッグの食べ物も悪くないけど鳳翔さんの料理の方が好きだから楽しみにしてたんだよね。ドッグに入ってると全然外出できなくて辛かったし嬉しいかも」
「そうやろそうやろ~。だ・か・ら、今すぐ行くで!」
「ちょ、ちょっと待って。服ぐらい着替えさせてよ」
「あかん」
「何でよ?」
「何でもや」
どうやらどうしても今すぐ行きたいらしい龍驤は瑞鶴の手をとってずんずんと歩く。普段なら抵抗くらいするのだが、あまり抵抗する気力がわかず結局成すがままで龍驤についていくことにした。
鳳翔居酒屋とは艦娘ご用達の食事処である。
勿論、鎮守府にはバイキング形式の食堂があって朝、昼、夜の軽3回の食事を食べることが出来る。味も美味しく、大湊鎮守府の食堂は豪華な料理が度々登場する。だから不満はない。では何故、鳳翔居酒屋が流行るのか、と言われればやはり色んな艦娘と一緒に酒と美味しい食事を食べられるところに要因があった。実は食堂で飲酒することは禁じられていて、酒を飲む艦娘は自室で飲むしかない。だからこそ皆で飲める鳳翔居酒屋は憩いの場となって連日賑わうのだ。
鳳翔居酒屋は提督室のある舎の一階の隅に設けられている。瑞鶴と龍驤が訪れた時にはもう既に開店していて木枠で支えられたガラス張りの引き戸から柔らかい笑顔浮かべる鳳翔と目が合った。最後に店に入店した時のことを思い出しそうになるが、心の中にしまい込む。人前で翔鶴の事を考えたくはなかったからだ。
龍驤の快活な声が店に響く。
「おはよ~」
「二人ともいらっしゃい」
「お邪魔します」
瑞鶴は龍驤に引っ張られてカウンターの席に座る。丁度鳳翔が調理をする場所の目の前の席だ。黄色い騒音の無い店内はいつもと違いどことなく落ち着かない気持ちになった。
「さあさあ、朝やけど飲むで~。瑞鶴も飲むやろ?」
「どうしよ。実は後で大淀さんのところに行かないといけないのよね」
「あ、もしかして配属の話かしら?」
と鳳翔が言う。まさか知っているとは思わなかったが、空母寮の管理も任されている鳳翔なのだからありえない話ではなかった。
「そうです。いきなり配属先が変わって、しかも嚮導艦っぽくって一応早く把握しておかないといけないと思ってるんです」
「ええ、嚮導艦なんや。まあ、酔いつぶれたら一緒に聞きに行ったるから今は心配しなくてええで」
「いや、酔って大淀のところなんか行ったら怒られるでしょ」
「大丈夫大丈夫。そん時はウチが無理やり飲ませたって言うから」
結局、強引に飲ませようとする龍驤に負けて数秒後には龍驤の「乾杯!」というコールで3人の艦娘は酒に舌鼓を打っていた。酒はあまり好きではないが、鳳翔が飲みやすいようにカクテルを作ってくれたので抵抗なく酒を飲み干す。
「あ~美味しいなぁ。朝にお酒って何か背徳感というか変な気分になるけど余計に美味しく感じるわ~」
うっとりと龍驤が語る。小さいので何処からともなく犯罪臭がしないでもないが、艦娘のアルコール規定はないので問題ない。だから瑞鶴も飲める。
「喜んで頂けて何よりです」
「鳳翔さん。このカクテルはなに?」
「うふふ。甘いでしょ?それはカシスっていうフルーツのリキュールをミルクで割ったものよ」
カシスなんてものは聞いたことがないがこれだけ甘いのだからきっと人気のあるものなのだろう。
「ふーん。飲みやすくて好みかも」
「良かった。カシスは普段仕入れないのだけれど提督に頼んだ甲斐がありました」
鳳翔は嬉しそうに笑って見せる。柔らかそうなポニーテールが揺れて鳳翔の背中で踊った。
そんな他愛ない会話をして、ただ喋っているだけで自然とリラックス出来る。瑞鶴は酔いが回るのを感じながら心の中で感謝した。
しばしたった頃には瑞鶴はカウンターに突っ伏していた。まだカクテル3杯だというのに情けないと瑞鶴は思うが、鳴りやまない頭痛でそんなことはどうでもよくなった。
「あらら。寝てもうたんかな。まだ40分くらいしか喋ってないのに」
龍驤の言葉が虚ろいだ意識に木霊する。瑞鶴は反応出来ない。身体をぴくりと動かす気力もなかった。酔うというよりも最早病的な症状である。艦娘はアルコールに強いはずなのだが不可思議なこともあるものだ。
「仕方ありませんね。やっぱり顔に出さなくても心の奥ではあのことを・・・」
「そうやなぁ。一等悪い酔いが入るのも仕方あれへんなぁ。予定ではもうちょっとストレス発散の手助けになるはずやったんやけど強引すぎたかも」
「そうですね。辛いことは飲んで忘れろ、なんて先人の方々は言っていましたけど本当に辛いことは忘れられないのかもしれませんね」
鳳翔と龍驤は突っ伏したまま動かない瑞鶴の後頭部を心配そうに見る。暫くの沈黙のあと、ポロリと龍驤が漏らすように呟いた。
「あの噂ってほんまなんやろか」
「あの噂?」
「ほら、深海棲艦が輸送艦の信号つかったってやつ」
「ああ、それなら本当らしいですよ。寮長集会の時に提督から聞きました。何でも数ヵ月前に行方不明になった輸送船を鹵獲していたようですね」
「そこまで分かってるんならその輸送船を調べて深海棲艦側の痕跡とかで何か良い情報でも得れたらいいんやけどなぁ」
「いえ、輸送船は見つかってないらしいです」
「ん?じゃあどうして鹵獲してたとか分かるん?」
「信号の発信で艦のナンバーが分かるのは知ってますよね。それで色々考えた結果、そういう結論になったそうですよ」
領海の多くが深海棲艦に占領されていることと、太平洋に面する日本に他国が支援を送る際は船で輸送されるため、他国の船と混同しないようにする政策の一環で船にはナンバーを付けることが義務付けられていた。
それは艦娘も例外ではなく、瑞鶴ならナンバー107。鳳翔は025。龍驤は030と艦娘になったときに貰える。こちらは管理というよりは戦地で入り乱れる無線を傍受した鎮守府側が大規模作戦の時に艦娘達の動向を把握しやすくするという側面が強い。
「へ~。なら可能性はあるなぁ!なんか元気になってきたわ」
とただでさえ元気な龍驤が満面の笑みで言う。鳳翔は不思議そうに首を傾げた。
「可能性?」
「そう、可能性や。鹵獲するってことは今までとは違って使えそうなものは使うってことやろ?なら翔鶴は沈んでないんちゃうかな」
「まだ使えるから、ってことですか。でもそれは・・・」
鳳翔は苦い顔をして自分を抱きしめるように腕を組んだ。龍驤の言う「使えそうなものは使う」という言葉の先を想像して身震いする。
「確かに五体満足ってわけやないと思う。けど、例えどんな状態であっても生きていることが一番や。ま、ウチが言ってるのは希望的なことやけど、それでも可能性を捨てるわけにはいかん」
龍驤の言葉に鳳翔は答えない。冷たく思われるかもしれないが鳳翔には龍驤の言葉が無責任な羅列に聞こえてしまったのだ。鳳翔は割り切り方を知っている。それは出来るだけ暗い過去を考えない方法だ。
「鳳翔さんはウチがアホやと思う?」
そんな気持ちを見透かしたように龍驤が笑顔で聞いてきた。チクリと針で刺すように鋭い言葉に鳳翔は少しどぎまぎして答える。
「あ、えっと・・・いえ、そんなことはありませんよ?希望は心の食料です」
瑞鶴は薄れる意識の中、彼女達の言葉を断片的に聞いていた。深く考えることは出来なかったが、ハッキリと龍驤が言った翔鶴の沈んでいない可能性を耳にしていた。例えそれが希望的に捉える龍驤の割り切り方だとしても、瑞鶴は大いに肯定的に捉える。何故なら鳳翔の言うように希望は心の食料なのだから。