一.ふふん、元気だけがわたしの取り柄だもん
――お前は鬼を騙すためにうまれてきた。
そう、父はうまれたばかりのわたしに言った。
――お前は私たちの最高傑作よ。
そう、母は善悪混じり合うわたしの瞳を見て言った。
かけられた言葉の意味なんてわからなくて。
両親が喜んでいるさまが、嬉しくて。
ただそれだけで。
優しく頭を撫でてくれた、その温もりがいつまでも忘れられなかった。
「ありがとうございましたー!」
寺子屋に挨拶の声が鳴り響く。空高くには爛々と輝く太陽が幻想郷を照らしており、人間の里では人間の大人がたびたび忙しそうに動き回っていた。
春の祭りの日からすでに十数日。天気と違って、人里からはとっくにお祭り気分と言った陽気は抜け切り、人間は皆、いつも通りの仕事に明け暮れる日々を送っていた。
「あ、ことりちゃん。一緒にけんけんぱでもして遊んでかない?」
「ん、ごめん! 今日はちょっと用事があるから先に帰るね!」
授業が終了し、慧音が教室から去ったところで、ことりは隣の少女から話しかけられた。今日の授業は午前中しかない。子どもたちは各々遊ぼうと誘い合っていたり、家の手伝いなどのために帰り支度をしている。
ことりも祭りの前の日までならば迷わず一緒に遊んでいたところなのだけど、あいにくと今日は用事があった。
「本当にごめんねっ。また誘ってくれると嬉しいな。それじゃっ!」
「あはは、ことりちゃんはいつも元気だね」
急いで帰り支度をして教室から去ることりを、隣の少女は手を振って見送ってくれた。割と適当に対応してしまったのに嫌味の一つすら言わないいい子である。
寺子屋の玄関から外に出ると、ことりの目を日差しが刺激した。反射的にわずかばかりに目を細める。それでも少し経てば目の方も慣れてきて、通常通りに景色が見えるようになった。
ふんふんと鼻歌でも歌いそうなくらいの笑顔を浮かべながら、ことりは人里の道の真ん中を駆け足で進んでいく。人間ならばほんの数十秒走っただけでも多少は息が切れてしまうものだが、今のことりは寺子屋に通うために人間に化けているにせよ、元は身体能力に優れた妖獣だ。人里の外に出るまで一切の減速も息切れもせずに走り抜けた。
「えぇっと……よし、誰もいないっと」
門を出て、しばらく道を進んでから辺りを確認する。いつまでも人間の子どもの姿で人里の外をうろついていて、人間だと勘違いされて妖怪に襲われてしまったりしたらたまらない。それに、一桁くらいの子どもの姿だと歩幅も小さくて急ぐに急げないのだ。
どろんっ、と変化を解く。身に纏うものは外の世界の制服を模した黒白の衣装と眼帯。霖之助に頼んだこれらはすでに新調し終え、再びことりのお気に入りの服装となっていた。
人里からいつまでも普通の道が続いているわけではない。ことりは途中から林の中にある獣道に入り、木漏れ日の差し込む中を歩んでいった。
やがて少し開けた場所に出ると、その中央で煙管を片手に持った一人の妖怪と、数匹の狸が話している様子が見えてくる。
「ししょーっ!」
大声を上げてぶんぶんと手を振ってみると、その妖怪がこちらに気づいた。口元を緩めると、ひらひらと小さく手を振り返した後、ちょいちょいと手招きをしてくる。
ことりはこくんっと頷いて、早足でそこへ近づいた。
「おはようございます!」
びしぃっ、と敬礼してみる。妖怪は――狸の長、二ッ岩マミゾウはそんなことりに、苦笑いを浮かべた。
「おはようというか、もう昼じゃがな。待っておったぞ。寺子屋はもう終わったのかい?」
「終わんなきゃ来れないです。わたしは寺子屋をさぼったりはしないいい子なのです」
どやぁ、とでも擬音が出そうな表情でことりは胸を張る。あいもかわらず今日もテンションが高い、とマミゾウは肩を竦めている。
「はて。よく宿題を忘れると聞いたのは、気のせいじゃったかな」
「えっ!? ど、どこでそれを」
「ちょいと寺子屋の前を通りかかった際に、お前さんの母親でも装って、直接聞き込みをしてみての。娘は元気にやってますか、とその辺の大人に問うてみたら、よく宿題を忘れる困った子です、と答えおったわ」
「うぐぅ……」
やる時は普通にやってくるが、時折、いやそこそこ、しょっちゅう他のことに夢中になりすぎて宿題をやることを忘れてしまうことがある。そのたびに頭突きを食らわされているのだが、ことりは頭の方がちょっと残念なのでまったく学習せずに同じことを繰り返すことがあった。宿題を出せと言われて出さない時は、「また忘れたのか」と慧音に呆れられるくらいには多い。
事実なので反論できない。すっ、と視線をそらすことりを、マミゾウは面白そうに見つめている。
「ま、とても元気ないい子ですとも言っておったがな。よかったじゃあないか」
「……ほんと? ふふん、元気だけがわたしの取り柄だもん」
ちょっと褒められただけですぐに調子が元に戻る。あいもかわらず単純だ、とマミゾウはくつくつと喉の奥で笑っていた。
「お前さんが――いや、ことりは元気が取り柄なことは確かじゃが、今はそれだけじゃなかろうて。その新しい長所を伸ばしてやるのがわしの役目じゃ」
マミゾウは自分の大きな尻尾に腰かけると、煙管をくるりと手元で回した。
「ほれ、今日もそろそろ始めるぞい」
「あ、はいっ! よろしくお願いします!」
春祭りの日の夜に正式に弟子入りが決定してから、ことりは定期的にマミゾウから変化の術についてのノウハウを教えてもらったりしている。今日もまたその修行の日だった。
軽く頭を下げると、うむ、と仰々しくマミゾウは頷いた。そしてすぐに、ふむ、と顎に手を添える。
「今日はどうしようかのう」
「え、考えてなかったんですか?」
「いやなに、先日はわしが教えればわしに次ぐ化け力を手に入れられるなんぞほざいたが、変化なんぞ長い年月を生きるうちに勝手に上達していくもんじゃ。それを言葉や教え方一つで変えようなどとなると、そう簡単なものではなくてのう。ちょうどそこの化け狸に、お前さんらはどうやって変化を上達したか、と参考程度に聞いておったところじゃ」
マミゾウが煙管で指した先には、ことりが来るよりも前にこの場にいた数匹の狸たちがいる。どれもこれも頭の上に葉っぱを乗せ、妖怪としての気配が感じられることから、普通の狸ではなく化け狸のようだ。
「まぁ、わしと同じように特に意識なんぞしておらんかったみたいじゃが」
「あ、そうなんですか」
「むしろわしがお前さんにその幼さでどうやってそこまでの変化を会得したのか聞きたいくらいじゃったわい」
ことりはそう難しいことをしているつもりはないが、マミゾウいわく、ことりの変化の才能はずば抜けているという。マミゾウの一〇〇〇年を軽く越える生の中で今のところ三番目というのだから、それが相当なものであることは容易にわかる。
「ふぅむ……まぁ今日は、とりあえず基本からおさらいしてみるか」
「基本、ですか」
マミゾウはくるりと指先で煙管を回すと、それを軽く真上へと放り投げた。
「まず、変化の術についてじゃが」
ぽんっ、と空中で煙管が煙を纏う。その中から出てきたのは、ことりが今身につけている眼帯。
「目の前に実在する他のなにかに化けること」
手まりが重力に従って落ち始めると、ぽんっ、とまたしても煙を撒き散らした。次にそこから落ちてきたのは、人里でもよく遊び道具として見かける、小さな手まりだった。
触れてもいないものをこうも簡単に連続で化けさせる辺り、マミゾウの相当な化け力が窺える。ことりも自分以外のなにかを化けさせることは普通にできるが、さすがに手から離れたものを化けさせるほどの力は持っていない。
「頭の中にだけ存在するものに化けること」
手まりがマミゾウの手の中に落ちると、再びそれは煙を放った。それが晴れた時には元の煙管へと形を戻している。
「これらは本質的にはなんら変わりない。前者はただ単に模すべきものが目に映っておるから明確に化けやすいだけで、どちらも『想像したものへと姿を変える術』の産物じゃ。これはわかるな?」
「はいっ。えっと、後者は実際のものが目の前にないから想像がしにくいだけ、なんですよね」
「ああ。まぁ、よほど想像に乏しい者でもない限りはどちらもさして変わらんな。わしやお前さん、他の妖怪どもが人間に化ける際にも、その多くが実在の人間でなく想像上の姿に化けておるじゃろう。これくらいは区別せずともできて当たり前のことじゃよ」
「ふぅむ」
「これだけで言えば、じゃがな」
マミゾウはすぅっと鋭く目を細めると、再度煙管を手のひらの上で変化させた。そこに出現したのは、マミゾウが招き猫の格好をした石像。おちゃめのつもりなのかもしれない。
「ほれ、これを持ってみるんじゃ」
手を差し出して、受け取ってみる。見た目通りに硬いし、そこそこ重い。
これがどうかしたのだろうか、と首を傾げてみせると、くっくっとマミゾウがほくそ笑んでいた。
「重量、質感」
「あっ……」
「変化とは見た目だけを変えるものではない。中身もなにもかも想像上のものへと変えてしまうことこそが変化の本質じゃ」
すっ、とマミゾウが懐から一枚の硬貨を取り出す。
「じゃが、質感やらなんやらに関しても、再現するだけならばわしら化け狸やお前さんにかかればそう難しいことでもない。これは元は葉っぱじゃが、この通り硬さもなにもかも再現されておる。化け狸なら誰でも作れるものじゃ。じゃが」
元は葉っぱだという硬貨を持つ手に力を入れてみせると、その硬貨が簡単にぐにぃと曲がった。
「こういうことはどうじゃろうな」
「えっと……どういう、ことです?」
「今、わしはこの葉っぱの硬貨の硬さだけを変化の枠から外した。つまり、硬貨という見た目や質感を保ったまま、硬さだけを自由にいじってみせたということじゃ」
なるほど、とことりは驚き混じりに目を見開いた。
想像したものに化けるということは、硬い硬貨だけでなく、柔らかい硬貨を想像さえできればその通りになることを意味している。
理解さえすればそう難しいことではない。ことりでも同じことがきっとできる。だが、ことり一人ではそもそもそんなことを試そうという発想には至れなかっただろう。
「わかるか? 中身もなにもかも想像上のものへと変えることこそが変化の本質。それはつまり、仮りそめながら何者にでもなることができ、何物をも創り出すことができることを意味する。偽物になること、偽物を作り出すことではない。仮の真実をそこに創ることこそが変化の根本的な性質なのじゃ」
「ふわぁ……」
「変化を極めれば、あるいは龍にだってなることもできるやもしれん。本質だけで語ればそれほどの可能性を秘めた力じゃよ」
ことりはそんな風に考えたことすらなかった。なにか別のものや人物に化けること、想像した姿を模してみること。それだけを変化の術だと思い込んで、ずっと行使してきた。
想像したものを一時的に創り出す能力。偽物ではなく、仮りそめの本物を創り出すこと。現実を塗り替える力。
それこそが変化の本質だと、マミゾウの言葉からことりもまた理解する。
「まぁ、もっとも……龍ほどのものに完璧に変化するとなると、変化する時に使う妖力が巨大すぎて、素の状態で龍ほどの力を持っておらんと無理じゃろうが」
「え、それじゃあ龍に変化したってでかくなるだけで大して意味なんてないんじゃ……」
「……大仰なことは言ったが、本質的にはそうというだけの話じゃよ。当然のことじゃが、想像が難しい、あるいは精密、あるいは強大なものであるほど、変化に際して妖怪としての力を消耗する。自分の力の届く範囲にしか化けることができないというのが実際的な話になるの」
つまりはことりが龍に化けるなんて夢のまた夢のはるか彼方のさらに夢の話であり、ことりの想像を越えるほどのものを変化で創り出すこともできないということ。
中身の伴わないハリボテならば別かも知れないが……いや、そうやって本来の自分以上の、やたら凶暴なハリボテに化けることで人を騙す存在こそが化け狸という妖怪だ。自分ではそれほどの力を持ち得ないからこそ、姿かたちだけを模倣して人間に恐怖を与える。それは、ことりの今の思考回路とまったく同じだった。
やっぱりそううまい話なんてない、とことりは肩を落とした。
「そう落ち込むでない。変化の力を鍛え、それをもってして人を騙していけば、ことりのその……なんじゃ。そう高くない妖力もそのうち高まるかもしれん」
「気を遣った言い方しなくても、わたしの妖怪としての力が貧弱なことはわかってるので別にいいです……それから、えっと」
人を騙す。その言葉を聞いて、ことりは目を伏せた。
「嘘は、その……できれば吐きたくないです」
「ふむ。嘘、とな」
「冗談を言うのは別にいいです。でも、人を傷つける嘘だけは吐きたくないです」
それは妖怪という存在からもっともかけ離れている発言だということはことりが一番理解していた。
妖怪とは、人間を糧にして生きる存在だ。それが人の抱く恐怖という心にせよ、肉体そのものにせよ、そのほとんどが人のなにかを喰らうことで存在意義を保っている。
ことりはそういうタイプの妖怪ではないが、たとえばお燐などは人間を糧にする部類に入る。彼女は火車という妖怪であり、人間の死体を回収することを性質とされていた。事実ことりは、これまで彼女が死体を運んだりしているところに出くわしたこともある。
そういう場面を見ても、特になにか思うことがあるわけでもない。だけど自分が誰かを陥れるということに関してだけは、ことりはひどい忌避感を抱いていた。
妖怪としてあるまじき一言に、見限られてしまうのでは、とことりは不安げにマミゾウを上目遣いでそっと窺った。そんなことりの頭に、マミゾウは手を伸ばしてくる。
殴られるのでは、と涙目になってぎゅっと目を瞑ることりの頭を、けれどマミゾウはわしゃわしゃと髪ごと乱暴に撫でてきた。
「お前さん、わしがそんなに器が小さい妖怪に見えるか?」
ことりは、ぱちぱちと目を瞬かせて、もう一度マミゾウを見上げる。
「あの火事が起こった日、お前さんが、ことりという妖怪がそういう性格だと承知のうえでわしはこの師事の話を持ちかけたんじゃ。人に恐怖を与えるのではなく、人を助けようとすることこそがお前さんの本質だと知りながらな」
「わたしの本質……」
「そもそもお前さんのような単純な輩が嘘を突き通せるなんぞ少しも思っとらんよ。騙すことと嘘を吐くことを一緒にするでない。嘘を吐かずとも、人を欺くことはできる」
それにな、とマミゾウは続ける。しかし次に出てきた言葉は、ことりには少々理解しがたいものだった。
「人を騙すということが人を貶めることに繋がるとも限らんさ」
「それは……どういう……?」
「さてな、じゃが、お前さんならきっとそういう妖怪になれる」
騙すということは人を故意に謀り、その心と記憶に偽りを植えつけてしまうことにほかならない。ことりには、マミゾウの言うことを理解することはできなかった。
「ほれ、講義の続きじゃ。変化の本質が化けることではなく、想像による創造だと理解してもらえたところで、次の段階に移るぞい」
「あ、はい」
わからないことを考え続けていてもしかたがない。ことりは思考を切り替えると、マミゾウの修行に集中を始めた。