凄く好きでした。十三日ですけど、
いきなり背後から殴られたような最悪の気分だった。
俺は"あの時"まで何かを救ってきたような気で居た。陽乃さんから共依存だと冷笑されたあの関係が破綻を迎えたあの日までは。結局、そうなのだ。雪ノ下に対して俺は何もしてやれなかった。由比ヶ浜に対しても何もしてやれなかった。何もかもを否定して、あの部室から俺は逃げ出したのだ。心が暗く沈む。──留美に対しても結局、そうなのかもしれない。自分が得意げに披露していた方法が、あんなにも見ている人間の心を傷つけていたなんて考えもしなかった。失敗した。間違っていた。教育実習なんてやっていい人間ではなかったのだ。
暗く、陰鬱とした感情が体を包んでいく。だが、不思議と俺の体は止まらない。思考も止まらない。留美は部室とは違う方向へ走っていった。あの教室には向かわないのだろう。そして、俺は何をするわけでもなく呆然とただただ廊下を歩く。そのまま階段を下りて、グランドの方へ。数年ぐらいでは何も変わらない。サッカー部は未だにサッカー部だし、テニス部は未だにテニス部だ。そして、奉仕部も変わっていない。俺と雪ノ下の悪いところの一部を受け継いでしまったような後輩が、そこにいる。そして、そのやり方に俺はイラついている。──放っておけば良い。彼女は望んでそうしているのだから。心の中で理性の化け物が呟いた。お前に彼女を弾劾する資格があるのか、同じ事をしていたのに──自意識の化け物も心の中でそう呟いてる。今までずっとそうしてきた。だが、何故今回はそれに従わなかったのか。
──そんな事は決まっている、俺が変わってしまったからだ。
放っておけば良い、そんな事ができるか。俺は教師を目指してしまったのだ。少なくとも、俺が憧れた教師像とは程遠い。弾劾する資格があるのか。あるに決まっている。──俺が間違っていたと感じているのだ。その間違いは正す必要がある。
「っは」
ふと笑いが漏れる。怖くなってきた。留美と向き合う事が。俺自身のやってきた事と向き合う事が。一度失敗して、大切な人達を傷つけてしまった事が。本物が手に入らなかった事が。だが、不思議と思考は前向きだった。何故だろうか、と考えたがすぐに答えは出た。そう、かつて同じように悩んだ時がある。そんな時、かけられた言葉を反芻するように俺は呟く。
「考えてもがき苦しみあがいて悩め──そうでなくては、本物じゃない、か」
いいさ、そうしてやる。俺が見つけた、俺の答え、俺の理由で動くときがもう一度来た。かつて、人とのつながりは麻薬のようなものだと俺は論じた。知らず知らずのうちに依存して、心を蝕み、他の人に頼らなければ何もできない人間になってしまうと。──自分達のやって居たことは、共依存だとも責め立てられた。
──だから壊した。完膚なきまでに。
俺が彼女に依存しないよう。ずっと2人で仲良くやっていけるように願いを込めて。俺は2人の事を傷つけた。──その結果はどうだ。俺は、結局もう1人には戻れなかった。静さんとは縁が切れなかった。彩加と沙希と義輝は、ずっと俺の傍に居た。隼人も後からまたやってきた。だから、俺は前に進めた。認めるしかない。どんな思考や屁理屈をもってしても、それを否定する事は、もう俺にはできなかったからだ。
●
多少思考がポジティブになったところで、解決策を思いついたわけではない。……いや、しょうがないでしょ。俺だって数年経って気がついたんだから、今の留美に正面から言ったって理解してくれる可能性は低いだろう。いや、やっぱり人のいう事ってやっぱ素直に聞いておくべきだよな。ここは一度体勢を立て直すべく、喫煙室に篭るしかない。校舎内を移動し、そっとドアを開けると誰も無い。どうやら、平塚先生は職員室で仕事をしているようだ。
「いや、これが普通なんだよな」
煙草を一本取り出し、火をつけ紫煙を吸い込む。脳みそが少し楽になったような気がする。そんな折、珍しく俺の携帯電話が鳴った。珍しい事に、隼人だった。しかしまぁ、丁度良い。あいつぐらいのハイパーリア充なら、きっとどうすればいいかの解決策ぐらい持っているだろう。──そして、もしもし、と電話に出ると、
「米が尽きた」
絶望したような声が、俺の耳に響き渡りあまりの衝撃に電話を切ってしまった。しかし隼人はめげずにまたすぐにかけてきた。こいつ一体何なの?
「酷いな。いきなり切ることないだろ?」
「……お前、本当に駄目な男になってきたな」
「レベルを合わせてやってるんだよ。まぁ、それはそれとして元気でやってるか? そろそろ女子生徒に拒絶された頃合かなと思ってかけてみたんだけど」
何なのこいつエスパー? 俺の行動読みすぎでしょ、なんて思ったけど俺が隼人の立場なら確かにこの時期ぐらいに電話をかける。なんなら、女子全員に嫌われた頃合だって予想までしちゃってる。自分で言っててすっごく悲しくなってきた。とはいえ、現状相談できるとしたらこいつぐらいしかいない。なんたって義輝は就活が嫌になって部屋から出てこないらしいからな。陽乃さんが偶に部屋の前に立って、圧迫面接の真似事とか悪ふざけを始めた効果もあってか、二週間は部屋から出てきてないらしい。鬼か。そんなこんなで隼人に今の現状を相談してみた。奉仕部の事。留美の事。今までやってきた事。俺が、こいつに相談事をするなんて初めてではないだろうか。そして隼人はやはりというか、真面目に俺の話を聞いてくれた。
「留美ちゃんか……。懐かしいな。だが、俺から言える事はあんまりない。確かにあの時、俺のやり方ではあの子の心は救えなかっただろう。……だから、根本的に俺の発想では彼女を救う事ができない」
「俺のやり方が正しいとも言い難いけどな。結局のとこ俺は、留美とどう向き合えばいい。どんな話をしてやればいいか全く思いつかないんだ」
「状況から察するに、一応お前だけには心を開いてるようだから、きちんと話せとかし言えない」
「は? あいつが俺に心を開いてる?」
「……相変わらず女心には鈍感だな。まぁ、いいか。よく聞け。──彼女の言葉にきちんと耳を傾け、共感し、褒めろ。自信を持たせて自分の殻を破らせるんだ。それで、大抵の子は信じてついてきてくれる」
「……俺は女子高生のナンパ講座を聞きたいわけじゃねぇんだけど」
「仕方が無い、俺にはそれしかないから。だから、これぐらいしかアドバイスできない。彼女の信頼を勝ち取ってどうするかはお前が決めるしかないよ。結局俺は留美ちゃんのような子に対して、同情はできても、共感はしてあげられないんだ。嫌な言い方だけど、経験がないから」
どこか悲しそうに隼人はそう言った。ずっとトップカーストを走ってきた人間は、真にぼっちの気持ちがわかるかというとそうではない。俺だって、トップカーストにずっと居た隼人の苦しみに対し、同情は出来ても共感はできない。
「昔、優美子が言ってたよな。他の可愛い子に声かけて、新しいグループ作ればいいって。俺はそれも一つの正解だと思う。現に、姫菜だって随分とそれに救われていたから」
「それはあいつにしかできんだろ……」
「そうだな。でも、そんな優美子にだって手に入らないものもあった。結局、人は無いものねだりで他人が持っている自分と少し違う事が羨ましく見えるのかもしれない。俺がお前を凄いと感じるように。だから、こんなアドバイスしかできないんだ」
「対話する成功率を上げるテクニックの伝授ってところか」
「ああ、そうだ。──人の心の裏を考える奴には難しいかもしれないが、心を開いている人間にそうされて嫌がる人間は少ない。俺の統計だと7割以上は固いな。試してみるには悪くない数字だろ?」
「そうだな。まぁ……その、なんだ。ありがとな。試してみる」
「……礼なら米送ってくれ。ああ、後そういえば余計な事かもしれないが今総武に──」
電話を切る。すまんな、隼人。言葉では言えても俺も相変わらず金が無い。──でもまぁ、今晩母ちゃんに土下座してアパートに米送って貰おうかな。土下座が通ればの話だけど。とりあえず、留美を探すしかなさそうだ。まだ下校していなければいいが。あいつもぼっちだ。想像してみよう、仮に俺が部室に行けなくなったとして、この学校で過ごしそうな場所と言えば──
●
図書室の前まで行くと、丁度留美が出てきた。俺を一瞥すると、すぐに無視をして歩き出す。随分と嫌われたものだ。しかし、どうして学校に居場所がない奴ってすぐ図書室行くんだろうね。まずは謝罪しなくてはならない。彼女のやった事を頭ごなしに否定した事を。俺も留美の横に並んで歩き出すと、留美は携帯電話を取り出し始め、110と押す。なんて奴だ。俺でもそうする。
「ちょっとそれ洒落にならんのですけど……」
「キモいからついてこないで」
「……わかったよ。ついてかねぇから、まずは謝らせてくれ。さっきは怒鳴ったりして悪かった」
「悪いと思ってるならもうつきまとわないで」
「それはできねぇ。まだ、お前ときちんと話をしていなからな」
そう言うと留美は俺を横目で睨んで足を止めた。どうやら、少しだけ話は進展したらしい。ここからは、隼人の方法を試すしかない。確か、褒めて伸ばせって話だったよな。
「話す事なんてある?」
「ある。そう、沢山あるんだ。例えば、その髪型結構似合ってるな、とか。その靴下おしゃれだなとか。なんつーか、すっぴんでそれって凄くない?とか?」
……何だろう。根本的に色々と間違えてしまった気がする。留美が兎に角可哀想な人間を見るような目でこちらを見ている。
「ナンパでもしたいわけ? 教頭先生に言わなくちゃ」
「違う! 異性としてお前には全く興味が無い! 神と小町に誓ってそれはない! まぁ、なんていうか。その、持っているカバンも可愛いなぁとか」
留美の目が更に細くなると同時、不機嫌さが三倍ぐらいに膨れ上がった。……バカなっ!
「これ、学校指定のなんだけど」
「……そうですか」
会話が終わってしまった。もう用事は無いとばかりに留美はすたすたと歩いていく。こうなったら、モノで釣るしかない。アイスでも買ってやろうか……。嗚呼……財布の中80円しかない。何かお菓子でもプレゼントしようか……。駄目だ。タバコしか持ってねぇ! 渡した瞬間教育実習中止になってしまう。後は──なんて考えていると、留美はたったと廊下を走り誰かの下へと駆け寄った。
「厚木先生。なんか、比企谷先生が探してますよ。先生と一緒に部活したいって」
なんちゅう事を言うんですか鶴見さん。それだけで厚木先生の何時も怖い顔が綻び、とても楽しそうな表情になった。
「やはり変わったな比企谷。戸塚がよくお前の事を褒めていたが、やっと理由がわかった。よし、今日はテニス部の部活に来い。大学でなまった体を鍛えなおしてやる」
「ちょっ!? いや、先生そのですね……」
「お前体育の時やる気なかったくせにテニス上手かったもんなぁ。当時は気に食わなかったが。なんだ、大学ではテニスやってたのか?」
厚木先生に肩を抱かれ成す術もなく引きずられていく。もはや俺の話を聞く気は全くないようだ。留美はそれを見て馬鹿にしたように俺を見ると、
「さようなら、比企谷先生」
にやりと笑ってまた何処かへと駆けていった。
●
留美のせいであれから二時間。テニス部の筋トレに付き合わされた。足はガクガク。腹筋はぷるぷる震えている。そんな痛みを堪えながら、俺は校舎の階段を登っていた。もはや説得なんぞどうでもいい。あの可愛げのない小娘に一発お仕置きしてやらねば気がすまない。小町だったら許していたが、あいつは妹ではない。あの性格の悪さ、本当にプチ雪ノ下といった感じだ。おのれプチのん許すまじ。一生に一度レベルの本気を出しつつ奉仕部の部室近くまで来ると、角で長い黒髪が曲がっていくのが見えた。トイレか自販機にでも行ってたのだろうか。よくよく見てみると、やはり奉仕部の部室の辺りでドアの閉まる音がした。間違いない。思いっきりドアを開けて飛び込んでやろうか。はたまた部室で必殺副流煙攻撃でもしてやろうか。部室の前に立って、息を整える。やっぱ女の子だし副流煙は良くないだろう。思い直し、前者で行くと決めた。そして、俺は力の限りドアを引き、
「おいコラァっプチのん! てめぇ、さっきの落とし前つけに来てやったぞぉ!」
部室に入ると、そこに留美は居なかった。代わりに、長い黒髪の女が驚いたような顔でこちらを見ている。──あ、これ不味いって瞬間的に思いました。しかも、相手はよく知っている奴だ。プチじゃなくて本家が何故かそこに居た。当たり前だが、制服ではない。ワイシャツにスラックス。そして、作業員のような上着。手にはヘルメットとバインダーを持っている。やはりというか、彼女──雪ノ下雪乃は一瞬呆気にとられていたようだが、すぐに冷たい目に変わり、俺を氷のような薄笑いを浮かべて見ると、
「……久しぶりね、比企谷君。早速で悪いのだけれど、そのふざけた呼び方と、落とし前について説明してくれるかしら?」
いや、マジで本当にどうなってんのこれ。