無縁塚――
月明かりが雲越しにくぐもった灯火となり、彼岸花の鮮やかな紅を不気味に強調している。塚の前で仁王立つ、漆黒の西洋甲冑と外套に身を包んだ監視役はむしろ、闇に溶けるようにその存在感を希薄にしていて――
「――来たか」
騎士の呟きに応じる様に、暗がりの向こうから地が軋むような足音が聞こえてくる。彼岸花を踏みにじり、その毒気を撒き散らしながら、姿を現したのは、巨大な鼠。黒、赤、白、三色混じりあった毛並みに包まれ、立ち上がれば3メートルにも至ろうかという巨躯を引きずるように、監視役の前にその歩みを進めていく。理性を飲み込み、ギラついた本能を宿したその真紅の瞳には、どこか戸惑いも浮かんで見えて――
「――自然とここに足が向いたのが不思議か? お前が聴いてるのは、かの“ハーメルンの笛吹き”本人と、その120人の弟子の大合奏だ……例え二次音源で、術を仕込んだのが俺でも、お前一匹誘導するのはわけないさ。……流石に不可が強くて、長持ちはしないがな」
甲冑の関節部の調子を確かめる様に腕を回しながら、監視役もまた、その鼠を迎えるように歩み寄っていく。監視役がフルフェイスヘルムの向こう側から、くぐもった声で語るのは、かつて鼠の群れを笛の音で誘導し、川に連れ込んで溺死させた伝説の登場人物のこと――。
まるでその声に応じる様に、鼠の耳からイヤホンに繋がってぶら下がっていたカセットテープウォークマンに、ピシリと音を立てながらヒビが入る。
「――あ、待っ、このタイミングで――」
慌てた監視役の言葉も最後までは紡がれない。
戸惑いの色が抜けた獰猛な目を見開いて、巨大な鼠が体を翻す。遠心力を乗せ、重い音と立てながらしなる尻尾は、既にその射程範囲に監視役を捉えており――
尻尾が頭を捉える直前で、その間に交差させた腕を差し挟むことに成功した監視役だが、その威力に防御ごと体を吹き飛ばされる。空中を錐揉みしながら飛んでゆくが――丁度、下を向いた姿勢になった時に足を下に伸ばし、“宙に踏ん張って”姿勢を取り戻そうとする。ギャギャギャと耳障りな音を立てて、そこに硬い舗装された地面でもあるかのように、甲冑のブーツ部分の底から火花を散らしながら減速――やがて踏みとどまった。
「――早すぎる……前もって仕込んだ術まで弱体化するか……こりゃあ、思ったより厳しいぞ――『“単散兵”起動』」
地面から少し浮いただけの位置で、背を向けた姿勢になった監視役めがけ、鼠がその獰猛な歯をむき出しに襲いかかってくる。監視役はそのまま前方方向に走り、勢いを付け――見えない壁でもあるかのように、前面を蹴って、空中で後転する。そして、ついさっきまで監視役がいた場所でガチン、と音を立てて鼠の顎が閉じられるのを眼下に――
「しばらく歩けないくらい、覚悟しろよッ!」
甲冑から漏れ出る様に現れた黒い霧が、その手元で短い投擲用の槍として形を取り――それを、振り下ろすように投げつける。前足の付け根目掛けて、勢いよく放たれたそれは、されど、その毛皮を貫けず、表皮を滑るように浅い傷を付けてから地面へと刺さった。
「――……“保険”、しっかり準備しておいて良かったよ」
そのまま、痛みを感じたのかグルルと呻きを上げる鼠の後方に着地し、地面の槍が霧散すると同時に、今度は刃先に重心が寄った投擲用の短剣を両手それぞれに形作りながら、騎士は独り言のようにつぶやく。そのヘルムのスリットの向こう側の視線が、一瞬庵に向いたのは、外から見えるはずもなく――
――数時間前、監視役の庵の前にて。
「――あの子達の式になる!? ……そんなことが可能なんですか?」
「まあ、本来はこういう使い方する術じゃないんですけどね……可能ですよ」
驚いた表情で聞き返してくる白蓮さんに、声でだけで返事しながら、作業――幾つもある古臭い懐中時計の動作確認――を進める。庵の入口付近で腰を降ろし、目の前の並べた“手札”の確認をする俺に対し、白蓮さんもまた、汚れるのを気にせず隣に座って――俺が勧めた訳ではないが、悪いことした気分になる――話を聞いてくれている。
……フードを被ったお忍びスタイルとは言え、この人が来てしまうとはなぁ……。本当は封獣殿に今夜、庵に来て“保険”になってくれるよう――大量のお菓子と引き換えに――頼んだのだが、“用ができた”らしい彼女の代理として、現れたのがこの魔法使いである。それなりの格がある妖怪が約束を違えるようなことは滅多にないし、多分、この人が話を聞き出して無理に代わったんだろうな。
「ただ、式とは使用者の道具、任意のタイミングで一時的に力を貸すだけの関係とかならともかく……あの子の道具――力の一部として動く場合、俺の力もかなり制限されてしまいます。本来なら、式神は使用者の実力に応じて性能の限界が決まりますからね……色々と手は打ちますが、どうあがいたって、赤子や子猫の式神じゃあ、弱体化は免れません」
言いながら、チラと庵のドアに視線をやる――中にはあの子達がいるが、今は泣き疲れて眠っているはずだ。少し前までは泣いて怯えて大変だった、俺の気配がしてしまったのもあるにはあるが、一番の原因は常に守ってくれた保護者が不意にいなくなったことだろう。……一緒になって疲れて寝ているハタの奮闘には感謝と同情と罪悪感を禁じえない、しばらくは好きなメニューを作ってやろう。
「……しかし、その状態の貴方が――あの子達の“道具”が、瑞子さんに勝てれば――」
「はい、旧鼠の本能に“時間切れ”だと――既に対象は自分より強くなってしまったと誤解させることができます。
とはいえ……俺が“保険”を求めた理由はご理解いただけてますよね?」
俺が目だけを動かして向けた視線に、白蓮さんは無言で頷きを返す。そう、俺が負けてしまっては元も子もない――どころか、あの子達を食べられてしまうかもしれない。なので、非常時に備え、『情けない監視役に代わり、旧鼠の真意を汲んだ友人である妖怪がなんとかする』という筋を用意しておくことにしたのだ。封獣殿も鵺である以上、どう見積もったって弱体化なしの俺よりずっと強いもんなぁ……白蓮さんはもっと強いらしいし、そういう意味では心配はいらないだろう。
「――あ、そうだ、出てくるタイミングなんですけど――」
「その前に一つ、よろしいですか?」
「……なんでしょう?」
手元に戻しかけた視線をそのままに、俺は体ごと白蓮さんに向き直る。既に空も暗い――無縁塚は昼だって薄暗いが――そのフードの下の表情を窺うことは叶わない。
「――貴方がそこまでする理由を教えてください。ただ、あの子達の安全だけを思うなら、さっさと外の世界に送り返し、瑞子さんに“もう届かない場所に行ってしまった”と、戦いながらでも認識させれば良い話です。……そうしないのは、貴方が瑞子さんが例えただの鼠に戻っても、あの子らの傍にいられるようにするため――瑞子さんの……旧鼠の思いを汲んだから、ですか?」
調子こそ、常のものであったが、精一杯に抑えているような声量が、そこにある希望を推し量らせる。最後の言葉は『ですか?』より『ですよね?』の方が自然なような調子に、俺はため息を抑えられなかった。
――どう、応えたものかな。
誤魔化すのも面倒だし、図らずも彼女には大きな借りを作ってしまう形になっている、ここは正直に応えるべきだろう。
「白蓮さん、俺は――」
既に監視役によって多くの攻撃法が試された。
旧鼠が飛び込んでくるタイミング合わせての、相手の突進力を利用した長槍での迎撃、片前足を槍で払い、地に伏せるその巨躯の下に短剣を滑り込ませる、相手の体重を利用しての攻撃――それらは全く“刃”が立たず。大型チャリオットの鋲付き車輪による巻き込みや、監視役の得意技とも言える限界加速からの騎馬鎧の重量を乗せたランスチャージさえ、無効ではないが決定的なダメージは与えられず、二度目三度目の攻撃となれば、うまく対処され、いなされる。それ以外の攻撃も、ことごとくがその表皮に弾かれる――否、旧鼠の『
どれだけ物理的な威力を高めても、それが退治屋の持つ『所謂』を込めた一撃でも、“赤子の”や“子猫の”という前置きが付くだけで、世の理は、その攻撃の『所謂』を“弱い”と判別する。一般人が妖怪に銃を撃っても通じないし、退治屋とて強大な妖怪に傷を付けるには相応に強力な『所謂』を宿した武器が必要だ――偉業なし遂げたり、生まれ持っての定めから英雄である人間ならその限りではないが。旧鼠のなりそこないを相手取ってなお、その“武器”はほとんど届かず――
「巧いだけでは……“弱い”と定義付けられてしまっては――」
甲冑を修復する力をどこか別のところに向けているのか、それとも“破損”してしまったのか――ところどころ砕けてしまったそれを身に纏い、未だ奮闘する監視役を眼下に、白蓮は監視役の庵の屋根の上にいた。恐らく、旧鼠は気づいていないのだろう。常ならば視覚でも匂いでも気づいても良さそうなものだが、目の前の“保護対象を連れて行った敵”にその狂気は向けられており、他を観察する余裕はないようだ。
「まだ――彼が言った“時間切れ”までは、まだ――」
「――こんばんは……あら、もう始まって結構経つみたいね」
監視役の苦戦する様に一人、呟きを漏らす白蓮の耳に、唐突に声が届く。振り向いてみれば、そこには――
「貴方は――」
「しっ、旧鼠の方は兎も角、監視役にはバレたくありませんわ、力を出し惜しまれて負けでもされたら……貴方だって嫌でしょう?」
空に裂けるように浮かんだ“スキマ”の淵に肘を付き、まるでスポーツ観戦でも楽しむかのように視線を眼下の戦いに向ける妖怪の賢者――八雲紫の姿があった。何のためにここに、いや、そもそもどうしてこのことを――考えを巡らし、咄嗟の言葉を選び兼ねた白蓮をそのままに、紫はふむふむと頷きながら、楽しそうに――
「式になる術の方は――奈良・平安の武士の押しかけ参陣の事績をメインに構築しているのね。それで、西洋の封建時代、同時に複数の主人に仕えた騎士の事績から、赤子と二匹の子猫の共用の式になっていると……。
入れ込んだ様子で一人、解説し出す――その様子は片手にビールでも持っていれば、そのまま競技場の観客か何かである。そんな妖怪の賢者を咎めたい気持ちに駆られたが――
「『“先針時計”起動』――」
下の方から聞こえてきたのは、監視役が今回の“切り札”であると語っていた『たった一つの技のため、自らをそれに最適な状態に調整する』能力式神の名。白蓮が視線を戻した時には、旧鼠が吹き飛ばされ――監視役は肩で息をしながら、片膝をついていた。その足元にはいくつもの壊れた懐中時計が散らばっており――
「――ふむ、時計の歴史を二世紀早めた大技術者の偉業……先取りされた二百年分の時間を自分だけ取り出す、か。レプリカとは言え、媒介を使い潰してせいぜい数秒……時を止めるのではなく、超高速化止まり……やっぱり、もっと上手にできる人間を知ってると粗さが目立つかしら。武器を出す余裕がないからって、やることがタコ殴りなのも、どうかしらね」
今度はどこか不満げな様子で八雲紫が、白蓮が見逃した術を解説する。もっとも、白蓮にはかの時計技師のことなど、わかるはずもなかったが。
「……それでも、通じませんか」
呟く白蓮の視線の先――頭部に甲冑篭手の拳の跡を幾つも残しながらも、吹き飛ばされた旧鼠が、むっくりと起き上がる。対する退治屋も立ち上がり、対峙するが、その手に武器も作り出さず――
「そろそろ限界かしら――よく頑張ったようだけど、やっぱり“恐怖代行”として戦わないと駄目ね。彼の師匠――“もっとも恐ろしい存在”の再現式神も、あの状態じゃ使えないみたいだし」
期待外れだ、と言わんばかりにため息を一つ付き、紫は白蓮に視線を向ける――それは、そろそろ助けに入るタイミングだろう? と催促しているようでもあり。しかし、それを受けても白蓮は眼下の一人と一匹に視線を向けたままであった。
「……期待したい気持ちはわかりますわ、でも――」
「彼は最初から、人の恐怖の代行者として戦っています。きっとそれは、これからも代わることはないでしょう」
苦笑を浮かべて説得に掛かろうとした紫に対し、白蓮もまた苦笑を浮かべて、その言を切るように言葉を述べる。そうしながら、思い出すのは戦いの準備をしていた時――『旧鼠のために、戦おうとしているのではないか?』、そう問うた時の監視役の答え。
――白蓮さん、俺は人の恐怖の代行者です、妖怪のそれじゃない――
ハッキリとした言葉だった。その言葉には迷いも感じ取れた、だが、迷いを越えたからこそ、揺るがぬのでなく、揺らいでも折れなかったという重みを持っていたように思う。
外の世界に赤子を引き取ってくれる身寄りが見つけられる保証もない、見つかってもそれが真っ当であるとは限らない、ならば幻想郷に居た方がまだ赤子の幸せにつながる可能性もある。 故に両方の選択肢を残しておきたい、そのためには命を狙う危険な妖獣の問題は、ここで解決する必要がある、そうした前提を語ったうえで、彼はさらに『ついでに言えば――』と言葉をつなげた。
――寂しくて、恐くて、しょうがないんですよね、傍に瑞子がいないと――
彼は旧鼠の思いを汲んだわけではない、赤子の恐怖を共有し、その求めるところを成さんとしているだけだ。
――理想を言えば、あの子ら目を覚ました時に、傍に瑞子がいるって状態が望ましいですね……小ねずみの姿に戻るわけですし、分かるかは怪しいですが――
――なんでって……そりゃあ、俺だって好き好んで赤ん坊泣かせたくないですし――
赤子の恐怖を共有し、さらにそれを旧鼠に共有させれば、戦いをより優位にすることもできただろう。だが、彼はあくまで“人のために”戦っているのだ“妖怪を退治するため”ではない、戦いのために人に不要な恐怖を抱かせては、本末転倒である。妖怪が敵か味方かなど、突き詰めればどうでもいい――ただ、そこに人の幸せを願うのみ。
ともすれば、妖怪は退治するものであると決め付ける人間よりも冷たいと白蓮に感じさせ――そして、同志となることを完全に諦めさせた解答だった。
「――……でも、そろそろ“時間切れ”ですね」
白蓮がそう呟くのと、その足元の庵の中から目覚まし時計のベルの音が響くのは、ほとんど同時だった――
ジリジリと自分の前進に合わせて、後退する監視役の姿――それが旧鼠の中に微かに残った理性に、ぼんやりとした疑問を形作らせていた。ほとんど未完成の旧鼠である自分に対して、ここまで苦戦するほど、監視役は弱くはないはずだ。さらに、彼からはあの子達の“匂い”が色濃く、漂ってくる――まるで、彼が外付けされたあの子らの一部にでもなったような。
だが、そんな疑問が本能を押しのけて意識の前面に出ることはなかった。はじめに、彼を見た時点で、旧鼠は安心してしまっていたのだ――後は彼がなんとかしてくれる、あの子達に心配はいらない、と。その時点で、旧鼠は本能への抵抗をやめ、後のことを全て他者に――監視役に委ねてしまっていたのだ。
しかし――
「……もう時間切れか」
ボロボロの甲冑を引っ掛けるように身につけている、委ねられたはずの監視役がそう呟いた。――と、その背後の庵の中から目覚まし時計の大きなベルの音が――ついで、赤ん坊の泣き声と子猫の鳴き声が鳴り響く。
なぜここに? ――理解したくないと思っていながらも、心の奥底では外の世界に移送済みだと思われた対象の声に、疑問が一瞬だけ旧鼠の意識に上がったが、次の瞬間にはそれは獲物を求める本能に呑まれてしまう。雄叫びを上げ、監視役に目もくれずに駆け出しかけた旧鼠――だが、その足も、すぐに止まって――
「――どうした、行かないのか?」
再び旧鼠が視線の先に捉えた監視役が、短く呟く。旧鼠の足を止めたもの、それは『恐怖』である。めまぐるしく変わる周囲の光景、その中で自分を確かに守ってくれた存在も不意に消えてしまった、まるでそれはかつての赤子の母親のように、子猫の飼い主のように。頼れる存在を失うという、無力感を伴った恐怖が、旧鼠の心を捉え、本能の攻撃性を鈍らせる。
「――聞こえてるんだろう、瑞子……なぜ、足を止める。この声も、恐怖も、お前を呼んでいるんだよ――」
今度は監視役がその歩みを進めるごとに、旧鼠が後ずさる。後のことを委ねて安心しきってしまっていた監視役の姿が――ボロボロのそれが、改めて旧鼠の視界に入る。次の瞬間には彼が消えて、全てが最悪の方向へと向かうのではないか、自分がここにいるあの子達を――本能を押しのけて、恐怖が意識へと上がってくる。
「その恐怖は真っ当だ――今回は『俺に任せて安心していい』などとは言っていないからな。俺はただの代行者だよ……あの子達が求めるお前を呼びに来ただけだ。成る程、恐くて逃げ出したくもなるだろう……だが、これだけ大声で呼ばれてしまえば――」
――一際、赤ん坊の泣き声が大きく響き渡る。ああ、そうか、それでも――あの子達の下へ赴かねばならない。今だって愛おしいのだ、あんなにも――こんなにも怯えているのなら、自分が傍にいてやらないと――後ずさる足を踏みとどめ、旧鼠が再びその視線を庵へと向ける。
「な? お前は結局、“泣く子には勝てない”んだよ――全く、妬けるぞ」
短く監視役が呟いたのは、人の子の恐怖が妖怪退治屋の自分ではなく、妖獣旧鼠を求め、呼ぶからか、それとも――
「その恐れを抱いて進め! お前の抱く、最悪の結果への恐怖が、そのままそれを退ける!」
まるで監視役のその声に応じる様に、旧鼠は駆け出し――無縁塚の周囲に漂う毒気が、監視役や旧鼠、そして庵の上に潜む、魔法使いや妖怪の周囲へと集まっていく。頼れる相手を求める恐怖、それが毒気にまで感染、共有された結果であるが――
「――泣き通し、恐怖と不安を撒き散らし。人も妖も動かし、望むモノを近寄せる……文句なしに、あの子達の勝ちだ!」
宣言にも主張にも聞こえる叫びとともに、監視役が立つ位置に、前もって仕込まれていたのであろう魔法陣が起動する。
無縁塚周辺に漂う彼岸花の毒気は物理的、科学的に体に害を成すそれではない。確かに、彼岸花には毒があるが、空気中をそれを放出して人に害を及ぼせるような、生物兵器染みた威力は、本来有していないのだ。だが、ここ無縁塚にて、かの花々はあまりに死に馴染み過ぎている――三途の河の水を吸い、多くの人の死体を養分に育ったそれは、言うなればそれ自体が人格を持たない妖怪、怪奇現象と化しており――それ故の呪力的な“毒気”を有している。監視役が使うのは、かつて飢饉のおりに彼岸花の毒気を処理し、非常食とした人々の事績を利用した術式――それで以て、“孤独を感じて”傍に寄って来た魔法陣内の毒気を“喰らい”、それをそのまま、己の力に上乗せる。
そして、弾かれるように駆け出し、自分に目もくれず庵に駆けていこうとする旧鼠の横っ面目掛け、旧鼠の抱く“恐怖”そのものを『所謂』として宿したガントレットを思いっきり振り抜いて――
――またも泣き疲れた赤子と子猫が、未発達の視界の隅に小ねずみを捉え、安心して眠りに落ちたのは、ほとんど朝に差し掛った時のこと……。