翌日、千尋はすぐに人探しに出かけようとはしなかった。
大学の陶芸サークルの先輩である
岡本には大学で世話になっている上に、店の常連でもあるのだから、断るわけにはいかない。
来店の三十分前には和服に着替え、水屋で茶道具を確認していると、オリベがひょいと顔を覗かせにきた。
「おや千尋。年末営業は昨日までじゃなかったのかね」
「そうなんですが、岡本さんが友達を連れてくるんで、臨時営業です」
「ほほう! 女の子かね!」
オリベがうきうきと肩を揺らす。みっともないことこの上なかった。
「そこまでは知りませんよ」
「あとで様子を見に行くから、そのつもりでな」
「来なくて構いません」
しっしっ、と手を振ったが、オリベは無視して水屋に居座り、先程まで千尋が見ていた押入れを眺め始めた。
すると、軽口を叩いていた彼の表情に、段々と真剣味が生まれてくる。
どの付喪神にも言えるのだが、茶道となればみんな真面目なのだ。
「なるほど、それで今日使う茶道具を選んでいたのかね」
「ええ、まあ」
「私はてっきり、茶会の道具を考えていたのかと思ったよ」
「茶会の件、ヌバタマから聞いたんですか」
「うむ。面白いではないか。茶寮としてはこの上ない宣伝になるし、お前にとってもいい勉強になるだろう。いつやるつもりかね?」
「未定ですけれど、四月かなと。五月になったら、炉点前から
「かといって、三月では準備が間に合わんだろーしな。夜咄堂の茶室なら、そうさな……最大五人を計五席だろうかね。小規模だし、四月開催でもいいだろう」
「三月だと、準備は間に合わないんですか?」
不安の篭った声で尋ねると、オリベは深刻な様子で頷いた。
「当然じゃないか。まずは人手をかき集めんといかん。当日はお点前さんに、会話役の亭主、裏で茶を点てる水屋と、それを出す
「五役……って事は五人か。夜咄堂の店員数じゃ、足りないですね」
「むしろ、まだ増やしたいな。特に水屋が忙しくなる。今のうちから友人に助力を頼みなさい。……それに、客だ。集客の為の茶会なのは分かるが、まずは、その茶会の客を集めなくてはいかん」
「それもそうですよね。……一般的な流派だと、どうやってるんでしょうか?」
「一度に数十人をもてなす大寄せなら、大体は門下の者に声を掛けているな。小規模の茶事だと、まあ、知人を呼ぶのが主だろう」
「今回は小規模、ですよね。大学の友達なんかに来てもらえば大丈夫かな」
「それでも構わないが、宣伝効果がある者にしないとな。あと、茶道具の会話をする正客は、お茶が分かる人に頼んでおきなさい。ちゃんと案内状も書くように」
「……まいったな」
ふう、と重い溜息を零し、虚ろな目で茶道具を一瞥する。
想像以上にやるべきことが山積みで、面白そうではあるけれど、気も重かった。
「ヒャッヒャッ! 今からそんなに疲れてどーする!」
「でも、店を宣伝する為とはいえ、ちょっとやることが多すぎて」
「おや、本末転倒になっとらんかね? 宣伝も期待できるが、あくまでも来てくれる方々をもてなす茶事なのだ。パパッとできるものではない」
「あ……はい」
言われてみれば、確かに見誤っていたかもしれない。
まずは茶事ありきで楽しんでもらわないと、集客には至らないだろう。
提案者のヌバタマも、集客より茶席自体を大事に考えているようだった。
自身の心構えの甘さに嫌気が差す。でも、千尋はもう溜息をつきはしなかった。
「まー、気持ちが篭っていればなんとでもなる。客の事を思う気持ちがあれば、ね。ヒャッヒャッヒャッ!!」
「……頑張ります」
「そーしたまえ。分かっているだろうが、まずは主題からだぞ」
やることが沢山あり過ぎて、頑張ると言う他ない。
でも、前を向く姿勢こそが大切だ、と言わんばかりに、オリベは背中を強く叩いて激励してくれた。
それを意気に感じ、オリベが去った後も茶道具とにらめっこを続けていると、袖に入れていたスマホが不意に振動する。岡本からの電話だった。
「はい、若月です」
「あたしあたしー」
「詐欺みたいな名乗り方はやめてくださいよ。どうかしましたか?」
電話先の岡本に突っ込む。いつもの事だった。
「おー。もうすぐ着くから、店暖めといてよ」
「暖房利かせてますから大丈夫です。暑がりの岡本さんでも、冬は寒いんですね」
「いや、あたしは寒いくらいでいーんだけどさ。マーシャがすっごい寒がってるもんで。じゃ!」
おそらくは外国人の友達の名前だろう、等と思いながら、スマホをしまって一階に下りる。
手持ち無沙汰に備品の雑誌を眺めていると、内容がほとんど頭に入らないうちに、夜咄堂の玄関が開かれた。
「よーよー、お待たせー」
あっけらかんとした声と共に、中学生くらいの背格好の岡本が入ってきた。
勝手知ったる彼女は、千尋に案内する間も与えてくれず、四人掛けの客席に遠慮なく座ると、ニット帽を取って中の長髪を手串で整え始めた。
一方、岡本に続いて入店した外国人の女性は、目を輝かせながら自分を見つめていた。
……いや、それにしては視線が合わない。どうやら見つめているのは、自分の和服のようだった。
「……えっと、キャンユースピーク、ジャパニーズ?」
「あ。挨拶せずにごめんです。日本語大丈夫ですよ。マーシャです。よろしくですよ」
「若月千尋です。どうも」
どことなく片言ではあったが、日本語は通じるようで、安堵しつつも返事をする。
マーシャと名乗ったその女性は、達磨のように服を着込んでいたが、そこから覗かせる褐色肌が千尋の目を引いた。
髪はしっとりとした黒のショートボブで、瞳は緑のようである。
年齢は自分よりやや上だろうか。何分外国人なので測りにくい。どこか、活発そうな雰囲気を持った女性なのは確かだ。
「千尋。マーシャだ」
「さっき聞いたばかりです」
岡本はいつも人の話を聞かずに、同じ話を繰り返す。
「どうも。マーシャです」
マーシャは、二人のやり取りに苦笑しながら着席した。
「マーシャさんまで……」
「ふふっ。今日はお店開いてくれてありがとうです」
「いえいえ。あ、飲み物どうしましょうか。コーヒーでも……」
「ありがとうございます。でしたら、二階に茶室があると聞いていますから、お茶頂きたいです」
マーシャは、はにかんで言うと、ちらと岡本を一瞥したが、すぐ自分に向き直った。
「私、アメリカに住んでるですが、父が日本人で、昔から故郷の話を聞いていたんですよ。それで、日本に興味があったです」
「今日は、それで遊びに来たんですか? 思いきりましたね」
「今回もそうですが、数年に一度、父の実家に帰っていますから。……千紗と知り合ったのは、四年前でした。父と千紗の父が知り合いでして」
「ほら、あたしの親は佐賀の唐津で陶芸工房やってるじゃない。マーシャがそこを見学しに来た時に、知り合ったのよ。んで、それ以来、いろんな所に連れてってるわけ」
岡本の補足を受け、夜咄堂に来たがった理由に納得がいった。なら、夜咄堂はうってつけの喫茶店である。
「他にも、福岡や広島のスタジアムとか連れて行ってもらいました。ベースボール好きなので、楽しかったです」
マーシャが肩を躍らせながら言う。野球ならば、千尋も好きだ。話に乗ろうとして……しかし、ふと引っ掛かりを覚えた。
「あれっ? 今は、野球やってないですよね?」
「スタジアムを見るだけでも楽しいですよ。その土地のベースボール事情に触れた気がするですから。……屋外なので、寒くて長居できませんでしたけれどね」
「マーシャは、アリゾナの州都フェニックスって所の出で、すっごい暑い地域なんだって。だから日本の寒い冬には、まいってるわけさ」
「それで、前もって電話したんですね」
「そーいうこと。ほら千尋、茶室の準備急いで。暖かい飲み物! ハリーハリー!」
「はいはい、っと」
急かす声に背中を押されながら、先に二階に上がる。
とはいえ、もう茶室の準備はできているのだ。道具は揃っているし、茶室中央の炉の中では、炭火が赤々と燃えあがり、真上に掛かっている釜を熱している。
これが夏になると、釜の場所が変わる。
風炉と呼ばれる台を客から離れた場所に置き、釜もそこに移して熱気から遠ざける……付喪神達から茶道を学ぶようになって、割と早い段階で教えられた知識だった。
「……いや、待てよ」
一階に戻ろうとしたが、ふと、その教えが引っかかった。
確かに炉なら暖かいだろうけれど、あれだけ着込むマーシャには、それで十分だろうか。
もうちょっと、してあげられることがあるんじゃないか。
広島どころか、日本在住でもないマーシャに茶を振舞うのは、今日が最初で最後かもしれない。
でも、そんな彼女だからこそ、できる限りのことをしてあげたいのだ。
「しかし、炉は動かせないしなあ……」
ぶつぶつとぼやきながら、水屋に足を運ぶ。
中をぐるりと見渡した千尋は……これまで一度も触れたことがなかった物に目を付けた。
水屋の隅に火鉢が置かれていて、釜を乗せるにはうってつけの
もしやと思い、茶室に運び込んでから炭を移し、釜を乗せるとピタリと収まった。
「うん。いいじゃないのさ」
点前で使うと聞いたことはなかったけれど、間違っていたところで正規の茶席じゃないし、それよりもマーシャに暖まってほしい。
これでよし、と自分を信じて二階に下りる。退屈させていないだろうか、と心配だったけれど、一応は問題なかった。
厨房奥の部屋から這い出てきたオリベが、二人の相手をしていたのだ。
「やーやー千尋君! 岡本さんだけじゃなく、こんなに可愛い子もいるというのに、なんで私を呼ばなかったのだね」
「オリベさんがナンパ始めるからですよ……」
「ヒャッヒャッ! こりゃ手厳しい!」
「でも千尋さん当たりです。海を見に行こう言われました。寒いから行きませんけど」
マーシャの笑み交じりの発言を受けてオリベを睨むが、それ以上の苦言は呈さない。
彼女も面白がっていたようだし、オリベにはこれから骨を折ってもらわなきゃいけないのだ。
オリベに菓子を頼んで、自分は岡本とマーシャを連れて茶室に上がる。
質素な空間だというのに感激するマーシャが落ち着くのを待ってから、茶事を開始した。
……そして、すぐに焦りを覚えてしまった。
点前が、分からないのである。
畳下にスペースを設けて釜を入れる従来の形式ではなく、高い火鉢の上に釜を置いたせいで、釜への柄杓の掛け方が分からないのだ。
また、ドジを踏んでしまった。マーシャが暖まることばかり考えていて、自身の点前に考えが至らなかったのだ。
額から冷や汗が湧き、自分でも驚いてしまうほどにボタボタと流れだしたが、必死に心を落ち着けながら釜に対峙する。
こうなったら、なんとなくでも切り抜けるしかない。
「お菓子をどうぞ」
意を決したところで、オリベの声が聞こえる。
入室した彼が菓子を勧めると、岡本は遠慮なくパクついたが、マーシャは違った。両手で口を覆い、不思議そうに火鉢を見つめ続けていたのだ。
「ねえ、チヒロさん?」
「なんでしょうか」
「私も、ちょっとだけ茶道分かります。でも、茶道で火鉢使うの知りませんでした。これ面白いですね。勉強なります」
「……いや、実は正しい茶道具じゃないかもしれません」
点前を進めながら答える。
勉強になる、とまで言われれば、ごまかすわけにもいかなかった。
「あら。でしたら、なんで火鉢を?」
「この方が暖かいかと。ただ、それだけです」
「チヒロさん……」
何を思ったのか、マーシャがじっと見つめてくる。
恥ずかしいけれど、客から目を逸らすのも気が引けて、彼女を視界の隅に入れていると……突然、視界が揺らいだ。
いや、それだけじゃない。暖かな光が部屋に満ちていく。
まったく自覚していないのに『日々是好日』が発動したのだ。
一体何がどうなって……そんな疑問を処理できないうちに、能力は消えていき、また普段の茶室に戻ってしまう。
「……ありがとうございます。チヒロさん」
マーシャの声が、千尋の意識を覚醒させる。
はっと顔を上げて彼女の顔を見ると、マーシャはえくぼを作りながら、拍手を送っていた。
「寒いの我慢して、夜咄堂に来て良かったです。たった一度来ただけでも、大切なこと、勉強できました。火鉢の心遣い、嬉しいですよ」
「それは、いや、どうも……」
火鉢によって『日々是好日』が発動し、日本の冬に苦労するマーシャの悩みを解消したということなのだろうか。
客室の隅にいるオリベをちらと見ると、何度か小さく頷いていたし、多分これであっているんだろう。
やっと状況を理解しつつも、意図せぬ発動にはいまだに戸惑っていて、ろくな返事ができない。
そんな自分を、褒められて照れていると勘違いしたのか、次客席に座る岡本がケラケラと笑い飛ばす。
ますます反応に困り小さくなっているところへ、マーシャは言葉を付け足した。
「ふふっ。チヒロさん、ジョー・ディマジオみたいですね」
今度の言葉の意味は、まったく分からないのであった。
◇
岡本とマーシャの姿が玄関の奥に消えるなり、オリベは大笑いしながら背中をバシバシと叩いてきた。
「ヒャッヒャッ! 驚いたね。『日々是好日』が発動したではないか!」
「驚いたのは俺ですよ。能力は意識しなくても発動するんですか?」
「何を言っておる。お前が初めて店に来た時もそうだったろう。もっとも、あの時は運良くだったが、今回はちゃんと実力を発揮しての発動だったな」
「言ってる意味がよく分からないのですが……」
「そうかね? ま、とりあえず座りたまえ」
そう言ってオリベは四人掛けテーブル席に腰掛ける。袴の裾を直しながら千尋も続くと、オリベはビシッと指差しながら話を続けた。
「お前も知ってのとーり『日々是好日』はこの店で、付喪神が同席しなければ発動しない力だ」
「あとは、お客さんの悩みと、それを解消できる茶道具の良さを知っておくこと。……そして良い茶席にすること」
「うむ。それらさえ満たしていれば、能力を使おうと意識せずとも発動するのだ。一流の茶人であればよくあることだよ」
「一流……ですか」
「うむ。一流なら、良い茶席になるのは言うまでもない。だが、それだけではないぞ。客の悩み……というよりは、どんな客が参加するのかをしっかり把握できているから、自然と悩みにも行きつきやすい。解消できる茶道具の良さも然りだ」
今回、自分がそれに該当したという事なのだろう。
それで一流だとうぬぼれるほど、千尋も軽くはないけれど、褒められているのだから気分は悪くなかった。
確かに半年前と比べれば成長しているかも、くらいには思う。昔は、抹茶を棗に移す道具の茶漏斗を、逆に缶に移す時に使うようなミスもしたっけか。
「……俺も、ちょっとは成長してたんだ」
「そうだな。今回特に良かったのは、何よりも客をもてなそうとする気持ちだった。あのマーシャちゃんとかいう子、海外在住なら、もううちに来る機会はないかもしれんよな?」
「ええ、おそらくは……」
「でもお前は、手を抜かずに全力でもてなそうとした。だから火鉢に行きつけたわけだ。……うむ、これこそ一期一会だな」
「あっ……」
突然出てきた最近のキーワードに、千尋は息を飲みこむ。
吐息だけじゃない。自覚はしていないけれど、多分表情にも同様の色が出たんだろう。オリベは何かを察したようで、更に話を続けた。
「一期一会。分かるかね?」
「ええ、少しは。……最近、縁がある言葉ですから」
「ならば良い。ま、茶道に関わらず有名な言葉だからな。元は千利休の言葉だが、桜田門外の変でも有名な井伊直弼が広めた言葉でもある。それがなければ、茶人の間でしか語られない細々とした言葉だったかもなあ」
「へえ。井伊……」
オリベの言葉を繰り返す最中、ふと既視感を覚える。
一期一会だけじゃない。井伊直弼という言葉も、最近どこかで耳にしていたのだ。
あれは、確か……向島の赤備だ。諏訪の店で聞いた言葉だ。
「それに、諏訪さんの仕事も茶道関係……」
「ん? どうした。何をぶつぶつ言っておる?」
「いえ! すみません、ちょっと用事があります!」
テーブルに両手をついて立ち上がると、千尋は洋服に着替えずに店を飛び出した。
石段を一気に駆け下りて車道まで出る。このまま車道と商店街を横切れば船着き場に着くけれど、そうはせず左に曲がって浄土寺に急いだ。
シズクの体調が良ければ、彼女を連れて行ってあげたかったのだ。
もう限界が近いのは千尋にも分かっている。だから事前に裏を取っておくべきかもしれないけれど、千尋は自分の推測に強い確信を抱いていた。
途中、大きめの十字路で信号に引っかかる。早く赤信号になって車が止まりますように、なんて念じながら車道を眺めていると……唐突に、前を横切ろうとした車が急ブレーキをかけた。
思いが通じたのか? なんて考えてしまうけれども、信号はまだ切り替わっていない。
何事かと周囲を見渡すと、すぐに答えは見つかった。白猫が車道に飛び出した為の急ブレーキだったのだ。
その飛び出した白猫は、どこかを痛めたのか、びっこを引きながら千尋側の歩道に避難している。雪之丞だった。
「雪之丞、大丈夫か!」
足をもつれさせながら駆け寄るが、出血はない。
雪之丞自身も苦しそうじゃなかったけれど、忌々しそうに自分の後ろ足を見ていた。
「ちっ、足を少しだけ捻ってしもうたな。なに、一晩寝れば治る程度じゃ」
「本当なのか? 動物病院に行った方がいいんじゃないか?」
「大丈夫と言っとるじゃろうが。それより、人を探さにゃいかん」
雪之丞は気丈にそう言うと、やけに大股になって立ち去ろうとする。
千尋は慌てて、そんな彼に並走した。
「待て待て。もしかしたらその人が見つかったかもしれないんだよ」
「なんじゃと! 本当か!」
「ああ。それでシズクさんを誘おうと思ったんだけれど、もう実体化してるの?」
「まだじゃな。もう半日くらい休まんと無理じゃろ。じゃけえワシは、その間に人探しに出かけとったんじゃ」
「もしかして、それでひかれかけたのか?」
「ほうじゃが」
呆れたような口調で言われるが、呆れたのはこっちの方だ。事故に遭いかけるほどに、シズクに入れ込む理由が、どうしても分からない。
千尋は、唐突に雪之丞の脇下に手を入れて、自分の目線まで持ち上げた。
ふわりとした毛触りと、生き物の暖かな体温が手に伝わる。付喪神とはいえ、やはり体の作りは猫そのものなのだ。
「フニャッ!? に、にゃんじゃ。下ろさんか!」
「雪之丞、俺の話を聞いてくれ。本当に事故に遭うところだったんだぞ。少しは落ち着けよ」
「ほうじゃが、シズクの為に……」
「お前、なんでそんなにシズクさんに入れ込んでるんだ?」
「………」
雪之丞は、すぐには喋らない。
だが、手の中でもがくのもやめたので、そっと地面に戻す。雪之丞はアスファルトの歩道をじっと見つめながら、口を開いた。
「……シズクにゃ、命を救われたんじゃ」
「命を……?」
首を傾げながら、雪之丞の言葉を繰り返す。
「ああ。ワシは、付喪神になって間もなく、夜咄堂を出たんじゃ。ワシの本体は『一期一会』の掛け軸じゃけえ、それに沿って、掛け軸背負って日本中を流れては、他の町の付喪神と交流しとったんじゃよ。夜咄堂に残ったところで、猫じゃけえ、茶は点てられんからの」
「流れてって、渋いんだな」
「どうじゃろうかの。……じゃが、ふらっと尾道に帰ってきた時に、ドジって掛け軸が破れかけての。……付喪神は責を果たせば天に還る。これは死じゃのうて永遠の生のようなもんじゃ。じゃが、破損して道具として成立しなくなれば、魂は完全に消滅する。こっちが、人間で言う死じゃ。ワシはその危機にあった」
「そこでシズクさんに助けられたのか」
「ほうじゃ。ワシを見つけたシズクが、人間のふりして寺のもんに掛け合って、寄贈ついでに直してもらえての。お陰で復活できたが、シズクには恩ができた。特にワシは一期一会を大事にするけえ、他所の土地にも夜咄堂にも行かず、浄土寺でシズクの話し相手になっとるんじゃ。かれこれ、もう三年になるかの。……夜咄堂に戻らん理由も分かったじゃろ? シズクの傍にいてやりたいんじゃ、ワシは」
「なるほど。確かに命の恩人……か」
浄土寺の方を見ながら、雪之丞に相槌を打つ。
しかし、千尋はまだ首を傾げていた。
「でも、一期一会って『一生に一度の出会いだと思え』って事だろ? シズクさんとの交流を大事にするのは分かるけれど、何年も大事にするもんなの?」
「フン。少しは見込みがあると思うたが、まだまだ青いのお」
雪之丞は首を横に振りながらボヤく。どこか笑み交じりの声だった。
「ええか。ワシは一期一会の本当の意味は『何度出会っても、初心の気持ちで接する』ということじゃ思うとる。じゃけえ、シズクにはいつまでも本気で恩を返すんじゃ。……言うは易いが、難しいんじゃ。いつかどこかで、気の緩みや妥協が生まれそうになる。それを抑え込んで、接するんじゃ」
「……義理堅いんだな、お前」
「フン」
鼻息を鳴らす雪之丞に苦笑しつつも、彼の言葉は千尋の胸に響いていた。
まるで、茶道を体現するような言葉なのである。もしかすると、この言葉は、人探しのヒント以外にも使えるかもしれない。そう、例えば茶会とか……、
「それより、人探しじゃ。どこのどいつなんじゃ?」
「あ、そうだな。まずはそれを確認してこないと」
ぽん、と両手を打って本題に立ち戻る。
しかし、千尋の推測が正しければ、彼のいる場所に猫は入れないだろう。
さて、どうやってこの頑固猫を説得したものか。もしかすると、人探しや茶会の主題探しよりも、難題かもしれない。
猫の目のように増えゆく課題に、つい頭を抱えてしまう千尋であった。