「――すっごくやりづらくなるんだった」
「ぅ、にゃぁ」
全身が熱を持っているかのようにぽかぽかと温かい。鬼が怖いだとかなんだとか、なにやらいろいろと考え込んでいた気がするのだけど、ことりはなんだか頭がぽーっとして思考を続ける気になれなかった。
視界が右へ左へふらふらとして安定しない。ふいと、手に持っていた盃をこぼしそうになると、その手を誰かが掴んでくれる。
それはことりのご主人さまこと、こいしのしてくれたことだ。ことりはふにゃぁ、と子猫のように無邪気な笑みを浮かべると、こいしに支えられながらゆっくりと盃をそばに置いた。
わずかに揺れる水面には、顔を真っ赤に染め上げたことりの顔が映っている。けれどことりとしてはそんなことはどうでもよくて、水面の端の方に見えるこいしの姿の方を認めると、口元を緩めた。
「えへへぇ、ありがとぉあるじぃ。あるじはいっつも優しいねぇ」
「あー、うん」
実のところこいしとしては、どちらかというと自分にお酒がかかるのを防ぎたいばかりの無意識の行動だったのだが、それを口にしたところで今のことりは照れ隠しだなんだのと言って話を聞こうとしないだろう。
ことりは元々隣に座っていたこいしへと、さらに体を近づけた。肩と肩がくっつくほどに密着すると、こてんっと彼女の肩の上に頭を傾けて乗せる。
「やっぱりあるじはいい匂いがするねー。わたしねぇ、昔からこの匂いが大好きなんだぁ」
「あー、うん」
すりすりと首を動かすと、その大好きな匂いに包まれているみたいでとても気持ちがよかった。
こいしがどうしてかやりづらそうに立ち上がろうとしていたので、腕を絡めて引き止める。
「んーん、あるじ、行っちゃらめ。あるじがいなくなっちゃったら、さびしすぎてわたし死んじゃうよぉ。あるじはそれでもいいの?」
「そこの紅白にでも構ってもらえばいいんじゃないかなぁ」
「やら。わたしはあるじといっしょがいいの。あるじじゃないとらめなの。ろーうしても行くってゆーなら、わらしも連れてってぇ」
「あー……うん」
ことりの舌足らずな引き止めに観念したようにこいしが大人しくなった隙に、彼女の腕を抱きしめるようにしてより強く密着した。これでもう、ことりの力が多少緩んだとしても勝手に立ち去ろうとすることはできない。
「……ねぇ、これはいったいどういうこと?」
霊夢が困惑を隠せない様子でこいしに問いかけていた。ここでことりに聞かないのは、ことりはまともに話ができない状態にあると判断したからなのだろう。そしてそれは正解だ。
こいしはうーんと少し唸ってから、ちらりとことりの方に目を向けた。
「ことりちゃんはねぇ……お酒に極端に酔いやすくて、すぐこんな風になっちゃうの。寝て起きたらことりちゃん自身こうなったことも忘れちゃうし、私もすっかり忘れてたわ」
「いや酔いやすいってレベルじゃないでしょ。一口飲んだだけじゃない。なんでこんな全身真っ赤になれるのよ」
「前の時は大変だったなぁ……ひたすらひっついてくるから、お姉ちゃんに引き剥がしてもらって無理矢理寝かせつけて――」
「えいっ」
こいしの言葉を、ことりがその頬を指でつつくことで遮った。
ことりはぷくーっと頬を大きく膨らませると、こいしと霊夢の視線の間に自分の顔を滑りこませる。
「わらひがとなりにいるのに、むししてほかのひととはなししないでよぉ。わらひをこんなふーにしたの、あるじがげーいんなんだから。ひゃんとへきにんとって」
「や、お酒はことりちゃんが自分から飲んだような」
「いーわけひないのっ! あるひはひっつもほう!」
言いわけもなにも事実なのだが、ことりの中では違うらしい。なぜかぷんぷんと怒り始めた。
「ひつもわらひをからかって、ひょっかいだひてきて……わらひにあまえしゃしぇてくれにゃくて……わらひがどれはけあるひのことすきかひってるふれに! らから、きょうくらいあるひはわらひだけみてればいーのっ!」
「あー、うん……ことりちゃん、追加で飲んでるわけでもないのに酔いがひどくなってない?」
「ほんらほと……あふぇ、なんら……ふりゃふりゃすりゅぅ。あるひぃ、ひはまくりゃひへぇ」
「え、なんて?」
そろそろことりがなにを言っているのか聞き取れなくなってきたこいしだったが、そんなことはお構いなしにことりは行動を開始する。
こいしを逃がさないようにぎゅっと抱きしめていた腕を離し、重力にしたがってことりの頭が落ちていく。その落下先にあるのは、こいしの膝。ぽすんっ、とそこに頭を置き、体を丸くし始めることりを見下ろして、こいしはようやくことりが「膝枕して」と言っていたことを理解した。
「んー、みゅぅ」
――幸せそうな顔をして膝の上で目を閉じている辺り、おそらく、放っておけばこのまま大人しく眠ってくれるだろう。
こいしはそう予想を立てると、下手なことはせずにじっとしていることに決めた。その中には、変に動いて、この状態のことりにまた絡まれたらめんどくさそうだとの思いが多分に含まれている。
いつもならここでことりの耳をくすぐったり、彼女の尻尾にもふもふとこちらも顔をすり寄せるところなのだが、今の状態のことりにそれはしてはいけない。
『――ぎゅー! これでもー逃げられないよぉ、あるじぃ。えへへぇ』
『えぇっと、ことりちゃん? 急にどうしたの? まだ一口しかお酒飲んでないけど』
『あ。そうら、あるじぃ、きょうはひさしぶりにいっしょに寝ようよー。最近あんまり構ってくれないんらもん。ねーえぇ、きょうくらいいいれひょ?』
『むぅ、ことりちゃん、私の話を聞いてよっ。酔ってるからって、無視するならいつもみたいにくすぐっちゃうよ!』
『くしゅぐりゅ? どこを?』
『そのふさふさの気持ちよさそうな尻尾とか、耳とか。ことりちゃんそれするといっつも面白いくらい転げまわってくれるから私も楽しいしー?』
『んー……耳と、尻尾かぁ……えへへぇ。恥ずかしいけど……うん。あるじなら、さわってもいいよ?』
『え』
『わらひもあるじのこと大好きらもん。あるじのためはら、がまんすりゅ。えへへー……うん。あるじなりゃ……わらひのからだ、すきにひていいよ?』
前回、ことりが酔っ払った時の記憶がこいしの頭の中によみがえる。あの時こいしはことりの苦手なことをしてみせる脅迫をすることでことりを引き剥がそうとしてみたのだが、返ってきたのは肯定の返事と、どこか恍惚で扇情的なことりの微笑み。
こいしとしてはことりの困る顔を見ることだとか、くすぐったいと逃げ回ることりを追いかけることが楽しいと感じていた。だから正直、顔を真っ赤にしてはにかんだ笑みを浮かべ、なにをされようが受け入れるとでも言うように両手を伸ばされては、くすぐるにくすぐれない。というか、そんな顔をする彼女に手を出すのはいけないことというか、なんだか犯罪のような気がして、さしものこいしも手を出すに出せなかった。
あの後すぐに姉ことさとりに助けられてもらったことでこいしは事なきを得たのだが、それがなければ、ことりがこいしにではなく、こいしがことりになにかされてしまっていたかもしれない。たとえばそう、閉じた第三の目を指で優しく撫でられるとか、吸血鬼ごっことか言って首を軽く唇だけで噛まれるとか。
いつもからかっている相手から、その行為を受け入れられるというのは、なんというかやりづらい。だから大人しくしていればことりが眠ってしまうという状況は、こいしにとって是非もなかった。このままじっとしていることが吉なことは間違いない。
「……ん、むぅ」
こいしの読み通り、しばらくするとことりは静かに寝息を立て始めた。もちろんこんな短時間で酒の成分は抜けず、ことりの顔は未だ赤いままだが、意識がなくなればそんなものは関係ない。
こいしは無意識にほっと息を吐いていた。
「なんていうか……悪かったね、こいしちゃん。私が酒を上げたばっかりにこんなことになっちゃって」
萃香が話しかけてきて、こいしは気持ちよさそうに眠ることりを見下ろしていた視線を上げた。
こいしは、この鬼のことを昔から知っていた。最強の種族とされる鬼の中でも四天王とされる四人の中の一人であり、たった一人でありながらも、小さな百鬼夜行などと比喩されるとてつもない力の持ち主。その名を伊吹萃香。
地霊殿は地底の中心に建っている。そして、地底の都には数多くの鬼が生息している。地霊殿の主たるさとりの妹のこいしには、鬼の四天王の何人かと面識があった。
「別にいいよ。どうせ遅かれ早かれ飲んでたと思うし。ことりちゃんの酒癖を忘れてたのも、私が忘れっぽいからだし」
「うん、そう言ってもらえると助かるよ。こいしちゃんはお姉さんと違って優しいねぇ」
瞳を閉じたこいしと違って、姉のさとりは妖怪、あるいは神仏、あるいは幽霊など、さまざまなものに嫌われている。それも当然な話だ。心を読めるなんて妖怪、誰が好きになれるものか。人は誰しもが他人に見られたくない思いを抱えている。その領域を見るだけで侵す存在なんて、忌避しなければ、自身のアイデンティティを否定することと同義でしかなくなってしまう。
こいしにはその感覚がよくわからない。姉とともに育ったこいしは、心を読み、読まれることが普通だった。今は瞳を閉じ、無意識下でしか行動できず、姉にも心を読まれなくなっているが、それでも他人のサトリ妖怪への拒絶の気持ちは理解できない。
この萃香という鬼はサトリ妖怪というよりも、古明地さとり自身をいけ好かないと思っているようにも感じたが、どうでもいいのでこいしは口に出すのをやめた。ことりと違って、こいしは別に、鬼がどうだとかそんなものに興味はない。
「いやぁ、それにしても驚いたねぇ。こいしちゃん、それ――――
「……えっ?」
「コトリジャ?」
興味がなかったから、聞き流してしまいそうだった。けれど思いもよらぬ単語が萃香の口から飛び出して、こいしの思考が一瞬停止する。
同時に、少し離れたところで、茨華仙が萃香の単語に訝しげに目を細めていた。
「あれをペットにするなんて、酔狂なもんだねぇ。にしても数百年前に存在の欠片も残らずちゃんと
「どう、して。知ってるの?」
「どうしてって、そりゃその耳とか変な尻尾とか補色の髪色とか見れば一目瞭然……って、あれ? もしかしてこの話、しちゃダメなやつだった?」
こいしが厳しい視線をしていることに気がついたらしい。目をぱちぱちとさせる萃香にこいしが頷いてみせると、あちゃー、と彼女は額に手を当てた。
気を取り直すように萃香は酒を口に運ぶと、ちらりと寝ていることりに視線を送る。もう一度、ことりの耳や尻尾、髪色やらを確かめるためだろう。
さきほど萃香が全滅などと不穏なことを言ったものだから、こいしは反射的にことりを守るように妖力を高めてしまった。その量はほんのわずかばかりのものだったが、向き合っている萃香は当然のようにそれに気づく。
「おっとと、悪いね。全滅がどうこうっていうのは、ちょっとした思い出話っていうか、世間話のつもりだったんだ。じゃなきゃこんな気軽に話そうとしたりしないよ。私は別に、あれの残党だからってそいつに手を出したりするつもりはないわ」
「本当?」
「ほんとだって。鬼は嘘を吐かない」
ことりから目線をそらすと、萃香は気まずそうに頭を掻き出した。いつも面白そうなことに顔をつっこんだり、鬼以外には明らかに危険な遊びにばかり手を出しているからだろう。そういう荒事に関しての話題の取捨選択は苦手らしい。
こいしは、ことりの顔をそっと窺ってみた。心の底から幸せそうな、柔らかい笑み。温かい寝顔。
こいしには自分がどんな表情を浮かべていたのかはわからないが、萃香は、ことりを見つめるこいしを認めると、小さく肩をすくめていた。
「よほど大切なのね、そいつのことが」
「うん」
無意識に答える。無意識下でしか行動できないこいしの行動はすべて、本心からこぼれ落ちたものだ。鬼と同様、嘘など決してありえない。
これ以上、萃香は詮索することはやめにしたらしい。余計なことを話すことなんて論外だ。
軽く手を振って「それじゃ、私はあっちにでも行くよ」と去っていく萃香を見送ると、こいしは、もう一度ことりの寝顔を見下ろしてみた。
こいしはいつも不思議だった。第三の目と一緒に、心まで閉ざしてしまった自分を、どうして彼女はこんなにも慕ってくれるのか。好きだと言うことができるのか。一緒にいて、あんなにも楽しそうに笑うことができるのか。
そしてそんな存在がこいしにとって本当はどれだけ大きいのか。ことりもまた、きっとなにも知らない。
膝の上で寝息を立てる彼女を見つめる角度ならば、当然、自らの閉ざした三つ目の瞳もこいしの目に入ってくる。
昔の話だ。ずっとずっと昔。もはやどれくらい前かもわからない、ずっと昔の話。
一人のサトリ妖怪は、心を読むことで人に恐れられることを存在意義としながら、そのせいで嫌われることが嫌で、痛くて、したがなかった。どんなに努力してもそれが覆ることはない。どんなに苦悩しようが、哀れんでくれる者でさえ、その心さえ見通した途端にすべて嫌悪に変わり果てる。
なにもなせない、変えられない。きっとずっと、願いなんて何一つかなわなくて、永遠に一人。絶望の淵で、さまよっていた。
――わらひもあるじのこと大好きらもん。
彼女もまた、同じだ。
誰にも好かれない。誰にも望まれない。誰からも拒絶される。誰からも受け入れられない。そんな風につくられた。そんな風にうまれた。
でも、この二人には決定的に違う部分がある。
こいしは苦しみの中で、なにも見えなければいいとすべてを拒絶し、瞳を閉ざすことを選んだ。誰からも嫌われることもなく、誰からも好かれることのなく、誰にも必要とされない、小石のような力と在り方を手に入れることを選択した。
ことりは違う。彼女は他者を騙すために生まれながらも、自分を決して裏切らず、他人に決して嘘を吐かず、今も幸せを求めて前へ進もうとがんばっている。懸命に日々を謳歌している。
もしかしたら、とこいしは思う。もしかしたら自分は、ことりのことを少しだけ羨ましいとも思ってしまっているのかもしれない。もしかしたら彼女のように、自分にも瞳を閉じる以外にもっといい選択肢があったんじゃないかと。
でも。
前へ進むことを選んだのは彼女だ。その先になにがあろうと、また苦しむことになろうと、それをどれだけ本当は恐れていようが、その無垢な心で足を踏み出したのは彼女の意志だ。彼女の強さが選んだことだ。
立ち向かうことがもう嫌で、すべてを諦めて道を閉ざしたのだって、こいし自身の意志だ。他の誰でもない、こいしの弱さが選んだことだ。
羨んでも、妬みはしない。妬みはしなくとも、わずかな憧れはそのまま。
この小さな女の子は、本当に強くて。きっとこいしが弱さと否定したものでさえ、強さに変えてしまうような。
「らい、ふき……こいひ、ひゃん……」
ふとそんな声が聞こえて、思考の渦からこいしの意識が戻ってきた。
目を覚ましたのかとも思ったが、単なる寝言だったらしい。未だことりは丸くなったまま、だらしなく頬を緩めて、よだれまで口の端から垂らしている。
服に垂れそうなそれを拭うよりも先に、ふと、膝に乗っているその頭を撫でていた。
彼女がいつも気持ちよさそうにしてくれるように、彼女がいつも喜んでくれるように。
瞳と一緒に心を閉ざしてしまった自分の言葉が届くわけがない。弱さに溺れた、無意識にしか出せない思いなんかで、なにかをなせるはずもない。
だけど、そんな自分の手の中で、少女は幸せそうに笑顔を浮かべてくれて。
――あぁ、やっぱり私は、この子のことが大好きなんだなぁ。
――誰にも取られたくない。誰にも傷つけさせたくない。
――まだ蕾でしかない小さなフクジュソウの開花を、幸せを掴もうとしている彼女を、誰にも邪魔させたくない。
「でも、もうお酒は飲ませないように徹底しないとねぇ」
今回は勝手に寝てくれたからよかったが、この状態のことりを相手にするのはやはり調子が狂う。それに、なにをされるかわかったものではない。いや、わかったものではないというか、ただ単にひたすらひっつかれるだけなのだが。
今度はちゃんと酒を飲んだ時のことを覚えててくれるといいなぁ……無理だろうけど。そんなことを思いつつ、こいしはしばらくの間、ことりの頭をそっと撫で続けていた。