なお、作品タイトルは『とうほうはぴねす』と読みます。『とうほうはっぷぴんいーえすえす』とかじゃないです。
では、どうか楽しんでいただけると幸いです。
一.出火したとされている……の?
――山奥にあるという辺鄙で小さな土地、幻想郷。博麗大結界と呼ばれる論理的な結界により外の世界とは隔離されており、一種の閉鎖空間となっているという。
そんな摩訶不思議な地域では人間以外にも、妖怪や妖精、神などと言った、夢幻や幻想とされている生物たちが闊歩していた。
文明の基本は明治であるが、外の世界から『存在を忘れ去られたもの』が漂流してくることも多々あるために、ところどころに平成までの文化、あるいは空想と謳われた技術も不完全ながら存在したりもする。
さて、そんな不思議な地域たる幻想郷でも、人間がもっとも多く住まう場所に人間の里がある。そこにある、主に歴史の授業を行ってくれるという寺子屋では、今まさに授業が繰り広げられていた。
寺子屋の授業は午前の九時から始まるのが常であり、現在の時間は九時を少し過ぎたところである。よって寺子屋の教室は当然授業中のため、等間隔で設置された方形の文机には、それぞれ一つに二人ずつの子どもたちが座っていた。
明治では紙は貴重なものだったが、外の世界で紙が溢れかえったおかげで幻想郷にもそれは普及している。どの文机にも帳面は置かれており、皆、筆を片手に持っていた。
しかし、今はその手は動いていない。その理由は一つ、左目に眼帯をした一人の少女がその場に立たされて、膝をついた先生と向かい合っているからだった。
「さて、覚悟はいいか? ことり」
「や、や! その、えーっと! け、慧音先生! もうちょっと! もうちょっとだけ待ってくれませんか? その、違うんですよ! これには実は深いわけがありまして!」
「ほう、なんだ。言ってみろ。言いわけなら聞いてやるぞ。聞くだけだがな」
「いえ、そのですね……ほ、ほら! まんじゅうっておいしいじゃないですか? 昨日はそれを食べたら気持ちよくなって寝てしまって……き、気がついたら朝にっ! これは絶対に妖怪の仕業ですよ! 妖怪がわたしを夢の世界に――」
「ふんっ!」
もはや言いわけにすらなっていない言葉の羅列を遮って、慧音は首を一旦大きく後ろに下げると、思い切り頭突きを繰り出してきた。
ごんっ、なんて鐘が鳴らされたような凄まじい音が教室中にこだまする。
痛いなんて言葉じゃ済まされないくらいの激痛だった。ことりはもはやなにを叫んだのかわからないくらいの悲鳴を上げ、のけぞって、さらにはその勢いで床に頭をぶつける。そっちも痛いが、それよりも額の方が何十倍も痛い。
前後で一気に二重で衝撃を加えられ、視界がぐるぐると回転していた。
「ぼ、ぼうりょくはんたい……じどうぎゃくたいぃ」
「ほう、もう一度されたいのか」
「嘘ですごめんなさい慧音先生さま」
額と頭の後ろをそれぞれ片手で押さえてうずくまることりを見下ろして、慧音は小さくため息を吐いた。
それからゆっくりとことりの頭に手を伸ばしてくる。ぶつけた箇所を押さえている手をそっとはがして、その具合を確かめていった。
「まぁ、なんだ。さすがに床に頭をぶつけることは予想外だったが、この程度なら大丈夫だろう」
「ふ、普通にじんじんってして、表しがたいくらい痛いんですけど」
「それくらいは素直に受け入れるんだな。宿題を忘れた罰だ。宿題を忘れた生徒には頭突き、と私は常々言っているじゃないか」
「忘れたわけじゃないです……やってないだけですぅ」
「なお悪い」
いい加減、授業を始めなければならないのだろう。慧音はことりのそばを離れて教室の前に移動すると、ことりを含む生徒全員を軽く見渡した。その数は決して多くはなく、せいぜいがニ〇人前後というところだ。
人間の里全体で見れば、子どもの数はさすがにここまで少なくない。むしろその数倍は軽くいる。しかしほとんどの家は日々の生活を送るだけでもせいいっぱいだということが里の現状であり、学校に通っているのは、そのほとんどが生活に多少の余裕がある家に住んでいる子どもだった。
「今日のこの時間は『幻想郷における人間と妖怪の関係』についてだが、まずは宿題ぶんの復習から始めようか」
慧音が教科書を片手に、昨日の授業の内容を大雑把に振り返り始める。大雑把と言ってもそれは慧音がそう思っているだけで、実際には詳しすぎるくらいに深いおさらいだった。
いつまでも転がっていたら怒られてしまう。未だ痛む頭の前後を押さえつつ、ことりは起き上がっては文机に体を向ける。
起き上がったことりに慧音がちらりと視線を向けては、すぐにそらしていた。もう少し寝転がっていたら、また頭突きでもされていたのかもしれない。危なかった、とほっと息を吐いた。
「ことりちゃん、また宿題忘れてたんだね」
隣に座る、慧音の話を聞きつつ帳面を見返している少女が、片手間に小声で話しかけてきた。
宿題はやっていないが、昨日の授業の内容は書いてある。ことりも帳面を開いてから、少女のつぶやきに言葉を返した。
「ふふんっ、まぁね。さっき慧音先生にも言った通り、まんじゅうがおいしすぎて。そのまま寝ちゃってねー」
「まぁね、って威張るところでもないと思うけど。というより、まんじゅうが云々ってあれ、本当のことだったの?」
「もちろん。わたしはねー、冗談は言うけど嘘はつかない。名づけてことりスタイルっ」
「『嘘ですごめんなさい慧音先生さま』はなんだったのかな……でも、ことりちゃんらしいね。それにしても、そのまんじゅうそんなにおいしかったんだ。どこで買ったの?」
「ほら、寺子屋の近くにある、ちょっと目立たない感じの茶屋さん。そこのまんじゅうがおいしいって小耳に挟んで、昨日買いに行ってみたんだ」
「寺子屋の近くの……? んー……あー、あそこね。ふぅん。わたしも今度買ってみようかなぁ」
隣に座る少女はこうして話しながらも熱心に復習をしていた。反面、ことりは昨日食べたまんじゅうの味を思い出して、頬が緩み始めていた。
それが慧音の目に留まったのだろう。教室の前に立つ彼女はすっと目を細めると、その口の端を面白そうに吊り上げた。
「さて、ことり。天和二年には確か大きな事件があったはずだが、それはなんだったかな」
「え」
びくりっ、とことりの体が勝手に反応した。これは答えなければ絶対にまずい。また頭突きをされるに違いない。
天和二年、天和二年、と素早く帳面に目を走らせる。しかし、そこに書かれているのは延宝での間に起こったことだけで――延宝は一六七三年から一六八一年、天和は一六八一年から一六八三年の元号――、天和についてのことはなに一つ書かれていない。どうやら宿題でやっていたはずの箇所だったようだ。
やばい、まずい。また頭突きされちゃう。
だらだらと冷や汗を流して言葉に詰まることりの裾を、慧音に見えないようにことりの隣に座る少女が引っ張ってきた。
「天和の大火。江戸時代に数多く起こった大火の一つで、駒込の大円寺から出火したとされている」
「て、天和の大火……えーっと、え、江戸時代に数多く、起こった……た、大火の一つで、こまごみの、だいえんじ? から出火したとされている……の?」
あからさまに復唱していた。発音もところどころおかしいうえ、最後には疑問形になってしまっている。
当然、隣に座る少女から教えてもらったことは慧音にお見通しだった。慧音は、ことりのすぐ横に目を向けた後、呆れたように肩を竦める。
ことりの隣の少女もまた、「せっかく助け舟出してあげたのに」と横目にじとっとことりを見つめてきていた。ことりはただただ面目ないと縮こまるばかりである。
「……はぁ、正解だ。天和二年には江戸の大火の一つ、天和の大火が起こっている。正午から次の日の朝まで、つまりは半日以上もの間ずっと燃え続けていてな、死者の数は三〇〇〇を超えている。おそらく、江戸三大大火の次くらいに有名な江戸の大火だろう」
隣に座る少女に免じて、慧音はことりのことを不問にしてくれたみたいだった。授業の振り返りを再開した慧音を確認し、ことりは体の力がどっと抜けたように机に突っ伏す。
けれどそのままではまた怒られることは明白なので、数秒もしたらすぐに無理矢理にでも起き上がった。今度はしっかりと慧音の話を聞いて、帳面にも書き写していく。
「――というわけでな、天和の大火はそこそこ有名とは言っても、実は被害の度合いで言えば江戸の大火の中では特別に目立つほどではない。その後に起こった八百屋のお七による放火事件の原因となったことが――――」
ふと、帳面を見直してみる。江戸の大火だとか、江戸三大大火だとか、放火事件だとか、出てくる単語が火に関連することばかりだった。
「……江戸時代ってそんなに大火事起こってたの?」
「うん。ことりちゃんは全然聞いてなかったみたいだけど、さっき慧音先生もことりちゃんに質問する前に『火事と喧嘩は江戸の花、なんて言葉が残るくらい江戸時代には火事が頻発していたんだ』って言ってたよ」
「うへぇー。大変だったんだねぇ」
「ひとごとじゃないけどね。もしも里でそんな大火事が起こったら、幻想郷の人間は絶滅しちゃうかもしれないし」
「えー。さすがにそれは大げさじゃない?」
「ことりちゃん、それ、本気で言ってる? 江戸時代に起こった大火じゃ、一番少ないものでも数百人は軽く死者が出てるんだよ。そんなのがこの小さな人間の里で起こったりしちゃったら、どうなるかな」
「むぅ……」
「仮に死者の数が少なくても、家とかお店とかそういうものが多く焼けるのは確実。食べ物だって全員分確保できなくなるかもしれない。里の外に移住しようにも、この幻想郷で力のない人間が比較的安全に暮らせる場所は、人間の里を除いて他にない」
「む、難しいっ……つ、つまり、大火事が起こったら人間は全滅って認識でいいの?」
「……さっきは絶滅なんて言っちゃったけど、さすがにそこまでにはならないと思う。でも、今よりずっと苦しい生活を強いられることになるのは間違いないかな」
むむむ、と顔をしかめることりを、隣に座る少女はほんの少しだけおかしそうに笑う。それから「ことりちゃん、あいかわらず頭が弱いんだね」とひとりごとのように口にした。
少しだけむっとしつつ、ことりもまた、あいかわらずこの少女は勉強熱心だ、と心の中で呟く。自分とは大違いだ。
――それからは、お話も控えめに割と真面目に授業を受けていた。十分ほどすれば宿題の内容の復習も終わり、本日の本来の授業の内容に入る。
それは『幻想郷における人間と妖怪の関係』。
慧音の行う授業は内容が細かすぎるというか、あまりにも深く解説しすぎるせいで難しく、まるでわけがわからなくて眠くなるとはもっぱらの評判だった。主にはことりが初めに寝てしまって、教材で頭を叩かれ、その音を聞いて他の眠りかけていた他の子どもたちもなんとか眠らないように耐えしのぐ。そんな流れがもはや通例なように思う。
ただ、今回のことりには頭突きでじんじんと痛む頭のせいで睡魔は襲ってこず、筆を片手に慧音の言葉にきちんと耳を傾けていた。
「つまりだ。実のところを言えば、妖怪の食生活は人間のそれと大差はない。ただ、その中に人間というものが混じっているだけなんだよ。まぁ、その『だけ』というのが厄介なんだが……」
「せんせー。それじゃあ、人間を食べない妖怪もいたりするのー?」
「そうだな。一般的に、知能が高く力のある妖怪ほどむやみに人間を食べたりということはしなくなる。そういう妖怪はこちらが紳士的に対応していれば襲ってくることもないから、逆に安心して接せられるかもしれない」
「どうして食べなくなるのー?」
「妖怪にとって、人間を食べるというのは好物を食べるのと同じようなものだからだ。ただ普通の食事よりおいしいから、食べたい。それだけのことなんだよ。だから、強い理性を持った妖怪ほどそういう本能には流されにくくなる」
それに、と慧音は付け加えた。
「幻想郷のルールを知っている妖怪なら、よほど空腹でない限りは人間を食べようとはしない。妖怪も人間がいなくなっては困るからな。里に住む人間をむやみに襲ってはいけないルールもあるし、里は妖怪の賢者によって守られてもいる。里の外に出たりしない限りは食べられる心配はほとんどないと言ってもいいな」
「なんで人間がいなくなったら妖怪が困るのー?」
「妖怪は人間の恐怖を糧にして存在を保っているんだ。幻想郷は外の世界と比べると人間の数が少ないから、あまり減らしてしまうと妖怪自身も存在が危うくなってしまう。空腹を満たすために人間を喰らい、そのせいで恐怖が足りなくなって消滅してしまうのでは本末転倒だろう。だからルールがある」
「せんせー。妖怪が私たちのきょーふで生きてるなら、わたしたちが妖怪を怖くなくなっちゃったら妖怪はいなくなっちゃうのー?」
「理論的にはそうだが、本能的な恐怖というものはそう意識的に拭えるものではないよ。夜の暗闇は怖いだろう? 妖怪を恐れるということはそれとなんら変わりはない。未知を恐れる心は簡単にはなくすことができないんだ」
慧音は子どもたちの質問に一つ一つ丁寧に回答し、授業を進めていく。
幻想郷に住む妖怪の間にはどういうルールがあるのか、妖怪の行動原理はなんなのか、空腹な妖怪と遭遇してしまった時はなにをすればいいのか。
加えて慧音は、普段は人間として生活し、時に妖獣と同程度の力を発揮する獣人や、人間の里でもいくらかの家が飼っている座敷わらしなどを例にあげ、妖怪とともにあるということが決して悪いことでもないということも説明していった。
「ねぇ、ことりちゃん」
「うん?」
そんな中、ふいと隣の少女に話しかけられて、珍しい、と少しだけ思った。
宿題を忘れた時などは「また忘れたんだね」と話しかけてくることはあっても、なんでもない授業中に勉強熱心なこの少女が質問してくることはあまりなかった。
「さっきは大火事なんて起こったら人間全滅、なんて言っちゃったけど、訂正。たぶん、実際に火事が起こってもそんなことにはならないと思う」
「なんで?」
「妖怪にとっても人間がいなくなったら困るなら、そんな人間がたくさん減るかもしれない人間の手に負えない大事件、妖怪が対処してくれるんじゃないかなって。慧音先生の話を聞いてたら、そう思ったんだ。ちょっとは死者は出るかもしれないけど、きっとそれだけだよ」
妖怪がいることで人間が得をする一番のこと。それは、幻想郷における人間という種が絶滅する心配がないということなのかもしれない。
大火事の危険が起きたなら、河童辺りが大量の水でもばらまいてくれるだろう。あるいはもっと大きな力を持った妖怪が大雨でも降らしたり、単純に火を操る力で炎をまるごと消してしまったり。
個人個人の生活が脅かされることを代償にして、妖怪という幻想の存在が持つ超常的な力によって、幻想郷の人間という種は守られているのだった。
「さて、こんなところかな。それじゃあそろそろ休み時間に入ろうか」
半日の日もあるが、今日の寺子屋は一日中の営業である。お昼を挟んで、西の空が赤くなり始めるくらいまで、国語や算数などを始めとしたさまざまな習い事をするのだ。
昨日は一晩中ぐっすり寝ていた影響だろう。頭突きの痛みを忘れた頃には時折眠りかけてしまうことがあったが、いつもと比べればことりは比較的真面目に授業を受け続けていた。