今回のエピソードは……前話と打って変わって珍しく硬派です(えっ?
というか”ガルパン×ゲート・シリーズ”始まって以来、女の子が一切出てきませんです。はい(^^
なんというかこの先、ストーリーを進めるべく避けては通れない「”この世界”の歴史を振り返る」みたいな話になっております。
おかげで文字数はシリーズ最高に……(汗)
かなりややこしいかもしれませんが、「改竄された歴史の観測者」みたいな視点で楽しんでいただければ幸いです。
さて、唐突に物語の舞台は飛ぶ。
ここは日本より遥か離れた異国であり、太平洋を挟んだ隣国ともいえる色んな意味で世界最大級の国家、アメリカ合衆国。
より正確にはバージニア州アーリントン郡に立つ、上空からは
この巨大モニュメントの持ち主の名は、【アメリカ国防総省】である。
史実では1944年にトルーマン大統領が提案し、47年に発足した機関である。
実は建屋自体は、元は陸軍省庁舎として計画されたもので1941年9月11日に着工し、1943年1月15日に完成している。
実は世をにぎわせた”9・11テロ”だが、ちょうど着工から60年にあたるその日を狙ったのだから、偶然ではないのだろう。
話が横にそれたが、史実と違って”この世界”ではフランク・ディーノ・ルーズベルト大統領が世界恐慌からの影響(不景気)脱却を指針とした【ニューディール政策】の一環として発布されており、組織立ち上げの理由は……
『諸君、軍はもっと効率的に運用されねばならぬ。陸軍と海軍を別物と考えるのはあまりに非効率だ。海でも陸でも人は戦ってきた。ならばそれらを統括する機関が必要ではないのかね? 確かに我らには誇るべき”中立法”があるが、戦争は我らの都合や事情をお構いなしに降りかかってくることもある。ならば我々は、効率よく平時に軍を維持/運用し、有事には更なる効率をもって戦争をせねばならない。確かに平時において軍は生産性を持たない……平たく言えば金食い虫だが、平時にまどろみ平和を謳歌するだけで戦時を忘れるのは、愚か者の道徳だと私は思うのだよ』
と演説し、満場の拍手をもって国民に受け入れられた。
時に1934年のことである。
また建物自体は、ニューディール政策の一環である『大規模公共投資』の一つとして立案され、史実より5年も早い1938年に完成している。
***
1940年の秋、そのペンタゴンの一室ではある陸軍幹部の男達が、あまり楽しそうでない顔をつき合わせていた。
「我らが小さき同志《リトル・フレンド》は、英国で随分と健気に気炎をあgてるようではないか?」
「”
「みーやーふーじーは色々駄目だろ? ガチ百合の上に中身淫獣だぞ? 噂じゃ早速、きゅぬーの現地妻をGETしたとか何とか」
きっと現地妻の名はリーネとかリネットとか言うに違いない。個人的にはエディフィルも捨てがたいが、アッチは和風黒髪おかっぱのひんぬー少女だ。
えっ? それはリネット違い?
「日本系ならここは精悍な”魔眼の射手”、”サムライ・ガール”の異名を持つレディ・坂本をだな……」
「二つ名の中二乙」
「ハァハァ……美緒様にマヂ踏まれたい」
「憲兵さん、こっちです!」
以上の会話は
「ジェントルマン・プリーズ。我々は海式ではなく陸式だ。だからここで語るべきは大西洋の海軍飛行少女隊ではなく、昨今増強著しい”
そう口を開いたのはこの場で一番階級が高そうな男だった。
「そうでしたな。確か”
「そして、ここ数ヶ月続々と兵器や物資を搬入してると」
「それに後方のマタト、ウラン・ツィレク、バイン・トゥメンの各補給基地も拡充してるとか」
「拡充というならシベリア鉄道もそうだろう。これまでは軍専用線はボルジャ - バイン・トゥメンまでだったが、つい先日バイン・トゥメン - タムサク・ボラグにも引込み線ができたらしい」
最初の会話で思わず能力に疑いをもってしまったが、見れば全員が
何か一部、その情報収集/分析/解析能力を無駄に使ってる気もするが、間違いなく有能な面々だろう。
「以上のような事情を鑑み、早ければ今期中に大規模国境紛争が勃発するかもしれんな」
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さて、ここで少し注釈が必要になってくるだろう。
1905年(明治38年)9月5日、ポーツマス条約に反対する市民の集まる日比谷公園に突如として開いた『門』と、そこから現れた正体不明の勢力による大虐殺……いわゆる【日比谷『門』異変】から始まる戦闘により、日本は四半世紀以上ににわたり帝都の一部を後に”帝国”と呼ばれる『門』外勢力に占拠されるという屈辱的な情況を味わうことになる。
これが結局、日本が中華大陸や朝鮮半島からの全面撤退を踏み切る理由になった……というのは前作も含め何度か触れてると思う。
日露戦争の勝敗やポーツマス条約の如何にかかわらず大陸から全面撤退するのはいいが、まさか日露戦争で戦っていた宿敵の帝政ロシアに日本が保有していた大陸権益を国防の観点から絶対に譲るわけには行かず、故に日本は泣く泣くロシアとの仲介役だったアメリカに「日露戦争とポーツマス条約で得た遼東半島を加えた、大陸に持つ『南満州(あるいは内満州)という租借地』を、アメリカに”委任統治”という形で任せる」という苦しい体裁で委譲することを決定した。
流石に
まあ、そんな物は大国アメリカにとって微々たる物である。
このあたりのくだりは、第01話にも述べたとおりだ。
では、ここではその後のアメリカと中華大陸のかかわりを書いてみよう。
さてポーツマス条約で日本が手に入れた……いや、【日比谷『門』異変】が無ければ日本が手に入れるはずだった大陸の土地は、前出の通り南満州もしくは内満州と呼ばれる土地に日露戦争で得た大連や旅順を含む遼東半島を加えたものだ。
ちなみに南満州の対義語である”北満州(あるいは外満州)”とは、1858年のアイグン条約と1860年の北京条約で、清からロシア帝国に割譲された部分で、そのままソ連に土地が引き継がれていた。
その規模は史実の”満州国”と変わらないといっていい。なので便宜上、しばらくはこのアメリカの実効支配地域を”満州”と呼称する。
アメリカは(彼らの感覚からすれば)大した出費もせずに棚ぼた式に易々と満州を手に入れ、念願だった中華大陸への進出を果たした。
しかし、史実の日本と大幅に違うのがこの先だ。
国内に多くの中華系移民を抱えるアメリカは、日本以上に彼らとの関わり方を心得ていた。
アメリカが”最初の政治的奇術”を見せたのは、第一次世界大戦前の1911年から1912年に中華大陸で発生した【辛亥革命】のときだ。
惰弱で列強各国に敗北を続け土地を奪われ続けた清王朝打倒と中華人の手による共和制国家の樹立を目的としたこの革命において、アメリカは孫文、黄興、宋教仁、蔡元培、趙声、章炳麟、陶成章等が率いる革命勢力を支援すると同時に、”ラスト・エンペラー”で知られる”
そして1912年1月1日、孫文を臨時大統領とする【中華民国】が設立されるのだが、アメリカは満州に居座りながら「中華民国の後ろ盾」という体裁を確固たる物としたのだった。
さて、その後に
第一次世界大戦の真っ最中である1915年-1916年に何をトチ狂ったのか、袁世凱は自ら中華皇帝に即位(実質的に簒奪)し国号を”中華帝国”に改めようとしたが、激怒したアメリカを始め内外から猛反発を浴び、結局それを断念する。
「さすがこの空気の読めなさは袁の姓を持つ一族」と感想を持ってしまうのは、某エロゲのやりすぎだろうか?
いや、れーは様はあれはあれで面白いキャラなんだけどね。
ともかく以後、中華大陸は北京政権となった中華民国を初め、軍閥やその他の勢力が跳梁跋扈する
ちなみにアメリカはこのカオスを「世界大戦勃発中につき静観」という態度を貫いた。
結局、アメリカは満州の権益を守れればよいわけで、最終的な内乱の勝利者と手を結べばいいと考えていたのかもしれない。
この時のスタンスも史実の日本とは大幅に異なるものであり、「中華民国の後ろ盾」という立ち位置を維持していたために、満州に手を出そうという勢力は華人の中には現れなかった。
書き忘れていたが……史実で存在していた1910年の”日韓併合”は、日本が大陸からも半島からも全面撤退した”この世界”では誰も話題にしないどころか思いつきもせず、李氏朝鮮…、この時代の国号で言う大韓帝国は残っている。
ロシアないしソ連が朝鮮半島に南下しないのは、おそらく満州に居座る”在満米軍”の存在があるからであろう。
当時は『門』外勢力が帝都に居座り続ける日本が保護国にすることも当然なく、また大陸進出と地盤固めに忙しいアメリカも朝鮮半島には消極的であり、保護国とはしていない。
もっとも、それは「意図的な空白地帯」を作っている可能性も無視できない。
日本としてはソ連の朝鮮半島への南下と常駐は国防上由々しき事態なのだが、米国から言わせれば満州に常備陸軍兵力があり、同盟国の日本にも日米同盟締結直後から”在日米軍”基地があり艦隊を常駐させてある以上、朝鮮半島へソ連が南下するなら補給路を寸断し、包囲殲滅することは容易であるからだ。
***
さて世界大戦、後で言うところの第一次世界大戦が1918年に終わるのだが……
戦勝国として日本はドイツが支配していた山東半島と南洋諸島を割譲されるのだが、日本は治安管理能力の欠如を理由に……本音は帝都からまだ『門』の向こう側に敵軍を追い返せてない現状で、第一次大戦の参戦だって日英同盟/日米同盟が無ければ絶対しなかったくらいなのに、新たな土地の運営など冗談じゃないという理由で、英米に土地の移譲を提案。
その代わりに英米が代表して各国研究分を除くドイツからの鹵獲/押収兵器の日本への移譲を願い出た。
このあたりの経緯は、前作の【祝☆劇場版公開記念! ガルパンにゲート成分を混ぜて『門』の開通を100年以上早めてみた】に詳しいので、ここでは割愛させていただく。
もっとも英米は山東半島の移譲は認めたが、南洋諸島は日本の委任統治領とすることは譲らなかった。
まあ、これは日本に一定の海軍力を維持させるための方便ともいえる判断なのだが。
こうして英国と米国は山東半島の共同統治権を得るのだが、第一次世界大戦を通じて英国に成り代わり債務国から世界最大の債権国に変貌していた米国は、第一次世界大戦の借款の減額を条件に英国から統治権を買い取り、山東半島の単独オーナーとなった。
そう、米国は山東半島を中華民国との交渉カードに使う気満々だったのだ。
そのカードを切ったのは、1922年のワシントン会議においてだった。
この会議において、米国は山東半島の中華民国への返還を認めた。これは米国に一時亡命(史実では日本)していた孫文の功績とされ、そう見えるように米国も工作した。
こうして孫文は山東半島返還という巨大な功績を手に大陸に返り咲き、国民党(広東軍閥)の中でも最高権力者として君臨することになる。
また彼のスタッフの中には、
しかし1923年、孫文は米国を裏切る行動に出る。
ソ連と急接近し、中華大陸を国民党と共産党で統一する【国共合作】を目指した。
そして、国共合作に邪魔な北洋軍閥の討伐のために派軍、いわゆる”北伐”をはじめる。
だが、孫文の行動は米国の予想の範疇であり、北伐の中で”手駒”である蒋懐石に「来るべき日」に備えて力をつけるように指示を出すだけに留める。
そして1925年、孫文が死去。しかし、自分の後継者……つまり国民党最高指導者に蒋懐石を指名していた
1927年、蒋懐石率いる国民党が共産党を弾圧した”上海クーデター”により、国共合作は「米国の計算どおり」に瓦解した。
その後、波に乗る国民党は武漢・南京の両政府の合一を果たし、翌28年6月9には北京政府を打倒し入城、北伐を完遂させる。
***
この蒋懐石や国民党の躍進を支えていたのは米国(”米中合作”とも呼ばれる)だが、それが一時的に停滞したときもある。
そう、1929年10月24日の”
これも本来なら詳しく書きたいのではあるが……これだけで短編が一つ書けそうなので割愛させてもらう。
ただ、米国が満州を保有していたことと日米が相互市場化していた、あるいは過度な軍拡をしていなかったせいで、日米に関しては「史実よりは損害軽微だった」と記しておく。
実際、米国が「理想的なマーケット」と呼ぶには満州は未成熟だったが、穀倉地帯や地下鉱物をはじめとする資源地帯は既に米国式の運営で機能されており、また(米国水準から見れば)安価な労働力でそれらを効率的に収穫あるいは採掘できていた。
また、これらの食料や鉱物資源は日本が積極的に輸入していたために綺麗に循環していたのだ。
それ以外にも自動車/飛行機/船舶/各種電化製品などの重工業品や石油/肉類/果物/乳製品など大陸では入手しづらいゆえの米本国からの輸入量も右肩上がりに上昇していた。
「日本人の栄養事情の改善」という大日本帝国臣民にとって誰しも受け入れ易いお題目で行われた”食の欧米化”は立派な米国の国策であり、単に日本を市場と考えるだけでなく「日本を食糧輸入大国とすることで食のライフラインを掌握し、米国を裏切れないようにする」というまさに一石二鳥の理に適った国家戦略だった。
米国人は既に「日本人にとっての食の重要性」は最大限に認識しており、日本人が無自覚のうちに食生活を西洋化し輸入がなければ立ち行かないようにするのは実に上手いやり方だ。
では米国は何を日本から買っていたかと言えば……
意外なことにトップにあげられるのは、「在満米軍が消費する銃弾/砲弾/弾薬」だった。
これはモータリゼーションに代表されるように日本の工業力が質/量共に米国の水準に至ったこともそうだし、また1924年に締結『日米砲弾/弾薬相互間協定』の影響も大きい。
これにはからくりがあり、この時代の円ドル交換レートは変動性ではなく固定性(しかも金本位制)であり、同じ規格と性能の弾丸や砲弾/火薬なら日本から調達したほうが安く上がるのだ。
さらに運送コストも入れれば尚更だろう。太平洋を往復するのと日本から遼東半島に行くのがどっちが近いかと聞かれれば、地図を見れるなら子供でもわかる。
また、この『日米砲弾/弾薬相互間協定』に端を発し、燃料のオクタン価の統一や各電気部品をはじめ数多くの工業製品の規格統一などもあり、米国の日本からの輸入額は調達コストの低さもあいまって世界恐慌後に急成長してる分野だ。
かなり間接的な記し方だが、株価の暴落から始まった世界恐慌を相互輸出入の増大……広義な実体経済の拡充によって乗り切ったのが日米と言える。
しかし、この世界恐慌とその影響が残る数年はやや下火になったことは事実であり、その間隙を突いてソ連が中国共産党の支援を強化、上海クーデター以降、国民党に圧されていた共産党は息を吹き返すことになる。
それが1931年11月7日、江西省瑞金に開かれた共産党を主軸とする【中華ソビエト共和国臨時政府】に繋がってしまう。
***
無論米国は、ただ不況にあえいでいたわけではない。フーバー・モラトリアムなどの失策もあったが、ついに不況脱却の切り札として【ニューディール政策】をフランク・ディーノ・ルーズベルト大統領が発動させる。
大規模公共投資がメインステイとして語られがちなこの政策ではあるが、”この世界”は遥かに大規模かつ包括的なものであった。
”表”では語られぬが……【満州事変】すらニューディールの一環だったといえば、そのスケールは伝わるだろうか?
史実の満州事変は1931年の柳条湖事件を理由に関東軍が満州全土を武力掌握、”満州国”の建国につながる。
しかし、”この世界”においては今まで満州は、
『日露戦争とポーツマス条約で日本が得た遼東半島を加えた南満州(あるいは内満州)という租借地を”委任統治”という形で米国に任せる』
というスタンスで米国が実効支配を行っていたが、やはり米国は史実の日本と役者が違った。
1931年12月24日、ルーズベルト大統領は「親愛なる国民と満州華人に素晴らしいプレゼントがある」と称して次のような発布を行った。
「国際的な立ち位置が不安定だった満州を、正式に”
第二の”政治的奇術”、発動の瞬間である。
コモンウェルスの定義は米国の”自治的・未編入領域(Organized Unincorporated Territory)”であり、政治的には……
・自治政府による内政が認められる
・アメリカ合衆国憲法と連邦法の適用を受ける
・主権国はアメリカ合衆国
・元首はアメリカ合衆国大統領。自治政府代表者は弁務官
・地域的限定のある国際機関への加盟は、ワシントンD.C.が承認すれば可能
であり、軍事的には米国が全面的な国防権を持ち、必要であれば土地を収用できるという条項が入る。
無論、これはソ連が猛反対するのだが、これで終わらないのが米国だ。
米国は満州のコモンウェルス化と”セットで”こうも発表した。
「同時に米国は、『国民党こそ唯一の正統なる中華民国政府であり、国家元首は蒋懐石氏』であることを正式に宣言する」
だ。纏めてしまえば、これは高度な政治的取引なのだ。
史実では日本が満州国を力技で建国したために血みどろの日中戦争になったが、米国は「満州のコモンウェルス化を認めるなら、国民党を中華民国の正統政府として認めよう」なのだ。
これは前出の同年11月7日に誕生した【中華ソビエト共和国臨時政府】への対抗策という意味も含まれており、米国は国民党を中華民国正統政府とすることにより共産党の支配地域を「武装勢力に不法占拠された土地」と定義してしまったのだった。
既にお膳立てが整っていたせいで、この発表はまず日本、英国が即座に全面承認を発表。
また多くの賛同国が現れ、国際的に難なく受諾という形になった。
後に歴史家は語る。
『満州コモンウェルスの誕生と国民党の中華民国正統政府承認こそが、あとの米ソ対立の決定的な分水嶺となった』
と……
【満州事変】とはコモンウェルス化に反対した住民(多くは共産党やソ連工作員に煽動されたといわれている)による武装蜂起だが、これらは在満米軍と中華民国正規軍である”国民革命軍”の『米中共同戦線』により、僅か5ヶ月で鎮圧され満州全域を掌握。
「世界史でも稀に見る軍事的成功例」と評された。
こうして、満州や中華民国は仮初とはいえ安定化した。
しかし、対立と戦禍の火種は依然として残り続けた。
中華大陸に残る共産勢力は健在であり、またソ連のモンゴルへの
何よりソ連が満州コモンウェルスを承認していない。
それが再び表面化するのはノモンハン事件の前段階ともいえる1938年の米ソ軍事衝突、【張鼓峰事件】だった……
皆様、ご愛読ありがとうございました。
シリーズ始まって以来の女の子が一切出てこないエピソードはいかがだったでしょうか?
いや~、歴史っていうのは実際調べて書くと大変ですね~(^^
孫文と袁世凱、溥儀帝は史実と行動がほぼそのまま、しいて言うなら亡命したり庇護を求めたのが日本からアメリカに変わったくらいですし、これ以上に歴史にかかわらないし子孫も登場しないのであえて改名しませんでした。
愛新覚羅一族は、きっと史実よりは平穏な
今回のエピソードは「満州が日本ではなく米国に統治されたら?」という思考シミュレーションでしたが、どうでしたか?
個人的には腹黒いアメさんのことだから、このぐらいはやってくれるかと(笑)
それでは皆様、また次回にてお会いしましょう!
***
設定資料
八八式三吋高射砲 / 九五式(八八式改)三吋高射砲
口径:76.2mm(3インチ)
砲身長
八八式:3353mm(44口径長)
九五式:3810mm(50口径長)
備考
史実の「八八式七糎野戦高射砲(あるいは八八式七糎半野戦高射砲)」に変わる”この世界”の日本の主力高射砲。
ただし元ネタの前出高射砲とは開発経緯が全く異なり、米国の【M1918/
1924年の『日米砲弾/弾薬相互間協定』が締結後に開発が始まった砲で、原型の設計は第一次世界大戦の頃と古いが、当時の高射砲としては飛びぬけた性能を持っていた。
制式化は皇紀2588年(1928年)であり、協定締結直後に製造された第一世代の「日米砲弾共用砲」と言えるだろう。
八八式は原型より少し長砲身の44口径長高射砲として完成したが、30年代の急速な航空機の発展……特に高速化/高高度化に対応するために更なる長砲身化による初速アップや、全体的な軽量化と砲架の改良による砲旋回速度の向上、照準機の改良による命中精度の向上、閉鎖機/駐退復座機/装填補助装置の改良による発射速度の向上など全体的な近代化設計変更が行われたのが九五式高射砲であった。
ただ、八八式と九五式は見た目が非常に似通っていて、また皇紀2995年(1935年)に制式化されるまで九五式は「仮称八八式改三吋高射砲」と呼ばれていたせいもあり、”八八式改三吋高射砲”と書かれた資料も多い。
また、”
戦車砲への転用
八八式高射砲の時代から戦車砲への転用の話はあり、実際『試製九三式三吋戦車砲』として戦車砲に再設計された試作モデルが作られたこともある。
しかし、九〇式野砲ベースの『試製九四式七十五粍戦車砲』と比較した結果、
「徹甲弾を用いた貫通力は試製九三式が勝るが、榴弾の威力は試製九四式が勝る。また九四式の方が軽量である」
という判断から当時は採用されなかった。
要するに九三式は弾頭が弾頭が九四式に比べてやや小ぶりで初速が速く、九四式は初速が低いために装甲貫通力は劣るが弾頭が大きくその分、威力の大きな榴弾が使用できたということだ。
当時、日本は装甲戦闘車両を持たない『特地』勢力との戦闘を最優先にしていたために、貫通力より榴弾の威力をとったということだろう。
しかし、「高射砲転用の戦車砲開発」というノウハウは残り、近年他国(特に仮想敵国)戦車の重装甲化が顕著なため、高貫通力が再評価され、今度は九五式三吋高射砲ベースの戦車砲開発が始まっている。
先に述べたとおり九五式は八八式の発展型であり、ゆえに試製九三式三吋戦車砲開発の技術蓄積が生かされ、その開発ペースは極めて速いと噂されている。