砂糖の甘さは、優しい甘さ。
白いドアを叩く。こんこん。
ドアが横に開いて、大事なあの子が笑ってる。
何処に行く?って聞いたら、
今日はちょっと遠出したくないな。
照れ笑いが一緒に返ってきた。
じゃあ庭を散歩しようか。って聞いたら、
言葉の代わりに、シャツの裾が掴まれた。
決定。
暖かい、春の日差しの中。
車椅子をきいきい押して歩く。
タイヤの光がくるくる回って、あの子は楽しそうにそれを眺めていた。
道端に、たんぽぽが咲いている。
水たまりが雨できらきら光ってる。
雲が真っ白で、わたあめみたいだ。
時々強い風が吹く。
しゃぼん玉が、流されてくる。
全部が全部、いつもの景色。
でもこの子にとっては、非日常。
ひとつひとつに、からから笑う。
この子の『嬉しそう』な顔は、自分の『嬉しい』に繋がってくる。
楽しそうに、くるくると表情が変わる。
自分は黙って、車椅子を押す。きいきい。
歩いた後に足跡と轍が2本。
疲れて帰った後の紅茶は格別みたい。
お湯は散歩の前に沸かした。熱々のお湯じゃ、猫舌のこの子は紅茶が飲めないから。
粉砂糖を入れると怒る。粉砂糖がさあっと溶けるのが、好きなんだけど。
この子は、角砂糖がゆっくり溶けていくのが好きみたいだ。
ちょっと我慢しよう。
ぽちゃんと、水面に波紋が広がる。
ミルククラウン。ミルクティーはあんまり好きじゃない。だから、この子のだけ。
とうとう、スプーンに乗った角砂糖のご入浴だ。
しゅわあっと、角砂糖が消えていく。ゆっくりゆっくり、消えていく。
自分の命を、紅茶に溶け込ませていくように、消えていく。
不意に。
目の前で、半分溶けかけた角砂糖が自分のカップに移し替えられた。
顔を上げると、してやったりというような、慈愛に満ちたような、笑顔。
それはまるで、世界を包み込むような。
氷によく似た愛情が、半分溶けた角砂糖が、ティーカップの中に、しゅわりととけていく。
ティースプーンに掬ったひと匙を舐める。口に広がる愛情の味。
この子がくれた、最初で最後の、自分だけの甘さ。
幸せはわけっこしなきゃ。
紅茶よりも、あったかい笑顔。
目の奥が熱くなる。
どうしたーと慌てたようなその頭を、掻き抱くように抱え込んだ。
よく晴れた日。
白いドアを叩く。こんこん。
ドアが横に開いて、冷たい空気が私を包んだ。
――散歩に行こうか。
私は車椅子を広げた。
車椅子をきいきい押して歩く。
道端にアザミが咲いていた。
車輪が踏み潰した。
雨上がりで水たまりがあった。
子供がその上を走った。泥がもうもう上がってきた。
真っ白い雲があった。
積乱雲だ。もうじき天気が荒れる。
強い風が吹く。
髪が乱れて嫌だ。しゃぼん玉が飛んできて、私にぶつかってはじけて消えた。
歩いた後に足跡が出来た。轍は浅くて、風で飛んできた砂ですぐに消えてしまう。
紅茶を入れる。
散歩のあとは紅茶と、相場が決まっている。
沸かしたばかりのお湯は熱い。私は熱いのが好きだ。
カップに注ぐ。ミルクは入れない。
赤茶の水面に、蛍光灯が反射している。
砂糖を入れよう。砂糖瓶に手を伸ばした。
スティックシュガーは買い置きがない。ここ数年、私はスティックシュガーを紅茶に入れていない。
かつんと、指が底に当たった。
瓶は空だった。
角砂糖が補充されていなかった。
角砂糖を私は買ったことがない。彼が好んで、勝手に足していたから。
角砂糖はいつも、瓶いっぱいに入っていた。足されなくなったのは、いつからだっけ。
カップの置かれた丸テーブル。隣のベッド。
ずっと誰も寝ていないみたいに、綺麗に片付いていた。
さっきまで押してあげていた車椅子。車輪が汚れている。
重さが足りなくて、綺麗な轍が付かなかった。
きっちり畳まれたひざ掛けが、乗っかっていた。
彼がいなくなって、世界はきらきらには見えなくなった。
ごく普通の景色しかここにはない。
ミルククラウンは見なくなった。
私がミルクを入れないから。
それでも。
彼に合わせて変えた砂糖の種類は、そのまんまで。
いっぱいだった砂糖瓶が空になるまで、誰も乗っていない車椅子を押して歩き続けた。
もしかしたら、彼がそこに座って、きらきらした世界の話をするかもしれない。そう思っていたから。
なんにも変わらなかった。
なんにも、変わらなかった。
自分しかいない冷たい部屋で、私は、痛む胸を押さえて、声を殺して泣いた。
砂糖瓶の底には、崩れた砂糖の粒が、くっついていた。