この幻想郷には、博麗の巫女、と呼ばれるバランサーが存在していた。
幻想郷には、忘れ去られてしまった幻想を取り込み、そして取り込んだその存在を維持するために二つの論理的な結界が張られている。
一つは博麗大結界。心を持つ存在の幻想郷と外の世界との行き来を制限する結界。これにより、幻想郷と外の世界は陸続きではあるものの、幻想郷から外の世界へ行くことは容易にできず、その逆もまた然りといった具合になっている。
一つは幻と実体の結界。結界の内側を幻とし、外側を実体の世界とする結界。これにより、外の世界では幻想とされてしまった妖怪の存在を幻想郷においては確固たるものとなり、さらには、今もなお外の世界に住まう妖怪を積極的に取り入れる結果となっていた。
妖怪だけでなく、妖精や神、とにかく人間以外の種族の多くはこの二つの結界がなければ存在を維持し続けていることができない。妖獣たることりもそうだ。だからこそ必然的に、その重要な二つの結界を今のまま維持し続けるための管理者が必要となる。
その管理者こそが結界の境目に建てられた博麗神社に住まう、すなわち博麗の巫女とされる人間だった。
「……うぅ、やな方の予想が当たっちゃったぁ……」
ことりは居間の奥で物音を立てないようにじっとしつつ、頭を抱えていた。耳には、霖之助と新たに入ってきた誰かとの会話が店の方から聞こえてくる。
一つは低い男性の、つまりは霖之助の声。そしてもう一つは、少女らしき高い声だった。
「やっぱり霊夢か。僕の返事を聞く前に入ってきたけど、僕がいなかったらどうしてたつもりなんだい?」
「やっぱりってなに? 別にいたっていなくたって上がってたわよ。なんでいなかったら入っちゃいけないみたいに聞くの?」
「いや、普通は店主がいなかったら勝手に入ったりはしないものなんだが……」
霖之助が呆れたように肩をすくめるしぐさが頭に浮かぶ。けれどもそんな彼の態度を、彼と相対している誰か――霊夢と呼ばれた少女は、どうやらまったく気にしていないようだった。
ことりは、その霊夢と呼ばれた少女のことを知っている。実際に出会ったわけではなく、あちらはことりのことをこれっぽっちも見知ってはいないだろうが、彼女は幻想郷において、いい意味でも悪い意味でも有名人なのだ。
「そんなことより聞いてよ。さっきひどい目にあってさぁ――」
霊夢がなにか新しい言葉を発するたびに、ことりの肩がびくりと震えた。
ばれたらまずい、ばれたらますい。何度も心の中でそう呟いて、必死に体を丸めて少しでも小さくなろうとする。
とにかく息を殺して、存在感を消して、ここに自分がいることがばれないようにしないと。なにせもしも自分の存在がばれてしまったら、どんなことをされるかわかったものではない。相手はあの悪名高い今代の博麗の巫女、博麗霊夢なんだから。
「わたしなんかじゃ到底太刀打ちできないし……」
幻想郷の結界を管理するということは、その存在を脅かす要素を排除しなければならないということでもある。そのためには少なくない力も必要となり、ゆえに博麗の巫女と呼ばれる人間は、普通の人間ではありえないほどに高い実力を持つ。妖術をも凌ぐ強力な霊術を行使し、脅威となる妖怪を、そして幻想郷の秩序を乱すようであれば時には道を外れた人間さえも退治する。博麗の巫女という存在は、よくも悪くも人間でも妖怪でもどちらの味方でもない、幻想郷という一つの世界の味方だと言えるだろう。
ただし、今代の博麗の巫女はそういう完全な中立ではないようだった。
いや、妖怪だけでなく人間も退治することがあるということは本当らしい。だけれどそれとは別に、博麗霊夢は目に入った妖怪に片っ端に襲いかかることでも有名だった。
その妖怪の名も顔も知らない、なんの悪さもしておらず、たとえただ読書に勤しみ楽しんでいるだけであろうとも、それが妖怪であれば問答無用でこてんぱんに叩きのめす。時には気に入ったものを奪っていくうえ、それをなんとか取り返そうと奮闘してみても、これまた完膚なきまでにけちょんけちょんにされ、さらには奪ったものは返してくれない。紅白の服を着た人間を見たらよほど力に自信がない限り絶対に逃げろ。でなければあの外道巫女に必ずミンチにされる。そんなひどい噂が、ことりたち弱小妖怪の間では絶えなかった。
加えて言えば、博麗霊夢が博麗の巫女になってから、これまでほとんど誰も訪れることがなかった博麗神社に多くの強力な妖怪が集まるようになったという。相手が妖怪だろうとまったく気後れしない霊夢の性質は強い力を備える妖怪にとってはとても新鮮で愉快に映るようだが、ことりたち弱小妖怪からしてみれば、簡単に自分たちを退治することができる存在がこちらを見つけたらすぐに襲いかかってくる状況は恐怖でしかない。
もちろん、妖怪としての力が弱く、変化の術くらいしか取り柄がないことりにとってもそれは例外ではない。
博麗霊夢という、相手が妖怪というだけで問答無用に悪虐の限りを尽くす噂を持つ少女がすぐ近くにいるというこの現状は、ことりからしてみればもはやホラー以外のなにものでもなかった。
「あの妖怪巫女にだけは、絶対見つかっちゃいけないっ……」
妖怪巫女。それは博麗霊夢を比喩する一つの言葉だ。
人間がこの言葉を発する場合は主に妖怪神社の巫女という意味で使われるが、ことりのような妖怪、とりわけ弱小妖怪がそれを発する時は別の意味で扱われることが多い。
すなわち人間のくせに妖怪みたいに傍若無人な恐ろしい巫女、そこらの下手な妖怪よりも妖怪じみた人間の巫女。ゆえに、妖怪巫女。
人間に恐怖を与える存在であるはずの妖怪がそこまで称するという事実は、相当なことだった。
「――ってことがあったのよ。ほら! ここ破けてるでしょ?」
「ふむ、確かに破けているな。つまり君は、朝餉を床に落としてしまった腹いせにその辺の妖怪を退治してやつ当たりをしようとしたところ、思わぬ反撃を受けて服が破けたから、図々しくもそれを僕に直して欲しいと。そう言いたいわけだ」
「わざわざ要約しなくたっていいわよ。あー、もうっ! 思い出したら段々とムカついてきたわ! なによあいつ! 素直に私の弾幕を受けるだけ受けてれば気絶するくらいで勘弁してあげたのにっ!」
「そこまでいくと勘弁したとは言わないと思うが。結局その妖怪はどうしたんだい?」
「ふんっ、全開の夢想封印で思いっ切り土の中に頭を埋めてやったわ。私の服を破いたくせしてあのくらいで済ませたことに感謝してほしいくらいね」
なんとも恐ろしい会話の内容がことりの耳に入ってくる。やつ当たりに適当な妖怪を退治しようとしただとか、その妖怪は自衛しただけなのに頭を土に埋めてやっただとか。
妖怪は腹いせだとかなんだとか、普通はそんな簡単に退治できるものではない。当たり前だ。そんなことができたら人間は妖怪を恐怖なんてしない。けれどそんなバカげたことを実際にやってみせてしまう存在こそが、この博麗霊夢なのだ。
噂とまったく遜色ない本人の口から語られる悪行に、早速ことりの体がぶるぶると震え始めた。やばい、本当にやばい。もしかしたら噂は噂でしかなくて、本当は妖怪にも心優しいような聖女かもと淡い期待を抱いていたりもしたが、妖怪よりもはるかに儚すぎる幻想だったらしい。この博麗霊夢という少女は間違いなく噂通りの外道巫女だ。
どうか見つかりませんように、見つかりませんようにっ。ことりは何度も心の中で唱え続ける。
「……これは、あの子を奥の方に隠したのは正解だったかもしれないな」
「うん? よく聞こえなかったわ。なんて言ったの?」
「なんでもないよ。ただ、君のその服を直すのにはしばらくかかるというだけだ」
「一刻とかそのくらいかしら」
「少なくて、ニ日か三日と言ったところだな」
「はぁっ? さすがに長すぎじゃないの? この服は霖之助さんに作ってもらったんだし、そもそもちょっと布を脱い繋ぐだけでしょ? なんでそんなに時間が必要なのよ」
「今は先客がいるからね。そもそも霊夢、どうせ君は今回のこの仕立て直しもツケにするつもりだろう? だったらいくら霊夢でも、お金を払ってくれないなら同じ作業をお客さまより先に行うわけにはいかないよ」
その先客というのはことりのことだろう。他に古道具屋の霖之助に、服の手直しなんていう奇妙なことを頼むような人物にことりは心当たりはない。
ことりが霖之助に服を作ってくれるよう頼んだのも、以前香霖堂に来た時にばったり霊夢に出くわしそうになってしまい――なんとなく窓から覗き、来ようとしている人物が博麗の巫女だと気づいてすぐに隠れたおかげで、霊夢がすぐに帰ったこともあってばれなかった――、その時に霊夢の服を霖之助が手がけたということを小耳に挟んだからだった。
初めに試しにと頼んでみた時は、もちろん最初は霖之助は古道具屋だからと渋っていた。けれど適当に売れなさそうな商品を買ってみたら特別だと言って作ってくれて、そうして差し出されたものが、外の世界の制服にアレンジを加えて作ったという白黒の可愛い衣装だった。
博麗の巫女がよく訪れるということを知ってしまったせいで、ことりはしばらく香霖堂からは足が遠のいてしまっていた。けれどあの服は霖之助にしか作ることができない。だからこそ博麗の巫女に出くわすリスクを負ってまで一か月ぶりに香霖堂を訪れたのだが……やるべきことを終えたらすぐに帰るつもりだったのに、まさかこんなにもタイミングよく隠れなければならないような事態に陥ってしまうとは。どうやら今日は、運命の女神はことりには微笑んでくれていないらしい。
「先客って……うん? なによこの黒い布切れみたいなのは」
「あぁ、それは」
「ボロボロの……服? それも女物の……って、焦げくさっ!」
ばさっ、と布を床かテーブルかに叩きつけたような音が聞こえる。
まずい、そういえば持ってきた服をそのまま置いてきてしまっていた。このままじゃ自分が建物の中にいることがばれる……いや、霖之助がうまくやってくれれば。霖之助がどうにかごまかしてくれるはずっ。どうか、どうかお願いしますっ。
「僕に服のかけはぎを頼みに来た女の子が置いていったんだよ。さすがにそこまでボロボロになったものを直すことはできないから新調することになったけどね」
そんなことりの願いが通じたのか、霖之助はどうやら、『その客は頼み事をしたらすぐに帰ってしまった』という設定で話をしてくれるようだった。
密かに心の中で霖之助に感謝することりとは裏腹に、霊夢は霖之助のその言葉を聞くと、どういうわけか黙り込んでしまっていた。一〇秒近く経っても、どちらもなにもしゃべらない。霖之助がしゃべらないのは余計なことを言って嘘がばれないようにするためだろうが、霊夢はなぜ黙ったのだろう。どうしても気になってしまう。
もしかしたら小声で会話してるのかも、と居間の奥から少しだけ廊下の方に近づくと、唐突に霊夢が再び言葉を発した。
「……そういえば、今日の新聞に気になることが書いてあったのよね。まさかとは思うけど……」
「気になること? なんだい、それは」
「『人間の子どもを妖獣が救出』って」
ぴくりっ、とことりの垂れた長い獣の耳が反応した。霊夢の声が再度聞こえたことで反射的に奥の方へ引っ込み直そうとしていた体を、無意識に廊下側へと近づけていく。
「いつもは別に天狗の新聞なんてせいぜい流し読みするくらいなんだけどね。さすがに見出しが気になってその部分だけ読んでみたのよ。そうしたらなんともまぁ疑わしいことばっかりでねぇ」
「疑わしいって、僕には聞いてみないと判断しようがないよ」
「霖之助さんは読んでないの? 今日の新聞」
「あぁ、それならそこに」
「あら、どうして窓に貼りつけているのかしら」
「どう見ても割れているだろう。丸めた新聞を投げ込まれて割られたんだよ。いつものことだけどね」
ぎしっ、と誰かが立ち上がる音がした。びくりっ、とことりは体を震わせると、どこかさらに隠れられる場所はないかと慌てて視界を巡らせる。
だが、そんなことりの焦りは杞憂だったようだ。どうやら霖之助が、修繕代わりに窓に貼りつけた新聞を読むために席を立ったらしい。
「えぇと……これか。なになに……先日夕刻、人間の里で一軒の家が炎上。幸い火が周囲の建物に燃え広がることはなかったが、中に住民の一人である人間の子どもの女の子が取り残され……って、火事だって? おいおい、おおごとじゃないか」
「燃えたのはその家だけで済んだみたいだけどね。これが妖怪のしわざならいくらでもやりようがあるんだけど、こればっかりはねぇ。今後は同じようなことが起きないように徹底してほしいわね」
「完全に他人事だが、霊夢もだからな。特に、博麗神社は幻想郷にはなくてはならないものなんだ。火事で神社がなくなったから結界も消えてしまった、では困るぞ」
「うぐ……ま、まぁ、確かに燃えかけたことはあるけど……神社がなくなったくらいじゃ結界が弱まるだけなのは前に壊された時に検証済みだし、さすがに消えたりはしないわよ。神社の周りの木々まで燃えちゃったりしたら、さすがに厳しいかもしれないけどね」
「あのなぁ」
「いいから早く続きを読み上げなさいよー。私は知ってるから興味ないけど」
「それなら別に読み上げる必要はないんじゃないか? ……まったく。わかったよ」
再び霖之助が新聞を読み始めるようなので、ことりは耳を澄ませた。
「住民の一人である人間の子どもの女の子が取り残された。もはや炎は家中に広がっていて、中へ飛び込むことは人間にとっては自殺行為に等しい状況だったが、どこからともなく現れた謎の妖獣の少女がそんな家へ飛び込むと、一分もしないうちに子どもを抱えて壁を破って戻ってきた」
「この時点で怪しいわよねぇ。妖怪が人間を助けるような行動を取るなんて」
「救出された人間の女の子の命に別状はなく、その子どもと両親は、助けてくれた妖獣にひどく感謝しているという。実際にその妖獣になぜこのような行動に出たのかインタビューを行いたいところだが、直後にどこかへ消えてしまったためにその詳細は不明であり、もしかすれば神さまが妖怪に化けて助けてくれたのかもしれない、と……ふぅむ」
あるいは別の事件の可能性も考えていたが、その内容は間違いなくことりが昨日しでかしたことだった。どこかへ消えてしまったというのは、余計な人間の注目が集まる前に、ことりと同様に人間に化けていた彼女が隙を見てがことりを連れ出してくれたのだろう。
神さまのおかげかもしれない、なんて表現されると、ちょっとむずがゆい気もしてくる。幻想郷には妖怪と同じように神さまも存在しているが、人間に恐怖されることで存在を保つ妖怪と違って、神さまは人間に信仰されることで力を保っていた。人は神を信仰し、神はそんな人間へと恩恵を与える。ゆえに神さまとは、どちらかと言えば人間の味方という印象が強い存在だった。
「つまり人間の子どもを救い出したその妖獣については、なにもわかっていないということだな」
「本当にいるのかしらね、そんな妖怪。この服が黒焦げだったから、なんだか思い出しちゃったけど」
「……どうだろうね。僕は、そういう妖怪がいても不思議じゃないと思うよ。かつてこの幻想郷がなかったはるか昔の時代には、人間と妖怪の本当の和解を願って、妖怪の味方をする人間だっていたって言うんだから」
霖之助はおそらく、気がついている。ことりが人間の子どもを助けた妖獣の正体であるということ。そして服の黒焦げや異臭の原因、そして店に来た時からずっと不調である理由も。
霊夢は霖之助の感想を肯定せず、否定もせず、なにも答えなかった。疑わしいとは思っているようだが、完全にはありえないと否定し切れない。そんな具合なのかもしれない。
人間と妖怪、か。
小さく、自分以外の誰にも聞こえないくらい小さく、ことりはそう呟いてみた。特になにを思ったわけでもない。ただなんとなく、口に出してしまっただけだった。
話が一段落したところで、霖之助と霊夢の会話はひとつ前のものに戻っていた。つまりは服の修繕について。どうせすぐ終わるから自分のものを先にやってくれ、と主張する霊夢と、それはダメだ、と譲らない霖之助。ことりとしては正直霊夢が怖いし、本当にすぐ終わるだろうからあちらを優先してもらっていいのだけど、会話に加わるわけにはいかないことりに、その意思を伝える手段はない。ただただ霊夢の機嫌が無駄に悪くなったりしないかとはらはらするばかりである。
――からんからんっ。
「よう香林。邪魔するぜ」
ふいと、そんな時、新たな客の来店を知らせる鈴の音が鳴った。一緒に聞こえてきた挨拶は男のような口調とは裏腹に、声音は霊夢と同様に幼い少女のものだった。