東方HapPinESS   作:にゃっとう

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八.お久しぶりです、ししょー

 雲のない空には、綺麗な弧を描いた三日月と、無数の星々が浮かんでいる。

 ことりは地霊殿でさとりに勇気をもらった後、しばらくしてやってきたこいしも混じえて御茶会をした。そしてそのすぐ後には、こうして地上まで戻ってきていた。

 いつもマミゾウとの集合場所だったなんでもない林の中の開けた場所で、もう、数時間は彼女を待ち続けている。

 今更だけれど、ことりはマミゾウがよく訪れる場所を知らない。いつもこうして待ち合わせをして、それから修行をさせてもらっていた。

 本当に今更だ。ことりはマミゾウと親しくなったつもりでいたが、その実、彼女のことをほとんどなにも知らないのかもしれない。だとすれば、きっとマミゾウもことりのことをなにも知らない。だから彼女はことりのことを知りたいがために、コトリジャについて聞いてきた。

 ことりもマミゾウのことをもっと知りたいと思う。だというのに自分のことを知られたくないというのは、あまりにもおこがましい。

 話す必要がある。話したいと思う。どんなに怖くても、どれだけ体が震えようと。

 

「――お久しぶりです、ししょー」

 

 彼女が訪れるまでずっとここで待ち続けようと考えていたが、正直今日はもう来ないと思っていた。

 だけれど木々のすき間から見慣れた背格好と大きな尻尾が見えたものだから、ことりはびくりと体を跳ねさせつつも、どうにか心を落ち着かせるように意識しながら出迎えの言葉を口にした。

 

「お前さん……」

 

 彼女はことりの声に目を見開いて一瞬だけ立ち止まりつつも、すぐに表情を真剣なそれへ変化させると、意を決したように足を踏み出してきた。

 やがて、ことりとマミゾウは向かい合う。いつも修行をするために集まった時のように、そうなることが当たり前のように。

 マミゾウは言葉を発さない。ことりがここに再び来たということは、なにかマミゾウに用があるということ。そしてそれは、以前の質問に関してのことか、あるいはそれから逃げてしまったことについて。

 マミゾウはただただことりが話し出すのを待っていた。好奇心に任せて問いただすことはせず、さとりの言っていた通り、誠実にことりを見つめたまま。

 口を開く。だけれど、言葉が出てこない。喉が、お腹が、心が恐怖で震えている。

 思い出してしまう。両親が自分を『欠陥品』だと捨てた時のことを、親しかったはずの妖怪に拒絶された時のことを。痛みを。

 これを話すということは、あれの繰り返しになるかもしれないということにほかならない。暗く冷たい世界に突き落とされるかもしれないことにほかならない。それはなによりも悲しく、そしてひどく辛いものだ。

 だけど同時に、あの日のこともことりは思い出していた。

 こいしと出会った日のこと。初めて自分という存在が受け入れられた、すべての始まりの日のことを。

 忘れない。あの日どれだけ救われたのか。あの日どれだけ嬉しかったのか。

 ことりは、拳を強く握った。

 結果がどちらになるかなんてわからない。もしかしたら自分なんてあの二人以外には受け入れられなくて、結局は全部無駄なことなのかもしれない。

 それでもことりは、優しく頭を撫でてくれたマミゾウという妖怪のことを信じると決めた。

 だから。

 

「ししょーに……コトリジャについて、わたしの正体について……あの日の質問に答えに来ました」

 

 まっすぐにマミゾウの瞳を見据えて、ことりは確かにそう告げる。

 もう逃げない。足が震えているのがわかっていても、今すぐに逃げ出したいくらいの恐怖が胸のうちに渦巻いていようと。

 話すんだ。コトリジャの、すべてを。

 マミゾウはことりの決意を確かめるようにしばらく見つめた後、こくり、と静かに頷いた。

 

 

 

 星の照らす空の下、立ったまま話すのもなんだろうと、ことりは膝を抱えて丸くなり、マミゾウはあぐらをかいて、地面に腰を落ちつけていた。

 このことを提案したのはマミゾウだが、おそらくことりの足が震えていることを察した配慮だ。事実、正直立ったまま話し続けるのは辛かった。途中で倒れてしまっていた可能性もある。

 ことりとマミゾウは隣同士で座っているものの、その間には人一人ぶんすき間が空いていた。これもまた、ことりが怖がっていることに対しての、マミゾウの配慮。

 本当に彼女はことりに気を遣ってくれている。誠実に向き合ってくれている。

 そんな彼女だからこそ信じたいという気持ちが強くなるとともに、未だ疑ってしまっていることが、心苦しい。

 それに報いるためにはすべてを話すしかない。ことりの正体のすべてを。

 

「ししょーは、コトリジャというものがなにを指しているのか、わかりますか?」

 

 ことりがいない間に調べて回ることは可能だっただろう。けれどマミゾウは、静かに首を横に振った。

 

「コトリジャは組織名です。地底に住んでいた鬼を怨む妖怪たちによってつくられた、人の業を用いて新たな妖怪を生み出すための組織のことです。今はもう、鬼に滅ぼされちゃってますけど」

「組織、じゃと? 種族名ではなかったのか」

「いえ、わたしの種族名でもあります」

「……どういうことじゃ?」

「言葉通りの意味です。人の業を用いて新たな妖怪を生み出すこと……その産物がわたしというだけです」

「人の業、のう」

 

 マミゾウが混乱しているのがわかる。けれどことりの出生は少々特殊なのだ。回りくどくとも、一つ一つ要点を抑えていかないといけない。

 一つ目はことりは自然発生した妖怪ではなく、人工的につくられたものであるということ。次は。

 

「ししょーは、変化しているわたしを見抜くことができたと言っていましたけど……その正体が狸だとか狐だとか、そういうものはなにかわかりました?」

「……いや。どうにも判断がつかんかった。わしらと同じような気配もするし、わしらとはまるで逆のような気配もした。お前さんを暴こうとしていたのは、実はその正体を探る意味もあったな」

 

 ことりの正体を知りたかったのに、すぐには問いかけなかった。あるいは、つい先日確信に至る言葉を手に入れるまでは、ことりから話し始めるのを待ってくれていたのかもしれない。

 初めに弟子にならないかと誘われると一緒に正体について勘ぐられていれば、まず間違いなく彼女との付き合いを拒絶していただろう。でも、彼女と親しくなっている今は、違う。

 頭に触れる。右が黒、左が白の長い垂れ耳がある。尻尾を目に入る位置まで持ってくれば、足の長さほどの丸っこいふわふわな黒い尻尾と、別の白い尾がそれに巻きついているのがわかる。

 

「わたしは、兎です」

「兎? 確かに耳はそれっぽいが、尻尾は全然……」

「はい、尻尾は違います。丸い方は狸、ふさふさな方は狐です」

「なん、じゃと?」

「それから」

 

 左目の眼帯を外す。右目はどこまでも純粋な色をたたえた水晶のような白銀色をしているが、左の眼はまるで違う。

 この世すべての邪悪と罪を詰め込んだような、地獄よりも深い漆黒、深淵をたたえたおぞましい瞳だ。

 

「お前さん、その目は……」

 

 こんなものを晒して外を出歩いていれば、まず間違いなく人間に退治される。妖怪にも疎まれる。そうさせるほどの闇の深さをこの目は持っている。

 だからいつも眼帯をつけていた。この目は決して、人に見せられたようなものではないから。

 この目を見せただけで嫌われることだってあった。だけどこんなもの、コトリジャの特徴の一つに過ぎない。

 

「これは、副産物です。これ自体には意味はないですけど……わかりますか? 耳が左右で違う色で、尻尾も狸のと狐のものとで色が違くて、髪も黒と白が混ざり合ってて、目も左右で色が違う……四つ目の種族がなんなのか」

「…………天邪鬼、か」

「正解です」

 

 ここまで言えばマミゾウもなんとなく察してきたらしい。コトリジャが用いていたという人の業がどういうものなのか。

 

「コトリジャは鬼を怨んで集まった者でつくられましたが、その実、集まったのは力の弱い者ばかりでした。でもそれも当然です。鬼が嫌うのは卑怯な妖怪……そんな鬼に怨みを持つような者も、卑怯な手でしか人を騙せない弱い妖怪に限られてきます」

「……そんな有象無象が集まったところで鬼に復讐なんぞできるはずがないのう」

「そうです。でも、復讐をするのに、なにも鬼の強さを上回る必要はない。鬼は嘘ばかりつく人間に愛想をつかして地底に降りてきたんですから。そして、兎も、狸も、狐も、天邪鬼も……人を騙すことに長けた種族です」

「それで人の業、か」

「はい。わたしは、その四つの種族が互いに交配し、最後にすべてを交じり合わせることでつくられたハイブリッド――鬼を騙すための種族、それこそがコトリジャ。それぞれ四つの種族の漢字を一文字ずつ取って、狐兎狸邪(コトリジャ)です」

 

 本来、ことりはこんな歪な特徴を持って生まれてくることはなかったはずだった。

 いくら四つの種族の血を併せ持っていると言っても、基本的に、表に出てくるのはただ一つの種族の特徴だけだ。妖怪とは人間が幻想とする存在なのだから、あくまで人間が認知している幻想にしかなりえない。

 父も母もそうだった。二つの種族の特徴を受け継いでいるはずなのに、現れていたのは一つだけ。そんな二人からうまれたことりも、一つの種族の特徴しか持たない。そうなるはずだった。

 ――お前は私たちの最高傑作よ。

 だからこそ、四つの種族の特徴をもってうまれてきた、ありえない妖怪のことりを、コトリジャは『最高傑作』と評した。鬼を騙すことを目的につくられた、世界さえ騙しうる至高の妖怪だと。

 でも、それにはただ一つだけ想定外の欠陥があった。

 

「……わたしは、失敗作でした」

「失敗作? じゃが、お前さんは」

「わたしの人を騙す力は、本物です。嘘をつこうと思えば、どうやれば相手を完全に騙しぬくことができるか、流れるように頭の中に浮かんでくる。それを実行すれば、きっとわたしの思い描いた通りに相手は騙される。ほんと、人を騙すことに関しては誰にも負けない、誰かを騙すためだけにつくられた……でも、わたしは――人の心をもってうまれてきたから」

 

 力に見合う、人の不幸を楽しめる心を、人を騙すことに快楽を感じるだけの妖怪の精神を、ことりは持ちえていなかった。

 歪ゆえ。不安定ゆえ。混じり合ったゆえ。人の業を用いたゆえ。

 世界さえ騙すことのできる力を得たことを代償に、ことりは妖怪にはありえない欠陥をもってうまれてきてしまった。

 力に不具合はない。体に不都合はない。能力に不完全な要素は一切ない。だけど。

 

「人間のように、人の笑顔を見ることが好きで、誰かに嫌われるのは、恐怖されるのは……嫌だって。そんな風に思うような心をもってうまれてきたから」

 

 人を騙そうとすることを心が拒絶する。嘘をつこうとすることを、いけないことだと頭が認識する。誰かに嫌われることがひどく心苦しくて、人と笑い合うことが、なによりも楽しいと感じることだった。

 ずっとずっと昔。こいしに拾われるよりも前の、両親からも捨てられていなかった頃。

 ことりは一人の妖怪と親しくなった。決して騙そうとせず、毎日を楽しく過ごしていたんだ。

 そうだ。ことりはまっすぐ、嘘なんて一つもつかずに付き合ってきた。友達という存在には、きっとそうしなければならないと、ことりの心が言っていたから。

 なのに、ことりの正体を知ったその妖怪は、ことりのすべてを拒絶した。

 ――ことりちゃんの嘘つき! 妖怪が人の心を持つなんてありえるわけない! どうせ――

 どうせ、これまでの優しさも嘘なんだろう。どうせすべて、この後自分を騙すためのものなんだろう。同情を誘っているだけだろう、と。

 ――ことりは、言うことなすことすべてが嘘だと決めつけられて生きてきた。

 そうでなければおかしいから。そうでなければ理屈が合わないから。

 狐と、兎と、狸と、天邪鬼。そんな四つの妖怪の要素を受け継いでいながら、人を騙していない? 嘘を吐いたことがない? 人の笑顔を見ることが楽しい?

 バカバカしい。そんなことがあるわけがない。そんなあからさまな嘘、誰も信じるはずがない。

 他者を欺く妖怪の天才が、人の心を持ってうまれてきただなんてあるわけがない。そんなものは他人を騙すためだけの都合のいい嘘で、どうせこれまでことりがやることなすことはすべて、相手を騙すためだけのもので――。

 そう思われて生きてきた。人を騙すためだけにうまれてきていながら、人の心を持つなんてありえないと。誰かと親しくなりたいなどと、舐めるのもいい加減にしろと。

 ことりはただ、すべての言葉が本音のつもりで、本当に嘘なんて一つも吐いたことがないのに。

 全部、誰かと親しくなりたいがための、誰かと笑い合いたいがための、本心からの言葉だったのに。

 

「……嘘って、いったいなんなの? 本当のことって、いったいなんなの?」

 

 嘘を吐く才能がことりにはある。だとすればきっと、嘘を吐いて人を付き合おうとすれば、その言葉を本当のものだと相手は判断して、仲良くなることができるのかもしれない。いや、できる。その確信がことりにはある。

 コトリジャだとバレたって悪友のように付き合うことができる妖怪だって、おそらく存在する。

 でも、ことりが本心から放った言葉は、誰も本当のことだとは信じてくれない。人を騙すためにうまれてきた者のあからさまなウソの言葉なんて信じようとしない。人の心を晒して口にした言葉はすべて、誰かを騙すためのものだと判断される。誰かを騙すための、貶めるための罠なんだって。

 それこそ心を読む妖怪でもなければ。

 

「わたしの嘘は、みんなにとってのホンモノで……わたしの本物は、みんなにとってのウソでしかなくて……わたしの本当のことなんて、誰も理解なんてしようとしてくれなくて……ねぇ、ししょー」

 

 他人を騙すためにうまれていながら、ことりの心はそれに見合うつくりをしていない。それだけのことだった。

 人間のように誰かと親しくあろうとすることを望んでしまう。人間のように誰かと笑い合うことが楽しいと感じてしまう。そのせいで、誰もかれもから拒絶される。

 このことを誰かに話したこともある。親しくなった妖怪に、人と同じ心を持っていると、吐露してみたことがある。

 でも、誰も信じてはくれなかった。

 そうやって同情を誘って心の奥底に踏み込むつもりなんだろう? って。妖怪が、それもお前のようなやつが人の心を持つなんたありえない、って。

 

「ししょーはわたしの言ってること……信じてくれる? わたしが嘘を吐いたことなんてないって、わたしが……ししょーといて、本当に楽しかったんだって。ししょーのことが、本当に心から好きなんだって……それが嘘なんかじゃないって。ししょーは、受け入れてくれる?」

 

 存在自体があまりにも疑わしいくせに、口にすることはもっと胡散臭い。信じる方がバカな昔話。

 マミゾウは、しばらくなにも答えなかった。許容の言葉も、拒絶の言葉も。

 どうしたのだろう、とマミゾウの方を見ることはことりにはできなかった。かつてのように否定される記憶が何度も何度もことりの頭の中で繰り返されている。また同じことになるのではないかと、ことりが心の底から告げた思いのすべてを、全部が全部嘘なのだと拒絶されるのではないかと。

 数秒、数十秒、あるいは数分? ことりには会話を締めくくってから、どれだけの時間が経ったのか、わからなかった。

 手が震える。心が恐怖している。逃げ出したい、と。そう感じる。

 もう十分だろう。話した。全部、話した。拒絶されるのなら、まっすぐにそれを吐かれるよりも先に、もういいんだと自分から投げ出して逃げてしまいたい。

 もう嫌なんだ。他人から、親しい誰かから、どうせその言葉もこれまでの思い出も全部嘘なんだろって、楽しかった日々のすべてを暗く冷たいものにされるのは。

 ――耐え切れない。

 ことりはその場から立ち上がって、逃げ出そうとした。これだけ待っても返事が来ないのは、きっと、ことりのことを受け入れてもらえないからなんだ。マミゾウもことりの本心を信じてなんてくれないんだ。

 でも、そうして立ち去ろうとしたことりを、後ろから誰かが抱きしめてきた。

 

「――わしは、お前さんを信じるよ」

「っ、嘘だっ!」

 

 そう言われることを望んでいたはずなのに、ことりの方が否定してしまった。

 歓喜と、自分に対しての嫌悪と、恐怖と、本当に見捨てられるのではないかという絶望が、すべてがすべてごちゃまぜになっていた。

 

「嘘なんかじゃあないさ。確かにわしは狸じゃが、弟子にまで嘘なんぞつかんよ。そこまでの畜生ではないと自覚しておる」

「わたしはもう、あなたの弟子なんかじゃ!」

「勝手にやめるな。わしにとっては、お前さんはまだまだ可愛い弟子じゃよ。それともお前さんにとっては、わしはもう師匠なんかじゃないのかい?」

「それ、は」

 

 そんなはずがない。ことりはただ、自分から相手を拒むことで、もしも相手から拒絶されても、やっぱりそうなんだと安心しようとしているだけ。

 違う。ことりはそんなことをしに来たんじゃない。マミゾウにすべての本当のことを語って、ことりの本当のことを告げて、それでも彼女に受け入れてもらいたいと思って、ここにやってきたんだ。

 

「お前さんはわしの弟子じゃ。弟子の言うことを信じなくてどうする。弟子の言うことも疑うような者、そんなもの師だとは呼べん」

「……でも、わたしは、師匠のことを騙そうとしてたのかもしれないんだよ。師匠に近づいたのはその変化の技術を盗むためなんだって、狸の長なんてすごい存在に恥をかかせるためなんだって」

「お前さんに先に近づいたのはわしじゃよ。それに、もしもわしが騙されるようなことがあれば、そんなものわしの見る目がなかっただけの話じゃ。それともなにか? お前さんは本当にわしを騙すために近づいてきたと」

「そ、そんなことあるわけっ」

「そうじゃ。ありえん。お前さんのように純粋で、嘘をつくこともできんような妖怪が、わしを騙せるなどと」

 

 嘘を吐けないのではなく、嘘を吐かない。ことりがそうであることは、マミゾウは理解しているだろう。それでいながら、自分を騙すことなんてできない、とマミゾウは言う。

 

「はぁ。コトリジャについて聞いた時、お前さんは一目散に逃げ出しおったから、きっとなにかお前さんにとって重大な地雷でも踏んでしまったのかと思っておったが……まさかこんな程度のこととはな」

「こ、こんな程度って、わたしは昔からずっと、こんな不完全な心を持ったせいで――」

 

 不完全な心。ことりが自分の精神をそう表現した直後、後ろからことりを抱きしめているマミゾウの眼光が鋭くなったような気がして、ことりはびくりと肩を震わせて言葉を止めた。

 

「よいか? わしは狸の長じゃ。多くの人間を、妖怪を騙してきた。嘘も数え切れないほど吐いてきた。じゃから他人が言うことが嘘かどうかは自分で判別できるつもりじゃ。たとえお前さんが、人を騙すことにどれだけの才覚があろうとな」

「……でも、ししょーは疑わしいって思わないの? 妖怪が、それもわたしみたいな人を欺くためだけにうまれてきたような存在が、人の心を持ってるなんて」

「そりゃあ疑わしいさ。じゃが、お前さんが嘘を言っているとは少しも思わん」

「なんで、そんな……」

「お前さんが誰よりも優しい心を持っていることは、あの火事の一件から知っておるからじゃ。それに、お前さんはわしの一番弟子じゃて。弟子を信じられぬ師匠になんぞ、わしはなりたくない」

 

 優しい。でも、それは妖怪としては不完全な証だ。妖怪として、ありえてはならない証だ。

 妖怪は人を恐怖させる存在でなければならない。でもことりは、そういう在り方でいることができない。妖怪としての欠陥品。

 けれどマミゾウはそんなことりの頭に手のひらを置くと、かつてのように、優しくその手を動かしてくれた。

 温もりが、頭のてっぺんからことりの全身へ広がっていくようだった。

 

「それにな、人の心を持つことは欠点ではない。お前さんだけにしかない長所じゃろう。人に優しくすることを本懐とする妖怪なぞ、わしは見たことも聞いたこともないぞ」

「長所って……妖怪は人を恐怖させるために存在してるんですよ。わたしにはそれができない。こうして存在できてるのが不思議なくらいです。結局、わたしは誰にも望まれない生き方しかできない、欠陥品で」

「バカを言うな」

 

 こてんっ、と頭を叩かれた。弱く、少しも痛くはなかったけれど、目をぱちぱちとさせてことりは放心してしまう。

 初めてだった。こうして叩かれたのは。いつも撫でられて甘やかされるばかりだったから。

 マミゾウは、少し怒ったような声音をしていた。

 

「わしはお前さんがいなければよいなどと思ったことは一度としてないわい。お前さんを弟子にしなければよかったなどと思ったこともない。お前さんを、ことりを、いらないなどと思ったことはない」

「で、でも」

「ことりは少々自虐が過ぎるな。もっと自分に自信を持て。お前さんはわしの弟子なのじゃぞ? 弟子がそんなんじゃあ、わしも威張れんじゃないか」

「そんな勝手なっ」

「勝手じゃよ。わしはいつだって勝手じゃ。じゃからお前さんも、他人のことなんぞ気にせず自分勝手でいろ。元々妖怪とはそういう生き物じゃ」

「む、ぅ」

 

 そうだった。マミゾウは初めから、こういう妖怪だった。

 いつだって自分勝手で、でも、そんなエゴがことりにとっては心地よくて。

 誰に望まれるだとか望まれないだとか関係ない。自分がよければそれでいい。そう思っているくせに、どうしてか、一緒にいると温かい。

 そしてことりは、そんな彼女だからこそ憧れたんだ。

 

「のう、ことり。わしはいつか、人を騙すということが人を貶めることに繋がるとも限らんと言ったのを覚えておるか」

「え?」

 

 ことりの頭の中によみがえるのは、かつての修行の記憶。午前中で寺子屋が終わって、集合場所に行って、変化の本質について教えてもらった時のこと。

 ――騙すことと嘘を吐くことを一緒にするでない。嘘を吐かずとも、人を欺くことはできる。

 ――それにな、人を騙すということが人を貶めることに繋がるとも限らんさ。

 あの時、ことりにはマミゾウの言っていたことが理解できなかった。

 ことりはどうしても嘘を吐きたくない。自分は人を騙すためにうまれてきたけれど、一度でも嘘を吐いてしまえば、ことりはことりではなくなってしまう気がしていた。一度でも嘘を吐いたことがあってしまえば、もう、誰とも親しくなんてなれない気がしたから。

 

「たとえば、じゃ」

 

 ことりの目に入るように、マミゾウがことりの後ろから手を伸ばして指を一つ立てた。

 

「母を失って嘆いとる子どもがおるとするじゃろう。その子の前に、お前さんはその母に化けて話しかける」

「あの……それ、バレたら怒られるどころの騒ぎじゃないんじゃ……」

「そうじゃな。じゃが、子どもなんぞお前さんのように実に単純じゃ。あるいは、目の前に現れた母を本物かなにかと信じ込むかもしれん。そこでこう言うんじゃよ」

 

 マミゾウは笑う時、ほくそ笑むような意地の悪い笑顔を浮かべることが多い。けれど今は、ことりには見えないけれど、彼女は弟子を安心させるための優しい笑みを浮かべてくれていることが、ことりにはわかった。

 

「『そんなに泣いていたら私は成仏できなくなってしまう。前を向いて、もっと笑顔で先に進んでほしい』」

「っ、それは」

「死者の言葉を勝手に語るなぞ、偽物だとわかってしまえば実に残酷で、なによりもひどく罰当たりなことかもしれんな。じゃが、決してバレるな。騙し通せ。そうすれば、それは人を貶めるための嘘じゃなかろう。人を励ますための、助けるための、人に優しくするための虚偽となる」

 

 それに、とマミゾウは続けた。

 

「お前さんなら、きっと母をなくして泣いている子どもが見たら似たようなことを思うはずじゃ。それは決して嘘から生み出した言葉ではない。お前さんの本心からこぼれ出した、誰かを助けたいと願った末に出てきた言葉じゃよ」

「誰かを、助けたい……」

「そんな妖怪が誰にも望まれないなどと、わしは認めんよ。自信を持て。ことりはお前さんが思っておるほど不必要な存在ではない。誰よりも優しい、嘘の一つも吐くことができん、人の心を持ったわしの自慢の弟子じゃて」

「…………うぅ」

 

 気がついた時には、ことりの瞳からぽろぽろと涙が流れていた。

 マミゾウが受け入れたことの嬉しさに、笑いがこぼれる。でも、涙もこぼれる。

 両方とも止まらない。泣きながら笑って、笑いながら泣いている。

 人に優しくするための欺騙。そうか、そんな考え方もあるんだ。そんなの、いっぺんたりとも考えたことがなかった。

 どうせ自分なんて誰にも必要とされなくて、誰にも望まれなくて、生きる意味なんてない、弱くて醜いだけの妖怪なんだって。

 人を励ます。人を助ける。人に優しくする。

 そんな優しい妖怪に、ことりがなれる――ことりを抱きしめてくれるマミゾウの温かさは、本気でそう信じているかのように、本当にことりの心に染みこんできて。

 それが言葉にできないほど、ことりは嬉しかった。

 

「これこれ……ことりは泣き虫じゃなぁ」

「だ、だってぇ……わ、わたし、ししょーに否定されるかもって……嫌われるかもって、ずっと、ずっとぉ」

「よしよし。よくがんばったのう。よく話してくれたのう。よくがんばったぞ、ことり」

「う、うぅ、ふぐ、ぅぅぅ……ぁあああっ……!」

 

 人を騙すためにつくられながら、人の心を持ってうまれてきた。そんな心のせいでいろんな妖怪に疎まれて、ずっと、自分が大嫌いなまま生きてきた。

 こいしに拾われて。地霊殿で暮らし始めてからも、ずっと、嘘を吐けない自分が生きてる意味がわからなかった。

 でも、今、初めて。

 初めて、夢ができた。

 新しい、生きる意味が見つかった。

 ――誰かに優しくできる妖怪になりたい。

 ――誰かを笑顔にできる妖怪になりたい。

 それが妖怪として正しい生き方でなくても構わない。妖怪として歪な在り方でも構わない。

 それでも、マミゾウは認めてくれる。きっと誰かが必要としてくれる。

 人を騙すためにうまれたくせに人の心を持った。だったら、人を欺くことで誰かを笑顔にする。それでいて嘘を吐かず、本当のことだけを口にして、誰かを幸せにする。

 本心だけで人を騙すだなんて、あるいはコトリジャでも難しいことかもしれない。

 でも、目指す。だからこそ進む価値がある。夢にする意義がある。

 ことりにはマミゾウという頼れる師匠がいる。ことりの秘密を知っても、優しく抱きしめてくれる、大好きな師匠がいる。

 だから。

 

「し、しょー……」

「なんじゃ?」

 

 だからまずは、自分を笑顔にしてくれた、この温もりをくれた妖怪にお礼を言おう。

 サトリ妖怪以外に初めてことりを受け入れてくれた、大切な人に喜びを伝えよう。

 口を開く。

 

「ありが、とう……ございます……」

 

 ことりは抱きしめられながら首だけで振り返ると、これまで彼女に見せてきた中で、一番の満面の笑みを浮かべてみせた。

 いつか、この人のことも教えてもらおう。これまでどんなことがあったのか、どんな風に生きてきたのか。

 マミゾウは、ことりの顔を見つめたまま目を瞬かせる。それから静かに目を閉じると、満足そうに、嬉しそうに口元を緩ませた。

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