第一話『青織部沓形茶碗 その一』
六月の出来事だった。
若月千尋は、門の先にそびえる二階建ての木造建造物と、周囲の風景を仰ぎ見ていた。
青々と茂る木々はその建物を覆い、板壁の所々にはツタが絡まっている。
夏を目前にした緑の主張は実に鮮烈で、千尋の目を奪うのと同時に、今が青葉の季節である事を感じさせてくれた。
緑の隙間に見える板壁は遠目でも分かる程に古く、モダンなデザインのガラス窓からも、往年の雰囲気がにじみ出ていた。
そう。雰囲気を持ち合わせてはいる。
だが、そこに感動はない。
見た所、築五十年以上は堅いだろうか。
ガラス窓にはカーテンが掛かっていた為に、中の様子を伺う事はできなかったが、内装の程度にも大よその察しはつく。
然程期待はしていなかったものの、父の遺した不動産がここまで古びていたのかと思うと、千尋は無意識のうちに嘆息を漏らした。
見方によっては、レトロで風情があるとも言える。
和物のアニメにでも出てきそうな、趣味人好みの建物だ。
だが、市場価値としては、ただの古い木造建造物相応なのだろう。
その上、ここまでくる為には、
当然、駐車場なんて代物は備わっていない。
千光寺山やその麓に広がる
生前の父が教えてくれた『古い茶房』という説明からして期待はしていなかったのだが、これは流石に古すぎる。
それが『茶房・
「………」
眉を顰めながら、視線を門に移す。
門には『夜咄堂』の文字が書かれた菖蒲色の暖簾が垂れ下がっていた。
夜咄堂は、一階に洋室の喫茶スペース、二階に茶室の備わった茶房だと聞いている。
なんでも、お抹茶セットを所望する客には、茶室で茶を
生前の父は、日々この門を潜って出勤していたのだろう。
その光景を想像すると、切なさが喉から這い出てきそうな気持ちになる。
(……行くか)
切れ長の瞳を一度伏せるが、すぐに前を向く。
千尋は、なおも周囲を見回しつつ、門を潜った。
――父、若月宗一郎の死因は、外傷性ショック死だった。
仕事の帰りに石段で足を滑らせて転んでしまい、その時の打ち所が悪かったらしい。
その日は酷い嵐で、確かに足元は滑りやすかった。
どうせ嵐の日に来る客はいないのだから、無理して出仕しなければ避けられた死だろう。
葬儀に来てくれた父の旧友も『宗一郎が仕事熱心でなければ』と嘆いてくれた。
その見立ては、二重の意味で正しい。
もう一つの意味を、千尋は誰にも話したくなかった。
(……なんて木だろうな。これ)
途中、見知らぬ木の前で立ち止まる。
枝に向かっておもむろに手を伸ばしてみると、同時に風が吹いて枝が揺れる。
枝の先端が指を弾き、小さな痛みが走った。
「つっ……」
頭を掻きながら、両手をポケットに突っ込んで、また歩き出す。
もしかすると、これは父の怒りなのかもしれない。
なにせ、自分はこれから夜咄堂と店の備品を売るつもりなのだから。
玄関に向かいながら、父の最期を思い出す。
警察に聞いた所によると、発見された父の亡骸は、茶碗の入った木箱をしっかりと抱えていたらしい。
大方、転びそうになった時に、受け身を取る事よりも茶道具を守る事を優先したのだろう。
父が仕事熱心でなければ、仮に転んだとしても、茶道具を守って死ぬような事はなかったはずだ。
それ程、父は茶房の経営に執心していた。
それには、父なりの理由があったのだ、と千尋は理解している。
千尋は幼い頃に、祖父母も母も『事故』で亡くしていた。
唯一の保護者である宗一郎は、男手一つで自分を育てる為なのか、随分と仕事に打ち込む人だった。
その熱心さ故か、公私混同を防ぎたい父の意向で、千尋は夜咄堂に近づく事を許されずに今日までを過ごしてきた。
その為に、父と交流する時は、あまり長い方ではなかっただろう。
とはいえ、それも自分を想っての事なのだ。
その証拠に、仕事から離れた時の父は、愛情を持って接してくれたと思っている。
聞き分けが良かった千尋は、父に反抗する事もなく、ただ寂しさを胸に押し込んで今日まで生きてきた。
だから、茶道具を守った父の行動を恥じる気持ちはない。
亡くなった時の状況を話したくないのは、茶道に関わりたくないからである。
仕事とはいえ父が執心し、そして死因となった茶道と茶道具を、千尋は面白く思っていなかった。
すなわち……店や茶道具をわざわざ残しておく理由を、千尋は持ち合わせていないのである。
入学したばかりの大学を休み、葬儀後の事務処理に忙殺されるうちに、四十九日は過ぎてしまい、気がつけば梅雨も間近だ。
ここにきてようやく、遺品の管理に手を付ける事にした千尋は、今日はその下見に来ていたのだった。
大事な茶房や茶道具を売れば、おそらく天国の父は嘆くだろう。
その姿を想像すると、強い
父を思い出して悲しいと思える余裕が出てきたのは、つい最近の事だ。
日々の生活の最中、事ある毎に、以前はここに父がいたのだと実感し、
溢れ出ようとする慟哭を抑える日々を、千尋は送っていた。
酒や煙草に強ければ、酒で現実逃避したり、煙で涙を隠す事もできただろう。
だが、まだ十八歳の千尋には、そもそもそれらを嗜む事はできない。
「……まあ、ええことよ」
酒煙草の代わりにそう呟いて、辿り着いた玄関の鍵を開ける。
それは、幼い頃より千尋の心を守り続けてくれた言葉だった。
第一話『
玄関は小動物の鳴き声のような音を立てて開いた。
店内は薄暗く、カーテンが陽光を殆ど遮っているようだった。
ゆったりとした足取りで中に入ると、木の床が僅かに軋む音がする。
(ここが喫茶スペース、ね)
徐々に暗さに慣れてきた目で、店内をぐるりと見渡す。
一階の中央には木製の机が並んでおり、出入口の傍には会計用の棚がある。
棚の裏は台所に通じているようだった。
店の奥に階段を見つけたので、早速二階も見てこようと足を掛けた所で、不意に下半身の態勢が乱れた。
「うわっ!?」
慌ててもう片方の足で踏ん張り、かろうじて転倒を回避する。
何事かと足元を見れば、足を踏み入れた段が水で零れていた。
どうやら、ここで足を滑らせたようだった。
暫し、忌々しげに濡れた段を見下ろすが、大して気は晴れない。
「……まあ、ええことよ」
口癖で災難を洗い流し、今度は足元を確認しながら二階に上がった。
すると、障子に覆われた和室が見つかる。
和室の上には大掛かりな水墨画が飾られていたが、色が薄くて何が描かれているのか分からない。
大層な構えである事を踏まえると、ここが茶室なのだろう。
確かめてみようと一歩近づいた所で、そこで、ふと思い至る。
(……待てよ。さっきの階段を濡らしていた水……)
何故、父がいない夜咄堂の中が濡れているのだろうか。
亡くなった日に水で零れていたとして、今日この日まで蒸発していないわけがない。
思いつく答えは一つ。
この水は今日零されたもの……すなわち、何者かが店の中にいるのだ。
(いや、まさか……この先に泥棒がいるとか……)
……思わず、身震いしてしまう。
既に何か盗られてしまったのなら、まだマシな方。
『仕事』をしている所を目撃でもしようものなら、襲われる可能性も十分にある。
そうして、気を張り詰めていたからだろうか。
ずざっ、と畳が擦れるような音。
室内から聞こえてきたそれを、千尋は聞き逃さなかった。
「!!」
「お客様、ですか?」
物音の後に、少女のような声が聞こえてくる。
身構えていなければ、変な声を出して驚いてしまったかもしれない。
警戒しているのは向こうも同様のようで、声はどこか不安交じりだった。
「いや、客じゃないけれど……えっと、店員さん……?」
思わず首を傾げる。
相手の言葉から察するに店員のようだが、店員を雇っているという話を聞いた事はない。
玄関には鍵が掛かっていたし、父が亡くなったままで二か月営業を続けるというのも妙な話だ。
だが、どの様な事情であれ、泥棒よりはよっぽど良い。
「ううん。店員と言えば店員のような、そうでもないような……」
障子が開かれ、煮え切らない返事と共に、中から少女が出てくる。
その全身を目の当たりにして、千尋はつい呼吸を忘れてしまった。
少女は高校生くらいの顔つきに見受けられた。
くりっとした黒い瞳と、横一文字に結ばれた真紅の唇の持ち主。
黒の着物を纏っていて、流水と鳥のような模様の刺繍が施されていた。
髪は黒く肩まで伸びていて、青いとんぼ玉の髪飾りをしている。
が、何よりも千尋の目を惹いたのは、
黒髪は艶やかで、見つめていると、吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えてしまった。
「……髪にゴミでも付いています?」
「あ、いやいや」
慌てて頭を横に振って、視線をずらす。
想定外の遭遇に、まだ混乱は収まっていない。
「えっと……俺は千尋と言います。君の名前は?」
「銘……あ、いえ、名乗る程の者では」
「いや、そこは名乗ってほしいんだけれども」
「強いて言えば、店の皆様からは『黒いの』呼ばわりされています」
黒髪の少女は小さく口を膨らませながら腕を組む。
彼女が自分の名を口にしない理由は分からなかったが、とりあえず夜咄堂の関係者ではあるようだった。
「はあ。黒いのさん」
「その呼び方は止めてください」
「それじゃ、なんと呼べば良いかな?」
「……そうですね。なんと呼ばれたら良いんでしょうか」
真剣な表情で聞かれる。
埒が空かない。
「分かった。呼び方の件は置いとこう。
で……貴方はここの店員さんなのかな?」
もう一度同じ質問を投げかける。
「多分、そういう事になりますね。ここで働いていますし」
「でも、さっきは『そうでもないような』って」
「お給金は頂いていないんです。だから、店員という言葉が適切なのか、よく分からないんですよ」
「給料、出ていないの?」
「はい」
「給料も貰わず、お店で何してたの?」
「そこなんですよね。宗一郎様が二か月程お姿を見せなくなったんです。
なので、ずっとお店でお待ちしているのですが……何かご存じありません?」
少女は困惑した様子で、そう尋ねてくる。
だが、千尋としては返答どころではなかった。
(まずい。これはまずいよ、父さん……!)
付近の柱を掴み、唐突に訪れた眩暈を必死に堪える。
未成年の少女にコスプレ紛いの格好をさせて、給料も出していない。
その上『様』の敬称を付けさせ、軟禁状態ときたものだ。
未成年者略取。
誘拐罪。
新聞一面。
あってはならない言葉が、次々と浮かびあがる。
父に限ってはその様な人間ではないと思っていただけに、衝撃はひとしおだった。
「もしもし、大丈夫ですか? もしもーし?」
「う、嘘だ嘘。まさか父さんが、父さんが……」
心配する少女をよそに、千尋はまだ現実に戻ってくる事ができない。
「おーい、なーにやっとるんだぁー?」
不意に、階下から男性の声が聞こえてきた。
すわ、警察か。
肩を跳ね上げながら振り返る。
階下には、やはり着物を纏った中年の男がいた。
白髪交じりの黒髪で、鼻髭を蓄えたどこか風変わりな男だった。
とりあえず、警察の類ではないように見受けられる。
「おや……その顔、その切れ長の目!」
男がドタトタと階段を駆け上がってきた。
「宗一郎の若い頃にそっくりだ! 間違いない、息子の千尋だろう?」
「そうですが……」
「こいつは愉快だ。生き写しじゃあないか! ウッヒャッヒャッ!」
男は甲高い笑い声を上げながら、千尋の肩を平手で叩いてきた。
痛くはなかったが、親子が似ているのがそれ程面白いのだろうかと不思議に思う。
同時に、今はそのような疑問よりも、他に聞くべき事があると思い至った。
「はあ。それで、貴方は……いや、貴方がたは何者なんです?」
「何者? なんだ、宗一郎の奴、何も話しとらんかったのか。ヒャッヒャッヒャッ!」
男がまた笑った。
少女の傍に回り込んで頭上に手を乗せると、ようやく男の笑い声が止む。
口の端に淡々とした笑みを携えながら、男は真っ直ぐに千尋を見据えて、こう告げた。
「私は……とりあえずオリベとでも呼んでくれ。こいつは黒いので良いや。
私達は、この店の茶道具の