「――ぷはぁ」
ぺたりと床に座り込んだまま、目の中に水が入らないようにぎゅっと目を閉じて頭からお湯をかぶった。それが過ぎ去るとぶるぶると首を横に振って水気を払って、口を開いては止めていた息を再開した。
こういう時、妖獣の証たる獣の耳が垂れていることは便利だとことりは思う。もしもこれが猫や狐みたいに正面を向いているものだったなら、こうしてお湯を一気に全身にかぶることは好ましくない。普通の動物ように獣耳に水が入るだけで死んでしまう可能性が出てくるというわけではないが、気分が悪くなることには違いないのだ。
全身を通った温かさに少しの間ぼーっと天井を眺めていたことりは、纏う水滴の温度が段々と低くなってきたことを感じて、完全に冷える前に風呂に入ってしまおうと、ふらふらとその場に立ち上がった。
しばらく休んでいて少しずつ体力は戻ってきているけれど、だからと言ってずっと立っていられるほどではない。気を抜いて倒れてしまわないように最新の注意を払いながら、中から湯気を上げる大きな風呂桶へと足を進めた。
ことりが三人くらいは入れるだろう、釜や煙突が備えつけられた大型の小判型の風呂桶。普段は霖之助が一人で入っているそれは、体の小さいことりからしてみればかなりの大きさだ。
桶の縁に手を乗せて、お湯の入ったその中へぽちゃんっと入り込むと、さきほどかぶったお湯では一瞬しか感じることのできなかった温もりが全身を駆け巡るのを感じた。
久しく体験していなかった風呂に入ることの気持ちよさに、ことりはだらしなく頬を緩める。
「えへへ……やっぱりお風呂っていいなぁ……香霖さんには、ちょっと悪いけど……」
いつもは石鹸などを使って、水かお湯に浸した手ぬぐいで体を拭く程度しかしていない。正直、気持ちよくもなんともない、ただの作業でしかない。
瞼を閉じれば、こうしてお風呂に入ることとなった経緯が頭をよぎった。
『――ねぇ、あんたさぁ。さっき指切りした時にも思ったんだけど……ちょっとにおうわよ? 焦げくさいというか薬品くさいというか……体、ちゃんと洗ってるの? 妖獣だからっておろそかにしてない?』
『うぇっ!? え、えっと、ぞの……うぅ、ひっぐぅ。ごめんなざいぃ……』
『えっ!? あっ、ご、ごめんなさい! よ、妖怪って言っても女の子だし、くさいだとかなんだとかはいきなり失礼だったわよねっ? 謝るわっ』
慌てて小さく頭を下げてくる霊夢の向こう側で、魔理沙が感心したようにうんうんと頷いていた。
『霊夢、やっぱりお前さすがだよな。この私でもそこまで直球で本人が一番気にしてそうなこと指摘したりしないぜ』
『なによ魔理沙。じゃああんたはもし霖之助さんがくさかったらなにも言わないの?』
『僕を引き合いに出さないでくれ』
『それとこれとは話が別だぜ。香霖がくさかったら、さしもの私だってマスタースパークで汚れごと香霖を吹き飛ばすだろうからな。そもそも香霖はにおいなんて気にしないだろ』
『あのなぁ、僕は仮にもこの香霖堂の店主なんだぞ。客が不快になるような要素を無視するはずがないだろう。それに、そうでなくたって僕でも自分がにおうのは嫌だ』
霖之助が憮然とした態度でそう言い切ると、霊夢が呆れたように両肩を上げた。
『じゃあ、霖之助さんはこの子にお風呂でも貸してあげたらどう? 霖之助さんと違ってね、この子は女の子なのよ。霖之助さんが不快だと思う以上にこの子も嫌に思ってるの』
『さっきなんの躊躇もなくにおうだとか体を洗ってないだとか言ってのけたやつの言葉だとは到底思えないぜ』
『あぁ、それなら一応、霊夢が来る前に僕もこの子にお湯や石鹸を貸すことを約束してたけど……二人とも、どうかしたのかい?』
霖之助が元々ことりと約束をしていたと聞いて、霊夢と魔理沙が顔を見合わせる。霖之助はそんな二人を見て、訝しげに首を傾げていた。
『ねぇ、霖之助さん』
『なぁ、香霖よぉ。まさかとは思うが……』
『急に改まって、いったいどうしたんだ? 僕は、なにかおかしなことを言ったのか?』
霊夢と魔理沙は二人して霖之助にずいっと近寄ると、同時にその言葉を彼に放つ。
『この子に直接くさいだとか言っちゃってないわよね』
『こいつに霊夢みたいにくさいとか言ってないよな』
いつにもましてすごい剣幕の二人。霖之助が少々どもりながらも「い、いや、言ったが……」と答えると、その瞬間に霊夢と魔理沙が揃って大きなため息を吐いた。
『……確かに僕は彼女には相当無神経なことを言ってしまったが……霊夢ほど直球じゃないぞ』
『……霖之助さん。お湯を用意だとか、そんなんじゃお詫びとしては足りないわ。あなたは今すぐお風呂の準備をするのよ。今すぐにね』
『香霖が相当な唐変木ことあんまり気の利かない偏屈なやつだとはわかっていたが、まさかここまでとはな。さすがの私も戦慄するぜ』
『いや、だから二人とも――』
『いいからさっさと準備するのよ! 森近霖之助! ほら、さっさと行った行った!』
――断るなら今日土に埋めた妖怪のように、霖之助にも容赦はしない。それほどの威圧を放つ霊夢に押され、霖之助はしかたがなさそうにこうしてお風呂にお湯を入れてくれた。
「少しはにおい取れたかな……」
くんくんっ、と肩の辺りのにおいを嗅いでみる。妖獣だけあってそういう感覚は鋭いが、得てして自分のにおいなんてものはよくわからないものだ。こういう、水で濡れているような状況では特に。
霖之助は急に彼女たちの態度が変わったことに納得がいっていなかったようだが、ことりには、二人が怒っていた理由がわかっていた。
ことりは霖之助のことを異性の対象だとはまったくと言っていいくらい見ていないし、これからも一切そういうことになるとは思わない。それでも霊夢や魔理沙と言った同性ににおいについて言われるよりも、彼のような男性に指摘される方がことりは嫌だった。いや、どっちから言われるにしても傷つくことには違いないのだが、どちらかと言えば同性から言われる方がまだマシだと言える。それは、きっと霊夢や魔理沙も同じなんだろう。
「気持ちいいなぁー」
におうにおう言われたものだから、お風呂に入る直前までは「絶対においを取ってやる」くらいの確固たる心持ちで臨んだものだけど、こうしてお風呂に浸かっていると、そういう荒れていた気持ちも平静を取り戻してくる。
ぽーっと今日のことを思い返してみて、なんとなく、こうして霖之助のお店でお風呂に入っていること自体が実は奇跡なんじゃないか、なんて思う。
昨日は火事の家の中に飛び込んで。そのせいで服が焼けて、新調のために久しぶりに香霖堂に訪れて。早く帰ろうと思っていたのに偶然博麗の巫女と鉢合わせしてしまい、けれど彼女が霖之助を半ば脅したおかげでこうしてお風呂に入ることができていて。
昨日寺子屋で授業を受けていた時なんか、まさか次の日にはあの博麗の巫女こと妖怪巫女の博麗霊夢にここまでよくしてもらうなんて、思ってもみなかったことだろう。
「霊夢さん、かぁ」
ことりはこれまで彼女のことを、妖怪には一切容赦しない残虐非道の外道巫女だと聞いていた。事実、霊夢が香霖堂に来たばかりの時は霖之助との会話で、腹いせに妖怪の頭を土に埋めただとかなんだとかも口にしていたし、ことりにもまだ存外にすべてが間違いだとは言い切れない。
けれど実際に霊夢と話してみると、それだけではないこともわかってきた。人間の彼女よりもはるかに年上なはずのことりを子ども扱いして、頭を撫でて、気を遣って霖之助を押し切ってまでお風呂に入れてくれた。
頭の上に手を乗せてみる。撫でてみた。もちろん、自分で自分を撫でたってなにも感じない。
彼女は、優しい……のとは、少し違うのかもしれない。本当に心の底から優しい人なら、あんな無神経ににおうだとか言ってこないだろうから。
「わたしって結構ちょろいのかなぁー……」
顔の下半分を水面に埋めて、ぷくぷくと息を吐く。なにせ会ってまだ一時間も経ってないのに、頭を撫でて慰めてもらっただけで、これだ。
吊り橋効果というやつだろうか。うーん、と首をひねって、一拍置いて違うなと首を横に振った。恋だとかなんだとかそういう気持ちじゃない。これは年上のお兄さんやお姉さんを慕うような、そんな感情に近いものだ。
それに、博麗の巫女と相対することは、確かに吊り橋を渡る以上の心臓が暴れるくらいの緊張感はあったが、そもそもだからと言ってどきどきを生み出した吊り橋そのものを好きになったりはしないように、やっぱり吊り橋効果はなんだか根本的に違う気がする。
これまでずっと博麗の巫女に抱いてきた恐怖の感情やらの大半が、その対象によくしてもらうことで、彼女のことを純粋に不思議に思う気持ち、そして彼女を慕うような気持ちに置き換わっているような感覚。それが一番近いだろう。
「んー……そろそろ上がらないと」
風呂桶から立ち上がる。軽く水気を払い、二本ある尻尾をそれぞれ数回振ると、風呂場の出口へ向かった。
用意してもらっていた手ぬぐいを持ち、けれど立ったまま拭くことはちょっとばかりきつかったので、風呂場に戻ってから、はしたないと思いつつも床に座って体に手ぬぐいを当てる。
初めは頭、次に白い手、足、あんまりない胸、お腹と、足。最後に獣の耳と尻尾を軽く拭くと、よし、と頷いて再度風呂場を出た。
出てすぐのところに置いておいた、元々着ていた紺と白のまだら模様のワンピースと、カーディガン、それから靴下。それらを持ってみて、ことりは少しばかり顔をしかめてしまう。なんというか、焦げくさいというか……さっきまでの自分のにおいが少なからず移ってしまっているらしい。
「あんまり着たくはないけど……」
だからと言って自分の家ではないここに替えの服はない。ちょっと嫌々ながら、我慢してワンピースを身につけ、カーディガンを羽織り、靴下をはいた。最後に、眼帯代わりの包帯を頭に巻く。
風呂場の近くから居間に戻り、そこからさらに店の方まで足を進めていく。
風呂場にいた時はお湯自体が放つそれにまぎれてわからなかったが、こうしてなんでもないところに出てみると、温まった自分の体からぽかぽかと白い湯気が上がっていることが確認できる。
「こういうのって、なんていうか、オーラみたいでなんとなく強くなった感じがする……」
今なら博麗の巫女にも勝てる……気はしない。なんとなく、土に頭を埋められてしまう未来が見えた。それも秒殺の勢いで。そもそも博麗の巫女というものは大妖怪でさえ打倒し得るほどの霊術を行使すると言われているのだから、変化の術がちょっと得意な程度のことりが太刀打ちができるわけがない。
商品が並ぶ店の方に出ると、我が家と違わんばかりのふてぶてしさでくつろいでいる霊夢と魔理沙、そしてそんな二人をもはや諦めた様子で放置している霖之助が、ことりを迎えてくれた。
「あら、おかえり。さっきと比べてだいぶ気分がよさそうね」
「はい。えっと、その、においの方は……どうでしょう」
風呂に行く前のように、霊夢の隣にちょこんと腰を下ろす。霊夢はその手に持っていた湯呑みを下げ、すんすんと少しだけ鼻をひくつかせた後、小さく笑みを作った。
「大丈夫よ。むしろいい匂いがするし……服はさすがにまだちょっとあれみたいだけど」
「ほんとですかっ? ありがとうございますっ。服は、帰ったらちゃんと洗います……あの、香霖さんも、わざわざお風呂を汲んでもらっちゃって、ありがとうございました」
「別に構わないよ。君に失礼なことを言ったことは確かだし……その代わり、今後も香霖堂をよろしくしてくれよな」
「もちろんですっ」
これまで香霖堂に来なかったのは、妖怪巫女こと博麗の巫女たる霊夢と出くわすのが怖かったからだ。その霊夢への恐怖が薄れた――完全にはなくなっていないが――今であれば、いくらでも足を運んで構わない。
これまでくさいだとかにおうだとか指摘されていが、それが一転して霊夢にいい匂いだと言われた。そのことに、ことりは無意識のうちに機嫌よさげに尻尾を左右に振る。霊夢が気を遣って嘘をついてくれた可能性もあるにはあるが、なんとなく、霊夢はそういうお世辞じみたことは言わない気がした。
「あ、そういえば服の仕立て直しの件なんですけど……香霖さん、わたしよりも先に霊夢さんの方をやってもらって大丈夫ですよ」
「いいのかい? 君がいいなら、僕も構わないが……」
「あら、気が利くじゃない。ありがとね、えぇと……」
霊夢が言いよどんでいるのが自分の名前だということに気がついて、ことりは、自分の胸を指して告げた。
「ことりです」
「私は博麗霊夢よ。で、あっちのたまにうるさいのが霧雨魔理沙」
「常に無神経な妖怪巫女よりはマシだけどな。ま、よろしく」
「はい、よろしくお願いしますっ」
改めて挨拶を済ませると、ふいと霖之助が思い出したように呟く。
「そういえば君は霊夢が来る前にまだ買うものがあると言っていたが、いったいなにが欲しかったんだい?」
「あ、えぇと、ないとは思うんですけど……布団です。ありますか?」
「……いや、まぁ、結構昔に外の世界のものを修繕してみたりしたから、余ったぶんがあるにはあるが……ここは古道具屋なんだが」
「その辺にあるわけのわからん奇妙な道具よりも、そいつが一番古道具らしいぜ」
幻想郷に流れ込んでくる外の世界のものは、どれもこれも妖怪のように忘れ去られてしまった道具だ。店に並ぶ使い方がわからない数々の珍妙なものよりも、どんな時代だろうと使いみちのはっきりしている、忘れ去られるくらいに古い寝具を修復したものの方が、確かに古道具っぽいと言えるかもしれない。
頭を抱える霖之助への魔理沙のにやりとほくそ笑みながらの一言に、くすり、とことりの口元にも笑みが浮かんだ。