――それは、いつも通りの修行の時間のはずだった。
寺子屋が午前中で終了し、駆け足気味でマミゾウと打ち合わせた場所に向かい。道すがら買ってきた団子を一緒に食べたりして、他の化け狸も参考人程度に混じえては、変化の術の練度を上げるためにさまざまな課題をこなす。
違ったのはただ一つ。帰り際、なにげない風にマミゾウが問いかけてきた言葉。
「のう、ことり――
「――ぇ」
それはまさしく、ことりが一番してほしくないと願っていた質問だった。
マミゾウが知るはずのない単語。マミゾウが問いかけてくるはずのない文言。
――コトリジャ。
「ど、う……して、知って……」
「盗み聞きをするつもりはなかったんじゃが……以前の宴会にはわしも参加していてな。お前さんを見かけたからこっそり近寄ってみれば、小さな鬼がお前さんを指してそう言っとった」
「お、に……そんな……」
「……なにかまずいことじゃったか? おい、どうしたんじゃ、ことり――」
呆然と立ちすくむ。鬼がそんなことを? いつ?
記憶にない。まさか、お酒で酔っていた最中に?
なんでもいい。重要なのは、マミゾウがコトリジャという単語を知ってしまったこと。ことりがそうだと、マミゾウが理解してしまったこと。
マミゾウからしてみれば些細な疑問、気軽にしてみた質問のつもりだったのかもしれない。
でも、コトリジャという言葉はことりにとって、親しい人たちにだけは絶対に知られたくない言葉で――。
「ぅっ――!」
「っ、ことりっ!」
マミゾウが叫んでいるのが後ろで聞こえる。だけど、一度走り出してしまったら、もう振り返ることも戻ることもできなかった。
魔法の森の家にも帰らず、マミゾウとともに行ったことのある場所には一度として立ち寄らず。
マミゾウと会う可能性がある地上にはいたくなかった。
だからことりは、たまに地上に出てきているお燐をどうにか探し出して、平静さを装って、帰る旨を告げて。
そうしてどうにか、地底の地霊殿まで逃げてきたのだった。
「わぁあ、やっぱりこのテラスはいいですねぇ。庭園がばぁーっと見渡せます!」
両手を広げ、大げさにリアクションをしてみせることりを眺め、さとりはくすくすと笑っていた。
地霊殿は元々、灼熱地獄へと続く穴に蓋をするためにつくられている。その灼熱地獄は、この地底が旧地獄と呼ばれるだけあって今は放棄されているのだが、それでもかつて数え切れないほどの死者の魂を焼き尽くした地獄はかなり広くできていた。それを完全に塞ぐために地霊殿も相当広く設計されており、当然、そうなるとスペースも有り余ってくる。
さとりとこいし、ことりたちペット全員が暮らしてもまだ余るスペースは、もっぱらこの庭園が補っている。数々の種類の植物が一部のペットたちの手によって丁寧に管理されていて――太陽の光が届かない性質上、育てられる花は地上のものと若干性質が違う上に限定されるが――、ことりは昔から、この庭園でこいしと遊ぶことが大好きだった。
そんな庭園を少しだけ高いところから見渡せるのが、二階にあるこのテラスだ。
テラスの端には手すりがあり、そのそばにガーデンテーブルと同じくガーデンチェアが三つ置かれている。ことりはさとりを抜いて小走りでいち早くそこへ駆け寄ると、庭園に近い側の席に「一番!」と腰を下ろした。
ペットという立ち場上、こういう行為は失礼に値することはことりも理解しているが、さとりやこいしはそんなことを気にするような性格をしていない。むしろどこか面白そうに、しかたがなさそうに、「あいかわらずねぇ」と苦笑していた。
「来て」
さとりがことりの対面に座り、そう呟くと、数秒後にその右肩の上に青い小鳥が降りてきた。
「いつものを二つお願いするように言ってくれる?」
「ぴー」
さとりはその小鳥を優しく撫でると、小鳥は気持ちがよさそうに答えて、飛び立っていった。
ことりには動物の声が聞こえ、さとりには動物の気持ちが見える。小鳥いわく、「りょうかいー」だそうだ。
「えっと、今のはどういう……?」
「伝言を頼んだの。お茶をいれられるペットに、それをテラスまで持ってきてって。あの子は自分がいれたいみたいなんだけど、あの体じゃあねぇ。人化できるくらいにならないと危なくて任せられないわ」
「人化……そういえば皆、力はあるはずなのに人化ってほとんどできないよねぇ。ふふん、その点わたしは年長者だからね! この通り人化くらいお茶の子さいさい!」
「ことりは初めて会った時から人型だったでしょうに。そもそも逆に、獣の姿になることができない。そうでしょう?」
「うぐっ……そうでした……」
ただの動物が怨霊を食らったり、人間の死体を食べたり、いわれをなぞったりすることで妖怪化した後天性の妖怪が妖獣には多い。けれどことりはうまれた時から人の形を持っていた、少々珍しい部類の妖獣だ。
そしてその中でも、獣としての姿を持たないという者はさらに少ない。むしろそこまでいくと妖獣よりも妖怪というくくりになりやすい。
けれどことりは妖獣としての、存在が肉体に極端に偏るという性質をその身に宿しているため、妖獣という分類になる。
人化できない他のペットたちと、獣化できないことり。これではどっちもどっちのイーブンだろう。年長者らしいすごさなどそこからはまったく窺えない。
「でも!」
ことりは意気込む。獣の姿を取ることができずとも、今のことりには元気以外の新たに自覚した取り柄がある。
「でも、変化の術さえ使えば! 最近がんばってるから思いついたもの大抵なんにでもなれるしっ――」
まだたったの数十日だけれど、これまでずっとがんばってきた。なんにもできない弱い自分でも、この才能が鍛えられればなにかできるんじゃないかと、そう期待して彼女のもとで努力を続けてきた。
そう、マミゾウのもとで。
けれど、そのマミゾウとは、もう――。
「それ、くらい……」
「…………はぁ」
さとりの息を吐く音を聞いて、ことりははっとしたように顔を上げた。
――だめだ、弱気になっちゃだめだ。マミゾウのことを考えちゃだめだ。さとりさまやあるじに心配かけさせるわけにはいかない。わたしはうまくやってるんだって、なんにも心配いらないんだって。そう、思ってもらわないと。
胸の前でぎゅっと手を握りしめて、目を思い切り閉じて、とにかく気丈に振る舞おうと四苦八苦して。
「そ、それくらい! 今のわたしなら何時間でも、むしろ寝てる間だってずっと――」
「ことり」
だけどもうそんなことしたって遅いなんてことはことりもわかっていた。一度でも考えてしまった時点で、さとりの持つ心を読む力はことりのすべてを見通してしまっている。
ことりが地上から逃げたくなってしまうようなことがあったこと。今この場に来るまでずっと無理に元気さを装っていたこと。ある妖怪からの質問から逃げてしまったことに、後ろめたさを感じていること。
さとりの優しくも、射抜くような視線に、ことりは息を詰まらせた。
「冗談は言うけど、嘘を吐かない。それがことりスタイル……あなたはいつもそう言っていたでしょう?」
「う、嘘なんて、わたしは」
「自分の心に嘘を吐いている。そうじゃないのかしら」
ことりの表層心理のすべてを見通すさとりの力の前では、一度崩れてしまった前向きな心のはりぼてなんてなんの意味もなさない。それは二人のサトリ妖怪と長い時を過ごしてきたことりが、一番よくわかっている。
笑顔を装ったまま開いていた口を、閉じた。じっとことりを見据えてくるさとりに目線を返して、今のこの気持ちは誤魔化せないことを悟ると、ことりは無理に浮かべていた笑みを消しては目を伏せる。
「……ごめん、なさい……わたし……」
「……顔を上げて」
さとりはガーデンテーブルに体を乗り上げるようにして、ことりの頬にその手で触れてきた。
顔を上げれば、さきほどよりも近い位置でさとりがことりを、今度はひどく優しげな二つの瞳で見つめてくれていた。
「教えてくれるかしら。地上でいったい、なにがあったのか」
「……心配、かけたくないです」
「こんなに不安がっていることりの心を見て、事情を知らないままの方がよほど心配してしまうわよ」
「で、でも」
「他のペットたちも気がついていたわよ。あなたには言葉しか聞こえないかもしれないけれど、私には心まで見える。あの子たちは、あなたが気丈に振舞っていることを悟って、あなたをどうにか慰めようとしていた。元気にさせようとしていた。そして最後には、私に揃って『お願いします』と」
「え、あの子たちが、そんな……?」
「もう一度言うわ。教えてちょうだい、ことり。地上でいったい、なにがあったのか。あなたはいったい、なにに対してそこまで落ち込んでしまっているのか」
「…………わかり、ました」
もう隠していることはできやしない。いや、あるいは、地霊殿に来ようと思った時点で、さとりにこのことを見通してほしいと無意識に願っていたのかもしれない。
かもしれない、じゃない。事実そうなんだ。
この悩みを、不安を、後ろめたさを吐露して、和らげたい。
だってそうでなければことりの行動は矛盾してしまう。心配をかけさせたくないと感じながら、心を読める彼女の前に進んで出るなんて、あまりにもバカげている。隠し通せるはずがないことはことりが一番わかっていたはずなんだ。
力だけでなく、きっと自分は心だって弱いんだろうな。何十年経っても、何百年経っても。きっと何千年経ったって。
コトリジャという単語がマミゾウの口から出ただけで、逃げて。その後ろめたさを直視せず、自分の気持ちをごまかして、心の底ではさとりにこうして優しくしてもらうことを望んでいた。
バカバカしい。あまりにも醜く、あまりにも愚か。
だからことりは、昔からずっと――自分のことが大嫌いだった。
拳を強く握る。けれど、すぐにそれは解いた。
自分のことなんてどうでもいい。でも、こうして自分が暗い気持ちになることで、さとりに同じ心を味わわせてしまうことはもっと嫌だ。
今、ことりはさとりの目の前にいる。第三の目に見られている。だからもう考えるな。
話さないといけない。たとえ自分が嫌いでもなんでも、そんなこと関係なく、この優しい少女にすべての本当のことを。
心配をかけたくないんだ。
うまれた時から誰にも受け入れられないようにつくられた、どうしようもない妖怪を受け入れてくれた、たった二人のサトリの少女にだけは。
「さとりさま、わたしは――――」
心を読めるさとりならばことりが考えるだけでもそれを読み取ることができるだろう。だけれど、ことりは一つ一つしっかりとさとりに言葉ですべてを伝えた。さとりもまた、なにも言わずそれを聞いてくれていた。
ある日、寺子屋から帰る途中でその女性と出会ったこと。新聞にも載っていた火事を通して、弟子入りをしてみないかと誘いを受けたこと。こいしに許可をもらって、正式に指南を頼んだこと。それからずっと変化の修行をつけてもらっていたこと。博麗神社に、弟子を自慢したいばかりに女性に連れて行かれたこと。
すべてを足しても、それはほんの数十日の出来事に過ぎない。さとりやこいし、お燐や他のペットたちと過ごした何十何百年という時間に比べれば、塵にも等しい極々小さな思い出だ。
だけど、祭りの時に落ち込んでいたことりを自分勝手に優しく励ましてくれた彼女の思いやりや、ことりの頭を撫でてくれた手のひらの温もり、今日までともに笑い合った時間は、決して嘘なんかじゃない。
ことりにとっては全部が全部大切なことだった。知り合ってからの時間なんて関係ない。ことりは彼女のことを慕っていて、彼女もまた、ことりのことを孫のようによく気にかけてくれていた。
優しくて、強くて、いたずら好きで好奇心旺盛で、自分のことをとても甘やかしてくれる憧れの女性。自慢の大好きな師匠。それだけが、ことりにとっての彼女への思いのすべてなんだ。
だからこそ、ことりはコトリジャという、自身の存在の根幹に関わる質問をされた時、答えることができなかった。
それを教えるということは、今までことりが多くの魑魅魍魎から忌み嫌われてきた事情を話すことにほかならない。二人のサトリ妖怪以外には誰にも受け入れられず、拒絶されたことりの秘密を話すことにほかならない。
ずっと嫌われてきた、ずっと軽蔑されてきた。
そんな秘密を話すことは、相手が親しくあればあるほどに、ことりにとっては恐ろしい。
この人ならきっと受け入れてくれる、この人なら絶対になんにも気にしないで、ことりのことを少しも疑おうとしないで、笑って受け入れてくれる――そんな気持ちを抱き、けれど、そのすべてがまがい物に変わり果ててしまうことの辛さ。ことりは誰よりもそのことを理解している。
「そうですか。そのマミゾウさんとやらに、あなたがコトリジャであるという事実が伝わってしまった、と。ですがコトリジャでなんであるのかはわかっていない。だからそれをよく知っているはずのあなたに聞いてきた」
「……はい」
すでに紅茶は用意されている。テーブル上にあることりのカップからは一切中身は減っていないが、さとりの手にあるカップからは、すでに半分ほど消失していた。
さとりが確認するように繰り返すと、ことりは首を縦に振る。さとりはそれに対し、右目を閉じた。
この片目を閉じるしぐさはさとりが相手の心を意識的に読もうとしたり、あるいは考えごとをしたりする時のくせだった。
しばらくしてカップを置いたさとりは、開いた両の眼でことりを見つめた。
「私にはそのマミゾウという妖怪がどういうものであるかはことりの記憶からしか判断できないわ。狸だけあって、ずいぶんと好奇心旺盛なうえに悪巧みが好きみたいだけど……あなたにはそれなりに誠実に接してくれているようね」
「誠実、ですか……?」
「わざわざ宴会が終わってから修行の時間にあなたにコトリジャのことを聞いてきた。宴会の時に、鬼に問うことだってできたでしょうに。たぶんそれは、あなたに関しての重要なことはあなたから直接聞きたいという無意識からの意思の現れなんじゃないかしら」
「……無意識」
「まぁ、ただ単にそれほど興味がなかったという可能性もあるけれど、ことりがこの短期間でこんなにも慕っているんだもの。その師匠があなたに関心がないわけがない」
本当にそうだろうか。唐突に、ことりは不安になってきてしまう。
ことりに弟子にならないかと誘われた時、彼女は好奇心や暇つぶしのようなものだと言っていた。だとすれば、もしかしたらことりと過ごしてきた時間は、何千年という時を生きてきた彼女には、ことりとは違ってなんでもない、どうでもいい記憶なのかもしれない。
いつもだったらこんなことは考えやしないだろう。あんなにも温かく優しく頭を撫でてくれたマミゾウの温もりが、全部が全部彼女にとってくだらないものだったかもしれないなんて、そんな失礼であまりにも虚しいことは考えることもおこがましい。
今こうしてマミゾウの思いを否定しようとしてしまうのは、そう思い込むことでいざ拒絶された時の痛みを和らげたいからなのだろう。きっと拒絶されるのだと決めつけて、早々に諦めることで、すべてから目をそらして閉じこもる。
本当に最低な行為だ。
わかっている。わかっていても、どうしてもやめられない。
それだけ大切なんだ。もうそれだけ、失いたくないものになってしまっているんだ。失った時の痛みが、これまでの温かさが、それだけかけがえのないものに変わってしまっている。
誠実。さとりがマミゾウのことをそう表現したことで、ことりの胸の奥が突き刺されたように痛んだ気がして、ことりは胸の前でぎゅっと手を握った。
ことりにまっすぐに接してくれていた彼女を、裏切ってしまった。逃げてきてしまった。心の中で、けなしてしまった。
申しわけなさで涙が溢れそうになる。
けれどそんなことは絶対に許されない。そんなもの許されてはならない。
なにもかも、悪いのは自分なんだから。なにも語らず逃げて、こんなところにまで逃げ込んで、思い出を拒絶しようとしている自分なんだ。
「……ことり。あなたの痛みは私にもわかるわ」
さとりにはことりの心が見えている。ことりがどれだけ苦しんでいるのか、そして感じているその苦しみをどれだけ身勝手でどうしようもなくて、嫌悪しているかもわかっているはずだ。
負に類する感情を見ることはサトリ妖怪の彼女にとっても辛いことのはずなのに、さとりは顔についた二つの眼でも、胸の前にある真実の瞳でも、真摯にことりを見据えてきてくれていた。
「私も……いえ、私もこいしも、この心を読む能力にずっと苦しんできた。心を読めるせいで、誰にも好かれない、誰にもそばにいてもらえない、遠くにいる会ったことのない相手にだって嫌悪される。そんな理不尽を押しつけられて生まれ落ちた」
知っている。もう何百年も前の、ことりが二人と出会う前の話。
さとりとこいしはかつて地上の妖怪の山というところに住んでいた。けれどありとあらゆる妖怪に忌み嫌われたせいで、こんな地下奥深くまで降りてくることになってしまった。
ことりはその時の彼女たちを知らない。ことりは地底で生まれ、地底で育った。地底で彼女たちと出会った。だから彼女たちが地上でどんな思いをしていたのか、どんな気持ちで生活していたのか、知るよしはない。
もしかしたらことりの過去に抱いた思いとは違うものなのかもしれない。だけどきっとそれは、ことりが味わった孤独感や無力感に、果てしなく似た近いものだったに違いなかった。
「ふふっ、サトリ妖怪らしく、そうして相手が私たちを恐れることを楽しめるだけの精神があればよかったんだけどね。でも、私たちにはそんなものは備わっていなかった……もしかしたら、不完全なサトリ妖怪なのかもしれないわね、私とこいしは」
「不完全……」
過去のことを思い出したからだろう。さとりは少しだけ辛そうな表情をしていた。
そんな顔にしてしまったことに、また胸が痛む。ことりが余計なことを話したせいで、思ったせいで、逃げてきたせいで、さとりに辛い思いをさせてしまっている。そのことが嫌で嫌でしかたがない。
自分が、弱いせいで。
彼女の顔を見ていることも心苦しくて、目を伏せようとする。けれどさとりは、そんなことりを押し止めるように再びまっすぐと見つめてきた。
「でも、ことり。それはあなたも同じでしょう?」
「同じ……? わたしと、二人が……?」
「あなたもコトリジャとして持つべきではなかった心を持って生まれてきた。妖怪にはありえない心を持って、産まれてきた」
「だけど、それはっ!」
「わかっているわ。あなたはそのせいで、両親から捨てられた。あなたはそのせいで誰からも嫌われる運命を是とできなくなってしまった。あなたが自分のことをどれだけ嫌っているかも知っている」
さとりはどこか悲しそうに、寂しそうに、けれどひどく優しげな目で、ことりに笑ってみせた。
「でもね、私たちはそんなあなたのおかげで救われることができたの。こいしがあなたを拾ってきてくれたあの日から、初めて私たちのことを受け入れてくれたあなたのことが、ずっと大好きで、本当にかけがえのない宝物なのよ」
「……わたしは……」
「あなたに自分のことを好きになってくれとは言わない。私だって、こいしだって……きっと自分のことなんて嫌いだわ。こんな館の中に逃げ込んだり、自分の心の中に閉じこもったり……そんなことしてもどうにもならないことなんてことわかり切ってるのに。だけどね、ことり、あなたは違うじゃない」
「違、う……?」
「あなたは逃げなかった。あなたはいつも、その先に痛みが待っているかもしれないことを、そしてその痛みが自分にとって耐えがたいことすら承知のうえで、前に進むことを選んできた」
「っ、違うよ! わたしはずっと逃げてきたんだっ! 誰にも理解なんてされないって、どうせ誰もわたしのことなんてわかってくれないって! そうやって決めつけて生きてきた! コトリジャのことだって、ペットたちにも、お燐にだって話してない! 今だってししょーから逃げ出してきて、わたしはこんな遠いところにまで――」
「ならどうして誰かと親しくなろうとするの? どうして、地上に出ることを選んだの?」
「それはっ」
それはことりが卑怯だったからだ。
さとりとこいしの二人がいたのに、もっと大きな幸せもあるんじゃないかって期待して、正体を隠してまで誰かと触れ合うことを望んだ。同じペットたちにだって本当のことを言わず、教えることから逃げて、温もりだけを求めて生きてきた。
地上に出たのだって、寺子屋に通うことを決めたのだって、日の当たる世界に住む人間はきっと幸せなんじゃないかって思ったからだ。それを自分も味わいたいと願ったからだ。
そんな脆弱で卑劣で弱い心でいて、前に進むことを選んできただなんて、逃げていないだなんて、そんなことおこがましすぎる。
さとりにはことりの思考が読めている。その上で、彼女は首を横に振った。
「あなたは私たちと違って逃げてはいない。今のあなたはただ、立ち止まっているだけ。さらに前へ踏み出すことを迷ってしまっているだけ。今いる場所から一歩先に進めば、溢れ出んばかり歓喜か、耐えがたい絶望か、どちらかが待っていることを理解しているから、躊躇しているだけ」
「そんなのただの詭弁だよっ! 前に進むことを恐怖してる時点で、そんなの逃げてることと同じなんだ!」
「なら、あなたは本当にそこから逃げ出すつもり? もう二度とマミゾウさんに会う可能性もある地上には出ず、慕った人を信じることができなかったその胸の痛みを抱えたまま、この暗い世界で永遠を過ごし続けることを望むの? それであなたがいつか本当に幸せになれると?」
「それは……」
そうやって逃げても、このまま立ち止まっていても、きっとことりは救われない。幸せになんてなることはできない。
わかっている。理屈では理解している。
だけどそれだけだった。
それでも前に進むことは怖い。自分の唾棄すべき秘密を話すということは、ひどく恐ろしい。その思いが覆ることはない。
「ことり」
なにも減っていないことりの紅茶と、ことりに構っていたせいで半分しか飲めていないさとりの紅茶は、もうすっかり冷めてしまっている。
さとりはほんの少しだけ躊躇するように、口を開けては閉じることを繰り返す。けれど最後には決意をしたかのように、ことりに向き直って、続く言葉を吐いた。
「あなたにとって、本当の意味でかけがえのない幸せを得るためには、そこから先へ進むしか道はないのよ。もしかしたら拒絶されるかもしれない、今以上の痛みを味わうだけかもしれない。だけどあなたが信じた人があなたにとっての本物だったなら、きっとあなたは誰よりも救われる。なによりも大切な幸せを得ることができる」
「本物……幸せ……」
「あなたと違って逃げ出した私なんかが口出しできるようなことじゃないことはわかっているわ。でも、このことは私よりもあなたの方が理解しているはずでしょう? 慕っている人にあなた自身の秘密さえ受け入れてもらえた時、どれだけあなた自身が嬉しいのか」
もしもマミゾウにコトリジャのことを受け入れてもらえたなら。拒絶の言葉ではなく、さとりやこいしのように、優しく抱きしめてもらえたのなら。
「…………うん」
これまでの温かさがなかったことになってしまうことは、確かに怖い。すべてを投げ出して逃げ出してしまいたい気持ちもある。
だけど同時に、マミゾウにもことりのことをもっと知ってもらいたいという思いと、その上でまた頭を撫でてほしいという願いも、ことりの中には確かにあった。
心を読めるさとりやこいし以外から、自分が受け入れてもらえること。もしもそんなことがあれば、ことりは確かになによりも大切な幸福を得ることができるのかもしれない。
幸せになりたい。かけがえのない幸せを味わいたい。それは、ことりがいつも抱いている唯一の望みだった。
「光り溢れる喜劇になるか、絶望の淵に落とされる悲劇になるか。それを決めるのはあなたじゃない。だからどんなに強く望んだところで、その恐怖が消えることはない」
ことりはマミゾウを信じている。だけど、ことりにはこれまでずっと多くの妖怪に拒まれてきた過去がある。その痛みを知っている。
そして慕っている相手から拒絶される痛みは、きっと、ことりの記憶にあるそれよりもはるかに凶悪なものなのだろう。二度と立ち直れないくらい、心を塞ぎ込めて永遠に閉ざしてしまうくらい、苦しいものなのかもしれない。
そうなれば、もう二度と、ことりは幸せになんてなれやしなくなる。唯一抱き続けてきたただ一つの願いさえ、かなうことはなくなってしまう。
マミゾウに秘密を話すということは、ことりにとって、彼女と過ごした数十日の時間にことりのすべてを賭けることと同義なんだ。
このままなにも知らないでいいと逃げてしまえば、また何百、何千年後かに、また幸せになれるチャンスが訪れるかもしれない――いや。
そんなことはありえない。逃げたって、その先にあるのは暗い暗い旧い地獄の世界だけ。痛みとともに喜びも捨ててしまった、冷たい暗闇だけ。
わかっている。前に進んで拒絶されることで二度と幸せになれないことと同時に、慕った人にすべてを受け入れてもらえなければ、ことりは絶対に幸せになることはできない。
逃げたい。逃げられない。だけど立ち向かうこともできなくて。だから立ち止まって、けれどこうして立ち止まっていることも、きっともうそろそろ限界だ。
決めなくてはならない。進むか、逃げるか。そのすべてを。
「……わたしは、どうすればいいのかな――」
違う。首を横に振る。
こんな質問をすることは、ただの逃げだ。自分で決められないから、さとりに決めてほしいなんていう、自分が決めたことじゃないからしかたがないなんていう、さとりをないがしろにしただけの醜い逃避だ。
自分で決めるんだ。自分で選ぶんだ。そうでなければ、意味なんてない。本当の幸せなんて得ることができない。
ことりが問いかけの答えを望んでいないことは、さとりはわかっているだろう。心が読めている。それでもさとりは、「そうね」と右目を閉じてみせた。
「仮にことりがマミゾウさんに秘密を話すことを選んだとして、彼女に拒絶されてしまったら、あなたは絶望の淵に落ちることになるわ。暗くて冷たくて痛くて……ひどく辛い世界に放り出されることになる」
こくり、とことりは頷いた。もしかしたら、もう二度と地上には出ないようになるかもしれない。ペットたちにすら会わないようになるかもしれない。もう誰も信じられないと、心を閉ざしてしまうかもしれない。
「けどね」
そんなことりの心を読んでなお、さとりは笑ってみせてくれた。
「もしもそんなところに落ちてしまったとしても、そこには私も、あなたの大好きなこいしだっているわ。なにがあってもあなたは一人じゃない。あなたの願いがどんなに無残な形で引き裂かれたとしても、私とこいしはあなたのそばにずっといる」
「ふたり、が……?」
「ええ。あなたが地上に出ることをやめても、ペットたちと話すことをやめても、ずっと一人で暗く狭い部屋で閉じこもるようになっても……ずっとずっと一緒にいる。私たちじゃ、あなたを幸せにはできないかもしれない。でも、あなたを孤独にさせないくらいのことはできると思うから」
一人じゃない。なにがあろうと、どんな風になってしまおうと、孤独にはならない。してくれない。
それは――――それはなんて、救われることなんだろう。愛おしいことなんだろう。
そうだ。そうだった。
忘れていた。
昔。ずっとずっと昔。ずっとずっとずっと昔の、誰も知らない小さなお伽話。
暗い暗い冷たい世界の中、そこにすら居場所がなくて、誰もいない、誰も来やしないはずの暗闇の隅で、少女はうずくまっていた。
なにもかもから否定され、なにもかも諦めて。自分を捨てようとして。
そんな少女のもとに一人の女の子が訪れて、言ったんだ。
――ねぇ、どうしてこんなところにいるの?
――……そっか、いっぱい辛いことがあったんだね。
――私は古明地こいしって言うの。ねぇ、あなたの名前を教えてよ。
彼女と、彼女の姉は、ことりのすべてを知っても初めて受け入れてくれた存在で。
彼女と出会った時に感じたわずかな温もりは、ことりにとって、他のどんなものよりも大切な宝物だった。
「……うぅ」
気づけば、瞳から涙が溢れてきてしまっていた。
拭っても拭っても止まらない。溢れ続ける。
それでも目元をさすり続けることりの手を、いつの間にか立ち上がってことりのすぐ横にまで歩み寄ってきていたさとりが掴んだ。
「ほら、そんなにしたら袖がびしょ濡れになっちゃうでしょう? ほら、あと眼帯も」
「わ、わがっでまずぅ……で、でもぉ……ひっぐ」
泣き続けることりに、さとりはしかたがなさそうに懐をあさるとハンカチを取り出した。
ことりの代わりに、ことりの目元を拭いてくれる。濡れた眼帯も取って、もう片方も同じように。
あぁ、そうか。
そうだ。
勘違いしていた。
この温もりがなくなるわけじゃない。一度手に入れた温もりがなかったことになるわけじゃない。
もしもマミゾウに否定されたって、たぶん、かつて撫でてくれた温かさがなかったことになるわけじゃない。
あの日あの時、ことりが感じた温かさは本物なんだ。彼女がその時、本気でそう思っていてくれたから味わうことのできた、心地のいい温かみなんだ。
このさとりの思いやりもきっと同じ。今ことりが感じている嬉しさは、絶対に嘘なんかじゃない。嘘なんかにはならない。
話そう。マミゾウに、コトリジャというものがどんなものであるかを。ことりがどんな存在なのかを。
恐怖はある。でももう、嫌われるだとか拒絶されるかもしれないだとか、もうどうでもいい。
ことりが話したいんだ。ことりがことりの意思で、彼女に。
「ふふっ。どうやら、もう迷いは消えたようね」
「ぐすっ……うん……」
「大丈夫よ。私やこいしはいつでもあなたの味方だから。あなたのことを、ずっと大切に思っているから。だから安心して行きなさい。あなたがどんな顔をしていても、どんな風になっても、ずっとここで帰りを待っているわ」
「あり、あ、ありが、ひっぐ、ありが、とぅ……ござ、ございますぅ……」
ことりが泣き止むまで、さとりはずっと付き合ってくれていた。涙が出尽すまでずっとそばにしてくれていた。
やがてことりが落ちついたのを確認してから、さとりは対面に戻って座り直す。そして、半分だけ残っていた紅茶をまたすすり始めた。
ことりも、一切手をつけていなかった紅茶を手に取ってみる。
飲まないでいたせいですっかり冷たくなってしまっている。それでも気にせず、その中身を口に含む。
おいしい。そのおいしさに、また泣きそうになってくる。
さとりはペットたちもことりのことを心配してくれていると言っていた。だとすれば手の中にあるこれは、もしかしたら、そんな彼女たちがことりに元気を出してもらおうと願いながらいれてくれた紅茶なのかもしれない。
初めにここにこの紅茶が届いた時の温かさは、もうない。ひたすらに冷たい。でも。
あの時の温かさは嘘じゃない。ことりのことを思って、元気になってほしいと込められた願いは、絶対に嘘なんかじゃない。嘘なんかだって否定しちゃいけない。
「……ししょーに話したら……お燐にも、みんなにも……わたしのこと、話さないとな……」
その呟きはきっと、ほんのちょっと前までの自分の口からは絶対に出なかっただろう言葉で。
自分にとっての、さとりとこいしという初めてことりを受け入れてくれた二人のサトリ妖怪の大きさを、改めて再確認したことりだった。