コトリジャという人を欺くための種族であること、そして妖怪ではありえない人の心を持ってうまれてきたこと。その二つをマミゾウに受け入れてもらえてから、もう一週間の時が経過している。
あれからというもの、ことりは今まで以上に変化の修行に真剣に取り組むようになっていた。
嘘を吐かず、本心だけで人を欺く。人を貶めるためではなく、人を幸せにするために他人を騙す。人に恐怖を与えるのではなく、誰かを笑顔にできる妖怪になりたい。
あの日、ことりはそれを自分の夢に据えた。鬼を騙すためにうまれたくせに、その生きる意味を心が放棄してしまった哀れなコトリジャの、新しい目標。
それがどんなに歪だろうとどんなに妖怪らしくなかろうと構いやしない。いつか誰かに、そして師匠たるマミゾウがその生き方を受け入れてくれると言うのなら、それだけでその道をことりは自信を持って歩こうと思うことができた。
「――ふむ。まぁ、今日はここまでと言ったところか。もう変化を解いてよいぞ」
「う、ぷはぁっ……」
時には弓と矢という二つに分かれたものに変化し、時には液体のような形の定まっていないものへ変化したまま不自然ではないように地面を移動し、時には体を本に変化させて中身の文字一つ一つまですべて完全に模したり。
変化の応用性、精密性、持続性、模倣性などなど。ことりは妖怪としての力が弱いせいで大した力を持ったものには変化できない。だけれど、術に関するありとあらゆる要素を鍛え上げることで、他のどんな強い化け狸や化け狐でもできないような、非常に高度な創造性に富んだ変化を可能とする。それが、現在マミゾウがことりを指南する上で決めた理想形だった。
どろろんっ、といかにも妖怪が変化の際に発しそうな煙がことりの体を包み込む。元の姿に戻ってすぐに、ことりはその場に寝転がった。
「きょ、今日も疲れたぁ……変化で疲れるなんて、これまで全然なかったのに……」
もしかして才能ないのかなぁ。いやでも、ししょーはすっごい才覚があるって言ってくれたし。
ことりがそんな思考を広げているのを察したマミゾウが、呆れたように腰に手を当てて肘を張った。
「そりゃあまぁ疲れないのが普通じゃからな。お前さんがやっとるのは普通のことではないんじゃから、疲れるのは当然じゃよ。才覚云々の問題ではない」
「普通のことじゃない、ですか……」
「日常的にするような変化をいくら繰り返したところでお前さんには意味はないじゃろう。それほどまでにすでにお前さんの変化はできあがっておる。それをさらに鍛えるとなると、長く生きること以外では変化の限界に挑むくらいしかないんじゃよ」
「変化の限界……」
「いや、あるいはお前さんの場合、変化の限界というよりも……変化の際に用いる体力や集中力の限界か」
すぅー、とことりを見据えるマミゾウの眼が鋭く細まった。
「こうして真面目に教え始めてから気づいたが、お前さんは、初めにわしの思っていたよりもはるかに化けることがうまい。初めてならば変化し切るのに数十秒はかかると思っていたものを、たったの数秒。あるいは数秒しか姿が持たないと思っていたところを、数十秒……想像が及び、集中力さえ持続すればどんな難しいものにだってなりおる。わしが少し指南しただけで、もうわしの中では二番目ほどの変化の実力を備えおったわい」
初めてマミゾウに会った時は、彼女はことりの変化をこれまで生きてきた中で三番目を争うくらいだと言っていた。マミゾウは一〇〇〇年は間違いなく生きてきているだろう。そんな長い化け狸としての生の中での、もう二番目というのだから、さすがのことりでもそれがどれだけすごいことかはなんとなくわかる。
ちなみに以前聞いてみたのだが、彼女の言う一番というのは自分のことらしい。つまり現在、マミゾウの中では一位が自分で、二位がことりということになる。
「……やっぱり、変化が得意なのってコトリジャだからなのかなぁ」
「ん?」
ことりがふと呟いた一言に、マミゾウが訝しげに首を傾けた。なにを当たり前のことを、と言った顔をしている。
「そうでなければお前さんの異常なまでの変化の完成度に説明がつかんじゃろう」
「それはそうですけど……正直、わたしはししょーに指摘されるまで自分の変化の実力なんて大したことないと思ってたんです」
マミゾウに変化が異常なまでにうまいと言われた時にことりが驚いたことは決して嘘ではなかった。
コトリジャとして人を騙すためにうまれてきたこと、そして嘘を吐く才能があることは重々承知している。ただことりは、それと変化が得意かどうかとは別の話だと思っていた。
マミゾウの表情がますます疑惑に歪んでいく。それも当然と言える。変化とはすなわち本来の自分の姿を隠すこと、つまりは他人を騙すことと同義なのだから、コトリジャが得意なことがおかしいはずがない。ことりもそのことはわかっている。
わかってはいるが、ことりが言いたいことはそうではなかった。
「わたしがまだ捨てられてなかった頃、両親が言ってたんです。『変化の術をより完璧にするためには名前がない方がいい』って」
たとえば、神というものは本来はあるがままの自然だったり道具だったり、すべてのものに宿る本質でしかない。名前をつけることで、その力を制限する代わりに自我を持つことを許される。
神と妖怪は違うが、コトリジャという組織はことりに対して、つまりは、自我を持つことを許さなかったと言えた。余計な自己というものを持たないことで自分と他者を同一視することができるようにし、変化をより完全なつくりへと昇華させる。
今のことりには名前がある。コトリジャからジャを抜いただけの単純な呼び名ではあるが、ことりにとっては大切な名前だと認識している。かつてはなかった名前を得たことで、ことりは自身の変化の力は普通の化け狸や化け狐レベルに落ちついていると思っていたのだ。
「……確かに、理屈で言えば名がない方が変化はうまくいくかもしれん。自分が誰なのかわからなければ、誰にでもなれるというものじゃ。しかしな、その行為はあまりに危険すぎる」
「危険、ですか」
「何者にもなれるということは、何者でもあるということ。何者でもあるということは、何者でもないということじゃ。変化をして戻れなくなるのなら、まだよい。狸にも人に変化したまま戻れなくなってしまった者が外の世界にも数多くおる。じゃが、自我を持たずして変化を行い続ければ、いずれ必ず己が姿を見失う」
「姿を見失う……うーん。つまりどういうことですか?」
「名がないということは自我がないことと同義じゃ。しかし、なにかになりたいという自我をなしに変化をすることは不可能……その矛盾を繰り返し続けていけば、精神が根本から崩壊してしまうことは容易に想像がつく。天界にも地獄にもいけず、その魂は直接無へと転化してしまうじゃろうな」
「えぇっと、その、難しいことはわかんないです……」
「要するに、死ぬよりも恐ろしいことになるということじゃよ」
マミゾウは、どこか憤慨したように目を鋭く細めた。
「そんなことをことりに強要するとは、コトリジャという組織はずいぶんと考えなしな……いや、鬼への復讐のためなら己が子でさえも道具以下として扱うところだったのじゃな。鬼に全滅させられたのも納得できるという話じゃ。もしも残っとったら、わしも潰しに行っとるところじゃよ」
ひそひそと活動していたコトリジャが鬼に狙われ始めたのは、ことりが捨てられてしばらく経ってからだ。その頃にはことりは地霊殿でさとりやこいしの世話になっていて、地底の住民は基本的にサトリ妖怪のいる地霊殿へは近づいてこない。だからことりは鬼たちにその存在を気づかれず、唯一生き残ることができていた。
宴会において萃香という鬼がことりの正体に感づいていたとのことだが、その時の様子だと、ことりに手を出そうと言う雰囲気ではなかったらしい。そもそも、ことりは地霊殿の主たるさとりの妹のこいしのペットだ。そんな存在に手を出せば、間違いなく地霊殿から目をつけられる。たとえ鬼だろうとサトリ妖怪に目の敵にされるのはごめんということなのか、あるいはただ単にもう興味がないのか。
どちらにせよ狙われないだけでありがたかった。ことりはもっとマミゾウやこいし、さとりやお燐たちと一緒にいたいし、今では人を幸せにできる妖怪になるという夢がある。それを果たすまで死ぬわけにはいかない。いや、果たしても死ぬつもりなんて毛頭ないけれど。
「話がそれたな。とにかく、お前さんはもっと変化の腕に自信を持っていいぞい。たとえ名前があろうと……いや、名前があるからこそじゃ。お前さんがことりという一人の妖怪であるからこそ、ことりは『誰かを笑顔にしたい』という思いを持ったまま変化をすることができるんじゃからな」
「わたしが、わたしだから……はいっ! 誠心誠意がんばりますっ! びしぃ!」
びしぃ、の部分で勢いよく敬礼をしてみせる。マミゾウは「最後のは口にせんくてよい」とつっこみをいれてくれた。
彼女の朗らかな笑みを見て、ふと、幸せだなぁ、と。唐突にことりは思った。
少し前までは、もうこの笑顔を見ることができないのではないかと不安だった。自分の正体を話すことが本当に怖かった。また嫌われてしまうのではないかと、ずっと恐れていた。
でも、マミゾウは受け入れてくれたのだ。ことりの心が見えなくとも、ことりの言っていることが真実だと信じ、どんなに疑わしくとも、優しく頭を撫でてくれた。人の心を持ったことは欠点ではないと、叱ってくれたりもした。
「あの、ししょー」
「うん? なんじゃ?」
「今度、ししょーの昔の話を聞かせてもらってもいいですか? わたし、ししょーのことをもっと知りたいです」
「ふむ、そうかそうか。そんなことなら別に構わんぞい。時間があればいくらでも聞かせてやる。このわしの武勇伝をな」
「えへへ、ありがとうございますっ!」
幸せになりたい。ことりはずっと、そんな思いを抱いて生きてきた。
誰かを騙すためにうまれたような存在でも、人の心を持ってうまれてきてしまったような、間違った妖怪の自分でも、いつか必ず幸せを手に入れられる日は来ると信じてきた。
マミゾウとはまだ一か月になるかどうかという程度の付き合いでしかない。けれど、彼女との間には師弟という確かな繋がりがある。ことりはそれを否定しないし、マミゾウもきっとそう思ってくれている。
コトリジャとしての自分を受け入れてもらった。人の心を持っていることを肯定してくれた。生きる意味のなかった自分に、新しい夢を与えてくれた。
彼女との絆はことりにとって、すでになににも代えがたいかけがえのないものだった。
「ししょー! もっと、もっと修行しましょう! 今日は日が暮れるまでやりましょう!」
「お、おお、やる気満々じゃな……別によいが、今はきちんと休め。再開はもうしばらくしてからじゃ。無理をし続けて倒れてしまっては元も子もないからな。休憩も修行のうちじゃよ」
「わかりましたっ! がんばって休みます!」
「いや、がんばったら疲れが取れないと思うんじゃが……」
早く早く! と催促すればするほどに、いいから休めと諌められる。それでもいつにもなくテンションの高いままのことりに、マミゾウが呆れたように頭をかいた。
こんな時間がこれからもずっと続いていく。そう思うだけで嬉しくて、ことりは、無意識のうちに満面の笑みを浮かべていた。