尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第十三話『凛とした影の人 その二』

 朝から続く小雨が、浄土寺の庭の紅葉を叩いている。

 だというのに、紅葉の周りに敷き詰められた苔や白小石には、あまり落ち葉がなかった。

 拝観料を払って入る庭だけあって手入れが行き届いているのだろう、と感心しながら、千尋は板張りの廊下を歩く。

 よく磨かれた廊下からは、足に張り付くような冷たさが伝わってきたけれど、どこか心地良い冷たさだ。

 寺中に漂う線香の香りも相まって、気持ちが引き締まるような気さえした。

 

 

「千尋さんは、露滴庵(ろてきあん)を見に来るのは初めてでしたっけか?」

 先を歩くヌバタマが、首だけで振り返りながら尋ねてきた。

「今から見る茶室だよな。もちろん初めてだけれど」

「でしたら、どんな茶室か教えて差しあげますよ」

「別にいいよ。茶室の前に説明書きくらいあるだろ?」

「いーえ、事前に知っておいた方が良いんです!」

 嬉々とした声で言う。つまりは、話したいのだ。

 千尋とて駆け出しの茶人ではあるし、嫌じゃない。

 

「まずは露滴庵の歴史からご紹介しましょう。なんと! 元々はあの豊臣秀吉(とよとみひでよし)伏見(ふしみ)城にあった草庵でして、本願寺(ほんがんじ)、向島の順で移設された後、ここ浄土寺に落ち着いた代物なのですよ。本願寺に移設した人は不明ですが、向島へは、広島・浅野(あさの)藩の御用商人である天満屋(てんまんや)が移したそうです」

「あの、デパートの天満屋?」

「それとは別の天満屋さんです。向島に自分の庭園があるので移したそうですが、最終的にはその天満屋さんが、浄土寺に寄進してくれたのです」

「由緒ある茶室じゃないか。どうしてそんなもの、寺にくれたんだ?」

「もちろん、茶室にふさわしいお寺だからです。浄土寺は聖徳太子(しょうとくたいし)が開創した国宝のお寺ですからね」

「……尾道には凄い寺があるんだな」

「有名なお寺なのに、今更なにを言ってるんですか。ほら。あれがその露滴庵ですよ」

 

 

 ヌバタマが前を向き、T字路になっている渡り廊下の外を指差す。

 そこには、高さ三メートル程の築山があった。茅葺の茶室は山の上に建っていて、山の周囲には美しい白砂敷、蘇鉄に紅葉に松、それから岩が所狭しと敷き詰められていた。

 綺麗な茶室だ、というのが率直な印象だ。

 庭には紅葉が少なく、艶やかというわけではなかったけれども、むしろそれが自然な美しさを作り出している。

 遠目ではあるけれど、茶室にも汚れの類は見えず、四百年物の割には茅葺も整っている。もしかしたら、近年修理したのかもしれない。

 そんな奥ゆかしい美しさを放つ茶室が、優しい小雨と共に、千尋達を出迎えてくれたのだ。

 

 

「……雰囲気、あるな。中へはどこから入るんだろう」

「あ、中には入れないんです。何年か毎に、茶会の為、一般公開されるそうですが」

「そうなのか。ちょっと残念だな」

「私もです。内装は、利休(りきゅう)の弟子である古田(ふるた)織部好みの燕庵(えんなん)を写したものらしいですから、歴史的価値は高いですよ」

「燕庵って?」

「京都にある茶室です。多数の窓が特徴的な茶室なんですが、ええと、なんという種類の窓だったか……」

 小袖を口に宛がって、考え込む。

 その答えは、すぐに聞こえてきたが、ヌバタマが発したものではなかった。

 

 

色紙(しきし)窓。二つの窓の中心を外して、上下に並べた窓の事ですね」

 左側の廊下から、静かな語り口をした女性が近づいてくる。

 その姿を見た千尋は、あっ、と叫んでしまいそうになった。

 目尻を下げて微笑んでいるその人は、今朝、図書館の近くで見かけた白服の女性だったのだ。

 

 

「そう、そうです。色紙窓! ああ、つっかえが取れました。ありがとうございます!」

「いいえ。……すみません、突然話しかけたりして。私、お茶をやっていまして、お二人の話し声につい嬉しくなってしまって」

 ぺこり、と頭を下げながら女性は言う。

 こうして近くで見ると、二十代前半といったところだろうか。話し相手であるヌバタマの外見は明らかに年下なのに、女性は柔らかな物腰を崩そうとはしなかった。

「わあ、お茶! 私達も……あっ、私ヌバタマと言います。こちらは千尋さん。私達もお茶が大好きなんですよ! ねえ、千尋さん?」

「あ……えっと。はい、そうなんです」

 ヌバタマの声に背中を押されるようにして頷くと、女性は「良い事です」と言わんばかりに、緩やかに首を傾けてみせる。

 

 こうして接すると、幽霊や化け物らしさは欠片もない。落ち着きのある可憐な女性だった。

 勝手な疑惑が晴れるのと同時に、彼女からも茶室の話を聞いてみたい気がする。駆け出し茶人の千尋でも、それほどに気持ちが揺り動かされる茶室であった。

 

 

 

「ええと、あなたは……」

「あ、シズク、と申します」

 多分、下の名前だろう。随分と綺麗な響きだ。

「シズクさん。確か、今朝お会いしましたよね。図書館の前を散歩していたみたいで」

「ええ。奇遇な事もあるようで。……このお寺や露滴庵が好きで、いつもこの辺りにいるのですよ」

「そんなに、良い茶室なんですね」

「特に茅が見事で。今日のような空模様の下では、屋根先から滴り落ちる一滴一滴の露が映えて見えます。……まさしく露滴庵ですね」

「滴る露……ですか」

 

 その言葉を受けて、もう一度茶室を見る。

 千尋には、滴まで視認できなかったけれど、想像ならば容易にできた。

 天候さえも綺麗に見せる茶室。三英傑が一人、豊臣秀吉が使うに相応しい、歴史ある茶室。

 こんな茶室が尾道にあったのだと思うと、なんだか嬉しくなってきて、自然と口元まで緩んでしまった。

 

 

「あの……千尋さん?」

 ふと、ヌバタマが声を掛けてくる。

「シズクさんとは、お知り合いだったんですか?」

「え? あー、うん。今朝、ちょっとな」

「いいなあ。私もお茶友達と知り合いたかったです」

「挨拶させて頂いただけですよ。……それに、お茶友達でしたら、今からだって」

 シズクは前髪を払うように整えると、わざわざヌバタマに正対してから言う。

 ヌバタマの瞳が大きく見開かれるのには、殆ど時間はかからなかった。

 

「ほ、本当ですか?」

「ヌバタマさんさえ宜しかったら。私もお茶友達は欲しいわ」

「はい、是非是非! やったぁー!」

 ヌバタマがぴょこぴょこと飛び跳ねた。今日は喜んでばかりの奴だ。

 しかし、彼女もすぐに、場所に相応しくない行動だと自覚したようで、ばつが悪そうに笑顔を苦笑いに変えた。

 

「……えへへ、ごめんなさい。良かったら、どこかで落ち着いてお話でもしませんか?」

「そうだな。立ち話というのもなんだし。どこか喫茶店でも……」

 同調しながら、候補になりそうなお店をいくつか思い浮かべる。

 ……いや、考え込む必要なんかない。最適の喫茶店が、一件あるじゃないか。

 ふと、気がつくとヌバタマも同じ事を考えていたようで、弧を描いた目が物語っている。

 そっちからどうぞ、と言わんばかりに目配せをすると、ヌバタマはこれ見よがしに両手を広げながら口を開いた。

「シズクさん、良かったら私達のお店に遊びに来ませんか? 二階に茶室がある喫茶店なんです」


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