尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

57 / 66
第十四話『一期一会 その三』

 翌日、千尋はすぐに人探しに出かけようとはしなかった。

 大学の陶芸サークルの先輩である岡本千紗(おかもとちさ)が、外国人の友達を連れて夜咄堂に遊びに来たいそうなのだ。

 岡本には大学で世話になっている上に、店の常連でもあるのだから、断るわけにはいかない。

 来店の三十分前には和服に着替え、水屋で茶道具を確認していると、オリベがひょいと顔を覗かせにきた。

 

「おや千尋。年末営業は昨日までじゃなかったのかね」

「そうなんですが、岡本さんが友達を連れてくるんで、臨時営業です」

「ほほう! 女の子かね!」

 オリベがうきうきと肩を揺らす。みっともないことこの上なかった。

「そこまでは知りませんよ」

「あとで様子を見に行くから、そのつもりでな」

「来なくて構いません」

 

 しっしっ、と手を振ったが、オリベは無視して水屋に居座り、先程まで千尋が見ていた押入れを眺め始めた。

 すると、軽口を叩いていた彼の表情に、段々と真剣味が生まれてくる。

 どの付喪神にも言えるのだが、茶道となればみんな真面目なのだ。

「なるほど、それで今日使う茶道具を選んでいたのかね」

「ええ、まあ」

「私はてっきり、茶会の道具を考えていたのかと思ったよ」

「茶会の件、ヌバタマから聞いたんですか」

「うむ。面白いではないか。茶寮としてはこの上ない宣伝になるし、お前にとってもいい勉強になるだろう。いつやるつもりかね?」

「未定ですけれど、四月かなと。五月になったら、炉点前から風炉(ふうろ)点前に戻るでしょう? そしたら、点前を覚えなおさなきゃいけませんし」

「かといって、三月では準備が間に合わんだろーしな。夜咄堂の茶室なら、そうさな……最大五人を計五席だろうかね。小規模だし、四月開催でもいいだろう」

「三月だと、準備は間に合わないんですか?」

 不安の篭った声で尋ねると、オリベは深刻な様子で頷いた。

 

 

「当然じゃないか。まずは人手をかき集めんといかん。当日はお点前さんに、会話役の亭主、裏で茶を点てる水屋と、それを出す点出(たてだ)し……ああ、そうそう。もちろん受付も必要になるな」

「五役……って事は五人か。夜咄堂の店員数じゃ、足りないですね」

「むしろ、まだ増やしたいな。特に水屋が忙しくなる。今のうちから友人に助力を頼みなさい。……それに、客だ。集客の為の茶会なのは分かるが、まずは、その茶会の客を集めなくてはいかん」

「それもそうですよね。……一般的な流派だと、どうやってるんでしょうか?」

「一度に数十人をもてなす大寄せなら、大体は門下の者に声を掛けているな。小規模の茶事だと、まあ、知人を呼ぶのが主だろう」

「今回は小規模、ですよね。大学の友達なんかに来てもらえば大丈夫かな」

「それでも構わないが、宣伝効果がある者にしないとな。あと、茶道具の会話をする正客は、お茶が分かる人に頼んでおきなさい。ちゃんと案内状も書くように」

「……まいったな」

 ふう、と重い溜息を零し、虚ろな目で茶道具を一瞥する。

 想像以上にやるべきことが山積みで、面白そうではあるけれど、気も重かった。

 

 

 

「ヒャッヒャッ! 今からそんなに疲れてどーする!」

「でも、店を宣伝する為とはいえ、ちょっとやることが多すぎて」

「おや、本末転倒になっとらんかね? 宣伝も期待できるが、あくまでも来てくれる方々をもてなす茶事なのだ。パパッとできるものではない」

「あ……はい」

 言われてみれば、確かに見誤っていたかもしれない。

 まずは茶事ありきで楽しんでもらわないと、集客には至らないだろう。

 提案者のヌバタマも、集客より茶席自体を大事に考えているようだった。

 自身の心構えの甘さに嫌気が差す。でも、千尋はもう溜息をつきはしなかった。

 

「まー、気持ちが篭っていればなんとでもなる。客の事を思う気持ちがあれば、ね。ヒャッヒャッヒャッ!!」

「……頑張ります」

「そーしたまえ。分かっているだろうが、まずは主題からだぞ」

 やることが沢山あり過ぎて、頑張ると言う他ない。

 でも、前を向く姿勢こそが大切だ、と言わんばかりに、オリベは背中を強く叩いて激励してくれた。

 それを意気に感じ、オリベが去った後も茶道具とにらめっこを続けていると、袖に入れていたスマホが不意に振動する。岡本からの電話だった。

 

 

「はい、若月です」

「あたしあたしー」

「詐欺みたいな名乗り方はやめてくださいよ。どうかしましたか?」

 電話先の岡本に突っ込む。いつもの事だった。

「おー。もうすぐ着くから、店暖めといてよ」

「暖房利かせてますから大丈夫です。暑がりの岡本さんでも、冬は寒いんですね」

「いや、あたしは寒いくらいでいーんだけどさ。マーシャがすっごい寒がってるもんで。じゃ!」

 

 

 おそらくは外国人の友達の名前だろう、等と思いながら、スマホをしまって一階に下りる。

 手持ち無沙汰に備品の雑誌を眺めていると、内容がほとんど頭に入らないうちに、夜咄堂の玄関が開かれた。

「よーよー、お待たせー」

 あっけらかんとした声と共に、中学生くらいの背格好の岡本が入ってきた。

 勝手知ったる彼女は、千尋に案内する間も与えてくれず、四人掛けの客席に遠慮なく座ると、ニット帽を取って中の長髪を手串で整え始めた。

 

 一方、岡本に続いて入店した外国人の女性は、目を輝かせながら自分を見つめていた。

 ……いや、それにしては視線が合わない。どうやら見つめているのは、自分の和服のようだった。

「……えっと、キャンユースピーク、ジャパニーズ?」

「あ。挨拶せずにごめんです。日本語大丈夫ですよ。マーシャです。よろしくですよ」

「若月千尋です。どうも」

 どことなく片言ではあったが、日本語は通じるようで、安堵しつつも返事をする。

 マーシャと名乗ったその女性は、達磨のように服を着込んでいたが、そこから覗かせる褐色肌が千尋の目を引いた。

 髪はしっとりとした黒のショートボブで、瞳は緑のようである。

 年齢は自分よりやや上だろうか。何分外国人なので測りにくい。どこか、活発そうな雰囲気を持った女性なのは確かだ。

 

 

「千尋。マーシャだ」

「さっき聞いたばかりです」

 岡本はいつも人の話を聞かずに、同じ話を繰り返す。

「どうも。マーシャです」

 マーシャは、二人のやり取りに苦笑しながら着席した。

「マーシャさんまで……」

「ふふっ。今日はお店開いてくれてありがとうです」

「いえいえ。あ、飲み物どうしましょうか。コーヒーでも……」

「ありがとうございます。でしたら、二階に茶室があると聞いていますから、お茶頂きたいです」

 マーシャは、はにかんで言うと、ちらと岡本を一瞥したが、すぐ自分に向き直った。

「私、アメリカに住んでるですが、父が日本人で、昔から故郷の話を聞いていたんですよ。それで、日本に興味があったです」

「今日は、それで遊びに来たんですか? 思いきりましたね」

「今回もそうですが、数年に一度、父の実家に帰っていますから。……千紗と知り合ったのは、四年前でした。父と千紗の父が知り合いでして」

「ほら、あたしの親は佐賀の唐津で陶芸工房やってるじゃない。マーシャがそこを見学しに来た時に、知り合ったのよ。んで、それ以来、いろんな所に連れてってるわけ」

 岡本の補足を受け、夜咄堂に来たがった理由に納得がいった。なら、夜咄堂はうってつけの喫茶店である。

 

 

「他にも、福岡や広島のスタジアムとか連れて行ってもらいました。ベースボール好きなので、楽しかったです」

 マーシャが肩を躍らせながら言う。野球ならば、千尋も好きだ。話に乗ろうとして……しかし、ふと引っ掛かりを覚えた。

「あれっ? 今は、野球やってないですよね?」

「スタジアムを見るだけでも楽しいですよ。その土地のベースボール事情に触れた気がするですから。……屋外なので、寒くて長居できませんでしたけれどね」

「マーシャは、アリゾナの州都フェニックスって所の出で、すっごい暑い地域なんだって。だから日本の寒い冬には、まいってるわけさ」

「それで、前もって電話したんですね」

「そーいうこと。ほら千尋、茶室の準備急いで。暖かい飲み物! ハリーハリー!」

「はいはい、っと」

 

 

 急かす声に背中を押されながら、先に二階に上がる。

 とはいえ、もう茶室の準備はできているのだ。道具は揃っているし、茶室中央の炉の中では、炭火が赤々と燃えあがり、真上に掛かっている釜を熱している。

 これが夏になると、釜の場所が変わる。

 風炉と呼ばれる台を客から離れた場所に置き、釜もそこに移して熱気から遠ざける……付喪神達から茶道を学ぶようになって、割と早い段階で教えられた知識だった。

 

「……いや、待てよ」

 一階に戻ろうとしたが、ふと、その教えが引っかかった。

 確かに炉なら暖かいだろうけれど、あれだけ着込むマーシャには、それで十分だろうか。

 もうちょっと、してあげられることがあるんじゃないか。

 広島どころか、日本在住でもないマーシャに茶を振舞うのは、今日が最初で最後かもしれない。

 でも、そんな彼女だからこそ、できる限りのことをしてあげたいのだ。

 

 

 

「しかし、炉は動かせないしなあ……」

 ぶつぶつとぼやきながら、水屋に足を運ぶ。

 中をぐるりと見渡した千尋は……これまで一度も触れたことがなかった物に目を付けた。

 水屋の隅に火鉢が置かれていて、釜を乗せるにはうってつけの五徳(ごとく)まで備わっているのだ。

 もしやと思い、茶室に運び込んでから炭を移し、釜を乗せるとピタリと収まった。

 

「うん。いいじゃないのさ」

 点前で使うと聞いたことはなかったけれど、間違っていたところで正規の茶席じゃないし、それよりもマーシャに暖まってほしい。

 これでよし、と自分を信じて二階に下りる。退屈させていないだろうか、と心配だったけれど、一応は問題なかった。

 厨房奥の部屋から這い出てきたオリベが、二人の相手をしていたのだ。

「やーやー千尋君! 岡本さんだけじゃなく、こんなに可愛い子もいるというのに、なんで私を呼ばなかったのだね」

「オリベさんがナンパ始めるからですよ……」

「ヒャッヒャッ! こりゃ手厳しい!」

「でも千尋さん当たりです。海を見に行こう言われました。寒いから行きませんけど」

 マーシャの笑み交じりの発言を受けてオリベを睨むが、それ以上の苦言は呈さない。

 彼女も面白がっていたようだし、オリベにはこれから骨を折ってもらわなきゃいけないのだ。

 

 

 オリベに菓子を頼んで、自分は岡本とマーシャを連れて茶室に上がる。

 質素な空間だというのに感激するマーシャが落ち着くのを待ってから、茶事を開始した。

 ……そして、すぐに焦りを覚えてしまった。

 

 点前が、分からないのである。

 畳下にスペースを設けて釜を入れる従来の形式ではなく、高い火鉢の上に釜を置いたせいで、釜への柄杓の掛け方が分からないのだ。

 また、ドジを踏んでしまった。マーシャが暖まることばかり考えていて、自身の点前に考えが至らなかったのだ。

 額から冷や汗が湧き、自分でも驚いてしまうほどにボタボタと流れだしたが、必死に心を落ち着けながら釜に対峙する。

 こうなったら、なんとなくでも切り抜けるしかない。

 

 

「お菓子をどうぞ」

 意を決したところで、オリベの声が聞こえる。

 入室した彼が菓子を勧めると、岡本は遠慮なくパクついたが、マーシャは違った。両手で口を覆い、不思議そうに火鉢を見つめ続けていたのだ。

「ねえ、チヒロさん?」

「なんでしょうか」

「私も、ちょっとだけ茶道分かります。でも、茶道で火鉢使うの知りませんでした。これ面白いですね。勉強なります」

「……いや、実は正しい茶道具じゃないかもしれません」

 点前を進めながら答える。

 勉強になる、とまで言われれば、ごまかすわけにもいかなかった。

 

 

「あら。でしたら、なんで火鉢を?」

「この方が暖かいかと。ただ、それだけです」

「チヒロさん……」

 何を思ったのか、マーシャがじっと見つめてくる。

 恥ずかしいけれど、客から目を逸らすのも気が引けて、彼女を視界の隅に入れていると……突然、視界が揺らいだ。

 いや、それだけじゃない。暖かな光が部屋に満ちていく。

 まったく自覚していないのに『日々是好日』が発動したのだ。

 一体何がどうなって……そんな疑問を処理できないうちに、能力は消えていき、また普段の茶室に戻ってしまう。

 

 

「……ありがとうございます。チヒロさん」

 マーシャの声が、千尋の意識を覚醒させる。

 はっと顔を上げて彼女の顔を見ると、マーシャはえくぼを作りながら、拍手を送っていた。

「寒いの我慢して、夜咄堂に来て良かったです。たった一度来ただけでも、大切なこと、勉強できました。火鉢の心遣い、嬉しいですよ」

「それは、いや、どうも……」

 火鉢によって『日々是好日』が発動し、日本の冬に苦労するマーシャの悩みを解消したということなのだろうか。

 客室の隅にいるオリベをちらと見ると、何度か小さく頷いていたし、多分これであっているんだろう。

 やっと状況を理解しつつも、意図せぬ発動にはいまだに戸惑っていて、ろくな返事ができない。

 そんな自分を、褒められて照れていると勘違いしたのか、次客席に座る岡本がケラケラと笑い飛ばす。

 ますます反応に困り小さくなっているところへ、マーシャは言葉を付け足した。

 

 

「ふふっ。チヒロさん、ジョー・ディマジオみたいですね」

 今度の言葉の意味は、まったく分からないのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 岡本とマーシャの姿が玄関の奥に消えるなり、オリベは大笑いしながら背中をバシバシと叩いてきた。

「ヒャッヒャッ! 驚いたね。『日々是好日』が発動したではないか!」

「驚いたのは俺ですよ。能力は意識しなくても発動するんですか?」

「何を言っておる。お前が初めて店に来た時もそうだったろう。もっとも、あの時は運良くだったが、今回はちゃんと実力を発揮しての発動だったな」

「言ってる意味がよく分からないのですが……」

「そうかね? ま、とりあえず座りたまえ」

 そう言ってオリベは四人掛けテーブル席に腰掛ける。袴の裾を直しながら千尋も続くと、オリベはビシッと指差しながら話を続けた。

 

 

「お前も知ってのとーり『日々是好日』はこの店で、付喪神が同席しなければ発動しない力だ」

「あとは、お客さんの悩みと、それを解消できる茶道具の良さを知っておくこと。……そして良い茶席にすること」

「うむ。それらさえ満たしていれば、能力を使おうと意識せずとも発動するのだ。一流の茶人であればよくあることだよ」

「一流……ですか」

「うむ。一流なら、良い茶席になるのは言うまでもない。だが、それだけではないぞ。客の悩み……というよりは、どんな客が参加するのかをしっかり把握できているから、自然と悩みにも行きつきやすい。解消できる茶道具の良さも然りだ」

 

 今回、自分がそれに該当したという事なのだろう。

 それで一流だとうぬぼれるほど、千尋も軽くはないけれど、褒められているのだから気分は悪くなかった。

 確かに半年前と比べれば成長しているかも、くらいには思う。昔は、抹茶を棗に移す道具の茶漏斗を、逆に缶に移す時に使うようなミスもしたっけか。

 

 

「……俺も、ちょっとは成長してたんだ」

「そうだな。今回特に良かったのは、何よりも客をもてなそうとする気持ちだった。あのマーシャちゃんとかいう子、海外在住なら、もううちに来る機会はないかもしれんよな?」

「ええ、おそらくは……」

「でもお前は、手を抜かずに全力でもてなそうとした。だから火鉢に行きつけたわけだ。……うむ、これこそ一期一会だな」

「あっ……」

 突然出てきた最近のキーワードに、千尋は息を飲みこむ。

 吐息だけじゃない。自覚はしていないけれど、多分表情にも同様の色が出たんだろう。オリベは何かを察したようで、更に話を続けた。

 

 

「一期一会。分かるかね?」

「ええ、少しは。……最近、縁がある言葉ですから」

「ならば良い。ま、茶道に関わらず有名な言葉だからな。元は千利休の言葉だが、桜田門外の変でも有名な井伊直弼が広めた言葉でもある。それがなければ、茶人の間でしか語られない細々とした言葉だったかもなあ」

「へえ。井伊……」

 オリベの言葉を繰り返す最中、ふと既視感を覚える。

 一期一会だけじゃない。井伊直弼という言葉も、最近どこかで耳にしていたのだ。

 あれは、確か……向島の赤備だ。諏訪の店で聞いた言葉だ。

 

 

「それに、諏訪さんの仕事も茶道関係……」

「ん? どうした。何をぶつぶつ言っておる?」

「いえ! すみません、ちょっと用事があります!」

 テーブルに両手をついて立ち上がると、千尋は洋服に着替えずに店を飛び出した。

 石段を一気に駆け下りて車道まで出る。このまま車道と商店街を横切れば船着き場に着くけれど、そうはせず左に曲がって浄土寺に急いだ。

 

 シズクの体調が良ければ、彼女を連れて行ってあげたかったのだ。

 もう限界が近いのは千尋にも分かっている。だから事前に裏を取っておくべきかもしれないけれど、千尋は自分の推測に強い確信を抱いていた。

 途中、大きめの十字路で信号に引っかかる。早く赤信号になって車が止まりますように、なんて念じながら車道を眺めていると……唐突に、前を横切ろうとした車が急ブレーキをかけた。

 思いが通じたのか? なんて考えてしまうけれども、信号はまだ切り替わっていない。

 何事かと周囲を見渡すと、すぐに答えは見つかった。白猫が車道に飛び出した為の急ブレーキだったのだ。

 その飛び出した白猫は、どこかを痛めたのか、びっこを引きながら千尋側の歩道に避難している。雪之丞だった。

 

 

 

「雪之丞、大丈夫か!」

 足をもつれさせながら駆け寄るが、出血はない。

 雪之丞自身も苦しそうじゃなかったけれど、忌々しそうに自分の後ろ足を見ていた。

「ちっ、足を少しだけ捻ってしもうたな。なに、一晩寝れば治る程度じゃ」

「本当なのか? 動物病院に行った方がいいんじゃないか?」

「大丈夫と言っとるじゃろうが。それより、人を探さにゃいかん」

 雪之丞は気丈にそう言うと、やけに大股になって立ち去ろうとする。

 千尋は慌てて、そんな彼に並走した。

 

「待て待て。もしかしたらその人が見つかったかもしれないんだよ」

「なんじゃと! 本当か!」

「ああ。それでシズクさんを誘おうと思ったんだけれど、もう実体化してるの?」

「まだじゃな。もう半日くらい休まんと無理じゃろ。じゃけえワシは、その間に人探しに出かけとったんじゃ」

「もしかして、それでひかれかけたのか?」

「ほうじゃが」

 呆れたような口調で言われるが、呆れたのはこっちの方だ。事故に遭いかけるほどに、シズクに入れ込む理由が、どうしても分からない。

 千尋は、唐突に雪之丞の脇下に手を入れて、自分の目線まで持ち上げた。

 ふわりとした毛触りと、生き物の暖かな体温が手に伝わる。付喪神とはいえ、やはり体の作りは猫そのものなのだ。

 

 

「フニャッ!? に、にゃんじゃ。下ろさんか!」

「雪之丞、俺の話を聞いてくれ。本当に事故に遭うところだったんだぞ。少しは落ち着けよ」

「ほうじゃが、シズクの為に……」

「お前、なんでそんなにシズクさんに入れ込んでるんだ?」

「………」

 雪之丞は、すぐには喋らない。

 だが、手の中でもがくのもやめたので、そっと地面に戻す。雪之丞はアスファルトの歩道をじっと見つめながら、口を開いた。

 

 

「……シズクにゃ、命を救われたんじゃ」

「命を……?」

 首を傾げながら、雪之丞の言葉を繰り返す。

「ああ。ワシは、付喪神になって間もなく、夜咄堂を出たんじゃ。ワシの本体は『一期一会』の掛け軸じゃけえ、それに沿って、掛け軸背負って日本中を流れては、他の町の付喪神と交流しとったんじゃよ。夜咄堂に残ったところで、猫じゃけえ、茶は点てられんからの」

「流れてって、渋いんだな」

「どうじゃろうかの。……じゃが、ふらっと尾道に帰ってきた時に、ドジって掛け軸が破れかけての。……付喪神は責を果たせば天に還る。これは死じゃのうて永遠の生のようなもんじゃ。じゃが、破損して道具として成立しなくなれば、魂は完全に消滅する。こっちが、人間で言う死じゃ。ワシはその危機にあった」

「そこでシズクさんに助けられたのか」

「ほうじゃ。ワシを見つけたシズクが、人間のふりして寺のもんに掛け合って、寄贈ついでに直してもらえての。お陰で復活できたが、シズクには恩ができた。特にワシは一期一会を大事にするけえ、他所の土地にも夜咄堂にも行かず、浄土寺でシズクの話し相手になっとるんじゃ。かれこれ、もう三年になるかの。……夜咄堂に戻らん理由も分かったじゃろ? シズクの傍にいてやりたいんじゃ、ワシは」

「なるほど。確かに命の恩人……か」

 浄土寺の方を見ながら、雪之丞に相槌を打つ。

 しかし、千尋はまだ首を傾げていた。

 

 

「でも、一期一会って『一生に一度の出会いだと思え』って事だろ? シズクさんとの交流を大事にするのは分かるけれど、何年も大事にするもんなの?」

「フン。少しは見込みがあると思うたが、まだまだ青いのお」

 雪之丞は首を横に振りながらボヤく。どこか笑み交じりの声だった。

「ええか。ワシは一期一会の本当の意味は『何度出会っても、初心の気持ちで接する』ということじゃ思うとる。じゃけえ、シズクにはいつまでも本気で恩を返すんじゃ。……言うは易いが、難しいんじゃ。いつかどこかで、気の緩みや妥協が生まれそうになる。それを抑え込んで、接するんじゃ」

「……義理堅いんだな、お前」

「フン」

 鼻息を鳴らす雪之丞に苦笑しつつも、彼の言葉は千尋の胸に響いていた。

 まるで、茶道を体現するような言葉なのである。もしかすると、この言葉は、人探しのヒント以外にも使えるかもしれない。そう、例えば茶会とか……、

 

 

「それより、人探しじゃ。どこのどいつなんじゃ?」

「あ、そうだな。まずはそれを確認してこないと」

 ぽん、と両手を打って本題に立ち戻る。

 しかし、千尋の推測が正しければ、彼のいる場所に猫は入れないだろう。

 さて、どうやってこの頑固猫を説得したものか。もしかすると、人探しや茶会の主題探しよりも、難題かもしれない。

 猫の目のように増えゆく課題に、つい頭を抱えてしまう千尋であった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。