妖怪の山・山中
そろそろ夕刻――逢魔が時に差し掛かろうと言うのに妖怪の山に踏み入ろうとする人間がいるとすれば、自殺志願者か“ただの人間”ではないかのどちらかだろう。ちなみに、少女の容姿を持つ三人ばかりで山道を行くこの一行はそのどれにも当てはまらない。
「えっと――お燐が言ってたのはこっちだわ」
「そうか、そろそろ到着するかな――さあ、お嬢さん、そこに木の根が出てるから気をつけて」
「うん、ちゃんと見えてるよ、ありがとうおハタちゃん」
覚妖怪、幽霊、そして妖獣すねこすり――人化したての彼女は覚妖怪の少女よりももっと幼い容姿、焦げ茶色の短い、方々に跳ねた癖せ毛と同色の瞳をもった眠たそうな目を持っていた。踏んで転んでしまわないのが不思議な程にダボダボな黒いズボンを引きずりながら歩いている――獣の姿だったときのボサボサの毛並みを象徴するように、その裾の先は最初からほつれたようにボロボロだった。上半身には少し透ける薄さの、ワンピースとして考えてもダボダボな茶色のチェニック、その下には手首と首元までピッタリ体に付くような黒いシャツを着ている。
不自然なまでに“大きなお洋服に着られるお子様”であるが、そんな彼女が幽霊の少女の左手を引いて行く物腰は間違いなく“エスコート”と言えるだけの洗練されたものであり、見る者がいれば大きな違和感を持ったことだろう。
「どういたしまして……さて、飼い主も無事だといいのだがな。両腕、“武装”まで我が輩に喰わせてしまったが」
「私のこの“手の目”のために片目も見えなくなっちゃったんだよね? でも、さとりさんもいるし、大丈夫じゃないかな?」
彼女がいることも心配の種なのだが――そんな言葉を飲み込んでハタは小さく息を吐く。山の麓で哨戒していた天狗と話して“参拝”名目に入山の許可を取った後に、一行は二手に分かれていた。この三人と、覚妖怪の姉と監視役とにである。
普通であれば心配されるのは逆で、風に流されるようにフワフワとどこかに行ってしまいそうな妖怪と、未だ戦力としては貧弱な妖獣と、ただの幽霊である一行の方であろうが……。
その幽霊の少女の手には包帯が巻かれ、その右手の平の部分には墨で目の絵が描かれているが――それは瞬きしたり、あちらこちらと眼球を動かしたりしており、実際に少女に視界を供給しているのが分かる。
監視役が施した盲人の妖怪、“手の目”の力を再現した術である――それを行う際、火車の協力を得て監視役本人の魂から右目の部分を切り離し、それを“移植”していた。ハタもまた監視役の魂の両腕と、そこに宿らせてあった監視役の“武装”を呑み込んでおり、それによって人化出来る程の力を得たのだが、それは監視役本人の戦力が著しく低下することと引換であり――
「どうしたの? 先行くわよ~」
「ああ、今行くともこいし嬢――そうだな、きっと大丈夫だろう……行こうかお嬢さん」
先の方から飛んでくる少し不満そうな声に苦笑混じりに応え、すねこすりは心配を頭の隅に追いやる。
――まあ、安全は恐らく保証されているだろう、覚妖怪の方も、監視役を面白い玩具として、気に入っていたようであるから。
「――あだッ!?」
「あらら……大丈夫ですか」
既に何度目かの俺の転倒に、古明地殿が薄く笑いながら声をかけてくれる。
火焔猫殿の協力を得て、俺の“武装”と両腕と片目を一時的に貸し付けるのと引き換えに、幽霊さんの面倒を見つつ、妹殿を動向をちゃんと把握できる“人化できるすねこすり”という人員を得られたのは良かったのだが。
「――くそ、思ったより道が険しいな」
現在、俺は“魂が抜けて空になった”片目に眼帯を当て、両腕は前で組むような形で固定してしまっている、魂を返してもらうまで、俺のそれらは“死んでいる”からだ――あまりそのままにしていると腐りだしてしまうが、まあ、そこまで時間はかかるまい。
骨折などとはまた違う、両腕の存在や重みが自分で認識できない状態、そこに隻眼となると、予想以上に身体のバランスをとるのが難しく、そろそろ薄暗くなってきた山道で何度かすっ転んでしまってしまっていた。
俺は今、三度笠を被り、青白の縞模様を基調とした服を着た、いわゆる渡世人の格好をしている。これは人里の一件があってから、俺が監視役でなく個人として行動するときのために用意しておいたものだ。
今日は建前上は個人的な参拝だからな……まあ、実際は搜索活動の事後承諾とちょっとした頼みごとをしておこうというだけなんだけど。
背負った風呂敷の中には機嫌伺いのための外の世界の名酒が入っている、落としても割れないように綿詰めしといてよかったな。空を行くと目立つので険しい山道を歩いているが、このままでは日が暮れる――“武装”なしで夜道は行きたくないが……。
「――ん?」
そんなことを考えていると、古明地殿が俺の前までやってきて、手を差し伸べてきた。顎を少し上げた、目線だけで見下していて、それでいてものすごい楽しそうな笑顔で彼女は――
「ご心配なく、妙な妖怪が寄ってきたら私が守ってあげますよ……“妖怪退治屋”さん?」
そう言ってくださりやがった。
「……ありがとうございます」
流石に挑発がお上手でいらっしゃる。大体、その手はなんだよ、俺は今両腕使えないってのに、飼い犬みたいに顎でも乗っけろってか?
読まれることを承知でそんなことを考えながら、差し伸べられた手を無視して立ち上がる。
「いえいえ、大したことではありませんよ。あ、泥がついてますよ、落としてあげましょうか?」
果たしてそれは口と心、どちらへの答えなのか。
差し伸べていた手を口元にやってクスリと笑う古明地殿の言葉を聞こえないフリをして、さっさと歩き出した。
しばらく歩き続け――そろそろ守矢神社にたどり着くかという頃だったのだが。
「……」
ふと気づけば古明地殿の姿はなく、目の前にあるのは広大な湖――道を間違えた覚えはない、だが、風の流れから、木々のざわめきから、物言わず転がる石から特定の存在への畏怖が聞こえてくる。
「マズったなぁ……そりゃそうだ、あちら方様が師匠を知っていれば、歓迎なんてされるわけないな」
そこには俺に対する敵意も感じ取れるような気がして、俺はため息をつく――どうやら、俺は知らず知らずのウチにここまで誘導されたらしい。“未知なる自然”そのものに対する畏怖――古き
「――よく分かってるじゃないか、詐欺師の弟子。そのくせ、ここまでやってきた度胸は褒めてあげるよ……いっそ、祟り殺してやろうかとも思ったんだけど――」
不意に聞こえてきた声に俺は驚きもせず、その方向――湖上へと視線を向ける。
視覚化できるほどに濃い“災厄”が霧のように立ち込めている――恐らくはあの中心に、かの神、洩矢 諏訪子様がおられるのだろう。
「まあ、私も昔の因縁についていつまでも引きずって、それを当人でなく弟子に当たるほど狭量って訳じゃない。ここは一つ、教えてもらうことで水に流そうじゃないか……アンタの師は、どうやって外の世界の幻想を忘れた“まま”にしておいている? 恐怖の大王ってのは何者だい?」
意外にも寛大なお言葉だが、俺の“周りにあることごとく”が俺に向ける敵意を強めているのが感じられる、まるで脅しだ。
俺もかしこまり、笠を取って脇におくと、既に大分汚れていた服に泥がつくのを気にせず膝をつき、顔を伏せた状態で言葉を返す。
「恐れながら、他言無用と約束していただける――」
「譲歩したのは私だよ、更に条件を付けるってのはどうなんだろうね? 恐怖の大王なんて仰々しい肩書きの師匠を持ってるようだけど、本当の恐ろしさについて、私が教えてやってもいいんだよ?」
俺の言葉はイラつきが滲む声に中断させられた。
さらに、敵意と圧力が強まる、恐ろしさに呼吸がつまり、意識が遠のいてしまってもおかしくないところだ――俺が“恐怖代行”でなければ、だが。俺の恐怖は俺の味方だが、どうやらそれは認識していないらしい……成る程、“恐怖の大王”については知らないというのは本当のようだ。
「ご教授を賜わることが叶うならば恐縮でございます。僭越ながら俺からも、一人間にとってあなた様がどれだけ恐ろしいか、実感をもってお教えできますが……」
「……恐怖を共有ってそういう事か、厄介なヤツだね。分かったよ、少なくとも影響が出るところには漏らさない……これでどうだい?」
「ご理解いただき、ありがとうございます」
『不敬である』と一息の元に殺されないかビクビクしていたが、条約のお陰か、それとも意外と気さくな神様なのか、簡単に引き下がってくれた。
……あるいは、それ以上に“恐怖の大王”の正体が気になっているのかもしれないが……。
こほん、と一つ咳払いをし、霧の向こうの気配に、意を決して語り始める。
「――さて……師匠を詐欺師と呼び、“まま”という表現を使われたということは、ひとたび“天秤”を傾けたあの計画についてはご存知ということでよろしいのですか?」
「うん、あの時は残酷で無為で無駄なことをやってるものだと思ったけど……どうしたことか、上手く行ってしまったようだからね。どうやって天秤を傾けたままにしてるのか、それを教えてくれるかな?」
呆れと関心が混じったような様子で思い出すように応えてくださる――まあ、“計画”については知れば百人に九十九人がそう応えるだろうな。
――どこから説明したものか。
「――“
「そんな妖怪はいない……って言えば正解なのかな?」
流石というべきか、洩矢様は即答される。
空亡――太陽を塗りつぶし、それを司る神すら打ち倒すとされる妖怪とされているが、それは単なる勘違いから生まれた空想の産物である。百鬼夜行を描いたとある絵巻物の一場面に描かれた、朝日をから逃げ出す妖怪たち――しかし、その太陽の絵のあまりの禍々しさと、それより必死で逃げる百鬼の形相から、人々はそれを百鬼夜行すら押しつぶす太陽の妖怪と解釈し“空亡”と名付けたのだ。
「ええ、いませんでしたが……少し前に現れたんですよ、『我こそが空亡である』とか言い出した妖怪が……ホント、洒落にならない事件でした」
「成る程……そういう仕組みか」
既に俺の言いたいことを理解されたようだ。
“存在しない妖怪”でも、勘違いで“器”は用意され、そこに恐怖による『
「――つまり、“恐怖の大王”も」
「ええ、“実際には存在しなかった”妖怪の『所謂』を乗っ取っただけです。
一時期は予想外に強力になったようですが……必要なのは力でなく、“解釈の柔軟性”でした」
“恐怖の大王”――とある預言者が口にした、一時期の日本では世界を滅ぼすという解釈すらなされた存在。しかし、実際にその降臨の予言は曖昧な単語と表現、更には預言者が個人で作り上げた造語すら含み、その意味の解釈は無数に派生していた。
「それを利用し、師匠は蓄えた知識を結集して自分を『人間という妖怪』に作り変えました。妖怪化した人間でも、幽霊やお化けでもなく、『生きた人間が最も恐ろしい』という恐怖を受け止める器……それを、用意する必要がありましたから」
ふん、と霧の向こうから鼻を鳴らす音がする――『生きている人間が最も恐ろしい』という思想は、しばしば神様や妖怪に人間の傲慢さの象徴として捉えられている。
……個人的には、そこまで事実から外れた考えでもないと思うが、口に出さない方が良さそうだ。
「それが、“恐怖の大王”の――天秤を傾けたままにしているモノの正体です」
妖怪というものは本来、殺そうが忘却の彼方に追いやろうが、結局、人が恐れを抱く限り、何度でも蘇り、新たに生まれる存在である。人間が一切の恐怖を捨てられれば話は別だろうが、それは不可能に近いし、できたとしてもその恐れ知らずの人類の未来が明るいものとも考えづらい。
“計画”が成功し、外の世界での妖怪への恐怖が忘れ去られ、幻想郷に追いやられたとき、代わりに急激に恐怖を集めたのが『生きた人間』である。人間が一番恐ろしい――その恐怖はそのままでは妖怪を生み出し得ない唯一の恐怖と言っていい、なにせ人間が妖怪化した時点でその人間は『生きた人間』ではないからだ。だが、その恐怖とて留まる器がなければ、特定個人や人間の悪意や敵意などの感情を象徴とする妖怪へと流れていく。何もしなければ――いや、本来ならば何をしても、結局はそれらの妖怪が妖怪全体への恐怖を取り戻すはずだったのだ。
人間は恐怖を捨てられず、妖怪はそれが必要。両者の存在の天秤をどちらかに傾けようとしても、結局は平衡に戻ってしまう――唯一の例外は完全な共倒れのみのはずだったから。
「――師匠は人の恐怖を何割か、人のもとに繋ぎ留めました……外の世界での人妖の天秤を、人に傾けた状態で留めるために。人が英雄や神様を用いずとも――失敬、頼らずとも、妖怪と対等に戦えるまでの“矛”を作り上げてしまった場合、人間は妖怪の存在を我慢しないでしょうし、妖怪は“恐怖”を得るために本気にならざるを得なくなる。それを避けるために、外の世界は人間に、幻想郷は妖怪に……天秤を傾けておくことで優位な側が対立自体を制御しやすい状態を作り出したのです」
そこでまた一度、言葉を切ったのだが洩矢様から質問やツッコミはない。霧の向こうの気配は分からないが、なんとなく先を促された気がして、俺は舌を動かし続ける。
「山を消し飛ばし空を焦がすような兵器、そうした物理的威力を妖怪に通用させる『所謂』……人間がそれに到達できるというと、昔は人妖双方、鼻で笑ったようですが……。実際にこれらを人間が作り出し、妖怪を恐怖させるレベルに到達してしまえば、その果てにあるのは“勝者なき最終戦争”……運が良くて文明リセット、最悪地球が消えてなくなります。この予測を告知し、互いに自制するという方法も検討したようですが……人妖双方にそれでは収まらないであろう輩がいましたし、最悪の場合、人間が妖怪への恐怖を我慢してでも回避しようとし、妖怪が自らの存在意義に枷をかけてまで遠ざけようとする『滅び』――それそのものが妖怪化する可能性すらありました。……そもそも、師匠と“協力者”のみでそんな突飛な末世論を唱えても相手にされたかどうか、という懸念もあったようです……結構、敵を作っていたようですから」
そこまで言い切って、顔を伏せたまま、洩矢様の反応を待つ。
実際のところ、『いつか世界は滅びるはずだったけど、それは回避しました』なんて話、信じろって方が無茶だよな……俺だって月人なんてものを知らなけりゃ――
「――そのことを、外の世界の退治屋は知ってるの?」
「え? あ、一部を除いて知りません……人間が妖怪を再び認知したら大変なことになる、という点だけは認識していますが。下手すると、師匠たちが取った天秤の傾け方――計画までたどり着かれますので……その内容とともにトップシークレット扱いです」
「成る程、やっぱり酷いヤツね」
「……あの、信じるのですか? こんな話」
返事がなく、しばらくの沈黙が流れる。
不意に全方位から感じていた圧力がふっとなくなった。思わず面をあげて前を見ると、そこには既に何もなく――
「お、こりゃ良さそうなお酒だね……よし、とりあえずそっちの要件も聞いてあげるよ。あの可愛い一行さん、貴方の連れでしょ?」
後ろから声がしたので振り返ろうとして――反射的に腕を使おうとしてしまったので、姿勢を崩し、湖淵の泥に顔から突っ込んでしまう。
「とりあえず、今のところは保留ってトコだね……加奈子にも知らせてあげないと――あ、話はここで聞いてあげるから神社に寄っちゃ駄目だよ。殺されないにしても結構な目に会うと思うから、私が話を通すまで待っててね」
泥から顔を上げた俺を苦笑して見下ろす洩矢様は――意外と言うべきか、それとも幻想郷に至ってからはやはりと言うべきか――その幼げな少女の容姿に不似合いな酒瓶を抱えていた。
とりあえず敵意はなくなったらしい様子に安堵した俺は、いつのまに取られたのかとか、ハタたちの方も既に把握されていたのかとか、そんなことを考えるのが少し億劫になってしまって――俺がこの神様にもう一柱の神様から庇ってもらったのだと察するのは、もう少し経ってからだった。
空亡やシャクジン信仰については複雑な諸説が存在するのは知っておりますが、拙作ではこのように設定しております、ご了承ください。