買い出しは、殆ど時間はかからなかった。この日はいくつかの調味料を買いに来ただけで、店で出す菓子や飲み物を補充する必要もなく、スーパーを一軒回るだけで済んだのである。
スーパーを出ると、また冷たい風が吹き付けてくる。ちらとヌバタマを見れば、少しばかり体を縮れこませているようだった。
「これくらいの買い出しなら、次は付き添わなくていいよ」と軽く声を掛けると、ヌバタマは屈託のない笑みを浮かべて「千尋さんと出かけたいのです」と返してくる。
慕われるのは嬉しいけれど、ちょっとばかりこそばゆい。
無意識のうちに速足で帰路に着いた千尋であったが、スーパーを出て間もなく、その足はヌバタマによって止められてしまった。
「……千尋さん、アイスですよ。アイスクリームのお店がありますよ!」
ヌバタマが大きな声を出しながら、千尋のコートを引っ張る。
さっき掛けてくれた慕いの言葉よりも、張りがある声だ。
まあ、甘味だけには勝てないものなのだ。
ついつ乾いた笑いを浮かべつつ、ヌバタマが見つけた店を見れば、横幅三メートル程の小さなスペースのアイスクリーム屋が、他の店に挟まれる……というよりは、潰されるようにして建っていた。
もちろん、幼い頃から通っている商店街だから、そこにアイスクリーム屋があるのは千尋も知っている。
しかし、立ち寄った事も気に掛けた事も、一度もない店だった。
「アイスか。ヌバタマ、ここ来た事はあるの?」
「いいえ。
「父さん、パシりじゃん」
「面倒見が良い方、と言うべきですよ。……それで、千尋さん、その……」
ヌバタマは途中で言葉を切り、やや顔を伏せつつ、千尋と店を交互に見始めた。
なんともまあ、分かりやすい反応なのである。
「……もうすぐ冬だってのに、よくアイスなんか食べたがるなあ。一つだけだぞ」
「さっすが千尋さん!」
その場でぴょんぴょん飛び上がるヌバタマを抑えつつ、改めてアイス屋に向き直る。
店舗の正面には、店内への入口とテイクアウトの窓口があって、店内には細く狭いカウンターの座席が並んでいる。テイクアウト窓口に注目すると窓ガラスにメニューが張り出されていた。
上から順に、バニラ、チョコレート、抹茶、ストロベリー、そして
「瀬戸田レモンと塩アイスって、何なんでしょうか?」
同じくメニューを見ながら、ヌバタマが呟く。
「尾道住んでるのに、知らないのか?」
「基本、お店に篭りっきりでしたから」
「そっか。ええと……瀬戸田レモンってのは、尾道と愛媛を繋いでいる『しまなみ海道』の一角、生口島の瀬戸田って所で採れるレモンを使ったアイスだな。確か、日照時間が長いから美味しいレモンが採れるんだ」
途切れ途切れながらも、なんとか記憶を掘り起こして説明をする。
「おおー。千尋さん、物知りですねえ」
「それほどでも……」
「それで、塩アイスは何なんです?」
「ん? あー、えっと……」
が、今度は言葉に詰まってしまう。
塩の入ったアイス、くらいの事はもちろん分かる。この塩も、しまなみ海道のどこかの島で採れたはずだけれど、島名をど忘れしてしまったのだ。
島名は塩のCMで有名だったはずだが、だからこそ、ヌバタマ以上に千尋自身が気になってしまう。
こうなれば、文明の利器に頼る事にしかない。
ポケットからスマートフォンを取り出して、モニターをタプタプする事十数秒。
「……あっ! 思い出した!! は・か・た・の」
「店の前でなーにをしとるんじゃあっ!!」
千尋の言葉が、店内から聞こえた怒声にかき消される。
驚くあまり、ついスマートフォンを落としかけたが、なんとか空中で掴んだ。安堵の域を漏らしながら店内を見ると、そこには先日知ったばかりの顔があった。
「あ、えっと……迫田さん?」
「あんちゃんは、この間の喫茶店の店長か」
テイクアウト窓口から千尋達を睨んでいるのは、他でもない、白くなりだした眉を思いっきり吊り上げた迫田老人だった。
よくよく彼を見てみれば、店名がプリントされた鮮やかな色合いのエプロンを付けている。
可愛らしい恰好が意外と似合っている、なんて考えてしまうけれど、今はそれどころじゃない。
その感想を意識の隅に追いやりながら、千尋は小さく会釈した。
「はい。夜咄堂の店長の若月千尋と言います」
「若いな。いくつじゃ?」
「もうすぐ十九歳になります。大学生です」
「学校に行きながら店を持つとは偉い……と言いたいが、そういうわけにもいかんな」
「と、言いますと?」
「すまーとほんじゃ。そんなもん外で弄ってたら、人にぶつかるだろうが」
ぎろり、と手元を睨みながら迫田が言う。
「あ……は、はい、そうですね。すぐ、しまいます」
彼の勢いに半ば気圧されながら、スマートフォンをポケットに戻した。
とんだタイミングで顔を合わせてしまったものだ、と内心唸りながら、千尋は迫田の顔色を伺ったが、まだまだ笑顔が戻る様子はない。
それでも、せっかく会えたのだから、電子機器を嫌う理由に探りを入れるチャンスではある。
千尋は、迫田の表情の変化に注意しながら、ゆっくりと話を切り出した。
「あの……ところで迫田さん?」
「なんじゃい」
「迫田さんって、なんでスマホ……」
「それがなんじゃい!?」
スマホ、と聞いただけで、また迫田がぷんすかと両手を掲げて怒る。
これじゃあ、探りを入れるなんて到底無理な話だ。
ちら、と斜め後ろのヌバタマを見やるが、彼女も難しそうな顔をして千尋を見返してくるだけだった。
さて、どうしたものか……、
「おじいちゃん……」
ふと、そこへ子供の声が聞こえてきた。
振り返ると、五歳くらいの大人しそうな男児が、涙目になって迫田を見上げていた。
「おや、さっきの坊やじゃないかい。ベソかいてどうかしたかい?」
迫田が猫撫で声で言う。
先ほどまでの頑固老人はどこへやら、彼は優しげな瞳を男児に向けていた。
だが、その瞳は何かを捉えたようで、彼はすぐに小首を傾げた。
「……おや、さっき買っていったアイスはもう食べたのかね?」
「ううん。……えぐっ……落とした。信号で、車に驚いて……えぐっ……」
「なるほど、そういう事かね。よしよし、じゃあ代わりのアイスをあげよう」
「ん……お金、お母さんにもらってくる」
「そんなのいらんわい。確か塩アイスだったな。ちょっと待ってなさい。ああ、危ないから横断歩道は一緒に渡ろう」
迫田はそう言うと、慣れた手つきで塩アイスを用意し、店外に出てきた。
それを男児にそっと手渡し、空いている方の手を握って「さあ、行こうかね」と声を掛けると、彼は男児と一緒に商店街の奥へと歩いて行った。
そして、店の前には千尋とヌバタマだけが残される。
突然の豹変に、二人は唖然としたままで口を挟めなかったが、見送る迫田の背中が小さくなったところで、やっと千尋が先に声を出した。
「……迫田さん、むちゃくちゃ子供に優しいな」
「ええ。別人かと思うくらいでした」