尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第十一話『泪 その三』

 肌寒い日が続くようになった。

 夜咄堂(よばなしどう)の庭に咲く紅の紅葉は、吹き付ける秋声によって大分散っている。

 立冬はとうに過ぎ、もう間もなく小雪の時期となる。

 夜咄堂の薄い板壁では、やがて到来する本格的な冬にどれだけ抗えたものか、分かったものではない。

 客室は当然の事、自室も何とかせねば、風邪を引いてしまうだろう。

 自分が倒れては店も開けられぬ、さて暖房器具はどうしたものか……

 と、千尋はその様な事を考えながら、庭で落葉の清掃に取り組んでいた。

 落葉は庭中に撒き散らされていて、それはそれで風情があるのだが、茶花と同化してしまい、互いの良さが打ち消されているのであった。

 

 かき集めた落葉を一旦袋に纏めはしたが、中から数枚を見繕い、庭の一角に掘られている塵穴(ちりあな)に入れる。

 塵穴はゴミ箱ではなく、集めた木葉等を敢えて入れておく為の穴だった。

 千尋が調べた所によれば、茶室の庭にはよくあるもので、茶室に入る前に心の塵を落とす、という意が込められた穴らしい。

 付喪神(つくもがみ)達がいる頃には全く気に留めなかった存在だが、自主的に茶道を学んでいく中で得た知識だった。

 

 

 

 

「よう、やってるなあ」

 ちょうど掃除を終えた所で、門の方から声を掛けられた。

 振り返れば、女っ気のないジーンズにジャンパー、それからマフラーを纏った岡本知紗がいた。

「岡本さん、これはいらっしゃいませ」

「おう。今朝は冷えるなあ……。中入るぞー」

「今は誰もいませんから、お好きな席にどうぞ」

 

 そうして、二人して店内に入る。

 注文されたホットココアを出すと、岡本は楽しげに足を振りながら両手でココアのカップを掴んで飲んだ。

 低身長もあいまって、まるで子供のようなその仕草に、千尋は隠れて苦笑する。

 これでいて、小規模な陶芸コンクールで入選した腕の持ち主なのだから、人は見かけによらないものだ。

 

「最近陶芸の調子、良いみたいですね」

「こないだのコンクールか? はっはっはっ! どんどん褒めて良いぞー!」

「次は入選より良い成績残して、賞金稼いで下さいね。それで焼肉でも行きましょう」

「お、お前なあ……」

 調子に乗った岡本が、がくりと脱力する。

 彼女は机に腕をついたまま、ジトリと睨んできた。

 

「そういうお前こそ、相変わらず店儲かってないみたいじゃん。もうちょい頑張れよ」

「いやはや……何分一人なもので、お店の宣伝にまで手が回らなくて……」

「ま、もうちょっと慣れれば、上手くやれるだろうさ。サークルには無理に顔出さなくて良いからな」

「お気遣い、どうも。……ホント、いい加減なんとかしなきゃ拙いんですよね。

 いつまでも父さんの遺産で赤字補填できるものじゃありませんし」

 そうボヤキながら、千尋も椅子に腰掛ける。

 

「茶道具売ったり、店たたんだりする予定はないの?」

「ええ。それだけはありません」

「だろうな」

 岡本は嬉しそうに口元を和らげて頷くと、ココアの残りを飲みだした。

 対面の千尋は、何をするでもなく、頬杖を突いて庭を眺める。

 夜咄堂には、ココアを啜る音と、千尋が椅子を軋ませる音だけが静かに響いた。

 ただ、秋の一時が過ぎてゆく。

 やがて先に口を開いたのは、ココアを飲みきった岡本だった。

 

 

 

「……オリベさんと、ヌバタマちゃん、突然辞めたって言ってたな」

「そうですね。二人とも訳ありで」

 岡本の方を向かずに、千尋は頷く。

 

「それじゃあ、その訳が片付いたら、帰ってくるのかな?」

「どうでしょうかね」

「なんかさ。不思議な連中だったよな」

「………」

 千尋は返事をせず、また黙って頷いた。

 

「もちろん、名前や格好もそうなんだけれどさ。

 なんというか、世間ずれというか、神秘的な雰囲気というかさ」

「……言わんとする事は、分かります」

「うん。……上手く言えないんだけれども、とにかく不思議な人達だったよ」

「………」

「案外、人間じゃなく、妖怪だか神様だか……いや、茶室の茶道具にちなんで付喪神なんかだったりしてな!」

 岡本は、からっとした口調でそう言ってのけて、勢い良く立ち上がった。

 

 千尋は首だけを回して、視線で彼女を追う。

 冗談めかしてはいるが、彼女は薄々気がついていたのかもしれない、と思う。

 ならば、はっきりとさせた方が、彼女も支えが取れて気分が良いだろう。

 しかし、千尋はその選択をせずに、真実を胸の内に秘め続けていた。

 

 そのうち、新たな付喪神の宿る茶道具を手に入れる機会があるかもしれない。

 それが口外しない最大の理由ではある。

 そしてもう一つ、彼は微かな可能性を信じていた。

 何の根拠もない可能性だ。

 ただの願望と言った方が適切である。

 それでも、千尋は信じたかった。

 いつの日か、皆が帰ってくる事を、信じたかった。

 

 

 

「さてと。そろそろ帰るわ」

 岡本の声が、千尋を現実に引き戻す。

 彼女はそう告げると、ポケットから小銭を出して机の上に置いた。

「あれっ、随分早いですね」

「お前に小遣い恵みに来たようなもんだし。じゃな」

 

 岡本はニッと歯を見せて笑い、足早に帰っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 また一人になった千尋は、何をするでもなく椅子に座り続けていた。

 付喪神達がいなくなってからというものの、こうして一人静寂に浸る時間は随分と多くある。

 その間に、店の宣伝方法を考えるなり、大学の勉強をするなりしても良かったのだが、

 この静寂そのものを好いていた千尋は、他の事に時間を割こうとしなかった。

 

 少しだけ、期待をしている。

 背後でオリベが笑い。

 庭でロビンが吠え。

 横でヌバタマが稽古を強いる。

 皆の声が静寂を破るのを、少しだけ期待している。

 

 だが、当然ながら期待はいつも空振りに終わっている。

 この日も、適当な所で沈黙を終えた千尋は、深く溜息をついてココアのカップを手に取ろうとした。

 すると、机の上にはココアのカップだけではなく、マフラーも残されている事に気がついた。

 岡本の物だと思い、窓の外に目をやったが、既に岡本の姿は見えない。

 追いかけようかとも考えたが、店の門を出れば、上下に伸びた石段にすぐ行き着いてしまう。

 上か下かの二択になれば、岡本を発見するのは難しい。

 結局、千尋は岡本を追わなかった。 

 気づけば取りに来るだろうし、来なくても明日渡せば良い。

 そんな事を考えながら、ココアのカップを台所に運ぶ。

 他にやる事もないので洗い物を済ませようと、蛇口の栓を開けようとした所で、玄関の扉が軋む音が聞こえた。

 

(早速取りに来たかな……)

 千尋は小走りで客席側に出た。

 それから、玄関の傍にいるであろう岡本の顔を覗き込もうとして……彼は、固まってしまう。

 そこにいたのは、岡本でも、他の客でもなかった。

 

 

 

 

 

 

「な……なんで……?」

「こ、こんにちは……」

 顎を引き、上目遣いで恥ずかしそうに千尋を見つめる少女が、そこにはいた。

 赤い唇に整った顔立ち。

 光琳(こうりん)模様の刺繍が施された黒の和服。

 そして、射干玉(ぬばたま)色の髪。

 ただでさえ特異な出で立ちな上に、強く想いを寄せた人だ。見紛うはずがない。

 玄関の傍にいたのは、間違いなく、ヌバタマその人だった。

 

 

 

「えっ? どうして……どうしてヌバタマが、ここに?」

 慌てふためきながら、ヌバタマに駆け寄る。

 無論、彼女と再開できたのは嬉しい。

 しかし、彼女が再び現れた事に対する混乱が、嬉しさを上書きしていた。

 これは夢幻の光景か。

 そうでなければ、自分が知らずのうちに死んでしまったのか。

 或いは……

 

「……実は、その……お仕事が終わっていませんでしたもので」

 ヌバタマは気まずそうに、おずおずと告げる。

 そう。或いはその可能性が考えられた。

 父を癒し損ねた為に、日々是好日(にちにちこれこうにち)が不発に終わっていれば、ヌバタマが現世にいる説明が付く。

 しかし、日々是好日は確かに発動していたし、水墨画も完成していた。

 新たに湧き出る疑問に、千尋は首を大きく傾げてしまう。

 

「でも、ちゃんと仕事は果たしただろ?

 その証拠に水墨画は完成していたぞ。それに、皆いなくなったし……」

「うむ。その仕事は済ませたが、新しい仕事ができたという事だよ」

 ヌバタマの背後から、懐かしい声が返事をしてくれた。

 ヌバタマがいる理由は分からないが、彼女がいるなら、彼もいてもおかしくはない。

 もったいぶったような足取りで、ヌバタマの背後からオリベが出てきても、今度は然程の動揺は感じなかった。

「オリベさんも……」

「なんだね。大して驚いとらんなあ。つまらん」

 オリベは不満タラタラな様子で口をすぼめる。

「オリベさんもいるという事は、ロビンも?」

「あったり~。いぇーい!」

 返事は、庭から聞こえてきた。

 反射的に窓の外を見れば、丸々と太った雑種犬が二本足で立ってはしゃいでいた。

 だが上手く体勢を保てないようで、暫しふら付いた後、無様に転げてしまう。

 そんな事ができる犬は、千尋の知る限りではこの世に一匹だけだ。

 相変わらずまぬけなロビンに 千尋は思わず苦笑してしまう。

 皆、何も変わっていない。

 あの頃のままで、帰って来てくれたのだ。

 しかし。

 しかし、と千尋は思う。

 

「しかし……新しい仕事とは?」

「それなのですが……あの茶席で、宗一郎様と入れ替わりに、他の方を悲しませてしまいましたもので……」

 ヌバタマが、なおも遠慮しがちに答えた。

「他の方……」

 千尋は思わず、彼女の言葉をオウム返しにしてしまう。

 だが、誰を指しているのかは千尋にも分かる。

 あれだけ泣いたのだから、分からないはずがない。

 

 

「そうです。ええと、その……千尋様の事です。

 ……私達は確かに、天に昇りました。

 しかしその天で『人間を癒すはずの茶道具が、あれだけ人間を悲しませるとは何事か』と、

 茶道具に霊を込められる神様から、私が随分と怒られてしまいまして」

「………」

「そんなわけで、追加のお仕事を終わらせるまで、現世に逆戻り……

 オリベさんとロビンさんも、連帯責任で現世に戻ってきたというわけです」

「追加のお仕事というと、悲しませた人を……」

「ええ。その方を癒すお仕事です。つまり……」

 

 ヌバタマが顔を伏せる。

 一方の千尋はヌバタマから視線を切る事ができなかった。

 切ってしまったら、彼女の姿と共に、先の言葉さえもが消えてしまいそうな気がした。

 それだけは、嫌だ。

 もう絶対に、彼女を失いたくない。

 心臓が猛烈に猛る。

 体が微かに震えてしまう。

 彼女の言う仕事とは……

 

 

 

「つまり……千尋さんが天寿を全うされるまで、癒して差し上げるのが、私の仕事なのです」

「……ん」

 ヌバタマは、顔を伏せたままでそう言ってのけた。

 一方の千尋も、そっけない返事しかできない。

 溢れ出る感情を、言葉にできなかったのだ。

 

 また、ヌバタマと暮らす事ができる。

 自分を慕っていると、手紙で告げてくれた彼女と暮らす事ができる。

 共に茶を点てる事もできるのだ。

 

 気が付けば、千尋は足を一歩前に踏み出していた。

 感極まってしまって言葉は出てこないが、行動で示す事ならできる。

 目の前にいる、ヌバタマの小さな肩を、両手でゆっくりと抱きしめ……

 

 

 

 

 

「そんな事より!」

「ありゃ?」

 ……抱きしめようとした千尋の手は、空を切った。

 ヌバタマは千尋の手を掻い潜ると、足早に階段の方へと向かった。

 首だけで振り返りながら、彼女は怒ったような口調で言葉を発する。

 

 

「そんな事より、早速二階でお稽古しましょう!

 どうせ千尋さん、私達がいない間は、お稽古サボっていたんでしょう?

 今日からは、私がみっちりと指導して差し上げますから!」

「お、おう……」

 なんとも、つれない対応。

 互いの好意を知る前の、稽古熱心なヌバタマと何も変わっていない。

 稽古熱心なのは良いのだが、もう少し好意を表に出してくれても良い、と千尋は思う。

 頭を掻きながらヌバタマの後を追ったが、その最中に、ふと気が付いた。

 

(……いや……出ていないでもない、か……)

 前で自分を待つヌバタマの頬は、真っ赤に染まっていた。

 初々しい事この上ない。

 だが、それで良いではないか。

 時間は、これから幾らでもあるのだ。

 

 

 

 

 

「……それじゃあ、一服差し上げるとするかな」

 千尋の溌剌とした声が響く。

 霜月の小寒い夜咄堂は、暖かい三つの笑い声と一つの遠吠えに包まれていくのであった。


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