僕は映画を見ていた。
前から楽しみにしていたのだ、何故かタイトルは思い出せないが、楽しみにしていたのは間違いないのだからそんなことはどうでもいい。とても楽しく見ていた、何故か内容は頭に入ってこないが、楽しいのは間違いないのだからそんなことはどうでもいい。
薄暗い百席程度の小さな映画館の最後列の一番端の席で、僕は食い入る様にスクリーンを見つめていた。
――ふと、館内に似つかわしくない電子音が響く。
イラついた僕がその方向――僕と同じ列の前方の席――を見遣ると、観客の一人が携帯電話を手に、今かかってきた会話に応じている所だった。
「――マナー違反」
映画館の方々から呟きが聞こえる、僕はむしろそちらの方がうるさくて、どうにもイライラが募っていく。
やがて、その隣にいた観客が、通話中の観客を叩いた後、壁にある注意書きの張り紙を指差す。
“No Talking”――薄暗くて見えるハズもないのに、何故かそれがハッキリ読めた。
そしてその次の瞬間、周りの観客数人が立ち上がり、無感情な機械音声のように「マナー違反」と口々に呟きながら、通話していた客の携帯電話を無理やり奪い取り、地に叩きつけるや全員で何度も踏みつけ、粉々に砕いてしまう。
異様な光景――それを目の当たりして、僕の頭が靄がかった映画への熱中から引き戻される。
何がどうなっている? そもそもここはどこだ? 一体――
「――マナー違反」
「マナー違反だ」
また館内にざわめきが満ちる。あたりを見渡してみれば、今度は先ほどの携帯電話を壊された観客の後ろの席の観客がタバコを吸っている。
まるで先ほどの光景の焼き回しのようにその隣の観客が壁の注意書きを示す。
“No Smoking”――そこから先も同じだ、周囲の観客が「マナー違反」と呟きながら、咥えたタバコをむしるように奪って踏みつける、床が汚れるのなんてお構いなしだ。
そして、その光景は何度も繰りかえされる。
ポップコーンを食べていた観客が“No Eating”と記された張り紙を示されて、容器ごと奪い取られを踏みつけられる――どれだけ床が汚れてもお構いなしだ。
ジュースを飲んでいた観客が“No Drinking”と記された張り紙を示されて、紙コップを奪い取られ踏みつけられる――靴や裾まで濡れても気にしてすらいない。
隣り同士で手を繋いでいた男女カップルの観客が“No Loving”と記された張り紙を示されて、床に倒されて繋いだままの手を嫌な音がするくらいに踏みつけられる――誰にも二人の悲鳴が聞こえてすらいないようだ。
そんな光景にか、映画の内容にか、噴き出した観客が“No Laughing”と記された張り紙を示されて、床に倒されて喉元を踏みつけられる――悲鳴がカヒューカヒューという空気が喉を通るだけの音になるまで、それは続けられた。
そんな光景が、僕のいる列の前から段々と後ろへと――最後尾の僕へと近づいてくる。僕は恐怖に歯がなりそうになるのを必死に抑えていた。
なんだ、なんなんだこれは!? どうしてこんなことが――
――肩を叩かれる。
怯えきっているであろう僕の表情を気にもかけず、無表情で隣の観客が指し示す先には――
“No Living”――生存禁止の張り紙があった。
周囲の観客が立ち上がる――まるで急に時間の波が押し寄せたように腐り始め、骨にこびりつく肉とボロ布へとその姿を変えていく彼らによって僕は床に押さえつけられる。
パニックに陥っていた思考が恐怖一色に染まっていき――僕は“俺”を取り戻した。
薄暗い小さな映画館、その最前列、真ん中の席で覚妖怪、古明地さとりはスクリーンを見つめていた。その幼い容姿似つかわしくない興味深そうな表情と胸元近くの“第三の目”を妖しく照らし出す光の源である映像は、とある妖怪退治屋の苦い記憶であった。
仲間や救出対象の死、初めての妖怪の殺害、恐ろしい妖怪との戦い、生き残るための逃走――そして、全てを恐怖させる“大王”とその弟子である自分を見つめる人々の目。
「――失礼しました、貴方の能力が本物かどうか、確かめたかったので……。しかし、外の世界の妖怪は中々面白い演出を考えますね。この映画館という施設も気に入りました、話には聞いていましたが、恐怖と共に鮮明に覚えている方は初めてですから」
パッと、まるで最初からそこに何も存在しなかったように他の観客が掻き消えると同時に、さとりはそこにいる誰かに話しかける。
「一応言っておきますがね、アレを仕掛けてきた妖怪……“源流の川男”は外の世界でも変わり者でしたよ。……ようこそ、と言うべきなのでしょうか? すいませんね、自分の記憶の中にヒトを招いた経験がないものでして」
スクリーンの向こう側で苦しみ続ける人間を少し成長させた背格好の退治屋――監視役は困ったように頭を掻きながら、姿を表す。その視線はさとりではなくスクリーンに向けられている、真っ向から、真っ直ぐに。
先日、無縁塚の墓守でもある監視役に死体の持ち帰りを願い出た火車、それが返答の確認に来たのだが、どういうわけか、それに飼い主まで付いてきていた。監視役は“如何な重大な秘密を知っても口外しない”ことを条件に面会に応じたのだが。
「いきなり人の恐怖を元につくった仮想空間に連れ込むとは……喧嘩がしたいなら、不毛ですよ。“恐怖代行”である俺は自分の恐怖くらい御せますし――」
監視役の言葉に応じる様に、先程まで館内に存在していた腐乱した観客達が再度姿を表す――今度は覚妖怪を取り囲むかたちで。
「俺とて“恐がらせて追い払う”って手が通用しない妖怪を相手に、準備なしでは有効な手を持たない」
――また、観客たちが掻き消える。さとり妖怪にとって、どれだけ恐怖を引き出してもむしろそれを己が力としてしまう“恐怖代行”は負かすのが困難な相手であるし、恐怖を直接叩きつけて優位を得る“恐怖代行”にとって多くの恐怖を観測し、強い心を持つさとり妖怪は純粋な実力では打倒不可な相手である。
それを指摘する言葉を受けてようやくその興味深そうな視線をスクリーンから監視役に移し、微笑を浮かべるさとりに、不承不承といった様子で視線を返した監視役は肩を竦めて言葉を続ける。
「俺たち、今どうなってるんですか? 貴殿らを迎えて、お茶を出して、顔に妙な光を感じたと思ったらコレですからね」
「ご心配なく、コレは刹那の夢のようなものです。 元に戻れば、貴方がお燐がお茶に手をつけないのを見て、ミルクを出すべきだったかと思案していたあの瞬間に戻ります。ですから、隙と見た低級妖怪に寝首をかかれることも、『ナズ姉さんが突っ込んできて面倒になる』こともありません」
「……成る程、ここでもその目はよく見える訳ですか、薄暗いのに、視力が落ちてもしりませんよ」
「お気遣いどうも……丁寧語、やめたらどうです? どうせ本音は見えてますよ」
「お気遣いどうも、しかし、俺にも立場がありますので……」
「『嘘や建前をひん剥いて本音だけ取り出せば真実という訳ではあるまい』ですか……自己正当化って知ってます?」
「……そろそろ本題に入ったらどうです?」
「失礼、お燐がしてやられた様でしたので、ちょっとお返しをね。拗ねていましたよ、供養された後の死体では温度の調整には使えても、怨霊は引き込めませんからね」
段々と不満が表出するように表情を硬くしていく監視役と対照的に、さとりは楽しそうに口元を歪ませて見せる。
「成る程、やはりと言うか……なかなか、向上心豊かな従者さんで」
妖獣は怨霊を舐り、魑魅魍魎を喰らうことで力を増すことができる。元々、火車には供養されていない死体をそこに宿る魂ごと集め、怨霊として糧とする習性があるのだ。時に死神が火車を“商売敵”と称するのには、そう言った事情がある。
どこか険のある監視役の言葉にもさとりはその表情を崩さず――
「ええ、努力家な子ですよ、地道に頑張って力を得た子です……親友がポッとそれを追い越してしまってからも腐ることなく頑張っています、対抗心とかは表に出しませんけどね」
どこか誇らしげにも微笑ましげにも聞こえる調子で、応えてみせる。
そのままムスっとした様子で黙り込んだ監視役の顔をからかう様に覗っていたが、やがて、場を切り替えるように咳ばらいを一つ行う――スクリーンに映し出されていた映像がプツリと途絶え、あたりに静けさが満ちる。
「私は今から独り言を言います……それはそれとして、貴方はそこに居てくれませんか」
自分の隣のシートを手で示しながらのさとりの言葉に監視役は合点が言った様子で小さく息を吐く。返事を口に出す必要はない、あくまで自分は“独り言”を聞いて、勝手に考えたいことを考えるだけのだから。しかし――
「実は地底に今、外の世界から流れてきて、まだ怨霊に“成りかけている”だけの幽霊がいましてね、未練が恨みを凌駕しているため、世への怨念に染まるまで時間がかかっているようで……もし私の機嫌がたまたま良かったりしたら、気まぐれに貴方の庵に連れてくるかもしれませんね」
成る程、とでも言うように監視役は小さく頷き。さとりの“隣の隣”のシートに腰を下ろす。その様子と心情に、思わず出かけた笑いを抑えて、“独り言”を続ける。
「私には妹がいます――名前は古明地“こいし”、無意識を操る程度の能力を持つ、と自己申告としていますが、概ね間違いはありません」
この言葉に監視役は驚いたように目を見開き、腰を浮かしかける、それを見たさとりは満足したような様子で――
「『鬼が“いりまめ”って名前だったり、吸血鬼が太陽光を操るようなものじゃないか』ですか、流石に巫女でも魔法使いでもない“退治屋”、話が早いですね……しかし、『程度ってなんだよ程度って』というのは、流石に勉強不足ですよ?」
どこかバツ悪そうに頭を掻く監視役だったが――不意に、その動きも止まり、その視線が再びスクリーンへと注がれる。そこにはさとりとよく似た姿をした帽子を被った少女が映し出されていて――
「……成る程、恐怖を共有するならば、私の不安も伝わるということですか。そう、彼女は元々、覚妖怪には向いていない性格をしていました……人間の貴方に分かりやすく言うならば“優しい”性格をしていました。しかし、そんな彼女は同情できるからこそ、他者の気持ちに理解だけでなく納得もできるからこそ、私以上に覚妖怪としての力を――心を読む力を備えていた……時として対象の強い気持ちを“共有”してしまう程に」
監視役の視線が再び覚妖怪に注がれる。心を読まれることへの恐れより、自分の心のうちの疑問への答えを欲しているのが、心を読めずともその焦燥と共に伺えるような表情で。
「その通りですよ……つまり、他人に強く嫌われれば、彼女も“そんな自身が嫌いになってしまう”。だから、彼女は己の弱点を用いて自分を――“己の意識”を殺した」
スクリーンの中の少女の“第三の目”は既に閉じている、だが、それは薄く開きかけようとしていて――
「今、地上の方々との接触を経て、彼女は再び心を開こうとしてくれています。それ自体は私としてもとても嬉しいのですが……その時に、彼女がかつてと同じ苦しみを辿らないようにはどうするべきか、私も色々と考えてはいるつもりですが、まだ準備が足りないのではないかと不安に思うのです」
故に、さとりのそうした考えを知っていた燐は“恐怖代行”の力とその性質を知ると、それを主人に報告したのだ。恐怖を共有する人間の心、それを覗くことで少しでも来るべき時の参考になれば、そう思い足を運んださとりであったが――
「自分を愛してくれる仲間へ嫌悪や恐怖を抱いてしまう可能性もある。他人に心から同情してしまうなら、とても“友達甲斐がない”自分が、仲間に対して申し訳なく思えることもある。何より、妖怪として“恐がらせるのに恐がる覚悟がいる”……貴方も結構苦労してるんですね“恐怖代行”」
さとりとその恐怖を共有した“恐怖代行”が思い浮かべる数々の懸念、言い換えればそれは彼自身のかつての、あるいは今の悩みでもあり――所詮“恐怖だけ”であり、スクリーンに写っている彼女のそれと同列にできるものではないだろうが。
『うるせえ、ほっとけ』という心情を隠す気もない表情で睨んでくる監視役にニッコリと笑顔を返すさとりは予想以上の収穫に満足していた。わざわざ妖怪の為に“対策”の原案まで考えていたあたり、恐怖を共有するのも大変そうだ、あるいは彼が自覚のないお人好しなのか。
「――そろそろ戻りましょうか」
スクリーンの映像が再び途絶え、館内に上映終了の知らせるブザーの音と共に、照明の光が満ちていった――
眩しい光に飲み込まれ、再び視界を得たかと思えば――そこは既に、過去の恐怖と共に刻まれた記憶の中の映画館でなく、すっかり慣れ親しんだ質素な庵のちゃぶ台の前だった。
「――あれ、どうかしたお兄さん?」
キョロキョロと辺りを見渡してしまった俺に、火焔猫殿が不思議そうに話しかけてくる。
「いえ、別に……大したことではありません」
愛想笑いを浮かべて、応えながら視線を火焔猫殿の隣に滑らせてみる。覚妖怪――古明地殿は目を閉じてお茶をすすっているところだった、それでも心を読む第三の目はこちらをじっと見つめてきているあたり、どうにもタチが悪い――あ、口元だけで笑いやがった。
「古明地殿、今回はお越したいただき、ありがとうございます。申し訳ありませんが、先ほど扉越しに申し上げたように、俺の秘密を探り当てたとしても、くれぐれもご内密に」
「私の方こそ、ペットがお世話になったようで……。ええ、勿論、私達二人の秘密ですね」
意味ありげに片目だけあけて、実に楽しそうに返してくれる。火焔猫殿は首をかしげているが、気にする様子もない。そして俺にも、わざわざそれを説明する義理はない。
「……では、死体を持っていかれる上での詳細な条件を伝えます、宜しいですか?――」
――さっさと、なすべきことをなしてしまおう。
「――それでは、恐らく近いうちにまた伺いますよ、私も“機嫌がよく”なりましたので」
「ええ、是非いらしてください、歓迎いたしますよ」
話すべきことを話し終えての、玄関での見送りの会話。
心から歓迎するのは幽霊の方だけだけどな――そんな俺の心も見えている筈なのに、彼女は相も変わらず、何が楽しいのか笑みを浮かべている。
火焔猫殿は一足先に退出し、今頃用意された死体を台車に積んでいる筈だ。
「そうですか、よろしければ貴方も――ああ、そうでした……鬼に“バレたらマズい秘密”があるのでしたね」
ニヤりと笑う古明地殿。その表情に何か言い返してやろうと思ったところで、扉の向こうからガタンと音が聞こえてくる。
「……ああ、そうか、死体は丁重に扱ってくださいって言い忘れてたか」
脳裏に乱雑に死体を台車に放り込む火焔猫殿という絵面を思い浮かべてため息をついた俺は、そのまま古明地殿を無視して外に出て行こうとし――
「――理不尽な扱いに、反発も怒りも恐怖も覚える……ならばいっそ拒絶しようとは、提案を断ろうとは思わなかったのですか?」
後ろから、いきなり問いかけられた。
全く、本当に心を読まれるというのは厄介だ、また“二人の秘密”とやらが増えてしまう。
彼女には出会い頭に思い出したくもない恐怖の記憶を掘り起こされた。
それだけだ――誰が死んだわけでも、人生を狂わされたわけでも、一生モノの傷を負ったわけでもない。触れられたくもないものに触れて、嫌がらせをして……それだけだ、精神的に殺すという殺意があれば話は別だが、今回はそうではない。
妖怪にとって人間の恐怖は必須、もし人間を“殺さず”にそれを得てくれるのであれば、それは俺達にとって好ましいことである。勿論、心の傷を抉ったり“死の代わり”になる程の恐怖を与えるという行為を軽く見ているわけではない、だが、それでも生きているなら“先”がある。
「別に、貴殿の機嫌がよければ、良いことがおきそうでしたからね」
個人的には人喰い・人攫い妖怪と比べれば、どれだけ恐ろしかろうが嫌われ者だろうが、そうでない妖怪の方がよほどマシだ。人間の代わりに怨霊に依存した地底の営みも、地獄の有り様の延長と考えればまだ理解ができる。怨霊たちは“人間を傷つけて罪を背負う”ことなく、怨み疲れるときまで妖に怨念や恐怖という糧を供給しつづけている――流石に能動的に幽霊を怨霊と化すような真似は、許容しかねるが。
「それに貴殿とて、俺が断ろうとしたら断ろうとしたで、別の手札を切っただけでしょう? 流石に覚妖怪を向こうにして、交渉事で有利にやれるとは思ってませんから――それだけですよ」
結局の所、俺は覚という妖怪が――自分のもたらす恐怖をしかと見据える彼らのことが、さほど嫌いではないのだ。
「……私は素直な子の方が好きですよ?」
「そうですか、俺はそうでもないですけどね」
俺は古明地殿に背中を向けたまま、それだけ言って一足先に庵を飛び出した。
「――それはごめんなさい、でも……そう、からかい甲斐があるのよ、貴方の飼い主さんは――」
ハタがいる方向に発せられていた、その声を、聞こえないフリして――