銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第49話 「天ツ風操の華麗なる一日」

 

 

 

 

 

 天ツ風操の朝は、目覚まし時計で窓ガラスを粉砕するところから始まる。

 

「……しまった、またやってしまった」

 

 操の私室という限りある世界を飛び出し、無限の大空を舞い山のいずこかへと消えていった目覚まし時計を見送って、操は朝っぱらからブルーな気分になった。粉々になって殉職した窓ガラスを悼む気持ちはない。ただ、これをやってしまうと主に修理代方面で椛が非常にうるさいので、彼女の説教をどうやって切り抜けようかと思うと今から頭が痛い。やはりビーフジャーキーでご機嫌を取るのがいいだろうか。「こんなのいりません!」と意地を張りつつもしっかり取っておいて、部屋に戻ってからもそもそ頬張っているのを操は知っている。

 ともあれ、朝だった。

 

「……どれ」

 

 軽く伸びをして、布団から出る。普段から寝室として使っている、八畳間ほどの和室だ。決して広くはないが、広すぎる部屋で独り寂しく寝るのも落ち着かないので、ちょうどいいくらいだと操は思っている。

 天狗たちの中には個人の家で生活している者も少なくないけれど、曲がりなりにも天魔である操は、山の奥地に自然とともに築かれた、天狗の大屋敷で寝泊まりをしている。単純な敷地面積だけなら水月苑も白玉楼も凌ぐ大屋敷で、操に割り当てられた部屋は十近く。この寝室を始め、日常生活で使うリビングとなる部屋や、水回りの部屋、書斎、執務室、簡単な料理ができる台所、納戸、その他操自身もなにに使うか決めていない空部屋などなど。これらが一つの民家として独立しているのではなく、あくまで屋敷のごくごく一部分としてつくられているのだから、果たして誇るべきか呆れるべきなのか。きっと、この屋敷をつくった代の天魔は相当な贅沢病だったのだろう。

 押入れを開け、普段着である黒の着物を引っ張り出す。寝間着を脱いで、鴉の羽を思わせる黒の袖に腕を通しながら、ぽつりと独りごちる。

 

「さて、今日はなにをしようか」

 

 無論、仕事は、しなければならない。けれど仕事ばかりをするわけにもいかない。存在の比重が精神に大きく傾いている妖怪だから、したくもない仕事ばかりをして心に負担を掛けていては、この命はあっと言う間に枯れ果ててしまう。心の疲れを紛らわす気分転換は、殊に妖怪には必要不可欠な、呼吸にも似た生きるための営みなのだ。

 一日の仕事をキチンと終わらせてくださるなら、どうぞお好きなようになさってくれて結構です、と椛のお許しももらっている。……もっとも、結局仕事を終わらせられなくて椛に怒られ、執務室の椅子に縄で縛りつけられるのが、日常茶飯事なのだけれど。

 

「……ふふ」

 

 椛の姿を脳裏に思い描き、操は小さく笑った。若い故に未熟なところも多いけれど、彼女は同僚に並ぶ者なしと謳われるほど仕事熱心だ。親から引き継いだ役目を、その小さな背中で健気に背負って、一生懸命に東奔西走してくれている。

 表向きこそ、しがない一匹の白狼天狗という肩書きだけれど。

 実際の椛の役目は、天魔である操のお目付役。

 かつて、椛の父親が、そうだったように。

 

「小父貴。お主の娘は、本当にいい子に育っているよ」

 

 主人――天魔のために、犬になることすら厭わずに、走る。故の『犬走』。

 先代から、先々代から――操が知らないほど遥か昔から、そういう意を込めて、天魔とともに受け継がれてきた名だと聞いた。

 

「まあ、元気すぎてよく噛みつかれるけどな」

 

 それも、一つの愛嬌なのだろう。

 耳を澄ませば、ほら、聞こえる。名は体を表すが如く、犬っぽい、操の可愛い部下が、走ってきている。

 

『――天魔様あああああ! また窓を壊しましたねえええええっ!?』

 

 操は苦笑いをして、着物に帯を通す手を速めた。そして同時に、瞑想するようにゆっくりとまぶたを下ろして、己の中のスイッチを切り替える。

 堅苦しくて無愛想な本来の人格を、引っ込めて。

 お調子者で剽軽な、もう一つの人格へと、切り替える。

 切り替えが終わるのと、椛が尻尾を逆立てながら部屋に飛び込んできたのとは、同じタイミングで。

 

「天魔様っ! 一体何度言ったらわかるんですか、窓の修理費が嵩むのでやめてって」

「もーみじいいいいいっ!!」

「わひゃうっ!?」

 

 その言葉を遮って、体当たりするように勢いよく抱きつけば、椛は形のいい二つの瞳をまんまるにして飛び上がった。

 

「ちょっ、いきなりなんですか!?」

 

 操は椛のもふもふを堪能しながら、にんまりと笑って、

 

「んー? ごめんなさいのスキンシップじゃよお。すまんのう、ビーフジャーキーあげるから許してっ」

「それってバカにしてませんか!? 窓の修理を申請するのも目覚まし時計を買い替えるのも、全部私なんですから、ほどほどにしてくださいよ!」

「これはあれじゃね。もう窓を強化ガラスにするしかないねっ」

「なんで目覚まし時計ぶん投げるのが前提になってるんですか! 直してください!」

「だって、もう体に染みついちゃってるっぽいし……。気がついた時には、既に窓に風穴が空いてたんじゃよ。すごいよねっ」

「全然すごくないですよ、もお~……ああ、着物の帯がちゃんと締まってないじゃないですか。ほら、結んであげますから放してください」

「はーい」

 

 大体、いつも通りの朝の風景だった。日によって怒られたり怒られなかったり差はあるけれど、いつも、目を覚ました操のもとにはすぐに椛がやってきて。

 

「……ちなみに、ビーフジャーキーは食べるか?」

「……、……食べません」

「え? 椛、今の間」

「食べませんっ!!」

 

 こんな感じで、天ツ風操の一日は始まる。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 やりたいことがまとまらなかったので、午前中は仕事をすることにした。

 椛に気の毒そうな目をされた。

 

「天魔様……どこかで頭を打ったんですね? 大丈夫ですか?」

「ひどいっ。ねえ椛、儂だって真面目に仕事しようと思う時くらいあるんじゃよ!」

 

 一日の時間は二十四時間の有限だ。そのすべてを有意義に使いこなすためには、やりたいことがまとまらないままぼけーっと時間ばかりを浪費するような真似は、断固として避けなければならない。

 なので考えがまとまるまでの間は、片手間にでも仕事を進めておけば、時間を有効活用できて後悔が少ないじゃないか――と、操は遂にその真理へと至ったのである。

 椛にとても胡散くさそうな顔をされたのは、そこそこ傷ついたけれど。

 

「どういう風の吹き回しかは知りませんが、でも、いいことですね。じゃあ今のうちに、明日の分を先取りするくらいの気持ちでやっちゃってください」

「任せるんじゃよ!」

 

 朝食を終えて、操は意気揚々と執務室の椅子に座った。天魔は天狗を統べる長であるのはもちろん、事実上、妖怪の山の代表みたいな立場でもある。山では、天狗の印刷技術や河童の科学技術を筆頭として独自の文化が形成されており、人里との交易もそこそこ行われているので、必然的にそれを管理する報告書だのなんだのが発生する。それらの報告書を取り仕切る役職は他に専門がいるため、実を言えば操が目を通す必要はないのだけれど、やはり『長の許可が必要』という制約は、この幻想郷でも儀礼のように扱われる一つの形式なのだった。

 なんでこんなことしなきゃなんないんじゃよーめんどいーとぶーたれていた若かりし頃――もちろん今だってとても若いと自負するけれど――の操に、こうすることで自分たちの長が誰なのかを皆に認識させることができ、秩序のある社会を築く一助となるのです、と仰々しく説いたのは先代の犬走だった。そのあとに、特に操様はこれをキチッとやっておかないと皆が天魔と認めてくれないでしょうから、とあんまりな蛇足をつけられたのは……まあまさしく蛇足だろう。

 

「では、これが今日の分の書類です。よろしくお願いしますね」

「応さ!」

 

 椛が持ってきた本日分の書類は、ちょうど本一冊になるかどうかでかなり少なめだ。山の住人たちは皆自由奔放で、書類の提出も自由奔放に行うため、操のもとに届く量は日によって多かったり少なかったりする。月見が幻想郷に戻ってきたその日、机の上に形成されていた書類タワー(製作期間二週間)の姿を思い出すと、なんだかわけもなく懐かしい気持ちが込み上がってきた。

 この程度の量であれば、午後からなにしようかなーと考えながらのんびりやったとしても、そう時間は掛からないだろう。どうやら、今日は楽な一日になりそうだ。

 

「言うまでもないですけど、逃げないでくださいね」

「逃げない逃げない。今日はこいつをさっさと終わらせて、午後から思いっきり遊ぶのじゃ!」

 

 もちろん、本心である。同じようなセリフを宣ったあと堂々と失踪した記憶は何度かあるので、信じてもらえるかは不安だったけれど。

 

「ふふ、そうですね。頑張ってくださいね」

 

 まあ、それなりに長い付き合いだけあって、このくらいはちゃんと伝わるらしい。椛は満足げに微笑み一礼して、自分のもう一つの仕事である哨戒任務を行うために、執務室をあとにしたのだった。

 

「……よし」

 

 椛が去り静かになった執務室で、操は小さな声で気合を入れる。無論、仕事に対してではなく、

 

「ではでは、午後からなにをして遊ぶか、全力で考え抜こうではないか!」

 

 操にとって、仕事と遊び(プライベート)の優劣など所詮その程度だ。そして、それでも妖怪の山はそこそこ上手くやっているのだから、問題はないのだと操は思う。

 左手で書類を一枚取り、右手で朱肉を取り出し、印判を持って。

 

「遊びに行くなら、やっぱり月見のところかなーっ!」

 

 書類の内容にろくに目を通さないまま、べたーん、と勢いよく捺印した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ねえ……椛って、天魔様のお目付け役やってて大変じゃないの?」

 

 それが、犬走椛が生涯最もよく投げ掛けられる質問の一つである。元気? とか、調子はどう? とか、それと同じくらいの頻度で訊かれる。山の哨戒を行い、間もなく昼の休憩時間も近づこうかという頃になって、やはりというべきか「今日のお昼はなににする?」と同じくらいに何気ない口振りで、椛は同僚からそう尋ねられた。

 今まで何百回と訊かれた問いだ。返す答えは、()うの昔から決っている。

 

「大変だよ。ものすごく」

 

 答えるたびに疑問に思うのだが、みんなには椛が暇を持て余しているように見えるのだろうか。そうだとしたらちょっと傷つく。

 天ツ風操は、とんでもなく手間が掛かる主人であった。よく仕事を抜け出すのはもちろんのこと、私生活もかなりのズボラで、今朝なんかは帯の結びが甘かったのをわざわざ締め直してあげた。彼女の私室は、放っておくとすぐに物置みたいな惨状になってしまうので、定期的に掃除をしてやらなければならない。捺印の終わった書類と終わっていない書類、或いは部門が異なり区別しなければならない書類を面倒くさいと言って全部一緒くたにしてしまうので、書類の整理は椛の役目だ。独りじゃ寂しいからなんかお話しておくれよう、なんて下らない理由で夜中に呼び出されたのも一度や二度じゃない。

 私はあなたの母親ですか! と思わず平手打ちしたくなってくるほど、とにかく手の掛かる主人なのだ。哨戒天狗としての仕事の他に、そんな彼女の世話までしなければならないのだから、椛はきっと妖怪の山で一番忙しい天狗なのだろう。

 椛の答えに、同僚は苦笑しながら、

 

「じゃあさ、辞めたい……というか、他の人に任せたい、とか思ったことはないの?」

 

 これもまた、よく訊かせる質問だった。そして返す言葉も、やはり考える前から決まっていた。

 

「ないよ。私は、『犬走』だもん」

 

 天魔の最も近い従者にのみ与えられるその名を、父より受け継いだ瞬間から、操のために生きることを宿命づけられた。そうしてただの白狼天狗だった『椛』は、『犬走椛』として確立された。

 宿命に翻弄されたわけではなく、自分でしっかりと納得した上での結果だ。よく周囲からは誤解されることがあるけれど、決して強制されたのではなく、椛は椛の意志で『犬走』の名を継いだ。椛が望めば、ただの白狼天狗としてこの山で生きていくこともできた。だが椛はそうしなかった。

 それが父に対する憧れからだったのか、『犬走』の名に対する義務感からだったのか、或いは操に対する敬畏からだったのか、今となっては、操に振り回されるストレスで忘れてしまったけれど。

 

「すごいなあ、椛は」

 

 天狗たちの大屋敷へ戻る空の途中で、同僚はそう言って青空を振り仰いだ。

 

「私だったら、多分一週間ももたないと思うなあ。天魔様、いっつも元気で楽しそうにしてるから、親しみやすくてすごくいい方だとは思うんだけど、でもちょっと羽目を外しすぎてるというか、天狗の長としてもうちょっと威厳というか……あ、いや、これは決して悪口を言ってるわけじゃなくて」

「わかってるよ。……それに、悪口ではないと思うよ。事実だもん」

 

 椛は喉だけで笑った。確かに普段の操はおちゃらけていて剽軽で不真面目で、とても天狗の最上位に立つ器とは思えないほどの子どもである。そんな彼女の姿を、この同僚のように、必ずしも好意的に受けとめていない者というのはしばしばいる。

 

「でも一応『犬走』として擁護しておけば、天魔様、本当にやらなきゃいけない時はちゃんとやる方だから」

 

 天ツ風操は、二つの人格を持っている。日常生活の中でまとっている、自由奔放で天衣無縫な人格。そして天魔として本当に重要な任務を遂行する時にだけまとう、冷静で思慮深い峻厳たる人格。これらの人格を必要に応じて切り替えて、天ツ風操は生きている。前者はダメダメすぎて話にならないが、後者はまさに天魔の名を背負うに足る、気高く畏ろしい人格だ。

 どちらが操の本当の顔で、どちらが作られた仮面なのかは、椛にはわからない。少なくとも椛が父に連れられ、初めて操に会った時には既に、彼女は二つの人格を切り替えて生きるようになっていた。

『犬走』を始めとする、天魔に親しいごく一部の側近にしか知らされていない秘め事だ。そういう真実を自分だけが知っていて同僚は知らない、というのは、なかなか優越感を刺激されるものがあって、悪くはないなと椛は思う。

 同僚は、浮かぬ顔。

 

「ふーん……椛が言うなら間違いないんだろうけど、私にはなんだか想像できないなあ」

「あっ、でも天魔様、今日は珍しくちゃんと仕事してくれてるみたいなんだよ」

 

 同僚が幽霊にでも遭ったような顔をした。

 

「えっ……明日の天気って、雨だっけ」

「……そうかもね」

 

 もしかすると、いつぞやの異変みたいに雪が降ったりするのかもしれない。ちゃんと仕事をしているだけでみんなから正気を疑われる天魔。今度から駄天魔と呼ぼう。

 ともあれ。

 

「とりあえず、私は一回天魔様のところに戻るね。ちゃんと真面目にやってくれてたなら、多分もう終わってると思うから」

「大変だねー。いってらっしゃーい」

 

 ヒラヒラと苦笑いで手を振ってくれた同僚に、同じような顔で手を振り返して、椛は操のもとへと向かう。

 その途中にふと眼下の森を見下ろして、思いがけず目に飛び込んできた銀色に、小さく笑った。

 どうやら、午後になってからの操の遊び相手は、『彼』で決まりになりそうだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 果たして、水月苑に遊びに行く方向で考えはまとまった。

 

「やっぱり遊びに行くなら月見のとこじゃよねーっ!!」

 

 びたーん! と最後の書類に捺印して、いえー! と操は椅子を蹴飛ばして立ち上がった。これで今日の仕事はもうおしまい、あとは明日の朝目を覚ますまで仕事のことは考えなくていい。なんと素晴らしいのだろうか。なんだかテンションが上がってきた。

 印判と朱肉を叩き込むようにして引き出しにしまう。机の上に散乱した書類の整理は椛がやってくれるので――もとい、椛から「天魔様は絶対にやらないでください!」と厳命されているので――放置でよろしい。よって後片づけもこれでおしまいだ。執務室から扉一枚を隔ててつながる私室に突撃し、月見の姿を脳裏に描きながら支度を始める。

 

 月見と操が出会ったのは、もうずっと昔、幻想郷がまだ影すらなく、山にも天狗以外の妖怪が住んでいなかった頃。当時は操もまだ、天魔ではなく、次期天魔候補という立場ではあれど、それ以外はなにも特別なものを持たないごくごく普通の鴉天狗だった。

 ごくごく普通の鴉天狗として、山の哨戒をして修行させられているところに、月見が山登りにやってきた。

 その時は彼の傍らには藤千代がいて、それを見た操はなにを思ったのか、月見たちに刃を向けて臨戦体勢に入ったのだから、今思い出すと笑ってしまう。……いや、操は哨戒をしていたのだから不審者には刀を抜いて当然なのだけれど、それにしたって相手との実力差をもう少し考えられなかったのかと云々。

 しかも戦ったのは月見ではなく藤千代の方だったのだから、これはもうまったくもって笑えない。能力をフル活用して文字通り本気で戦っていなければ、天ツ風操という鴉天狗はとっくにこの世から消滅していただろう。若気の至りって恐ろしいよねー。

 ちなみに、ほんの短い間とはいえ藤千代と互角に戦えたのは、操のささやかな自慢だったりする。二度とやるつもりはないが。

 

「ふふ、懐かしいなー」

 

 支度をする傍ら、操の頬に笑みが浮かんだ。そんな感じで月見と藤千代の二人に出会い、操は、すぐに月見たちに心を開いた。次期天魔なんて肩書きを背負っていたからか、基本的に山の外に出してもらえず箱入りで育てられていたので、山の外からやってきた月見たちにはもう興味津々で、子犬みたいに後ろをついて回ったのを覚えている。月見も藤千代も面倒見がいい妖怪だったから、そんな操を一切邪険にすることなく、色々な旅話を聞かせてくれた。

 そうやって月見たちと関わる影響は、ほどなくして他の仲間たちにも伝わっていった。仲間意識が強く排他的だった天狗たちが、多少角が取れて、山に他の妖怪たちを受け入れるようになった。今でこそ鬼たちが地底に移り住んでしまったけれど、お陰様で妖怪の山は、人里とかにも負けないほどの仲良し社会である。

 月見がもたらしてくれた影響は、本当に大きい。

 などと昔を懐かしんでいるうちに、支度が終わっていた。タオルに手ぬぐいに石鹸にエトセトラエトセトラ、これでいつでも水月苑に突撃して温泉にダイブできる。今日は水月苑の営業日ではないが、操と月見の仲であれば普通に入れてもらえるだろう。

 なので操は意気揚々と、

 

「では水月苑に出ぱ――ふぎゅっ!?」

「!」

 

 駆け足で私室を飛び出すのだけれど、そうするなり、なぜか扉の前に立っていた月見に激突した。結構な勢いでぶつかってしまったので、衝撃で後ろに尻餅をつくかと思ったけれど、

 

「おっと」

 

 その前に優しく両肩を掴まれて、抱き留められた。

 抱き留められた。

 抱き。

 

「……」

 

 つまるところ、月見の胸元に顔を埋められそうな程度には、密着しているのだった。

 呆然、

 

「……どうした操、そんなに慌てて出てきて」

「はっ」

 

 我に返る。その頃には既に、操は彼の胸元から離されてしまっていて、なんだか千載一遇のチャンスボールを見逃し三振してしまったような、とても悔しい気持ちになった。

 ちくしょー儂のバカバカバカー!! と心の中で地団駄を踏みながら、顔では笑って、

 

「ちょ、ちょうど水月苑に遊びに行こうとしてたんじゃよ。お前さんこそどうした? ……ハッ、まさか遠路遥々儂に会いに来てくれたのか!?」

「麓からだからそんなに離れてもないけどね。ちょっと頼みたいことがあって」

「……ぶー」

 

 月見はもう少し、乙女に夢を見せてくれてもいいような気がする。まあ、月見の方からわざわざ会いに来てくれたとなれば、なんであれ嬉しいけれど。

 

「天魔様、お仕事は終わりましたか?」

「む? ……なんだ椛、おったのか」

「……最初からずっとおったです」

 

 月見の後ろには、椛が付き従っていた。憮然とため息をついて、

 

「あんなに堂々と飛び出してきたからには、ちゃんとやることやったんですよね?」

「おう、やったやった。机の上にぶちまけてあるのじゃ」

「ぶちまけ……ハァ、まあいいです。ちゃんとやってさえくれたなら」

「椛、ため息ばっかりついてると幸せが逃げるぞ?」

「……ツッコみません。ツッコみませんからね」

 

 椛にとても冷ややかな半目で睨まれたのだが、なぜだろうか。

 ともあれ。

 

「月見、頼み事ってなんじゃ?」

「ああ。鴉天狗たちが作った新聞を見せてほしくてね。古いやつで構わないから、とりあえず今作られてるやつをひと通り」

「それは構わんが」

 

 主に印刷業に携わっている山伏天狗たちに頼めば、十分も待たないうちにひと通り持ってきてくれるだろう。

 

「それで?」

「その中でよさそうな新聞を、一つ取ってみようと思うんだよ。……なにか、有意義な情報を得られることもあるかもしれないしね」

 

 なるほど、と操は得心した。別に月見だけに限ったことではないのだけれど、とかく妖怪にとって、退屈とは命を脅かすといっても過言でないほどの大敵だ。存在の比重が精神に置かれているから、退屈に生活を喰らい尽くされ、生きることを憂うようになってしまえば、妖怪はあっと言う間に老いて消えていってしまう。

 だから、退屈に打ち勝つように充実した日々を送るのは大切なこと。操は特別熱中している趣味こそないけれど、毎日を自分のやりたいように、元気に生きるのをモットーにしている。そういう意味では、仕事を途中で抜け出して椛に追い回されるのも、日常にスリルと刺激を与える一種のスパイスなのだ。椛の前で言ったらたたっ斬られそうだ。

 そして月見のモットーは、興味を惹かれる物事を見つけては実際に足を運び、目で見て、体で感じて、己の世界を広げること。そのために鴉天狗の新聞を利用して、情報収集の一助にしようとのお考えらしい。

 

「しかし、いいのか? 鴉天狗の新聞なんて、学級新聞みたいなもんだぞ?」

 

 外の世界の新聞は、両腕を広げるくらいの大きな紙に、小説みたいに小さな字をびっしり敷き詰めて両面印刷して、それを何十枚も束ねてようやく一部になるという。それと比べてしまえば、天狗の作る新聞など子どもの遊びみたいなものだ。チラシみたいな小さな紙に片面印刷が大半で、内容も内輪ネタばかり。

 

「でも、探せば一つくらいはまともなのもあるだろう?」

「まあ、そりゃあそうかもしれんが」

「とりあえず、見せてもらえないかな」

 

 月見が望むのであれば、操に断る理由はない。幸い、午後の自由時間はたっぷりとあるし、温泉にダイブするのはこのあとでも問題ないだろう。

 操は勇ましく己の胸を叩き、

 

「よし、任せておけ! 椛! 山伏の連中に頼んで新聞をもらってくるのじゃーっ!」

「えっ、なんで私なんですか! 『任せておけ』って言いましたよね!?」

「よし、(椛に任せる儂に)任せておけ! てことじゃよ」

 

 ちなみに発音は、かっこ椛に任せる儂にかっことじ任せておけ! である。

 椛に白い目で見られた。

 

「天魔様……あなたという人は……」

「同感だな。……どれ、私も手伝うよ。案内してくれるか?」

「あーやっぱり儂に任せるのじゃー! というわけで月見、遠慮なく手伝ってくれちゃって!」

 

 月見にも白い目で見られた。

 ちょっとぞくぞくした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 現在鴉天狗によって作られている新聞の、最新号のみをすべて集めれば、ちょっとした本二冊分程度の厚さになった。さくっと目を通せる量でもなさそうだったので、操は月見を私室に招待して、お茶をご馳走してあげることにした。操だって、巧拙はさておきお茶くらいは淹れられるのである。

 

「で、どんな感じだー?」

 

 操は湯呑みで両手を温めながら、テーブルを挟んで向かい側の月見へ問い掛けた。月見は左の新聞の山から一部を手に取り、素早く目を通してから右の山へ置くのをずっと繰り返していて、特に変化のない表情からして、あまりいい成果は得られていないようである。

 今持っている新聞を右に置いたところで、ううん、と月見が唸った。

 

「これは確かに……こういうのもなんだけど、あんまり本格的な方ではないみたいだね」

「じゃろうなー」

 

 鴉天狗の新聞作成は、所詮趣味の一環だし、身内で共有して話題にし合う程度の存在意義しかない。加えて天狗は、山の外の出来事になんててんで無頓着だから、月見が求めるような情報など、面白いくらいに載っていないことだろう。

 

「すまんなあ、しょーもない新聞ばっかりで」

「いや、謝ることじゃないさ……っと、これは」

 

 と、機械的な動きで次の新聞を取った月見が、ここで初めて目の色を変えた。操も思わず身を乗り出す。

 

「お? なんかいいのあったか?」

「……そうだね、これはなかなか。名前は、はながし……いや、『花果子(かかし)念報』か」

 

 花果子念報。うっすらと聞き覚えがあるが、さて誰の新聞だっただろうか。操とて、すべての新聞とその発行者を隈なく把握しているわけではない。

 

「山の外についての記事も、ちゃんと載ってるみたいだ」

「ほー」

「ふむ、内容もまずまずだし悪くは――ん?」

 

 満足げに頷きかけた月見が、やにわに眉をひそめた。

 沈黙。

 

「……」

「どった?」

「いや……」

 

 月見はゆっくりと、なにか二つを見比べるように、

 

「随分と……記事になってる出来事が起こった日付と、新聞の発行日とが開きすぎててね」

「ふむ?」

 

 つまり、記事の情報が古いということだろうか。

 

「ああ、そうか。その新聞、さてははたてのやつのか」

 

 思い出した。新聞作りを趣味とする明るく活動的な鴉天狗の中で、珍しく内気でひきこもりがちな女の子。彼女の作成する新聞は、内容も然ることながら、なによりもその情報の遅さ故に、あまりよくない意味で有名だった。

 実際に翼を動かして取材に行ったりはせず、自身の『念写する程度の能力』を使って家から一歩も出ずに情報を収集し、それを新聞にまとめる。ただし、念写によって得られる情報はすべてがよそで一度話題にされたものであるため、二番煎じが避けられず、常に最新情報を得られるとも限らない。

 なので、

 

「ものによっては……二週間近く間が空いてるのもあるね」

 

 といった内容になってしまうことが往々にしてよくあり、新聞としての完成度は、お世辞にも高いとはいえないのだった。

 

「その新聞はそんなもんらしいよ。何分、作っとるやつが特殊でな」

「ふーむ……」

 

 月見は、肩透かしを食らったようにため息をついて、

 

「……まあ、一応候補には入れておくか」

 

 右手に積み重ねられた新聞たちの、そのまた一つ右隣に花果子念報を置いて、次の新聞へと目を通す作業に戻っていった。

 そこから先は、月見の興味を射止めるような優等生が出てくることもなく。

 

「なかなかないもんじゃねー」

「そうだねえ」

 

 左手に残った新聞は残りわずか。未だに候補は花果子念報のみ。退屈げな月見の表情にも次第に諦めの色が見え始め、右手で頬杖をつきながら、彼が静かなため息とともに次に目を通す、

 

「……」

 

 通す、

 

「……お?」

「お?」

 

 月見の表情が変わった。頬杖をやめて姿勢を正す。おもむろに真剣味を帯びた瞳で、紙面に鋭く目を通していく。操はただ沈黙し、月見からの言葉を待つ。

 音のない時間は二十秒ほどで、

 

「……操、これにしよう」

「おおっ?」

 

 月見は紙面から顔を上げ操を見ると、その面持ちに、ようやく満足げな色を通わせた。

 

「いいのを見つけた。……これは、もう決まりかな」

「ほほー」

 

 月見のお眼鏡に適ったとなれば、山の外の出来事もちゃんと記事にされていて、かつ花果子念報のように情報が遅れたりしていない、とても新聞らしい新聞ということだ。まさかそこまで完成度の高い力作が隠れていようとは、存外鴉天狗の新聞も捨てたもんじゃないのかもしれない。

 

「ちなみに、なんて新聞じゃ?」

「ええと、これは……」

 

 月見は紙面の右上を見て、

 

「――『文々。新聞』」

 

 ――あ、めちゃくちゃ面白いことになってきた。

 この新聞は知っている。ぶんぶんまる、という発音がやけに独特で印象深かったから、発行者の名前も含めてとてもよく覚えている。はてさてよりにもよってその新聞をお目にかけるとは、なんともまあ、運命とは数奇なものではないか。

 操は込み上がってくる興奮を懸命に抑えながら、

 

「それが一番だったか?」

「そうだね」

 

 月見は二つ返事で頷く。

 

「山の外の出来事が数多く取り上げられてるし、記事になるのも速い。内容は詳しく読んでみないとわからないけど、これだけ記事が豊富なら、広く浅く情報収集するには打ってつけだろう」

「なるほどなるほど」

 

 興味を惹かれた出来事があれば実際に足を運んで確かめるから、月見が求めるのは、情報の質よりもその量と速さ。つまり幻想郷最速の鴉天狗が丹精込めて作る新聞は、月見にとってあまりにも相性抜群だったらしい。

 なんだか、ものすごく楽しくなってきた。操はテーブルに両手を打ちつけ、膝立ちになって勢いよく声を上げた。

 

「よぅし、あとは任せておけ! その新聞の発行者には、儂から話を通しといてやろう!」

「うん? それはありがたいけど、こういうのは私の方から直接頼むべきじゃないか? ……ええと、発行者は」

 

 月見の手からすかさず新聞をかっさらう。ここで発行者の名前を知られでもしたら、せっかくの美味しい展開が台無しだ。

 

「大丈夫じゃよ大丈夫じゃよ! ほら、この新聞作っとるやつって、新聞のネタ集めで昼間はほとんど山にいないから! だから、戻ってきたら儂の方から話をしといてやるさ!」

「そうか……?」

 

 無論、月見が『彼女』のところまで直接頼みに行くとしても、それはそれで面白い。しかしこの場合は、できることなら操が代理で彼女のところまで行くべきだ。そして、もおーお前さんの新聞が一番だって本当に褒めちぎってたんじゃよーと持ち上げに持ち上げて、やがて嬉しさを抑え切れなくなった彼女が、はにかみながら「一体誰なんですか? お礼を言いに行かないと」と尋ねてきたところで、すかさず「月見じゃよ」と答えて大爆発させるのだ。

 やばい、想像しただけでめっちゃ楽しい。

 

「それよりも月見、儂、水月苑の温泉に入りたいんじゃよ! いいじゃろ? いいじゃろっ?」

「それは構わないけど」

「よしっ、じゃあすまんが先に戻っててくれんか! ちょっと用事を思い出したから、それを終わらしたらすぐ行くんじゃよ!」

「あ、ああ……?」

 

 新聞の話を再び掘り返される前に一気に丸め込み、半ば部屋から締め出すようにして月見と別れる。急な展開を月見は少なからず訝しんでいたようだったけれど、結局深入りしてくることもなく、頭を掻きながら水月苑へと戻っていった。

 念のため、月見が飛び立ってから数分ほど間を開けて。

 

「……よし」

 

 屋敷を出て、黒の大翼を羽ばたかせ空へ身を躍らす。この時間帯であれば、『彼女』は新聞のネタ集めで幻想郷中を飛び回っているはずだ。操すら凌ぐ幻想郷最速の異名を、存分に発揮して。

 まぶたを下ろし、感覚を研ぎ澄ませる。最速の弊害か、彼女が飛び回る道筋は大抵風がけたたましく乱れるので、操ならば少し集中するだけで容易に居場所を突き止めることができる。

 

「……ふむ」

 

 どうやら今日の彼女は、博麗神社のあたりを飛び回っているらしい。風の乱れ方からして、ちょうど神社に向かっている最中と見える。

 それを確認するなり、操はすぐに飛び出した。飛行速度に自信があるわけではない。彼女が博麗神社で一息ついている最中に会えなければ、あっという間にすれ違ってしまうだろう。

 

「ふっふっふ、一体どうなるか楽しみじゃね!」

 

 躍り出しそうな胸のときめきを抑えて、代わりに翼を一層強く打ち鳴らす。

 果たして彼女は――射命丸文は、月見が自分の新聞を読みたがっていると知った時、どんなに面白い反応をしてくれるだろう。顔を真っ赤にして絶叫するだろうか。それとも意外と、もじもじと控えめに戸惑ったりするのだろうか。これを機に、文の月見嫌いがちょっとでも解消されればいいのだけれど。

 張り裂けそうな期待を原動力にして、操は一気に加速していく。

 本当に楽しい一日になりそうだと、思いながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……」

 

 犬走椛は、笑っている。

 操が執務机の上にぶちまけていった書類を眺めて、笑っている。

 

「…………」

 

 なるほど確かに、あの駄天魔はすべての書類に捺印をしているし、書き込みが必要なものにも筆を走らせてはいるようだ。

 しかし当然ながら、書き込みして捺印すりゃーそれで万事おっけー、なわけがないのであって。

 

「…………ふふっ」

 

 大剣を取りに行かなきゃなあ、と。

 犬走椛は、とってもステキな表情で、笑っている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 幸い行き違いにもならず、操は無事に文を見つけることができた。ちょうど博麗神社へ向けて、山の一つを越えたあたりの空だった。

 

「お、文ー!」

 

 両腕をぶんぶん振って、向かいから飛んできた文を呼び止める。幻想郷最速の異名を取る彼女は、空の世界ではまさしく風だ。操の姿に気づくなりすぐに急停止、長い長い制動距離を経て、会話をするのにちょうどよい距離になったところでようやく止まる。

 

「……天魔様?」

「やっほー」

 

 朗らかに挨拶する操に対し、文は少なからず面食らった様子だった。幻想郷随一の新聞好きである文は、一日の大半を新聞作りとネタ集めで奔走しているため、天魔と顔を合わせる機会は滅多にない。こうして話をすること自体が水月苑での宴会以来だし、ましてや山以外の空で顔を合わせるなど、疑うまでもなく初めてだった。

 

「どうしたんですか、こんなところで?」

「ちょっと用事があってな。お前さんを探してたんじゃよ」

「私を?」

 

 文は目をパチクリさせている。まあ確かに、操のように一族を代表する大妖怪ともなれば、部下に用事がある際は遣いを走らせるのが基本。操自らが相手のもとまで直接足を運べば、得てしてこういう反応をされるものだ。

 

「珍しいですね。どうしたんですか?」

「ん……まあ立ち話もなんじゃし、飛びながら話そうか。今から山に戻るのか?」

「ええ、取材は大体終わったので」

 

 回れ右をして、文と一緒に翼を動かす。

 

「それで、御用って?」

「おお。実は、お前さんの新聞を是非読みたい! ってやつがいての」

「……本当ですかっ?」

 

 文の顔がぱああっと輝いた。予想通りの反応に、操の頬にも思わず邪悪な笑みが浮かんだ。

 

「うむ、本当じゃよー。みんなが作っとる新聞をひと通り見てな、その中でお前さんのが一番だったから、是非! って」

「そ、そうですか」

 

 文はなるべく平静を装おうとしているようだったが、頬はほんのり色づいているし口元はニヨニヨしているしで、めっちゃ喜んでいるのが丸わかりだった。

 

「記事の種類が豊富だしネタも新鮮だしで、もー私が読む新聞はこれしかない! って感じで褒めちぎってたんじゃよー」

「そ、そうなんですか……!」

 

 ゆっくりと大空を泳いでいた文の翼が、急にパタパタと忙しなく動き出した。多分、犬が喜びを尻尾で表現するのと同じ感じなのだろう。もしもこの場に誰もいなければ、きっと文は「~~~~!!」と声にならない喝采を上げて、大空中をくるくる飛び回ったりしたのではなかろうか。……あ、鼻歌を歌い出した。もうめちゃくちゃ嬉しそう、というか幸せそうだった。

 そして真実を告げて大爆発させる瞬間が楽しみすぎて、操もとても幸せな気持ちなのだった。

 文が、えへへ、とはにかみながら、

 

「一体誰なんですか? 私、直接挨拶しに行かないと」

 

 よしきた任せろ。

 これは謂わば言葉の四尺玉。

 

「ああ、それはな――」

 

 導火線に火をつけ、筒を文に向けて、操は満面の笑顔でぶっ放した。

 

「――月見じゃよ」

 

 文が錐揉み回転しながら墜落していった。

 バキバキバキー、と木の枝を次々粉砕し、森の中へと消えていく。

 

「……」

 

 えっ錐揉み回転ってなにそれ器用、と操が言葉を失っていると、ちょうど十秒が経った頃に、

 

「――天魔様ああああああああああ!!」

 

 絶叫とともに、文が森から飛び出してきた。体のあちこちを枝やら木の葉やらでデコレーションしたまま、操の目の前まで飛んでくると、相当混乱しているらしく両手でわけのわからないジェスチャーをして、

 

「う、嘘! 嘘ですよね!? それかドッキリ! やだなあもう天魔様もお人が悪いですよ!」

 

 操はふんわり微笑んで答える。

 

「文。――マジじゃ」

「……、……マジ、ですか」

「マジですのじゃ」

「――……」

 

 文の体がふらっとよろめく。今まで可愛らしく赤らんでいた頬が見る影もなく真っ白になっていて、どうやら冗談抜きで貧血を起こしかけたらしい。

 

「まあお前さんが作っとる新聞だとは気づいてなかったみたいじゃけど」

 

 自失茫然としている文の肩を、操は景気づけにポンと叩いて、

 

「でも、『文々。新聞』が一番だって言ってたのはほんとじゃよ! よかったね!」

「全然よくないですよおおおおお! 一体どうしろっていうんですかそんなの!」

 

 文が癇癪を起こして叫ぶけれど、そんなのどうするもなにも、

 

「普通に読ませてやればいいじゃないか。お前さんが願って已まない購読希望者だぞ?」

「で、でも、なんであいつにそんなっ」

「いい機会じゃないか、せっかくだからいい加減に月見と仲直りしてこいよぅ! なんてことはない、新聞と一緒に『今までごめんなさい』みたいな手紙でも添えてやればいいんじゃよ! 口では言えない恥ずかしがり屋な一面を演出できて、好感度アップ間違いなしっ! よかったね!」

「だから全然よくないですってばあああああっ! い、嫌です好感度アップとか必要ないです! 確かに私の新聞を選んでくれたのは、」

 

 そこまで勢いだけに任せて叫んだところで、文はちょっともじもじして、

 

「……まあ、ちょっとは嬉しいですけど……」

 

 口をすぼめてそう言うなりまたいきり立って、

 

「でもだからって、誰でもいいってわけじゃないですッ!」

「あーはいはい、とりあえずそのあたりの話は月見に挨拶しちゃってからねー」

「やっ、ちょっと引っ張らないでください! い、嫌です嫌です絶対に嫌ですーッ!?」

 

 逃げられないよう文の腕をがっしりとホールドしながら、操は水月苑へと強引にルート変更する。一方で腕を引かれる文は完全にへっぴり腰で、なんだかお化け屋敷に入りたくなくて駄々をこねる子どもみたいになっていた。

 されど、駄々をこねられた程度で操は退かない。確かに、文をおちょくってやろうという悪戯心があるのは否定しない。しかしながら同時に、今の文と月見の関係をどうにかしてやりたいという老婆心が存在しているのも、また立派な事実なのだった。――あ、老婆心は字面が嫌だから親切心ってことにしておこっと。

 周知の通り、文と月見は仲が悪い。けれどそれは、文が過去の事件をひきずって未だ月見に心を開けないでいるだけという、呆れてしまうくらいにしょうもない話だ。そして月見も何分あの性格なので、今の文の態度を、『まあしょうがないもの』として受け入れてしまっている。

 文と月見は、『あの事件』が起こるより以前は普通に仲がよい知り合い同士だった。だから一度仲直りしてしまえば、また昔のような関係に戻れるはずなのだ。……そう願って今まで経過観察してきたのだが、どうにもまったく事態が進展しないので、天狗一族もいい加減業を煮やしているのである。さっさと仲直りしちまえよあんたら。

 しかして経過観察だけではダメとなれば、もう外からアクションを掛けてやるしかない。なので半ば強引にでも、文と月見が会話する機会を作ってやらねばというのが、天ツ風操の意見であり、ひいては天狗一族の総意なのだった。

 

「ほれほれ往生際が悪いぞ! 客を選り好みするなんて、お前さんそれでも自称一流の新聞記者かっ!」

「それとこれとは話が別ですっ! やーめーてーくーだーさーいー!」

 

 青空の中でぎゃーぎゃーと言い合いながら、ちょっとずつではあるが水月苑に近づいていく。スピード勝負では勝てずとも、力比べでは操に分があるらしい。

 

「どうしてお前さんはそんなに素直じゃないんじゃ! 今時、子どもの方がまだ聞き分けがあるぞこのおこちゃまめ!」

「嫌なものを嫌って言ってなにが悪いんですか! そ、それにちょっと話が急すぎます! 少し整理する時間をください!」

「時間をあげれば月見のところに行くのか?」

「……」

「はーいれっつごーれっつごー!」

「いやー!?」

 

 文の抵抗が一層激しさを増した。綱引きならぬ腕引きが拮抗し、その場で雁字搦めの硬直状態に入った。おのれ、このわがまま娘め。こんなペースでは、水月苑に着く頃には日が暮れてしまうではないか。せっかくの自由な午後を、こんなしょーもないことで食い潰されるわけにはいかない。

 文には悪いが、ここは多少『能力』を使ってでも強引に

 

「嫌だって言ってるじゃないですか天魔様のばかああああああああああッ!!」

「にょわっ!?」

 

 文渾身の絶叫。急に乱れ始める大気。文の『風を操る程度の能力』が暴走する前兆に、あっやば、と操が文から手を離した瞬間、

 

「ぎゃあああああ!?」

 

 弾幕が直撃したかのような風圧に、操の体が木の葉さながらに吹き飛ばされた。しかも運が悪いことに、下方向へだった。少し前に文がそうしたように、操もまたバキバキと木の枝を粉砕し、広がる春の森の中へと墜落した。

「ばかあああああぁぁぁぁぁ……」という半泣き声が山の方向へ遠ざかっていくが、枝に引っ掛かって干された布団みたいになっている操に、追い縋れる道理などなく。

 

「う、うぐぐ。しまった、ちょっとやりすぎたか……」

 

 よもや能力が暴走するほど嫌がられると思っていなかった。子どもじみた意地っ張りも、ここまで来るとなんだか逆に清々しくなってしまう。ほんっとに文はツンデレさんじゃねー。

 

「……ま、反応は面白かったからそれでよしとするか」

 

 天狗屈指の空の曲芸師がきりもみ回転で墜落していく様など、まず見られるものではない。それをこの目に収められたならば、全身にひっついたみすぼらしい木の葉のデコレーションも、吐き気を催す腹部の痛みも、受け入れるべき一つの代償である。

 

「……よし! やりたいこともやったし、そろそろ水月苑に行こうかな!」

 

 干される布団状態を脱出し、翼がぶつからないように気をつけながら、森を空へと抜ける。文の姿はもう影もないけれど、「ばかあああああぁぁぁぁぁ」という半泣き声は、今でもなお幻聴のように耳に残っている気がした。

 水月苑へは、三分足らずも飛べばすぐだった。念入りに体についた木の葉を払い、身嗜みを整えてから、操は満面の笑顔で玄関に飛び込んだ。

 

「つーくみーっ! 遊びに来たのじゃ――って、」

「おかえりなさい、天魔様」

 

 戸をくぐった先には先客がいた。見慣れた銀の髪に銀の尻尾、白狼天狗犬走椛が、他人行儀なよそ行きの笑顔で操を待ち構えていた。更に玄関を上がってすぐのところには、月見の姿もある。

 この光景の意味を、操は沈黙して考える。

 

「――ああ、なるほど。じゃあ儂はご飯よりもお風呂よりもまず先に月見を゛っ」

 

 言い終わる前に、椛の平手が操の頭で快音を鳴らした。

 

「いたい……」

「前置きなしで本題入りますけど、午前中の書類、ほとんど間違ってたのでやり直してください」

「えっ」

 

 操は目を点にして椛を見た。椛はとてもステキな笑顔だった。無意識のうちに、操の背を冷や汗が伝うくらい。

 ――あれ? これってもしかして、やっちまった?

 

「……さ、さすがにほとんどってのは冗談じゃろ?」

「八割方間違ってました。更にそのうち三割ほどは書類を一から作り直さないといけないレベルだったので、これから書類の作成者さんに頭下げて、もう一度書き直してくれるよう頼みに行きます」

「椛がか?」

 

 快音。

 

「いたいよぅ……」

「さあ行きますよ。残念ですけど午後のお休みはなしです」

「うえ!? まっ待って待って! 嫌じゃー!?」

 

 ぐわしっと腕を掴まれたので、操は全力で抵抗した。手近なところにあった戸棚を自由な方の手で引っ掴んで、少し前の文のように、へっぴり腰でその場に踏み留まる。

 椛の冷ややかな半目が操を射抜く。

 

「往生際が悪いですね。それでも私たち天狗の長ですか」

「だ、だってせっかくの自由時間が! やるのは明日とかでも大丈夫じゃろ!?」

「明日も明日で新しい仕事があります。……今やっておかないと、明日は一日中執務室から離れられないですよ? それでもいいんですか?」

「く、くううっ……!」

 

 操は歯を軋らせて悔しさを耐え忍ぶ。なんて卑怯な脅しなのだ。別にあんな書類、あってもなくてもそう大差ないのだから、多少の間違いくらい目を瞑ってくれてもいいのに。相変わらず椛は仕事に対して真面目すぎだ。こういうところの遺伝子ばかり父親から受け継ぎおってちくしょうめ。

 

「椛っ椛っ、そんなに肩肘張ってもいいことないぞ! ちょっと温泉に入って落ち着こう?」

「刀の錆にならないとわかりませんか?」

「うわーん!」

 

 操は涙目になった。椛の瞳から段々とハイライトが消えてきている。このままでは冗談抜きで刀の錆にされてしまうのだが、しかしだからといって、あんなに楽しみにしていた午後の自由時間を根こそぎ奪われるだなんて、この世のものとは思えない鬼畜の所業ではないか。椛は鬼畜だ。THE・鬼畜わんこだ。まだ死にたくないので口にはしない。

 

「月見っ、月見からもなにか言ってやってくれっ!」

 

 操は最後の希望を求めて月見に縋るが、彼は着物の袖に両手をしまったまま、肩を竦めて、

 

「仕方ないだろう。お前は天魔なんだから、いや天魔じゃなくたって、自分のやったことにはちゃんと責任持たないと」

「裏切り者――――ッ!!」

「はいはい、次はちゃんと仕事を終わらせてから来なさいね。そうしたら温泉だって貸し切りにしてやるから」

「約束じゃぞ!? こうなったら儂、その約束だけを希望に生きるからな!?」

「はーいじゃあ行きますよー」

「ぬわー!?」

 

 ぐいっと腕を引かれて外へと引きずり出された。スピード勝負はいざ知らず、力比べは椛の圧勝だった。やはり日頃から様々な仕事に奔走しているだけあって、体が鍛えられている。

 

「ううー……すんごく楽しみだったのにぃ……」

「それじゃあ椛、操のことよろしく頼むぞ」

「任せてください、もう一切容赦しませんから!」

「剣抜きながら言うのやめて!?」

 

 椛は笑顔だったが、剣を抜き放つ動作に躊躇いはなく、その瞳は一切の冗談を含まないマジの瞳だった。

 剣先で尻をつつかれ、操は泣く泣く山の奥へと連行されていく。

 

「怪我したくなかったらキリキリ動いてくださいねー。まずは河童たちのところに謝りに行きますよー」

「ひーん!」

 

 その半泣き声は山の至るところへ反響するが、それを聞いた山の妖怪たちは特別訝しむこともなく、「ああ、またか」と一つ頷くだけ。

 

「……THE・鬼畜わんこ」

「なにか言いました?」

「なんでもないです! あっだからお尻突っつかないで、あっあっ」

 

 結局操はこのあと、椛に山中を連れ回されては頭を下げさせられ、屋敷に戻ってからは執務机に縛りつけられ、やっと解放してもらえたのは夜もとっぷり深まった頃だった。

 もう心身とも疲れ果ててなにをする気も起こらず、くすんくすんと鼻をすすりながら、布団にくるまって不貞寝した。

 椛のばーか、ばーか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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