――瞼により遮断され真っ暗だった視界がわずかに白み、同時に、わずかな温かさが目元を刺激する。いや、これは刺激なんてきつい表現よりも、癒やすように包み込んでくれるとでも言った方が正しいのかもしれない。
その温かみのおかげで、実に心地いい気分でことりは目を覚ました。うぅーん、と小さく呻いて目元を拭った後、瞼の向こう側から降り注いでいるだろう光を遮るように腕をかざし、少しずつその目を開いていく。
「……朝……っていうより、昼かなぁ」
窓から、いや、窓に取りつけたカーテンのすき間から差し込む日差しが瞼の辺りを照らしていたようだった。
昨日は帰ってきてすぐにばたんっとベッドに飛び込んで眠りについたはずなのだが、この様子だと一〇時間以上は軽く寝続けていたことだろう。火事の家に飛び込んで全身を焼かれるなんて無茶をしでかした辺り、さすがに疲労が溜まっていたらしい。
これまでずっと暗闇に包まれていた視界も、そろそろ外の明るさにも慣れてきた。かざしていた腕を遠ざけ、瞳に窓越しに降り注ぐ日の光を受け入れる。
それでもやっぱり少し眩しくて目を細めたが、すぐにそれにも慣れた。そうして目に入ってくるのは、木でできた天井と、包帯でぐるぐる巻きにされた自らの片腕。
昨日は少し動かすだけでもひりひりと焼けつくような痛みが走っていたこの腕も、今は動かすだけで激痛が走ったりはしない。
「まだちょっと、違和感はあるけど……」
試しに指先の包帯を少しだけ外してみる。多くの妖獣の特徴たる獣のごとく長く鋭い爪に、人間と同じ肌色をした指の先端。いつもよりちょっとだけ赤らんでいるだろうか。見る限りでは特に問題はなさそうだから外傷自体は治っているとは思うけれど、まだ内部の方が回復し切っていないみたいだ。
ことりの妖怪としての再生能力は決して高いと言えるほどではない。というか低い。同族の妖怪ではなく人間と比べれば、もちろんそもそも比較にならないほどではあるのだが。
今日一日は激しい動きはせず、安静にしているのが吉であろう。無理をして痛い思いをするのは自分なのだから。
「ふわぁあ、んん……」
上半身を起こし、大きなあくびを一つ。十数時間も眠りこけていただけあって、眠くはない。ただ、寝起きだから出てしまっただけだ。
辺りを見渡せば、そこには当然、私の住処たる木組みの家の内装が広がっていた。
家具は今いるベッドの他には小さな勉強机とダイニングチェア、それらと同じく木製で引き出しの二つついたクローゼットに食器棚。そして部屋の中央に赤と桃色のまだら模様をした丸い絨毯と、その上に小さな丸テーブルがある。
それだけだ。あとはベッドの近くのものと合わせて窓が二つと、出入りするための扉が一つ。それだけでこの一室しか存在しない木組みの家は完結する。
物が少ないうえに狭く、家というよりもただの小屋に近い。だが、こうしてきちんとした形の住居があるという時点で少しは恵まれていると言えた。弱小とされる妖怪たちの中にはそもそもこういった住処を持ち得ない者も多々存在する。人間とは違ってそれでも生きてはいけるけれど、やはりこうした自分の縄張りのようなものには憧れる者が多い。
ことりは縄張りだとかなんだとか別にそういうことに興味はないが、この木組みの家に関してはとても気に入っていた。人間の里からは少し遠いところにあるため寺子屋に通う際に少々手間がかかったり等の不便な点はあるものの、その程度の理由でこの建物から離れて別のところに移住するつもりは毛頭ない。
「えーっと……あったあった」
寝る前に枕元に置いておいた眼帯を左目に取りつけ、よし、と頷いた。
布団から出て、うぅーん、と伸びをして。しばらくすれば腕をだらんと下ろし、はふぅ、と気持ちよさげに息をつく。
こんな風に体を伸ばしても、やはり体に痛みは走らない。くるくるとその場で回ったりもしてみたが、そちらも同様だった。
「っ、うぴゃぁっ!?」
今のは別に火傷がどうこうではなく、回っていた際にバランスを崩して小指をベッドの角にぶつけた。いくら妖獣でも痛いものは痛い。
どてんっ、とその場に倒れ込み、ぶつけた方の足を抱えるようにしてうずくまる。ベッドから降りたと思ったらくるくると回った直後に突如丸くなってぷるぷる震える、なんて光景ははたから見れば奇人にしか思えないような奇行だが、そんなことを気にするほどの余裕は痛みに耐えていることりにはなかった。
「い、いひゃい……や、いたくない、いたくない……いたくないぃ。いたいのとんでけぇ……うぇぇ……」
全身火傷の時は覚悟して飛び込んだからいいにしても、こういう不意に訪れる地味ながらなかなかに強烈な刺激みたいなものは苦手だ。そういうところはことりは人間と変わらない。
ただちょっとくるくるしてただけなのに……まだ火傷が治り切っていないからと言って動けないなんてことはないけど、思ってるより著しく体力を消耗しているらしい。
それも当たり前かもしれない。一晩中、高くない治癒能力でずっと全身の傷を癒し続けてきたのだ。妖怪としての力があまりないことりであれば、生命力を余分に持っていかれるというものである。
「……痛くない、痛くない。うん、もう痛くない……」
実際にはまだちょっとじんじんとわずかに熱を持っているような刺激が定期的にぶつけた小指へ押しかけてくるが、このくらいなら耐えられる。
倒れていた体を起こして、ふと、ばさりとなにかが床に落ちた。
「あ……」
それはところどころ黒く焼け焦げたぼろぼろな布切れ。右腕をちらりと見ると、服の袖の部分が取れてしまっていた。
改めて自分の体を見下ろしてみる。どこもかしこも黒焦げで生地がめちゃくちゃになっているうえ、ところどころに穴が空き、内側に巻いた包帯が見え隠れしてしまっている。もはや服とも言えないようなひどいありさまだ。
眼帯を外し、そちらも確認してみるが、こちらも同様。服ほどではないが、今まで紐がちぎれなかったことが不思議なくらいだった。
「うぅ、結構気に入ってたのに」
はぁー、と大きなため息と一緒に肩を落とす。そしてさらに、このことにはまったく関係ないが、そういえば昨日買っていた団子が今は手元からなくなっていることも唐突に思い出した。火事の家に飛び込む直前に落としてしまったのだろう。ことりの気分はさらに一段階落ち込んだ。
しばらくどんよりとその場に座り込んでいたが、多少気分が落ちついたところで、ことりは少しよろめきながらも立ち上がる。
「……よしっ」
とりあえず、今日やることは決まったと言ったところか。つい昨日火事のまっただ中に飛び込んだせいで負った被害のぶんを取り戻す。
ことりは今着ている、というか引っかけているとでも表した方が正しいようなぼろぼろなお気に入りの服を脱ぎ、クローゼットまで足を進めると、その中から簡素な作りをした紺と白のまだら模様をした膝丈のワンピースを手に取った。
「んん、っしょ、と」
それに頭を通して着用したら、次は靴下、さらには亜麻色のカーディガンを羽織る。ボタンは留めない。
最後に、取れそうだった眼帯の代わりに、引き出しの中から取り出した新しい包帯を左目を塞ぐように頭に巻いて、おしまい。
その後も適当に外出のための身支度を整えると、さっきまで着ていた、脱いでみたらもはやまるで服には見えない黒焦げの布の塊を抱える。あいかわらずひどいくらいぼろぼろだ。匂いも当然ながら焦げ臭い。鼻が慣れてしまったからかよくわからないが、家の中にも同様の匂いが漂ってしまっていることだろう。十中八九ベッドの布団にもこびりついている。
匂いは窓を開けるなりなんなりすれば時間がどうにかしてくれるだろうからいいにしても、ベッドはそうもいかない。この匂いはただ干した程度では間違いなく取れない。ただ、きちんと洗うことになると、その間には替えの布団が必要となる。この家には布団やら毛布やらはベッドの上にあるものしかなかった。
「布団も買ってこないと……」
妖怪は肉体が強力にできているほか、人間ではありえない再生能力なども持ちえている。さらには人々の幻想から生まれた種族なだけあって、元々精神的な存在だ。つまるところ、肉体を休める睡眠なんて取らなくとも生きてはいける。それはことりも例外ではない。
ただ、ことりは広義的には妖怪というくくりではあるものの、あくまで妖獣だ。妖獣はただの妖怪とは違って、元々は野生の獣である。そのため、普通の妖怪と違って存在が極端に肉体に偏っていた。
つまり、通常の妖怪ならば単に肉体を滅ぼされただけならば復活が可能な者が多々存在するが、妖獣はそうもいかないというわけだ。同じ妖怪と比べてもずば抜けて高い身体能力を誇り、同じ妖怪とは逆に精神的な攻撃にも強いものの、それらの代償として人間と同様に肉体が滅びれば存在も滅びる。
幻想の存在たる妖怪と、野生の存在たる獣、その中間に位置する者――それが妖獣なのだ。
だから普通の妖怪とは違って体に負った傷や疲労はダイレクトに存在に影響する。それでも妖怪なのだから睡眠なんて取らなくとも問題はないのだが、取った方がいいことは明白。特に、ことりはあいにくと妖怪としての力があまり備わっていない。大怪我を負った後に睡眠を取らないでいると、人間と同じように著しい不調に陥ってしまいかねなかった。
いち早く本調子を取り戻すため、そして気持ちよく眠るためにも布団の確保は必須と言える。
「……よし、いってきます」
誰もいない自室だけの自家にそう言い残すと、ことりは外に繋がる扉のドアノブに手をかけた。
ぎぃ、と音を立てて開かれたその先にあった世界は、人の通った跡のある道などではなく、自然からはほんの少し外れた不可思議な匂いと、太い木々の乱立する原生林だった。
これでもかというほど枝を広げている樹木たちがもたらす葉っぱのせいで、どこもかしこも森は薄暗く、じめじめとしていて居心地が悪そうに見える。時折日の差す場所があるおかげで視界の確保は容易であるものの、雲の覆い尽くす夜なんかはほとんど真っ暗でなにも見えなくなってしまいそうだった。
その木々の根本辺りによく生えている植物も普通の森林らしいものもあるにはあるのだが、どこかおかしな形や空気を放つ異様な植物が多い。光に反射して、なにかの胞子のようなものがわずかに舞っているさまも確認できた。
一言で表せば、不気味、という単語がもっとも当てはまる。ことり以外の人間や妖怪の気配もまったくなく、聞こえるものと言えばほとんどが風で枝と葉が揺れる音ばかりだ。たまに、リスかなにかの小動物のようなものの鳴き声が混じるくらいだろうか。
「やっぱりもう昼間なのかぁ」
この薄暗い森の中、ことりの家の建っている場所の周りだけは木々がなく、不気味な植物も生えていない。というのも、森のところどころに存在するこういう開けた場所の一つにこの家を建てたからであり、特別な理由は特にはなかった。
ただそれでも、空高く生える樹木たちのせいで、日の光は基本的に真上からしか直接降ってこない。つまり、窓から日が差し込んでくるということは、太陽がそれだけの高さまですでにのぼっていることにほかならない。だから起きた時、ことりは今の時間がもう昼間だということに気づくことができた。
体の調子があまりよくない時に、この森の胞子はあまり吸い続けていたくない。ことりは太陽が鎮座する青空を見上げると、妖怪としての力を全身に巡らせた。
とんっ、と地面を蹴ると、ことりの体が宙に浮き上がる。
「おっ、とととぉ」
病み上がりというか、まだ上がり切っていないからだろう。一瞬ふらふらと墜落しそうになってしまったが、すぐに持ち直した。いつもならぼーっと空でも眺めながら飛行しているところだが、今日は飛ぶこと自体に集中した方がよさそうだ。
空を飛ぶ、ということは妖怪の間では一般に行われている移動方法である。妖怪に限らず。妖精や神、あるいは仙人や、多少力のある人間なんかも普通に行うため、特に珍しいものでもなんでもない。割合で言えばむしろ飛べない者の方が少ないくらいだろう。
いつもしているのと同じように空を飛び、胞子の舞う森の上を越えていく。たまに気づかないうちに高度が下がっていたりもしたが、飛行することに意識していればそれにはすぐに気づくことができた。そのたびに修正をして、速度は遅いものの比較的安定した飛行で青空と緑の合間を進んでいく。
数分もすれば、やがて森の終わりが見えてきた。この辺りになると胞子もほとんどなく、おそらくは地面を歩いても大丈夫だろうが、今更下りるのもなんなのでこのまま飛行を続けていく。
このまままっすぐに進んでいけば人間の里につく。いつもはその少し手前で下りて人間に化けてから侵入しているが、今日の目的はそれではない。どころか、人間の里ですらない。
ことりは森の出口、あるいは入り口とも言える辺りで高度を自ら下げると、森の中とは打って変わって安定した地形の地面に足をついた。
目の前には人間の里に向かう道が続いている。が、ことりはその場でくるりと半回転をした。
そうしてことりの視界に入ってくるのは、森との境目に建てられた一軒の異国風の建物と蔵だった。その周りには、ここ以外ではまず見かけない不可解なものばかりが雑多に溢れていた。
いくらかの取っ手のついた白い長方形の箱に、その上に乗っかっているのは取っ手に加えてゼンマイのようなひねりがついた正方形の箱。なにやら先端に赤い円盤のついた白くて長い棒が地面に突き刺さっていたりもするし、二つの車輪を金属でつないだ上にサドルなどを設置して乗れるようにしたものやら、見たこともない奇妙な材質で作られた両手で抱えるのがせいいっぱいの灰色の四角い箱などもある。建物の壁にはヤギミルクやモリガナヨーグルトなどと描かれたラベルが貼りつけられていたり――それらの軽く数倍の数の意味不明なものばそこらに転がっているため、もはや一目見ただけではこの建物がなんなのかまるでわけがわからない。
一応、招き狸の置き物のようにどこか他の場所でも見るようなものも存在するが、ごくごく少数である。ほとんどがこの幻想郷では見かけない妙なものであり、もちろんことりにも使い道がわからないものばかりだった。
そんな摩訶不思議な物々が囲う建物の扁額には、『香霖堂』の三文字が記されている。
「む、ぐぅ……」
くらり、と倒れかける。まだ治り切っていないこの体には、飛行という行為は思っていたよりも負担をかけたらしい。
それでも、なんとか目的地にはつくことができた。香霖堂――森の入り口に建つ、幻想郷の外にある世界の品物を集めては売りさばく、古道具屋。この店こそがことりの目指していた場所だった。
中からはきちんと人の気配がする。店主は店内にいるようだ。
少しふらふらとした足取りで建物の前に近づいていくと、ことりは、その入り口となる扉の取っ手に手をかけた。