牛乳屋を出た俺は、ずばずばとした足取りで来た道を戻っていった。
ガキンチョが追いつけていないのは頭では分かっていたが、どうしても体が急いてしまう。
道中、大正時代から営業が続いている、ヌバタマとほぼ同い年のパン屋の傍を通る。
ちらと横目で中を覗けば、渡船に乗っていたJC三人組が、お小遣いと相談しながらパンを吟味しているようだった。
本来ならば、またもやJCと戯れていくのだが、今はそれも後回しだ。
足早に通りを抜けきると、右手には船着場と白板壁の小洒落たバスの停留所が見える。
一方、更に直進すれば沿岸沿いに道が伸びているのだが、俺はその道を行った。
すると、然程歩かないうちに、こじんまりとしたプレハブ小屋が視界に入る。
ようやく、目的地にご到着ってわけだ。
「べうべう、まて、またぬかぁ」
程なくして、ガキンチョが息を切らしながら追いつく。
「よぉし、やっと来たなー。整列!」
「ひとりなのに……?」
「気分だよ気分。ハイ、整列! ピピーッ!」
ガキンチョがやむなく、足場を踏み固めるような仕草を取る。
同時に、俺も緊張が少しだけ収まった。
こうして一息ついておかねば、この先何か起こった時に、冷静に対処できないかもしれない。
俺は、その危機感を示すように、一層低い声を搾り出した。
「よし、整列したな。我々はこれより文殊菩薩の下に突撃するのだ」
「それ、カカさま?」
「いいや、仏様だな。あそこに小屋があるだろう。あの中に仏様の像があるんだよ」
そう告げ、くるりと踵を返してプレハブ小屋に接近する。
入口の引き戸が半分空いていたので、鼻で強引に押し開けようとするが、どうにも立て付けが悪い。
その上、中の埃が鼻先を掠めて、どうにも息苦しくてたまらんのだ。
へぐへぐと鼻息を鳴らしながら必死に引き戸と格闘していると、後ろからガキンチョが手を貸してくれて、ようやく中に入る事が出来た。
プレハブ小屋は畳三畳程の狭さで、その一角を文殊菩薩像やら仏具やら提灯やら座布団やらが、
「ここは俺の場所なんだからね、ケッ!」と、啖呵を切るようにして占めている為に、
俺とガキンチョが入っただけで、プレハブ小屋は非常に窮屈になってしまう。
肝心の文殊菩薩は、小屋の最奥に設置されていて、流石は仏様とでも言おうか、実に穏やかな顔付きで俺達の方を向いていた。
……そう。俺達の方を向いているのだ。
「あっちゃあ……やっぱり向きが変わってたか」
「べうべう、どうした?」
「ん? ああ。誰かが菩薩様を弄っちまったようなんだ」
はぁー、と深く溜息を付き、菩薩様に近づきながら話を続ける。
「実はな、ここの文殊菩薩様は、俺達の方を向いていちゃいけないんだ。
本当は、海の方をキリッと見つめているんだよ」
「どうしてまた?」
「こいつは大昔に、海から偶然引き上げられた像なんだ。んで、この場所に奉られる事になったんだが、
その時に『おそらくは海難事故者を見守って下さっていたのだから、海に向けて奉ろう』って事になって、
引き上げ時に向いていた方向……すなわち海の方を向いて祭るようになったんだよ。
……ふごっ。重いな。おい、また手を貸してくれよ」
「うむ」
「慎重にやるんだぞ? 倒したら取り返しつかねえからな」
どっしりと台に腰掛けている菩薩様の角度を少しずつ変え、鼻を埃で真っ黒に汚しながらも、ようやく向きを変える事に成功する。
どうやら、この『二度目』は大きな問題が起こる前に解決できたようだ。
実は十年程前にも、菩薩様の向きが変わってしまった事があったのだ。
おそらくは、前回も今回も、菩薩様の経緯を知らない奴が勝手に触れたんだろう。
向きが変わった所で何も起こらないのなら、俺だってこうも神経質にはならない。
だが……前回は、何かが起こっちまったんだ。
具体的に言えば、死傷者こそ出なかったものの、突如として自然災害や海難事故が立て続けに発生したのだ。
もはや祟りと言える程の頻発っぷりに、島民が皆頭を悩ませていた。
常に笑顔を浮かべる牛乳屋のオババでさえも、梅干みたいにシワクチャの難しそうな顔をしてたっけな。
そんな中、島民の誰かが、文殊菩薩の向きが変わっている事に気が付いて、
もしや……と思いつつも、今回の様に向きを変えた所、ようやく事故は収まったってわけなのだ。
「でもべうべう、カカさまは……?」
像の向きを変え終えると、ガキンチョは不安げな表情でそう尋ねてきた。
「分かってるさ。……ガキンチョ。お前、自分が幽霊って事は理解できているか?」
「ゆうれい?」
「それも分かんねえか……ああ、面倒くせえ……」
ぽりぽりと後ろ足で頭を掻きながらも、どこまで説明したものか考え込む。
ここまで来たんだ。最後まで面倒見てやんなきゃな。
「そうだな……今、お前が向きを変えた菩薩様があるよな。
この菩薩様は、お前を鎮めてくれる像だったんだよ」
「うむ」
「だけど、誰かが向きを変えちまったせいで、封印が解かれたんだろう。
……このまま解かれっぱなしだったら、母親が見つからない寂しさで荒らぶって、天変地異を引き起こしていたかもしれん」
「べうべう、よくわからぬ……」
ピイピイ言うんじゃないやい。
俺だって、ガキンチョ相手に、なんと言ったら良いのか分かんないの。
「泣きそうな声出すんじゃねえ。外に出りゃあ分かるさ」
そう告げて鼻を大げさに振ると、ガキンチョは口をとんがらせながらもながら外に出た。
続いて俺もプレハブ小屋を後にした……まさしくその瞬間の出来事だった。
「べうべう、ういてる……」
ガキンチョの体が、何の物音も立てず宙に浮き上がった。
まるで、それが当然の動きとでも言わんばかりに、ガキンチョは止まる事無く空へ上っていく。
そんなガキンチョを見上げると、ガキンチョの更に上から差し込むギラギラの陽光が俺の瞳を支配し、思わず目を瞑りかけてしまった。
薄目になりながらも、何とかガキンチョの姿を目に焼き付けようとするが、それも次第に薄らいでしまう。
ガキンチョの姿自体が、段々と透明になってきたのだ。
「べうべう。ねえ、べうべう……ういているぞ……?」
ガキンチョが太陽を見上げながら聞いてくる。
「還るべき所に還ろうとしているんだ」
「かえるところ……」
「おお、天だ。文殊菩薩は当分俺が見守ってやるから、安心しろよ」
「……うむ」
何の事だか分かっていないだろうに、ガキンチョは不安のない声でそう言った。
「……べうべう、なにやら、あたたかい……」
姿だけではなく、ガキンチョの声までが薄れていく。
だが、例え消えてしまいそうな声でも、俺にはハッキリと伝わっている。
ガキンチョの声は、安心しきったものに変わっていた。
俺には馴染みがないが、この声ならば知っている。
母親に抱かれた様な声を、ガキンチョは出していた。
「やあ、カカさ……まがみえ……カ……さま……よかっ……」
いよいよ、声が聞こえなくなる。
姿も、殆ど消えかかってしまう。
……空を見上げ続けていたガキンチョが振り返ったのは、その瞬間だった。
「……べう……う……ありが……う……」
「……達者でな」
そして、ガキンチョは消えた。
太陽よりも眩い笑顔を残して、シュパッと跡形もなく消え去っちまったのだ。
「………」
ガキンチョが消え去ってもなお、俺は空を見上げ続けた。
別に、感傷に浸っていたわけではない。
俺が浸るわけなんかねえ。
考えていたのは、オババが聞かせてくれた昔話。
オババの得意な、村上水軍の昔話の中の一つだ。
「村上水軍の子……か」
ぼそりと呟き、高見山を見上げる。
オババの店で高見山の話をした時に、ふと思い出したのだ。
向島と村上水軍の関わりは、高見山だけではない。
その昔、向島にはそれはそれは美しい少女がいて、村上水軍の一門の側室として迎えられたそうなのだ。
その少女のみならず、少女の家系はノッポな鼻の見目麗しい者ばかりで、その血が脈々と受け継がれているのか、向島には美形が多い……
と、どこまでが本当なのかは分からないが、とにかくそんな事を、オババが俺に話してくれた事があった。
正直、眉唾ものの話ではあるが、俺をユーワクしてくれたJCをはじめとして、
向島には実際可愛い子が多いもんなので、俺はあながちハズレちゃいないと思っている。
あのガキンチョも、まあ、顔は良い部類だ。
もしかすると、ガキンチョは、美しい少女の血縁者……実子かもしれない。
俺はガキンチョの身元にモーレツな確信を抱き、この文殊菩薩の下へと駆けつけたのだ。
さて、まだ二つ疑問が残るな。
何故、ガキンチョの素性に確信を抱けたのか。
仮にそれが当たっていたとして、ガキンチョと文殊菩薩に一体何の繋がりがあるのか。
実は、オババの話には、続きがあるんだよ。
村上水軍に嫁いだ少女は、無事男子……つまりガキンチョを産み、母となった。
ま、それは、めでてぇ話だな。
すくすくと成長した子は、ある日、お寺がある本土側へ、母と一緒に法事で出かけたらしい。
となると、足が必要になるが、言うまでもなく水路の出番だ。
だが、いくら海と共に発展してきた村上水軍とはいえ、時代は日本中世。
天候予測や航海技術は現在とは比べ物にならず……海難事故は避けられないものだった。
そう。かの村上水軍でさえもな。
母子の乗る船が、この瀬戸内で沈没してしまったらしいのだ。
僅か三百メートルの、小さな小さな海峡で、だ。
そうして母子の魂は、儚くも瀬戸内に散った。
オババから聞いていたこの話。
そして、ガキンチョ美形一族疑惑。
この二つがピーンと一本の線で結ばれて、ガキンチョはオババの話に出てくる子だと直感したってわけだ。
ここまで話しゃあ、文殊菩薩との関わりについても、もう察しは付くだろう?
文殊菩薩は、海難事故で亡くなった奴を見守ってくれている。
そして、ガキンチョは海難事故で亡くなった可能性がある。
そこに接点を見出したって訳だが……ガキンチョが昇天した事実を踏まえりゃ、これもハズレちゃいないようだ。
むしろ、母子の事件がきっかけで、文殊菩薩は設置されたのかもしれねえな。
なんせ、母子は豪族なんだからさ。
なんとも、可哀想な物語ってわけなのだ。
「……まあ、ええことよ」
いつだったか、千尋が口にしていた言葉をパクる。
高見山を見上げていた顔を下ろし、俺はまた通りを歩き始めた。
大体さ、JCしか認めない俺が、ガキンチョに想いを馳せる事が変なんだよね。
ま、そりゃ……たまにはガキンチョと戯れてやっても良いけれど、いつまでもしんみりするのは、俺らしくもないってもんよ。
そう結論を出せば、もう後は早い。
さて、俺のJC達は、まだパン屋にいてくれているのだろうか。
俺は普段よりも大股になって、昭和初期の香りプンプン通りをグイグイとまかり通るのであった。