オーバーロード ~破滅の少女~   作:タッパ・タッパ

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2016/12/1 「満天の星空」→「満天の星」、「握り閉めて」→「握りしめて」 訂正しました
2016/12/4 「肩眉」→「片眉」 訂正しました


第65話 おまけ 姉妹たち

「じゃあ、お先に」

 

 そう言って、席を立った。

 出口へ向かう彼――表向きは――の背に仲間たちの声がかけられる。

 

「おう」

「じゃあなー」

「気をつけて帰るのである」

 

 彼らに軽く手をあげ、ニニャは微かによろめく足取りで酒場を出ていった。

 

 

 

 夜のエ・ランテルを独り歩く。

 日中とは異なり、夜気をまとった涼しい風がアルコールで火照った顔に心地いい。

 

 

 冒険者として酒を飲むことは多く、普段は量をわきまえているのだが、今日は少々飲み過ぎてしまった。

 なぜかというと、今日は祝いの日だったのだ。

 

 ニニャは自分の首からぶら下げられた冒険者のプレートに視線を下ろす。

 そこにあるのは金の輝き。

 

 胸元で輝く新品の金属板に、おもわずにんまりとその顔が歪んでしまうのを感じた。

 

 

 そう。彼ら冒険者チーム『漆黒の剣』は、ついに今日、冒険者のランクが上がったのだ。

 これまでの銀から金へと昇格したのである。

 

 

 ここに来るまでは、けっして平坦な道のりではなかった。

 

 冒険者となる者は多いが、その実力は個人個人によって大きな開きがある。本当に一般人に毛が生えただけのような者から、十分な実力を有していながら、なんらかの理由で新たに冒険者として登録するような者まで様々だ。

 中にはその実力を認められ、冒険者のランクを一足飛びに飛び越していく者までいる。

 とは言え、そういう人間はごく一部にとどまり、大抵は上のランクに上がれぬままいつまでも足踏みをしたり、道半ばにして命を落としてしまうのがほとんどであるのだが。

 

 そして彼ら『漆黒の剣』は、階級を飛び越えるなどという芸当は到底出来ず、普通の冒険者同様、ランクを一つ一つ這いあがってきたのである。

 

 これまで幾度も危険な目に遭い、遭遇した難敵に恐怖し、僅かなミスで命を落とすような死線を潜り抜けてきたのであるが、なんとかチームを組んで以降、誰一人失うことなく冒険を続けてこられた。

 そして、その地道な努力が報われたのである。

 

 

 

 ほろ酔い加減のニニャの頭の中に、これまでの記憶が蘇ってくる。

 

 姉が連れ去られた後、故郷の寒村を独り飛び出した事。

 運よく、自分には魔法の習得に適した生まれながらの異能(タレント)があり、才能を見出した師匠の下で魔法を学んだ事。

 冒険者になろうと決意し、登録に行ったギルドでルクルットに声をかけられ、4人でチームを組むようになった事。

 

 そして、ニニャの記憶は、冒険者としての稼業をこなすようになってからに移る。

 

 冒険者になってから、様々な人と出会った。

 ほんの一度会っただけの人もいれば、長い付き合いになった人もいる。

 嫌な人も多くいたが、良い人も多くいた。

 

 特に印象に残っているのは、つい最近出会った人物たち。

 

 独特な口調と性格のアダマンタイト級冒険者、『蒼の薔薇』のティア。

 旅をする上での様々な知識や心構え、特に迷宮(ダンジョン)の歩き方、注意するべき点などを優しく丁寧に教えてくれた老ワーカー、〈緑葉(グリーン・リーフ)〉パルパトラ。

 

 

 そして、一番は……。

 

 

 ニニャの脳裏にあの勇ましい姿が浮かんでくる。

 

 

 漆黒の全身鎧(フルプレート)に身を包み、颯爽(さっそう)と深紅のマントをひるがえして、常人では片手で扱う事さえ持て余しそうな大剣を二刀流で振るう、その姿。

 

 『漆黒』のモモン。

 

 ふらりとエ・ランテルに現れるやいなや、そのたぐいまれなる強さから、瞬く間にアダマンタイトまで登りつめた、まさに英雄の名にふさわしい人物。

 

 一度だけ見せてもらった、あのヘルムの奥の素顔。モモンはその後、誰にもその兜を脱いで見せてはいないようだ。つまり、彼の素顔を知っているのは『漆黒の剣』の面々だけ。それは自分たちだけの秘密なのだ。

 

 そんなちょっとした優越感とともに、記憶の中にあるあの堂々たる雄姿を思い返していると、知らず知らずのうちにニニャの顔に陶然としたものが浮かぶ。

 それに気づいたニニャは慌てて、顔を手で覆い隠した。

 幸いにも宵闇の中での事であり、彼――彼女の顔など覗き込む人間などいはしないのだが、どのような表情を自分が浮かべていたのかはよく分かった。

 火照る頬を両手で押さえ込み、必死で心を落ち着かせる。トクントクンと脈打つ心臓の高鳴りを抑え込んだ。

 

 そうして、もう一度あらためてモモンの事を思い返してみる。 

 それだけで、彼女の股間から脳天にかけて、電流のようなものが走った。

 

 それが何なのか、ニニャ自身もうすうす感づいてはいた。

 感づいてはいたものの、今はそれに身を任せるわけにはいかなかった。

 

 

 ニニャは胸元に抱えこんでていた手を離し、ぐっと拳を握りしめた。

 その手はすでに冒険者のもの。

 節々にタコが出来た、傷だらけの手。

 幾多の戦いや危険を潜り抜けてきた、戦う者の手。

 

 

 

 彼女の心のうちに、姉が貴族に連れ去られる前夜の事が蘇ってくる。

 

 その夜、2人は肌を刺すような冷たさを持った夜気のなか、満天の星を眺めていた。

 見上げた姉の顔は、満足な食べ物もなく、日々の過酷な労働によって、やつれていた。

 けれども、彼女はその顔に精一杯の笑みを浮かべて、肩を並べ立っていた妹に顔を向けた。

 

『辛いことがあったら、空を見上げなさい。私は貴族の下に行かなきゃならないけど、この空は私のいる所からあなたのいる所まで繋がっているわ』

 

 彼女はそっと冷えきった妹の肩を抱いた。

 

『生きなさい。精一杯にね。生きていればきっとまたいつか会えるわ。貴族たちは私たちをおもちゃとしか思っていないけど、私たちは人間なのよ。けっして虫けらなんかじゃないわ』

 

 

 そう言い残し、翌日、姉は貴族に妾として召し上げられていった。

 

 その後、いくら探しても姉の行方は(よう)として知れなかった。

 

 

 

 ニニャはにじみそうになった涙を振り払い、空を見上げた。

 

 あれから何年もたった。

 自分は冒険者になり、各地を旅してまわった。幾多の知識を身に着け、数え切れないほどの戦いを経験してきた。

 もう昔の無力だった頃とは全く違う。

 嘆きの声が枯れ果て、涙も尽きるほど慟哭しても、何一つ変えることが出来なかったあの頃とは違う。

 

 

 ニニャは、その脳裏に今一度、モモンの姿を思いおこす。

 

 人間の限界すらも超えたかのような、あの圧倒的な力。

 

 それを思い浮かべると、出来ないことなどない、叶わぬことなどない、越えられない壁などないという勇気が、ニニャの胸の中にふつふつと湧き起こる。

 

 

 

 ――待っていて、姉さん。どこにいるかは分からないけど、必ず見つけるから。

 

 

 あの日と変わらぬ星空の下、ニニャはその胸に再び固く誓った。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「くそっ! ふざけおって!!」

 

 スタッファンは苛立ちのままに、幾度もこぶしを振り下ろす。

 そのたびに肉を叩く音が響き、仕立てはいいものの飾り気のない簡素なベッドが上下に揺れた。

 

 しばしの間、そうしていると、彼の息が切れてきた。

 運動や鍛錬などというものは、彼にとって、とうの昔に捨て去った習慣だ。今、その身は長年かけてじっくりと育てた、ぶよぶよとした贅肉によって覆われている。

 彼が息を切らすほど運動するのは、この娼館で女をいたぶっている時くらいだ。

 

 

 彼は荒い息を吐きつつ、額の汗をぬぐった。

 そして、その手でもう一発、組み敷いた女の顔を殴りつける。

 「ぎゃっ」という悲鳴と共に、女の頭が揺れる。

 元は美しかったであろうその顔も、長時間の暴力にさらされた結果、ぼこぼこと腫れあがり、赤やどす黒い青に色を変えていた。

 

 殴りつけた拍子に鼻孔から血が流れ落ちる。スタッファンは自分の拳についたその血を、べろりと舌で舐めとった。鉄臭い液体を口の中で転がすと、いっそう強く認識できる。

 

 ――今、自分は女を思うままに支配し、好きなだけ乱暴している。こうして女をいたぶるのは、何と素晴らしいのだろう。

 

 

 その顔に一瞬、愉悦の表情が浮かぶ。

 

 だが――。

 

「くそがぁっ!」

 

 彼の心は一転、怒りに包まれた。

 再度、握りこぶしを女へと振り下ろす。

 

 

 ベッドの上で跳ねる女の胸を握りつぶすように掴み上げる。指先が肉に食い込む激痛に、女が身悶えするも、声をあげた女の顔をさらに張り飛ばす。

 

 そうして、目の前の女をいたぶりつつも、スタッファンの脳裏を占めていたのはこの場にいない別の女の事。

 ギリリと歯ぎしりしながら、思い出すその女性は、このリ・エスティーゼ王国において、その美しさから黄金と称され、誉めそやされる第3王女ラナーであった。

 

 

 

 ただでさえ、ラナーが進めた政策、奴隷制の廃止によって、スタッファンは困った事態に陥った。

 

 彼は女をいたぶる事が大好きなのである。

 女が自分に逆らえず、苦痛に顔をゆがめ、そして一方的に振るわれる暴力に怯える姿を見ることこそ、彼を興奮させた。

 何故と言われても、そういう性癖なのだからとしか言いようがない。

 異常であるかもしれない。だが、たとえそれは異常であると誰かに言われたとしても、彼にとってその異常性をどうにかできるものではなかった。

 

 そんな彼にとって、奴隷というのは実に都合のよい相手であった。普通の人間を虐待したら大問題だが、奴隷ならばそれほど問題にはならない。無論、奴隷とはいえ、あまり手荒に扱おうものならば、非難の対象となるのではあるが、その辺はいくらでも抜け道があった。

 

 だが、それが制度そのものの廃止によって出来なくなってしまったのである。

 そうしてスタッファンは、今いるような特別な娼館に来なければ己が欲望を満たせないという状況に置かれてしまっていたのだ。

 

 

 しかも彼が今、怒っている原因はそれだけではない。

 そのラナーが最近になって、今度は王都中において治安の維持並びに綱紀粛正の名の下、犯罪組織に対する衛士などによる監視の目の強化、そして彼ら自身に対しても報告の徹底による管理の強化を押し進めたのだ。そして、もし怠慢が発覚した場合、その者に厳罰を処すという事までも。

 

 通常であれば、そんなものは通るはずもなかった。

 

 治安が良くなることは国にとっては良い事であるはずなのだが、それはそれで後ろ暗い事をしている者にとっては好ましくないことである。貴族たちの多くは大なり小なり、なんらかの秘め事を抱えていたし、貴族でなくともそれに連なる者、関係のある者達は山ほどいた。さらには、裏社会を牛耳っている八本指は深刻な病巣のように王国、とくに貴族たちの間にすっかり根を張っていた。

 それゆえ、今まで似たような話が出るたびに彼らの息のかかった貴族たちによって、資金がない、理想論でしかない、優先順位として他にやることがある、管轄権の侵害だなどといちゃもんがつき、取りやめになってきたのである。

 

 そして今回もまた、いつものようにラナーの提案は通らないものと誰もが思っていた。

 

 だが、今回に限っては違った。

 普段は通らないはずのラナーの提案が通ってしまったのだ。

 どこからかは不明だが、なんらかの勢力による政治的な後押しがあったらしい。

 

 しかも、そういう話に敏感なはずの当の八本指はというと、エ・ランテルという交易の一大地をギラード商会なる新興勢力に奪われた事、そして、それに伴う収益減、並びにギラード商会側にそれなりの人間が寝返ったことによる構成員の減少に苦慮しており、貴族たちへの根回しが十分でないまま、話が進んでしまったのだ。

 

 

 これにスタッファンはすっかり参ってしまった。

 彼は様々な便宜や口利きを図ることによって、本業以外に潤沢な金を稼ぎ、そして、この特別な娼館に来ることを許されているのだ。そういった事が出来なくなれば、この娼館を経営しているような裏社会の存在にとって、彼の利用価値が無くなってしまう。スタッファンはお払い箱という事になりかねない。

 

 そうなった時、自分はどうなるか?

 まず、この娼館に来ることが出来なくなれば、その欲望を満たすことが出来なくなる。我が事ながら、自分の情欲を我慢し続けられるとは思えない。そのうち己が欲望に耐え兼ね一般人に手を出し、その結果、衛士である自分が逆に檻の中へと放り込まれかねない。

 更には、スタッファンは一端なりとも裏社会の情報を掴んでいる。役に立たないと放置されるのであればまだいいのだが、下手をしたら口封じされるかもしれない。

 

 ――あくまで可能性であり、自分のようなちょっと裏と接触しただけの存在に、そこまで徹底した対応をとることは考えにくい。

 

 彼は想像に身を震わせつつ、必死で自分にそう言い聞かせていた。

 

 

 とにかく、彼が今やっている事、ならびにこれまでやっていた事が明るみに出ては拙いのだ。

 そこで彼は伝手を使い、国に報告する代わりに、とある貴族――流れをたどれば、六大貴族のレエブン侯の派閥にあるらしい――にその都度状況を説明し、リベートとして金を流すことで、自分のやっている事を隠蔽してもらっていた。

 

 当然のことながら、そちらに渡す分、自分が使える金が減る。

 こうして、ここに来る回数も、以前よりだいぶ減少する羽目になってしまっている。

 

 実際、これまでと違い、この娼館で楽しむ際にも、女に対して常に手加減を考えながらにしなければならなかった。

 女が死んでしまうと、その処理に手間がかかるため、少なくない別料金が取られるのだ。これまでは、特にそんなことなど考える必要もなかった。確かに安くはない額だが、常連であるスタッファンは付け(・・)が利くうえ、当時の彼の稼ぎ――主に副業の分――を考えると、特に困るほどの高額という訳でもなかったのだから

 だが、その料金まで、ラナー提案の施策が遠因となり、より厳重な隠蔽工作が必要となったことに伴い、格段に値上がりしているという有様である。

 以前よりかなり減った袖の下や、それの隠蔽の為に貴族に回す金を考えると、もはや軽々に殺してしまってもいいと言えるほどではない。

 

 

 

 彼は再び苛立ちまぎれに、こぶしを振るう。

 女はくぐもった悲鳴を漏らした。

 

 その哀れな女の姿に、スタッファンは興奮を一段と強める。自身の鼠蹊部において屹立したものを女の体内に突きたてる。新たな痛みに、彼女は身悶えた。そんな苦痛に歪む顔面にさらなる殴打の雨を降らす。

 元は整っていた顔、それが見るも無残に鼻骨が折れ、瞼は内出血で腫れあがり、唇は切れ、折れた歯が飛び散り、鼻から血がとめどなく流れ続ける。

 

 

 ――ああ、この女が、あの忌々しい第三王女だったら……。

 あのすました顔を、こんな風にボコボコに出来たらなぁ。

 

 スタッファンはそんな事を夢想しながら、もはや性欲と同期し抑えのつかなくなった暴力の衝動に身を任せた。

 

 

 

 スタッファンに組み敷かれ、暴力の嵐に晒されていた彼女は、譫妄(せんもう)なる意識の中にいた。

 

 彼女の脳裏に浮かんだのは、故郷の妹の事。

 故郷から連れ去られる前夜、彼女は妹に言った。

 

『辛いことがあったら、空を見上げなさい。私は貴族の下に行かなきゃならないけど、この空は私のいる所からあなたのいる所まで繋がっているわ』

 

 彼女は自分の上にのしかかる男から視線を外し、ふと上を眺めた。

 

 その視界に入ったのは夜空ではなく、彼女を閉じ込める檻である何の飾り気もない、煤と蜘蛛の巣が張った娼館の天井。

 

 

 そして、次に目に入ったのはスタッファンのまったく鍛えられもせず、タコ一つないぶよぶよとした拳。

 

 

 

 そうして、ツアレニーニャ・ベイロンは虫けらのように死んだ。

 

 

 

 興奮のあまりに、うっかり彼女を殺してしまったスタッファンは予想外の出費によって、それからしばらく安酒だけで我慢する羽目になり、更に機嫌を損ね、ラナーへの恨みをつのらせることとなった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 コンコンコンとノックの音が聞こえた。

 

 こんな時間に誰だろうと、アルシェは訝しんだ。

 すでに夕食を終えた時間だ。他人の家を訪ねるには少々時間が過ぎている。

 一体、誰がこんな時間に、自分と妹たちとが暮らすこの部屋を訪れるというのか?

 

 

 

 ここはリ・エスティーゼ王国の城塞都市エ・ランテル。

 その中でも、そこそこに収入のある者が暮らす集合住宅である。

 アルシェは妹であるクーデリカ、ウレイリカと3人でこの部屋を借り、新たな暮らしを始めていた。

 

 幸いにも『フォーサイト』として、しばらく前までこのエ・ランテルで活動していたため、彼女の事を知っている人間は多かった。また滞在中に冒険で手に入れたものを頻繁に売りに行っていた事によって顔が繋がっていたこともあり、ワーカーとしての活動を辞めた今、彼女は魔術師組合で職を得ることが出来ていた。その収入も、これまでの蓄えに手をつけなくとも、十分3人で生活できる程が約束されていた。

 

 

 ――もしや、魔術師組合で何か緊急の用事でもできたのだろうか? ロバーはこの前、街を離れたばかりだから、こんなにも早くエ・ランテルに戻ってくるはずもないし。

 

 疑問に首を傾げながらも、とりあえずドアの方へと歩み寄る。

 その手には、愛用の杖を握って。

 

 

 そして、暴漢の可能性を考え、警戒しつつも扉を開けた。

 

 そこにいたのは、一人の男。

 お世辞にも立派とは言えない、はっきり言ってしまえば貧相という表現がしっくりくる容姿。その立ち居振る舞いは、長年の生活によって身に染みた卑屈さを漂わせていた。だが、その服装だけは、それなりといえるような代物であり、なんともちぐはぐな印象を見る者に与えていた。

 そんな男が今、戸口で花束を持って立っていた。

 クチナシの花束を持って。

 

 

 不審げな目を向けるアルシェに対し、彼は緊張に声を固くして言った。

 

「あ、あの……こ、ここにウレイリカがいるって聞いて来たんだけど、よ……。あ、……俺はザックって言うんだ……」

 

 頭を掻きながらの男の答えに、アルシェはピクンと片眉をあげた。

 

 

 『ザック』。

 

 時折、ウレイリカが口に出す人物だ。なんでも、昔から自分の世話をしてくれた人物だとか。

 だが、アルシェの記憶にある限り、ザックなる人物は聞いた事もない。自分がワーカーとして、家を留守にしている間に、家に来ていた男なのだろうかとも思ったが、一緒にいたはずのクーデリカに聞いても、そんな者は知らないという。

 

 ――この男性が、その『ザック』なのだろうか?

 

 

 アルシェは僅かに躊躇したものの、とりあえず彼を部屋に通すことにした。

 まずはウレイリカと会わせ、彼が妹の語る人物であるか確かめてみるべきだと考えたからだ。

 それに彼は1人だけであり、常に危険と隣り合わせであるワーカーの世界で生きてきたアルシェの目からして、その身体つきや動作から、戦いに身を置くものとは考えられず、万が一の際にも自分一人でたやすく制圧できると判断したからでもある。

 

 

 先導して廊下を歩く。

 貴族の屋敷であった実家と異なり、借りている部屋は数歩歩くだけで、居間へとたどり着いた。

 

 扉を開くと、今日はどんな本を読んでもらおうかとソファーの上で騒いでいたクーデリカとウレイリカの目がこちらに向けられた。

 戻ってきた姉の姿を認め、目を輝かせる2人。

 だが、その顔は後ろから現れた男の姿を目にし、両極端の反応を見せた。

 

 クーデリカは警戒に眉を顰ませ、対してウレイリカはその顔にぱあっと笑顔を浮かべた。

 

「ザック! ザック!」

 

 ソファーに腰かけたまま、ぱたぱたと腕を上下させ、喜びを表すウレイリカ。

 そんな彼女に対して、双子の片割れは怪訝(けげん)な面持ちで訊いた。

 

「ウレイリカ、ザックって?」

「ザックはザックでしょー? 何言ってるの、クーデリカ?」

「ザックなんて知らないよ、ウレイリカ。ザックってだあれ?」

「クーデリカ、何言ってるの? お家にずっといたでしょー?」

「いないよー」

「いたよー」

「いないよー」

「いたってばー」

 

 アルシェは2人の話に割って入った。

 

「えーと、ウレイ。ちょっと、訊きたいんだけど、ザックってどんな人なの?」

 

 クーデリカだけではなく姉からの問いに、ウレイリカは目を丸くした。

 

「えー。お姉さま、ザックだよ。昔から、お家にいたでしょ」

「もーウレイリカってば、そんな人、お家にいなかったよ」

「いたよー」

 

 再び始まった彼女らのやり取りに、もう一度アルシェは口を挟む。

 

「ごめん、ウレイ。もう少し詳しく話して。家にいたって、ザックは家で何をしていたの?」

「ザックはお家の執事だったよ」

「え……?」

 

 アルシェは妹の言葉に困惑し、首を傾げた。

 

「それって、ジャイムスじゃないの?」

 

 クーデリカが、ウレイリカの語った内容を聞き、不思議そうに言った。

 

「ジャイ……ムス……?」

「うん。うちの執事はジャイムスでしょ? ザックなんて知らないよ」

 

 

 そうして、クーデリカは長年フルト家に仕えていた老執事ジャイムスの容姿を思いつく限りすべて、事細かに話した。

 年を取り、すっかり白くなった髪と髭。穏やかな印象を与える容姿。皺だらけの顔。痩せぎすな身体。

 

 彼女の口から語られる言葉に、まるでパズルのピースが組み合わされるかの如く、一人の老人の姿が形作られていく。

 

 

 

 ウレイリカの瞳が、扉の所にたたずむ、先ほど彼女が親しみを込めて笑みを向けた男性へと向けられる。

 

 その身体がブルブルと震え出した。

 脳裏に紅の情景が浮かび上がってきた。

 あの時、目の前に広がった朱の色が。

 

「ぅ……」

 

 家のベッドに一人いたところ、老執事に抱きかかえられた。

 そして、訳も分からぬまま、夜の路地をどこかへ運ばれていたときに、突如、聞こえたくぐもった呻き声。

 

「うぁ……ぁ……」

 

 振りかざされる凶刃。

 倒れ伏した老執事。

 彼は襲い来る刃から、己が身よりウレイリカの身を守ろうと、必死だった。

 

「あ……うあぁ……」

 

 飛び散った鮮血がウレイリカの顔にかかる。

 息も絶え絶えの老人は、彼女に逃げるように声をかけるも、ウレイリカの足は縫い止められたかのように動かない。

 やがて、老人へ止めをさした凶漢は、血に濡れた手をウレイリカに伸ばした。

 その男の顔は……。

 

「う、うあぁぁ……うわあああぁぁぁ!!」

 

 ウレイリカの顔が歪み、その目からぼろぼろと涙がこぼれる。

 滂沱の涙でかすむ瞳が捉えるのは目の前の、彼女が生まれた時から傍にいて、やさしく見守ってくれていた老執事を殺した殺戮者の姿。

 

 

 ウレイリカは怯え、恐怖し、そして泣いた。

 

 突如泣き出した彼女に対し、双子であるクーデリカは最初、驚いたような表情を見せていたものの、やがて彼女と同様に泣き出してしまった。

 

 

 そんな妹たちを見て、アルシェは彼女たちを優しく抱きしめる。

 大丈夫、何も怖いものはない、私があなたたちを守ってあげるからと何度も言い含めた。

 

 

 そして、ふとアルシェが視線を巡らせると、部屋の戸口からは、『ザック』を名乗る奇妙な男は消え去っていた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 夜のエ・ランテル。

 通りに面した窓や戸口からは灯りがもれ、のしかかる宵闇を都邑から追い払っている。

 酒を帯びた者達ががなり立てる蛮声と女たちの嬌声が響き渡る歓楽街の喧騒も遠い裏通り、その薄暗がりの中をザックは一人歩いていた。

 知らず知らずのうちに歯を食いしばり、手には少女の為に持っていったクチナシの花束をかたく握りしめていた。

 

 

 ――忘れていた。

 自分はクズだという事を。

 今更、まっとうな道なぞ歩く資格などない人間だったという事を。

 

 なんで、そんな単純な事さえ忘れていたのか。

 

 傭兵団という建前のほぼ野盗のような連中の仲間になり、これまで何人もの人間を罠にはめてきた。

 金持ちもいた。貴族もいた。

 醜い者もいた。美しい者もいた。

 年配の者もいた。年若い者もいた。

 そして、幼い少女もいた。

 

 これまで、ザックは直接手を下すなどという事はほとんどなかった。

 そういった荒事は、彼より手慣れた者、そしてそういった事が好きな者が手を下しており、ザックは自分で武器を振るうなどといった事はほとんどしてこなかった。

 

 しかし――。

 

 しかし、だからと言って、ザックに罪がないという事はけっしてない。

 直接、手を下していないだけで、彼らのおこぼれには喜んでありついていた。

 ザックもまた彼らと同類に過ぎないのだ。

 

 

 彼が今こうして生きて街を歩いているのは、奇妙な幸運をつかみ、驚くほど数奇な巡り合わせの道をたどったためである。本来ならば、ザックは縛り首になってもおかしくはない人間だ。

 奪われるより奪う方に回ろうと決意し、そしてその通りに生きた。

 そんな人間が、足を洗えるというのだろうか?

 今更まっとうに生きられるとでもいうのだろうか?

 

 ――そもそも、自分は今日、何をしに来たのだろうか?

 ウレイリカと会ってどうしようというのか?

 この前まで一緒にいたときのように、笑みを向けてくれると思っていたのか?

 仮に、その微笑みを向けてくれたとして、自分はどうしようと考えていたのか?

 また、一緒に過ごそうと思っていたのか?

 姉たちと一緒に、幸せに暮らしているウレイリカを、再び家族から引き離すつもりだったのか?

 

 それで幸せになれるとでも思っていたのか?

 ウレイリカが?

 いや、彼が願ったのは、ウレイリカの幸せではない。彼自身の幸せだ。ろくでもない人生を送り、彼の手は汚れきっていた。これまでの人生でいい事は何一つなかった。泥濘の中を這いまわるような人生だった。

 そんな人生に絶望していた時、何一つ罪の無い純真な少女に無垢なる笑顔を向けられ、全てを捨ててやり直せるのではないかと考えたのだ。偽りの上に立つ生活ながら、希望を持ってしまったのだ。

 こんな自分でも、幸せとやらを手に入れられるのではないかと思ってしまったのだ。

 

 

 だが――。

 

 だが、現実は結局のところ、同じだった。

 

 偽りはあっさりと壊れ、ザックは独り、このくそ下らない現実に取り残された。

 少女との数日こそが、まやかしだったのだ。

 自分のような人間が、人生をやり直せるはずも、幸せを掴めるはずもありはしないのだ。

 

 なんで、そんな当たり前の事すら忘れていたのか。

 

 

 

 そうして、欝々とした思考に囚われたまま、彼はどこを目指すでもなく足を進めていた。

 そんな彼の袖を引っ張る者がいた。

 

 彼は濁った瞳をそちらに向けた。

 

 その視線の先にいたのは幼い少女。

 ウェーブのかかった金髪は薄汚れており、そのそばかすの浮いた頬は痩せこけている。着ている服は、元はそれなりのものらしかったが、今は端々が擦り切れ、泥と埃で汚れていた。

 

 彼女はすでにしなびかけた花が入ったかごを抱えており、ザックに花を買わないかと尋ねてきた。

 

 

 ザックは少女をねめつける。

 その顔や身体つきを見る限り、あまりにも幼い。どう考えても、()を売るには早すぎる。更にその痩せぎすの身体。

 さすがによほど特殊な嗜好の持ち主でもない限り、買おうとはしないだろう。

 

 だが、少女はぎこちない様子ながらも、その顔に精一杯の笑みを浮かべた。

 彼女には弟がいる。自分と弟の食い扶持をどうにかして稼がなければならないのだ。

 

 

 そんな少女の必死な笑みを、ザックは死んだような表情のままに見つめていた。

 

 そして、少女の胸元に手にしていたクチナシの花束を放り投げる。

 吃驚しつつも、思わずそれをキャッチする少女。

 

 そんな彼女へ、ザックはポケットに手を突っ込むと、そこに入っていた物をばらまいた。

 

 

 彼女の周りにばらまかれたのは硬貨。

 窓から漏れる明かりを受けて光り輝く何枚もの金貨だった。

 

 驚きに目を丸くする少女。

 彼女はしばし、身を硬直させ立ち尽くした。

 驚愕から我に返った彼女が、男へ視線を向けると、ザックは幽鬼のような足取りで、エ・ランテルの街、その闇奥へと消えていった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ナザリック地下大墳墓、第9階層にある一室。

 この部屋は戦闘メイド『プレアデス』の共用部屋とされている。

 彼女たちが仲間内で会合をしたり、お茶会などをして交流を深める場として、用意されていたものだ。

 

 ゲームであったユグドラシル時代から、一応そういう設定はあったものの、この部屋がその目的で使用されることは無かった。

 雰囲気を出すため、あちこち歩き回るよう設定されていた一般メイドと異なり、侵入者を撃退することを目的として、第10階層へ降りた直後の広間でセバスと共に待機していたままの彼女たちには、時折にでも、この部屋にやってくるというプログラムなどはされていなかった。

 その為、あくまでただのロールプレイ用の設定として設置されていた部屋であったのだが、転移によってNPCたちが自らの意思を持ち動きだすようになり、遂に本来の役割を果たすこととなった。

 

 とは言え、この部屋を使う者は限られていたのが現状である。

 なぜならば転移以降、彼女たちにはそれぞれ非常に重要な任務が割り振られ、全員そろってのんびりしている暇はなかったからだ。

 

 

 この世界における調査、任務において、ギルド『アインズ・ウール・ゴウン』のギルメンの他は誰もその姿を知らず(やまいこのリアル妹である『あけみ』などごくわずかの例外はあるが)、また人間に近い容姿をしているプレアデスの面々の価値は非常に高いものであった。

 

 彼女たちには様々な指示が言い渡された。

 

 ユリは、王都へ潜入しての情報収集。

 ルプスレギナは、冒険者に偽装し外界におもむいているアインズのお供。

 ナーベラルは、セバスと共に帝都での情報収集。

 ソリュシャンは、ベル付きのメイド。

 シズは、度々カルネ村におもむき、そちらに異常がないか監視、報告する役目。

 唯一、エントマだけが外での任務を割り振られず、ナザリック内で他のプレアデスが抜けた代わりに働いていた。

 

 その為、プレアデス全員の共有の場であったのだが、実際に使用しているのはナザリックから出る事がほとんどないエントマと、ナザリックとカルネ村を行ったり来たりしているシズの2人が使用するのみであった。今も、部屋の中央に置かれた赤いテーブルクロスの敷かれた丸テーブル、その周りに置かれたいくつもの椅子に腰かけているのはその2人だけである。

 現在はナーベラルも、長期間にわたった帝都での任務を終えてナザリックに帰還していたのだが、今はアインズとベルから、とある実験の為に呼び出されており、席を外している。

 

 

 室内は真ん中に置かれたテーブルの他は、壁に赤と黒を基調とした奇妙な絵画がかけられている程度で、取り立てて見るべきものはない。

 がらんとした空間だ。

 しかし、これはつい最近になって、当初通りの姿に戻された光景である。

 

 ほんの少し前までは、この部屋は別の様相を見せていた。

 姉4人がナザリックを長期間離れている間、部屋を使用していたのは先にも述べたようにシズとエントマのみであった。

 その頃、部屋の片隅には、シズが持ち込んだ様々な武器や兵装などが山のように積まれていた。そして、エントマの蟲たちが、その隙間を住居に暮らしていたのだ。

 

 ようやっと久しぶりにナザリックへ帰ってきたナーベラルはその室内の有様を目にし、盛大に顔をひきつらせた。

 そして彼女の号令の下、部屋の一斉片付けが行われ、ようやくかつての姿を取り戻したのである。

 

 その時、その光景を目にしたのがナーベラルであったのは幸いであっただろう。

 もし先に返ってきたのが、ナーベラルが想像して顔をひきつらせたように長姉であるユリであったのならば、整理整頓がいかに大切であるか、体で憶えさせられていただろうから。

 

 

 とにかく、そんなのどかな時間の流れる昼下がり。

 この部屋にいる2人のうちの1人であるシズは黙々とMG42の分解整備を行い、エントマはというと、コリコリと音を立てて、グリーンビスケットを齧っていた。

 室内にエントマがビスケットを齧る音と、シズの手元で金属と金属がぶつかり合う音だけが響く。

 

 そうしているうちに、ふとした事を思いついたエントマが声をかける。

 

「ねえ、シズぅ」

「……なに?」

 

 整備の手を緩めることなく、シズが尋ね返した。

 

「あのねぇ。ちょっと、みりんって10回言ってぇ」

「……みりん、みりん、みりん、みりん、みりん、みりん、みりん、みりん、みりん、みりん」

「じゃあぁ、鼻が長いのはぁ?」

 

 シズは間髪を容れずに答えた。

 

「ハナアルキ!!」

「なにそれ!?」

 

 




 文字を大きくする機能があるのに気がついたので、使ってみました。

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