翌日、
オリベは全てを達観したかのように物静かで、普段の騒がしさは微塵も感じさせないし、
ヌバタマは、千尋が夜咄堂の真実を知ったと聞かされてから今に至るまで、ずっと俯いている。
千尋とて不安げな様子は隠す事が出来ず、招集を受けてやってきたロビンは気怠そうであった。
窓から入ってくる、夏の蒸し暑い風も、雰囲気の重さの一因なのだろう。
じわり、と額に浮かぶ汗が、緊張感からくるものなのか、それとも気候のせいなのか、千尋には区別がつかなかった。
「まず、確認したい事がある」
ロビンが到着するや否や、最初に口を開いたのは千尋だった。
二人と一匹の顔をゆっくりと見回し、最後のオリベの所で視線を止め、彼に語りかけるつもりでじっと見つめる。
意味もなく溜めを作ったのではない。
意識してそうしなければ口を噛みそうな程に、千尋は酷い緊張を覚えていた。
水墨画の話を聞いた時には体が震えたが、その震えがずっと体の中で暴れているような気がした。
だが、耳を閉じても事態は改善しない。
それよりは事実を知っておくべきだと、彼は必死に声を絞り出した。
「……次に
それは間違いないよな?」
「うむ」
返事をしたのはオリベだった。
「だとしたら……もてなさなかったら……
お抹茶セットを止めてしまえば、その話はなくなるんじゃないのか?」
「それはそうなのだが、もてなさずにはいられないのだ」
間髪入れずにオリベが首を左右に振る。
「と、言うと?」
「理由は二つ」
「うん」
「いずれも我々の都合ではあるのだが……
まず、日々是好日で客を癒す事は、我々が天に召される唯一の手段なのだよ。
付喪神には、死というものがない。
客を癒さねば、我々は永久に現世で生きる事になる。
まあ、それを良しと考える者もいるかもしれんがね」
「………」
「そしてもう一つ。客を癒す事は、我々茶道具の付喪神の本能なのだよ。
茶を、日々是好日を必要としている人間がいれば……我々は、どうしても癒したいのだ」
「……どうやら失礼な提案をしたみたいで」
その理由を聞かされては、千尋に口を挟む余地はなかった。
「いやいや、千尋が謝る必要は全くないよ」
オリベは淡々と言ってのける。
だが、そこへロビンが口を挟んだ。
「おいおい、待ってくれよ。例外ってもんを忘れないでくれよ」
「ロビン……どうした?」
「おう、いいかよく聞け千尋。
俺は茶道具としての本能が薄いんだよ。だから夜咄堂でも働いちゃいねえ。
天に召されるなんてまっぴらごめんだぜ? もっとJCと遊びたいんだよ」
「そう言えば……お前だけ残るとかできるのか?」
「いや、できねえ。その時夜咄堂で管理している茶道具の付喪神は皆召されちまう。
だから俺は反対だぜ。まだまだ遊び足りないんだ」
ロビンがワンワンと騒ぎ立てながら主張する。
普段なら流してしまうロビンの言葉だが、この日ばかりは千尋も、ロビンの一言一句を噛み締めた。
(……そうだ。俺も反対だよ)
心から、強くそう思う。
唇の内側を、人知れず噛み締めた。
付喪神達のお陰で、茶道に興味を持てた。
付喪神達のお陰で、孤独ではなくなった。
気が付かないうちに、彼らの存在は千尋にとって欠かせないものになっている。
そんな付喪神達との別れの辛さだけではなく、やり場のない思いも千尋を苦しめていた。
最後の客を迎えるのに反対ではあるが……こればかりは主張するわけにはいかないのだ。
それは決して、付喪神の反応を気にするあまりの事ではない。
オリベの話によれば、これが付喪神が天に召される唯一の手段なのだ。
すなわち、最後の客を迎えないのであれば、付喪神に半永久的に現世で働いてもらうという事を意味するのだ。
同じ付喪神のロビンからならまだしも、結局は他人である千尋からは、到底口にできない提案だった。
「なあ、ヌバタマはどうなんだ?」
不意にロビンがヌバタマに話を振った。
「お前さんも、この世に未練があるだろ?」
「………」
ヌバタマが、ふっと、思い出したように顔を上げる。
「この間俺がエサ貰いに行った時に、話してくれてたじゃないか。
映画、凄く楽しかったって。
もっと面白い所に行ってみたいって。
千尋と出かけたいって、言ってたじゃないか」
「!!」
千尋は思わず息をのんだ。
彼女は、その様な事をロビンに話していたのだ。
感情を吐露した翌日の映画に対して、そうも思ってくれていたのだ。
ならば……。
それならば、ヌバタマの答えは分からない。
現世を、夜咄堂での生活を選んでくれるかもしれない。
千尋は、胸が強く高く鼓動するのを自覚しながら、答えを求めて視線をヌバタマに向ける。
その先にあるヌバタマの黒い瞳には……強い意志を感じさせる光が差していた。
「ロビンさん」
ヌバタマが、静かに口を開く。
「これは私達の定めです。
最後のもてなし、賛成に決まっているではありませんか」
ヌバタマは、一切の躊躇なくそう言い切った。
第十話『
「はぁーん、やだやだやだやだ。やだーーっ!」
ロビンが煩い。
彼が庭先で駄々っ子のように体を転がすと、ただでさえ土埃で汚れている体は、まるで泥団子のような様相を呈してきた。
草花のない所で転がっているだけまだマシかもしれないが、どうにも視界に入って鬱陶しい。
気分転換で庭に出てきた千尋にとっては実に迷惑な存在なのだが、
この犬と顔を合わせる機会もあと数回、下手をすればこれが最後かもしれないとも思えば、
流石に追い払うような真似はできなかった。
「なんだよ、まださっきの話か?」
千尋は呆れた様な声を投げかける。
「おう。それ以外になにがあるってんだよ」
「俺はその話題、暫く忘れたいんだけどな」
「現実逃避はよくないぜ? ちゃんと正面から捉えなきゃ」
つい先程まで駄々を捏ねていたくせに、鼻を鳴らして偉そうにのたまう。
思わずしかめっ面になってロビンを睨みかけるが、確かにロビンの言う通りでもある。
首を左右に振ってやり場のない感情を発散し、千尋は庭の一角にある池の傍まで歩いた。
澄んだ池の中では、色取り取りの水中花が雄々しく生息している。
夏の熱風がどれだけ厳しくとも、水の中ならば、文字通りどこ吹く風なのだろう。
「おやおや。俺がいなくなるのがそんなに寂しいか?」
ロビンもようやく転がるのを止めて、千尋の傍に歩みながら声をかけてくる。
「アホ」
「つれない奴だなあ。俺はお前の事嫌いじゃないってのにさ」
「どうせ、たまにドーナツ買ってくれるからだろ?」
「ご明察」
楽しそうにひっひっ、と息が詰まったような笑い声を漏らす。
思えば、この犬は出会ってから今に至るまで、一度もおどけた態度を崩していない。
オリベでさえ、茶道に関わる話になれば真剣になるというのに、ロビンは一貫してこのままだった。
「……お前は、毎日楽しんでるなあ」
「おう。楽しい事したくて夜咄堂を出たからな。そう宿命づけられてるんだよ」
「宿命……?」
「そうそう。なんせ俺は……あーーっ! 噂をすれば!!」
ロビンが唐突に喚いて、庭の隅で頭を抱えた。
「な、ななな、なんじゃああああこりゃあ?」
「煩いぞ。どうした?」
呆れつつも彼の付近に目を凝らせば、土瓶が乱雑に転がされていた。
その様たるや、奇遇にも泥の中で転げ回ったロビンと瓜二つである。
「その土瓶、お前なんだっけ?」
「そうだよ! あーあー、あー! なんでこんな扱いなんだよ!」
「お前が『適当に使って良い』って言ったんじゃないのか?
オリベさんからそう聞いた記憶があるぞ」
「適当って言ったって、程度ってもんがあるだろうによお!
由緒正しき星野焼が台無しだぜ。トホホ……」
「星野焼……聞いた事がないな」
「ああ。さっきの宿命にも関わるんだがよ……」
ロビンが土瓶を鼻で起こしながら、力ない声で語り始める。
「福岡は
そこで江戸時代に焼かれた夕日焼の土瓶。それこそが俺なんだ」
「夕日焼? さっきは星野焼って言ったよな」
「星野焼の別称みたいなもんだ」
ロビンが、まだ星も夕日も見えない昼空を見上げながら言う。
「星野焼には夕日が浮かび上がるんだよ。
酒を注ぎ込む事で、土色の濃い器が輝き、それは夕日のような黄金色と化す。
そうして酒まで黄金のように輝いて見えるって寸法なんだな。
金の酒だぜ? 考えるだけでワクワクしてこないか?」
「酒は飲めないけれども、なんとなくは伝わってくるよ」
「だよな、だよな。
黄金の酒……まるで『楽』という漢字を凝縮したようなもんだぜ。
そんな星野焼だからこそ、俺みたいな道楽者が生まれたって寸法よ」
「ふむ……つまり、お前は茶器としての使命よりも、現世を楽しむという焼き物の成分が強いって事か」
「そういうこった。残念ながら俺は単に星野で焼かれた土瓶なんで、夕日を作り出せはしないんだよ。
それでも同じ土を使っているからな。この世を楽しまずにはいられないんだ。
……千尋。そこん所、お前はどうなんだ?」
「と言うと?」
発言の意図が分からず、ロビンの問いを繰り返す。
「俺は、楽しみたいという本音を隠さずに生きている。
だが、お前は……どうなんだ?
さっきの席で、お前の本音……そもそも意見というものを聞かなかった気がするが?」
「………」
意外と、注意力がある犬だった。
ロビンの言う通り、自分の本音を抑え込んでいる。
今度ばかりは、そうするより他ない。
そう思い込んでいたのだが……
(……本音、か)
ロビンから視線を外して、池の前に屈み込む。
ふと、足元に小石が落ちていたのに気が付いて、それを拾い上げると、おもむろに池に投げ込んだ。
落下地点から広がり、水中花のせいで微妙に歪む波紋を眺めていると、その波紋の中心にヌバタマの姿が浮かんできた。
無論、幻想だ。
だが、無意識のうちに彼女の顔を思い浮かべているのだ。
それを自覚すると、胸が苦しくなった。
付喪神がいなくなるのは、千尋にとって好ましい事態ではない。
働き手がいなくなるのだから、夜咄堂はおそらく畳まざるをえないだろうし、
ようやく興味が持てるようになった茶道も、教えてくれる人がいなくなる。
それに、父を亡くした直後の様に、また一人暮らしに戻ってしまうのも辛い。
付喪神には他に選択がなく、引き留める事ができないのも苦しい。
だが、いずれも千尋をもっとも苦しめる問題ではない。
ようやく、その事実に気が付けた。
この苦しみの大元にいるのは、ヌバタマだ。
もう二度と、彼女と会えなくなる。
その喪失感は急激に強まり、みるみるうちに千尋の心を支配していった。
(……どうして、ヌバタマがいなくなると苦しいんだろうか)
どうして、こうも苦しいのか。
何故、こうも寂しく感じるのか。
……これまでにも、別の問いからその『答え』を想起した事はあった。
ただ、その都度様々な可能性が邪魔をして『答え』には辿り着けなかった。
それでも。
それでも、今回は違う。
別れ際という状況が、自分を開き直らせてくれたのだろうか。
或いは、心中で絡み合った糸を、たまたま解しきれたのだろうか。
理由までは分からずとも、千尋はようやく『答え』に到達できた。
(本当は、自分でも薄々分かってはいたさ)
すっと立ち上がる。
天を仰げば、視界は雲一つない碧空に覆われている。
相変わらず猛威を振るう日光に、額にはじわりと汗が滲んだ。
(そう……分かっていた。
……俺、ヌバタマの事が好きなんだ)