「なんじゃ、あの煙は」
そんなことをされればことりも当然気になって、半ば反射的に後ろに振り返っていた。
――少し遠く。赤い空を一足早く闇色に染め上げるように、黒い煙が上空へと立ちのぼっている。
道を歩いていた人たちも少しずつそれに気づき始め、ことりたち以外も立ち止まっては、煙ののぼる空を見上げ始めた。
「火事……?」
「どうやら、そのようじゃな」
好奇心ゆえか、ことりの足が自然とその煙のもとへと向かっていく。一緒にいた女性も、そんなことりを追っていく。
建物の路地を通り抜け、たどりついた先にあったのは、内部から炎を漏らす二階建ての商家だった。
轟々と燃え盛る火炎は一階の半ばを覆い尽くし、その広がり具合から、あと一分もしないうちにそれが二階全体まで及ぶであろうことは容易に想像がついた。畑にもその火は広がりかけている。上がる煙はどんどん勢いを増し、焦げ臭い匂いを辺りへ無作為に振りまいていた。
「お前さん、それ以上近づくのは危険じゃぞ」
ついてきていた女性の忠告を受け、ことりは足を止める。
幸いなのは、農家のすぐそばに燃え移るような建物がなかったことだろうか。他の建物はある程度離れた位置に建ててあるため、おそらくは燃え移らない。だが、辺りに目を向けてみれば、ことりと同じように立ち止まって、不安そうに火事を眺めている人たちがたくさんいた。それも当然かもしれない。燃え広がらないだろう、と予想をつけることはできても、それが確定だとは限らない。
ことりも半ば放心気味にぼーっと燃え盛る家屋を眺めていた。だが、一人の男性の声を聞いて、ついと弾かれたように顔を上げた。
「娘が、娘がまだ中にいるんだ! 誰でもいいっ、誰か……誰か助けてくれっ!」
――助けないと。
気がついた時にはもう駆け出していた。ただ一つの言葉に思考が占められ、迷いなく炎の中へ飛び込もうとすることりの腕を、いつの間にか追いかけてきていたじじくさい口調の女性が掴む。
「これ以上は本当に危ないぞい」
「むぐっ」
引っ張られた反動で、ことりはいくばくか冷静さを取り戻した。自分がほぼ無意識に炎の中へ飛び込もうとしていたことを自覚する。
少しだけ躊躇し、それでも、すぐにどうするかは決めた。
「は、なしてくださいっ」
掴まれた腕に力を入れたり、体ごと腕をねじってみたり。いろんなことを試してみる。けれど予想に反して、女性による腕の拘束はいくら振り払おうとしても振り払えなかった。
まるでびくともしない。どうにも、この女性の力はことりとは比べ物にならないほどに強いようで。
どんなに力を入れたって、いくら体をねじったって、それ以上の力で抑え込まれる。
「おぬし一人でなにができる。あの炎の中に飛び込んだところで、ミイラ取りがミイラになるだけじゃろうて」
ことりを、あくまでも女性は冷静な声音と態度で諭してくる。
「でもっ!」
「ここまで広がった火事なぞ人間の手ではどうにもできんよ。幸い炎はこれ以上は広がりそうもない。このままここで見守っておるのが懸命じゃろう」
「でも、でも! 中に人がっ!」
「手遅れじゃ。仮にそうでなくとも、おぬしのような子どもが中に入ったところでどうにもできんさ」
「っ、わたしはっ!」
「もう一度言うぞ。人間の手では、もうどうにもできん」
――ちょっとは死者は出るかもしれないけど、きっとそれだけだよ。
今日、いつかどこかで聞いた誰かの言葉がことりの頭をよぎる。
この女性が言うことが真実だということは、ことりにもわかっていた。
今のことりは寺子屋に通うような童女でしかない。他の誰にも、そんな風にしか見えていない。そんな幼子が火事に飛び込んだところで、確かにこの女性の言う通り、ミイラ取りがミイラになって終わりだろう。
いや、力のない人間なら、大人だろうと結果なんてどうせ変わりはしない。ただ単に死人が一人増えるだけだ。
ならば、そんな決まり切っている結果を変えることができる存在というのはどういうものなのか。ここで必要なのは、いったいどんな存在なのだろう。
ことりはそれをわかっていた。そして、だからこそことりは行こうとしているのだ。
「取るのは……ミイラじゃない。まだ生きてる人間だよ」
「む、おぬし……」
――ことりは、今日中ずっと行使していた、人間の幼子に変化している妖術を解いてみせた。
じじくさい口調の女性の目がわずかに見開かれる。そしてその一瞬だけ、ことりを掴んでいた力が弱まる。
ことりはそれを見逃さずに女性の手を払うと、燃え盛る家へと全力で駆け出していった。
「おい、なんだ。あれ」
「妖怪……!?」
ずっと火事の方を向いていた野次馬たちの目は、火事へと飛び込んでいくことりへと自然に向かっていく。
術を解いたことりは、なんとも不可思議な様相をしていた。
まず目がいってしまうのは、相反する色が混在するその髪色だろうか。ついさきほどまでは黒一色だったショートカットが今や黒と白のモノクロ色へと様変わりし、その頭には右が黒、左が白の、獣毛に包まれた長い動物のような耳が垂れている。
術を解く前よりは大人びているものの、未だ幼気な顔に浮かぶ瞳もまた色が変化している。左目はあいかわらず眼帯をつけているせいでわからないが、右の眼はどこまでも純粋な色をたたえた水晶のような白銀色をしていた。
加え、ことりが術で変化させていたのはそういう自分の体の特徴的な部分だけでなく、服もである。ことりが現在着ているのは、外の世界で言う学生が着るものをもとにデザインされた、これまたモノクロ色の制服。ブレザーのボタンはすべて開いており、その内側にはブラウスを着用し、胸元に黄色のリボンを結んでいる。
また、ことりの背中の上着とスカートの合間からは、頭に生えた獣耳と同様の異形としての特徴が見て取れる。足の長さほどの丸っこいふわふわな黒い尻尾が伸びては、まったく同じ場所から生えた別の白い尾がそれに巻きついていた。あるいは、二つで一つの尻尾なのかもしれない。
妖獣――妖怪の一種。力と智慧を持ちすぎた獣――というものは基本的になんらかの動物がもとになっているものだが、ことりのそれは一目見ただけではなんの動物が元になっているのかがわからない、実に奇妙な見た目をしていた。
「く、ぅう……!」
人間たちの驚愕の念がこもった視線を振り切り、すでに焼け落ちていた玄関に飛び込むと、当然、その中で暴れ狂っていた膨大な熱と光の塊がことりを襲ってきた。肌を焼き、服を燃やし、髪や耳、尻尾を焦がす。
息だってまともにできやしない。それに必要なものはすべて業火が奪っていってしまっていた。
泣き叫びたいくらいの熱さの中で、けれど肉体が丈夫に作られている妖獣であることりならば、しばらくはそれに耐えていることができる。
目の中に炎が直接入り込むことがないように注意しながら、ことりは家の中を走り回った。取り残されてしまったという、見知らぬ人間の娘を探していく。
どこもかしこもボロボロで、眩しすぎるほどに明るく、熱とともに目を刺激してきた。天井からは真っ黒になった木くずが落ちてきたり、木の板そのものが剥がれ落ちてきたり。外の世界ほど家の作りがしっかりしていない幻想郷では、天井がまるごと崩れてきて下敷きになってしまうという可能性も十分に考えられた。そうなればさしものことりもただではすまないだろう。
それでも、ここまで来たらもう引き返せない。
「――い、た」
実際に探した時間はほんの数秒、あるいは十数秒ほどだっただろう。けれどただの人間がそんな時間を火炎の中で過ごしていれば、まず間違いなく死に絶えていた。
ことりの瞳が、部屋の隅で倒れている小さな少女の姿を捉えた。火の出どころから離れているからか、たどりついたその部屋はこれまで通ってきた廊下や部屋ほどは燃えておらず、倒れた少女にも目立つ外傷はなかった。
けれど、それらとこの少女が無事だということはイコールしない。まともに息をすることができないほどに炎が存在していれば、対象を一切焼かずとも、人間という生き物を容易く殺してしまうこともあり得ることをことりは知っていた。
それに、炎が広がってこないことも安全につながるとは言いがたい。どうせここまで燃え広がるのも時間の問題だ。早くこの少女を抱えて外に出なければ、一緒に焼け死ぬことになってしまう。
「どうすれば……」
助けるべき相手は見つけた。でも、それからはどうするべきなのだろう。
これまで通ってきた廊下や部屋は炎にまみれている。そんな中を通ってきてしまったため、今のことりは全身に少々の火傷を負い、服は黒焦げでボロボロのうえ、耳や尻尾もところどころちりぢりになってしまっている。妖獣のことりが急いで走ってこれなのだ。少女を抱えてその道を戻っても、ことりは平気でも、きっとこの少女は途中で焼け死んでしまう。
小さな人間の少女を抱えて、悩む。早く思いつかなければ、と焦る。
炎の波がすぐそこまで迫っていた。もう、立ち止まって方法を考え込んでいる余裕はない。
「こうなったら……!」
思いついたそれをやれば間違いなく天井が崩れてくるが、それ以外に思いつけなかった。天井に下敷きにされるよりも先に、一気に外へ飛び出すしかない。
ことりは少女を片腕だけで担ぐように抱えなおすと、空いたもう片方の手に、その身に宿る幻想の力を集め始めた。
それはさきほどまで行使していた人間に化ける妖術に使っていたものと同じ力だ。すべての妖怪、そして時には妖怪じみた人間が自覚する、外の世界にない科学立証不可能な神秘的エネルギー。
言うなれば、妖力。
ことりが思いついた方法というものは実に明快だった。ただありったけの妖力を手のひらに集め、燃え盛る壁に向かって放出し、穴を開け、天井が落ちてくる前にそこへ飛び込む。
普段ならば壁を壊すことを一撃で行うなんてことはできないが、今回は炎のおかげで多少はもろくなっているはずだった。
だから、きっとやれる。そう信じる。
「一、ニの、三――!」
三拍子を口ずさみ終えると同時に、ことりは外に繋がっているだろう燃え盛る木の壁へと向かって床を蹴った。
妖力を集約させた片手をかざす。そして、壁に触れる直前でその力を解き放った。
響くは木の粉砕音。まるで、小さな爆弾が破裂したかのような、炎の猛りをかき消す衝撃。
その後、すぐにぎしぎしと壁や天井が悲鳴を上げ始め、見る見るうちに斜めに傾き始める。せいぜい一秒あればいい方――それが、この部屋が炎と天井に飲まれて消え失せてしまうまでの猶予だった。
ことりは、壁に妖力の塊を当てると同時に、壁が壊れることを確認するよりも先に思い切り前へと飛び込んでいた。だからだろう。ことりとことりの抱えた少女は、落下した燃え盛る天井に押し潰されることはなく、ギリギリで家の外へと脱出することに成功する。
ことりは、もしも壁が壊れなかったことなんて考えもしていなかった。浅慮だが、助かったのはだからこそとも言える。もしもそんなことを考慮して飛び込むのが一瞬でも遅れてしまっていれば、きっと天井に押し潰されて助からなかったはずだ。
家が崩れる轟音を背後に、後先考えずに体を投げ出したことりの体が、ずざざぁ、と地面を擦る。火傷していた箇所が摩擦で刺激され、汚れも入ってしまって、もういっそ叫びちらしたいくらいに痛かった。
けれど、ここで倒れたままでいる余裕はまだない。家の外に出たと言っても、家の近くにいては危険なことには変わりはないのだ。早く、ここから離れなければ。
「う、ぅうう……」
周りが熱で包まれていた時は必死で気にならなかったが、こうして多少は涼しい外に出ると、負った傷を嫌でも意識してしまう。
それだけではない。いくらか火の粉が目の中に入っていたからか、瞼を開けているだけでも相当辛い。けど、目を閉じたらしっかり歩けなくなるから、きちんと前は向かなければ。
ボロボロになりながら、がくがくと震えて今にも折れそうになる足を動かして、ことりは少女を抱えたまま家のそばを離れた。
「おぬし……」
「む、ぐ……ぅぅ、もう、むりぃ」
じじくさい女性の手を振り払った場所まで来て、ことりは、ここまで来れば安全だろう、と足を止めた。そして少女をすぐ横に置くと、力をすべて使い果たしたと言った風にその場にどさっと突っ伏した。
さしもの妖獣たることりと言えど、そもそもとして生物というもののほとんどは炎が弱点だ。火事真っ最中の家の中に飛び込んで、どこにいるかもわからない人一人探し出して、助けてみせて――それだけすれば動けなくなってしまうのも無理はなかった。
炎上まっただ中の家の中に飛び込み、子どもを抱えて出てきたことりのもとへ、当然人間たちは集まってくる。その中には「娘を助けてくれ!」と懇願した男の姿もあった。
彼はことりのすぐ横に横たわった少女のもとへ駆け寄ると、彼女がしっかりと規則正しい息をしていることを確認し、ほっと息を吐く。
そうして、うつ伏せに力なく倒れていることりへ、深く深く頭を下げた。
「ありがとう、ございます……! ありがとう……本当に、ありがとう!」
痛みで朦朧としている五感の中、そんな言葉にことりは少しだけ顔を上げ、本当に嬉しそうな男の顔に視線を向けた。
妖怪は、人間の敵だ。今は互いに生き残るために共存をしているものの、その事実だけは今も昔もずっと変わらない。
だからこのお礼はことりにとって、口の端に思わず笑みが浮かんでしまうほど嬉しかった。
「え、へへ……どう、いたしまして」
それ以上、ことりは意識を保っていることができなかった。
音が完全に遮断され、感覚が現実から剥離し、瞼が自らの意思と反して勝手に閉じていく。
そうして暗転することりの視界の最後には、実に興味深そうにことりを眺める、じじくさい口調をした女性の姿が映っていた。